2011年2月26日土曜日

迷子ホリック (大塚あすか作文)

道順を覚えるとか地図を読むとか、そういった能力には悲しいほど恵まれていない。同じく方向音痴の友人と感じの良い喫茶店を見つけた数週間後、彼女から「あのお店、また行きたいと思って探したけど見つからなかったの」と連絡がきた。次の休日に自分の足で確かめてみると、やはり店はない。競争の激しい地域なので閉店してしまったのだろうと納得して1年後、思いがけない場所にその店を発見したときには愕然とした。

よく知った場所でも、いつもと違う道を通って行こうとすると必ずと言っていいほど迷う。引っ越したばかりの家への帰り道がわからず困り果てたことがある。はじめて上京したとき、駅の外に出ることができずに泣きべそをかいていたらキャッチセールスのお兄さんが見かねて出口まで連れて行ってくれた。

道に迷うことは怖い。「あ、わたし今迷子だ」と気づいてしまった瞬間、人も風景もくるりと色を変える。ただの住宅やビルがやたらよそよそしくなる。あたりを歩いている人はみんなこの場所にしっくり馴染んでいるのに、わたしだけがよそ者。目的の建物を探して同じ場所を何度も行ったり来たりしているのを不審がられているかもしれない。ふいに周囲の目が気になりはじめ、ますます挙動は怪しくなる。

でもその不安な気持ち、実は嫌いではないのだ。なにしろわたしには定期的に、半ば意図的に迷子になる悪癖がある。

冬の休日、友人へのプレゼントを買うため電車で出かけた。にぎやかな駅から少し離れた場所にある雑貨屋で買い物をすませ、近所の喫茶店で休憩する。お客は取り澄ました若者ばかり。大きなお皿にちょこんと盛られた料理はたいしておいしくもなく安くもない。雰囲気を買うたぐいの店で、わたしも澄ました顔で食事をして、紅茶を飲んだ。

店を出て空を見上げたところで、うずうずと虫が騒ぎだす。天気がよく、まるで春みたいに暖かい日。こんな気持ちのいい日に、まだ昼過ぎなのに、電車で家に帰ってしまうのはもったいない。ひと駅歩いてみようか、と駅に背を向けた。

見知らぬ道を歩くのは面白い。古本屋を見つけては、店先のセール台をのぞく。ガードレールに貼られたうさんくさい占い師のチラシ、奇妙な名前を持つ店、道端に捨てられたブラウン管テレビ。興味をひくものを見つけるたびにまじまじと眺めたり、写真におさめたりしていると、あっという間にひと駅の距離は過ぎてしまった。せっかく楽しい散策をしているのに、ここで止めてしまうなんてとんでもない。駅を指し示す標識を無視する。こんな都内に広い畑があって、ぽっかり空が開けていて、無人販売所まで。小さくうらぶれた神社には、一体誰がお参りに来るのだろう。目に入るものに引き寄せられてどんどん軌道をそれながら、上機嫌で今日は家まで歩いて帰ろうと思いつく。自転車にも自動車にも乗らないから、道は知らない。でもきっと大丈夫。頭の中にうろおぼえの地図を思い浮かべ、この方向に進めば家に近づくはずだとあたりをつけた。それから、標識や電柱の住所表示をときおり確認しては、迷いすぎたと思えば少し修正を加え、ひたすら歩きつづける。

長い時間歩いて景色に飽きてくると、機械的に足を動かしながらぼんやりと考えごとをはじめる。ここぞとばかり遠い昔のことを思い出して、それに飽きればずっと未来に思いを馳せて、心をひたすら遠くへ飛ばす。詰め込んでばかりでゆっくり向き合う時間のなかった本や映画のことを考える。それもまた楽しい。

はっとするのは、とうとう疲れはじめる頃。歩きだしてからとうに3時間は経っている。なんだか足が痛い、というのは当然で、さっと買い物だけ済ませて帰るつもりで出かけたわたしの足下は、細いヒールが頼りないブーツ。いったん意識してしまうとどんどん痛みは増し、憂鬱になってくる。どうしよう、足も痛いし疲れたし、そろそろ歩くのにも飽きてきた。そんな気持ちが頭をもたげ、しかしぐっとこらえる。

昔からよく気が強いと言われ、そのたび反発した。「おまえみたいに気の強い女見たことない」と言われたときも、「本当に頑固だよね」とあきれられたときも、猛然と「そんなことない」と言い返した。でも、今なら素直に彼らの言葉を受け入れることができる。わたしは確かに気が強い。とんでもない頑固者だ。誰に誓ったわけでも誰に命じられたわけでもないのに、ふと頭に浮かんだ「家まで歩いて帰る」という考えが、今では約束となって自分をきつく縛っている。数時間前の自分に負けることが悔しくて、わたしはどうしても歩くことをやめられないのだ。ばかみたい。

