2010年12月28日火曜日

〈あきらめさせる船〉の存在意義 (辻井潤一)

飲み屋でよく見かけるポスター。世界平和や護憲を標榜する左翼系団体。格安の世界一周クルーズ。私がピースボートと聞いて想起できたイメージは、概ねこんなところだ。本書は、社会学専攻の現役大学院生が、ピースボートの世界一周クルーズに乗り込み行なった若者分析の報告である。著者自身も1985年生まれの若者であり、私と同い年である。

まず著者は、「頑張れば成長し続けられる」社会はとっくに幻想と化したにも関わらず、「あきらめるな」「やればできる」という前時代的なフレーズが若者たちを鼓舞し続け、結果、「終わりなき自分探し」を強いる社会になった、そしてピースボートは、その受け皿の典型例だと規定する。次に、自身が乗り込んだクルーズを通しての若者の分析を行なう。「目的性」と「共同性」の強弱で、「セカイ型」「自分探し型」「観光型」「文化祭型」の四つに若者を分類するが、共通しているのは、皆、広い意味で〈自分探し〉を目的で乗船していること。そして、平和や護憲を訴えていても、具体的な知識を持ち合わせていないことだ。著者は船内で学力テストを行なってまで、それを確認している。つまり、乗船する多くの若者にとって「世界」とは、茫漠とした具体性の無い概念でしかない。

クルーズにおける最も印象的なエピソードとして、スケジュールの遅延や主催者側の態度に対して、旅行目的で参加している高齢者たちが怒り、ビラでの抗議活動をしようとする様子が描かれているが、ここでも若者たちは、漠然とした「想い」や「願い」で分かり合おうと、高齢者たちと対立する。著者はその非合理的かつ感情的な姿勢を批判している。本書全体でも、クルーズに乗り込む多くの若者たちに対して、否定的な分析が多い。最後のまとめでは、「本書で見てきたのは、「居場所」という「共同性」に回収されてしまうことで、当初の「目的性」が冷却されてしまう可能性だ。(260p)」と語り、先行きが不明瞭な現代社会の中で若者を「あきらめさせる装置」として働くピースボートの存在を、最終的には肯定し、結んでいる。

軽やかな文体で読みやすい本書であるが、結論部にはいささか疑義を抱いた。著者は、結局この論考を通じて何を問題としていたのかが、最後の最後でぼやけてしまったからだ。しかし、モノグラフとして詳細な記述と分析がなされており、現代の若者を考察する上で、有益な一冊であることは間違いない。

(古市憲寿『希望難民ご一行様——ピースボートと「承認の共同体」幻想』光文社新書、2010年)

2010年12月23日木曜日

二千五百年前の「教養」論議 (大洞敦史)

本書が世に出た一九九〇年は、大学改革の前夜にあたる時期である。翌年以降、従来多くの四年制大学に設置されていた「教養課程」が続々と廃止されていった。こうした情勢を受けて、当時筑波大学でギリシア哲学を研究していた著者が自らの専門領域において今いちど「教養」の価値を吟味したものが本書である。その主題は、紀元前五世紀頃のアテナイで活躍したプラトンおよびイソクラテスという二人の思想家における教養(パイデイアー)の概念の比較にある。

イソクラテスという名は今日ではほぼ忘れ去られているといってよいだろう。彼はプラトンより九つほど年長で、プラトンが哲学学校「アカデメイア」を創立するのに数年先立ち弁論・修辞術の教育機関を同じアテナイ市内に開設していた。その学校は「一定の理念のもとで一定の場所において高等教育が授けられたという意味で〔中略〕プラトンの学園アカデメイアとともにギリシア世界における最初の高等教育機関」であったとされる。彼はここを根城に教育活動に励む一方、行政についても活発な発言を重ね、九八歳で大往生を遂げる寸前まで精力的に働いた。九四歳のとき長編論文『パンアテナイア祭演説』にとりかかり、四年後に完成させたという記録が残っている。

元来「養い育てる」という意味合いだった「パイデイアー」という言葉を、プラトンとイソクラテスは「徳(アレテー)をめざす教育」の代名詞として用いた。「有徳の士」の育成が「パイデイアー」の目的であることは両者の間で共通していたものの、徳という概念の内実や、それへと至るための道筋は、まるで異なるものであった。

イソクラテスにおける徳とは「善き思慮」と「善き言論」である。言論にかかわる能力をひとすじに練磨していくことこそが彼の考えるパイデイアーであった。一方プラトンにあっては「無知の無知」および「魂の不調和」と呼ばれる魂の欠陥を除去し清めていく事が「パイデイアー」であり、その具体例の一つは『国家』に記された数学や天文学を基礎とする「哲人王教育」である。

二種類の「パイデイアー」は、お互いに拮抗しながら後世の西洋世界に受け継がれていった。キケロやペトラルカが説いた人文主義はイソクラテスの伝統に、数理科学はプラトンの伝統に連なる。今日の日本の教育機関では後者が優勢のようだが、それも「パイデイアー」の片割れであってみれば、それほど嘆くべき事でもないのかもしれない。

(廣川洋一『ギリシア人の教育——教養とはなにか』岩波新書、一九九〇年)

2010年12月20日月曜日

声に出して読みたい太宰治 (大塚あすか)

「あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」――そんな文章からはじまる小説に、すこんと足下が抜けた。手に取る機会を逃し知識だけ頭に蓄え、今さら読んだことないというのも照れくさい、という気持ちの裏返しだったかもしれないが、太宰治は読まず嫌いだった。メロスってなんか暑苦しそうな奴。「生れて、すみません」なんて、いけすかない。そんなイメージだけで頑に敬遠してきたのに、『女生徒』であっさり落っこちた。

朝目覚めてから夜眠りに落ちるまで、ある一日に女学生がつらつら思うそのままを書き散らしただけの短編に、なにしろ驚いた。いくら女々しく繊細だとしても、男の太宰が愛らしく子憎たらしい女学生の自意識をなぜこんなにも瑞々しく書くことができるのか。そしてこの文章は何なんだと。思わず声に出して読み、その音にまた身悶える。

文章を不十分な表現手段だと思う頃があった。だって、文字だけじゃない。漫画だったら絵も字も使える。歌にはメロディがあるし、映画なんて、映像も音楽も言葉だって! それに比べて文字だけって、なんて寂しい。足りない。もどかしい。万が一そんなことを考えている人がほかにいるなら、まず『女生徒』を読むことだ。ただ並んでいる文字が、ときに絵となり音となり、それ以上の何かをもって感覚を刺激するのを味わうべきだ。言葉の並びに、日本語のかたちそのものが持つやわらかさ美しさを視覚で再確認する。少女の独白のなんとも言えないくすぐったさを肌に感じる。目で追うだけでもわかる小気味良いリズムは、こらえきれず口に出せば歌のように流れ出すだろう。

いくら少女ぶったところで、広告一文字あたりの値段に思いを馳せ、自らの言葉はすべて他人の本の受け売りなのではと思い煩う、よく読めば随所に作家売文家太宰の心情が吐露されているようで、また面白い。だからこそ、だ。いい大人の男である太宰が少女の顔で「朝は、意地悪。」なんて書くんだから、こちらが乙女ぶってこの作品を声に出しても恥ずかしいことなどあるものか。実際女学生なりし頃が遥か遠くなっても、わたしはときどき眠る前、『女生徒』の最後の部分を口ずさみたくなる。それは、こんな風。

「おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京のどこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。」

(太宰治『女生徒』角川書店、1954年)

2010年12月14日火曜日

向坊衣代の36冊

1981年北九州市出身。大学では現代美術史を専攻。音楽教科書会社のアルバイト、財団非常勤職員、料理/環境系web編集などを経て現在、神保町勤務。最近はカヌーとイスラム文化に興味があります。小石川にてシェア生活6年目。
古本ユニットに参加したり、俳句zineなど作ったりしています。

1.自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊
ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル『小鳥たちのために』(青山マミ訳、青土社、1982年)
内田樹『死と身体』(医学書院、2004年)
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(澤田直訳、思潮社、2000年)
E・グリッサン『関係の詩学』(管啓次郎訳、インスクリプト、2000年)
郡司ペギオ幸男『生きていることの科学』(講談社、2006年)
絲山秋子「アーリオ・オーリオ」(『袋小路の男』所収、新潮社、2004年)
M・プイグ『蜘蛛女のキス』(野谷文昭訳、集英社、1988年)
須賀敦子『ヴェネツィアの宿』(文藝春秋、1998年)
濱田廣介『泣いた赤鬼』(偕成社、1965年)
吉本ばなな「パブーシュカ」(『吉本ばなな自選集(2)loveラブ』所収、新潮社、2000年)
タイガー立石『すてきにへんな家』(福音館、1992年)
R・バルト『彼自身によるロラン・バルト』(佐藤信夫訳、みすず書房、1997年)

2.自分が専門と呼びたい分野(美術、本、公共)の12冊
植田正治『Shoji Ueda Phorographs (1930's-1990's)』(植田正治写真美術財団)
大竹伸朗『武満徹:SONGS』(日本ショット、2000年)
ディック・ヒギンズ『インターメディアの詩学』(岩佐鉄男訳、国書刊行会、1988年)
瀧口修蔵展『夢の漂流物』(世田谷美術館、2005年)
宮川淳『宮川淳著作集』(美術出版社、1999年)
『わたしの家はあなたの家 あなたの家はわたしの家』(東京オペラシティギャラリー、2001年)
平出隆『葉書でドナルド・エヴァンズに』(作品社、2001年)
『アールヴィヴァン no.11 特集 フルクサス』(リブロポート、1983年)
中村敬治『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、1988年)
Nicolas brouriaud, Relational aesthethics, Les Presse Du Reel, France, 1998
ジョナス・メカス『メカスの友人日記』(木下哲男訳、晶文社、1989年)
高橋睦郎『私自身のための俳句入門』(新潮社、1992年)

3.「現代性」を主題とする12冊
古橋悌二『メモランダム』(リトルモア、2000年)
伊藤比呂美『とげ抜き地蔵縁起』(講談社、2007年)
鷲田清一『「聴く」ことの力——臨床哲学試論』(阪急コミュニケーションズ、1999年)
中野民夫『ファシリテーション革命』(岩波書店、2003年)
R・パワーズ『ガラテイア2.2』(若島正訳、みすず書房、2001年)
村上春樹『神の子らはみな踊る』(新潮社、2000年)
東京大学cSUR-SSD研究会『世界のSSD100——都市持続再生のツボ』(彰国社、2007年)
スタッズ・ターケル『仕事!』(中山容約、晶文社、1983年)
ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳、新潮社、2010年)
カポーティ『ティファニーで朝食を』(村上春樹訳、新潮社、2008年)
岡崎京子『ハッピィ・ハウス』(主婦と生活社、2001年)
芹沢高志『月面からの眺め——21世紀を生きるヒント』(毎日新聞社、1999年)

2010年12月12日日曜日

佐々木裕子の36冊

(自己紹介)
1981年生まれ。岩手県盛岡市出身。大学院生。フランス語圏カリブ海文学、特にエメ・セゼールの作品や政治活動に関心があります。「groovy」な音楽が好きで、そんな音を聴くと思わず踊ってしまいます。カラダを動かすことが好きです。

1.自分の考え方、感じ方、判断力の核をなす12冊
エメ・セゼール『帰郷ノート/植民地主義論』(砂野幸稔訳、平凡社、1997年)
パウロ・コエーリョ『11分間』(旦敬介訳、角川文庫、2009年)
イジドール・デュカス『ロートレアモン全集』(石井洋二郎訳、筑摩書房、2005年)
ジャン=アンリ・ファーブル『ファーブル昆虫記第一巻 上』(奥本大三郎訳、集英社、2005年)
エドゥアール・グリッサン『全—世界論』(恒川邦夫訳、みすず書房、2000年)
畠山直哉『話す写真』(小学館、2010年)
モーリス・メルロ=ポンティ『間接的言語と沈黙の声』(朝比奈誼ほか訳、みすず書房、2002年)
宮澤賢治『風の又三郎(新編)』(新潮文庫、2006年)
中島敦『中島敦全集1』(ちくま文庫、2009年)
新倉俊一『詩人たちの世紀——西脇順三郎とエズラ・パウンド』(みすず書房、2003年)
F・D・ピート『シンクロニシティ』(管啓次郎訳、朝日出版社、1994年)
サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳、新潮文庫、2002年)

2.自分が専門と呼びたい分野(文学・身体・解放)の12冊
ガブリエル・アンチオープ『ニグロ、ダンス、抵抗——17~19世紀カリブ海地域奴隷制史』(石塚道子訳、人文書院、2001年)
パトリック・シャモワゾー『テキサコ上』(星埜守之訳、平凡社、1997年)
シャモワゾー/コンフィアン『クレオールとは何か』(西谷修訳、平凡社、2004年)
マリーズ・コンデ『生命の樹——あるカリブの家系の物語』(管啓次郎訳、平凡社、1998年)
フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』(海老坂武/加藤晴久訳、みすず書房、197
1年)
レオ・フロベニウス『ブラック・デカメロン』(大久保昭男訳、角川文庫、1976年)
グザヴィエル・ゴーチェ『シュルレアリスムと性』(三好郁朗訳、平凡社、2005年)
ヴィクトル・ユゴー『ビュグ=ジャルガル』(辻昶/野内良三訳、新潮出版社、2000年)
ジェームズ『ブラック・ジャコバン―トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』(青木芳夫監訳、大村書店、1991年)
ジャニーヌ・レヌッチ『コルシカ島』(長谷川秀樹/渥美史訳、白水社、1999年)
ジャン=ポール・サルトル『植民地の問題』(鈴木道彦他訳、人文書院、2000年)
ロベール・ショダンソン『クレオール語』(糟谷啓介/田中克彦訳、白水社、2000年)

3.「現代性」を主題とする12冊
C・N・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』(くぼたのぞみ訳、河出書房新社、2010年)
M.バルガス=リョサ『緑の家<上>』(木村 榮一訳、岩波文庫、2010年)
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社、1999年)
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』(木下誠訳、筑摩書房、2003年)
浜忠雄『ハイチ革命とフランス革命』(北海道大学図書刊行会、1998年)
木村朗子『恋する物語のホモセクシュアリティ――宮廷社会と権力』(青土社、2008年)
三浦永光(編)『国際関係の中の環境問題』有信堂高文社、2004年
永原陽子『「植民地責任」論——脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年)
中村美亜『クイア・セクソロジー』(インパクト出版会、2010年)
ピエール・ノラ『記憶の場——フランス国民意識の文化=社会史<1>』(谷川稔訳、岩波書店、2002年)
小倉充夫『南部アフリカ社会の百年——植民地支配、冷戦、市場経済』(東京大学出版会、2009年)
鵜飼哲『主権のかなたで』(岩波書店、2008年)

2010年12月10日金曜日

例会第二回のご報告(大洞)

今回の出席者は14名。寄せられた原稿の数は作文3本と書評6本でした。前回と同様、作文2本と書評3本を取り上げて意見を交わしました。

今後は作文と書評を1本ずつ、担当制とする事に決まりました。毎回の例会の際に次回の担当者を募ります。

原稿(本文)の字数につきましては作文—3420字から3600字、書評—950字から1000字とし、この範囲内でなるべく字数が多くなるようにご推敲下さい。

原稿を印刷して配布する際、原則として大洞のほうで所定のレイアウト(縦書き/楷書)に揃えますが、テキストファイルのままでの印刷をご希望の場合は投稿の際に一言お知らせ下さい。

なお書評を定期的にここで掲載してまいりますので、これまでに投稿なされた方には再度のご推敲の後、大洞までお送り下さいますようお願いいたします。

次回は1月13日(木)の19時からです。1週間前の1月6日をひとまずの締め切りとします。ふるってご執筆ください。

2010年12月7日火曜日

原稿の字数について

お蔭様でここ数日の間にたくさんの原稿が届きました。
どうもありがとうございます。

ただ字数に関しまして、当方でまだあまり明確な規定を
設けていなかった事から、いくぶん戸惑わせてしまったかも知れません。

今後原稿を執筆されるにあたっては、 
作文は「3600字」、書評は「1000字」に
なるべく綺麗に収まるようご執筆ください。

紙媒体への印刷を想定しております事から超過は不可とし、
不足は5%まで(すなわち3420字以上、950字以上)と致します。

既に提出して頂いた原稿につきましても、後日でかまいませんので、
この字数に揃うように改めて推敲をお願い致します。