しばらくして、本格的に歩くのが嫌になってくる。歩いていればじき突きあたる予定だった大きな道路はなぜかいまだに見えてこない。近くに駅もなさそうだ。今の自分はまったく電車の軌道が存在しない場所にいるらしい。いつでも電車に乗れるところをあえて歩くのは楽しい。でも、本当は電車に乗りたいのに歩かざるを得ないのは辛い。ますます暗い気持ちになってくる。ここがどこなのかも、なんとなくイメージはできるのだけれど、はっきりとはわからない。本当にこのまま進んで家に帰れるのだろうかと不安が頭をよぎれば、これはもう、本格的に迷子になってしまったということだ。

足の痛みは絶え間なく、春のように暖かかったのが嘘のように指先がかじかんでいる。日が沈もうとしているのだ。何時間か前、小洒落た喫茶店で澄ました顔で紅茶を飲んでいたのが遠い昔のことのよう。いや、現実だったのかも怪しいくらいだ。わたし、ずっと昔から歩いてきて、これから先もずっと歩き続けるんじゃないのかな。現実感のない妄想に取り憑かれながらただ右左と足を動かす。よそ行きの格好で、厳しい顔をして修行僧のように黙々と見知らぬ道を歩いている姿は端から見たら滑稽であるに違いない。でもわたしは至って真剣に、無限地獄と戦っている。

耳は凍えて足は棒のようで、音をあげそうになる頃、見知った地名が目に入ってくる。いつのまにか自宅の近くまで戻ってきていたらしい。駅の反対側なので歩いたことはないけれど、ここから家までは15分もあれば着きそうだ。しかし、安心して気が大きくなったところで、左手路地の奥に小さな商店街を見つけてしまう。ついつい引き込まれ、閉店間際の肉屋や八百屋、のり巻きだけを売っている風変わりな店をのぞき込んでいるうちにまた住宅街の迷宮にはまりこむ。予想帰宅時刻を過ぎてもまだ細い道をうろうろさまよい、とうとう力つきてバランスを失い転ぶ。誰にも見られていないのに恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなる。気力もなくしてとぼとぼと、ようやく普段とは反対の方向から、見慣れたコンビニエンスストアまでたどり着いたときには心の底から安堵した。

帰宅してぱんぱんにふくれた足をブーツから引き抜くと湯船に湯を張る。温まると気持ちもゆったりとして、風呂から上がる頃には心細さも辛さも何もかも流れ去っていた。カバンから買い物した荷物を取り出し、雑貨屋も喫茶店も夢ではなかったのだと実感する。代わりに今では、5時間以上も歩き回っていたことが幻のように思える。

都内の詳細地図を取り出し、今しがた自分が歩いてきたでたらめな道のりを確かめてみる。最短距離を選べば所要時間3分の2で帰宅できていたはずだ。線路はぐるっと大回りしているけれど、電車ならば30分。よくぞここまで迷ったものだと呆れながらのひとり反省会。――こんなことを、わたしは数ヶ月に一度繰り返している。

道に迷うたび強烈な不安と孤独を味わうのに、ほとぼりが冷めるとまたでたらめに散歩したくなる。やはりわたしは迷子になるのが嫌いではないのだ。電車の窓から眺めてばかりで知ったつもりになっている街のことを、実のところほとんど何も知らない。知らないということを肌で感じるのは面白い。馴染んでいるつもりの街がふっと異世界になるのが、怖いけれど面白い。

最近は衛星を使って地図上に自分の居場所を表示してくれる携帯電話が登場し、道に迷う機会はどんどん少なくなってきた。それでもやはり、あの頼りない気持ちを求め、わたしは地図を捨て町に出る機会をうかがい続けている。

2011年2月21日月曜日

カントリー・ガールの亡霊 (大塚あすか作文)

仕事や私的な用事で地方都市へ行くたびに、女子高校生の外見が均一であることに驚かされる。昨年訪れた九州南部のある都市でも、紺色のブレザーに紺色のハイソックスの似たような少女ばかりが街にあふれていた。彼女たちは、制服であることを割り引いても実にそっくりだ。縮毛矯正でもかけているのだろうか、まっすぐ伸びた黒い髪は肩よりやや長いところで切りそろえられ、斜めに流した前髪を皆が皆、大きなクリップで留めている。化粧で描いた眉毛のかたちもほぼ同じ。持っているカバンも、携帯電話にぶらさげた重そうなアクセサリーも、多少の色かたちは違えど似かよっている。ほとんど同じ外見の少女たちが路面電車の座席にずらりと並んで座っている姿は異様であり、けなげにも思えた。

数年間暮らした福岡の街でも高校生の髪型はおしなべて同じようなものだった。パーマをかけることが校則で禁止されているであろうことは予想できたが、なぜ揃いも揃ってああも人工的な直毛を好むのか、わたしは不思議でたまらなかった。あるときその疑問をぶつけてみると、当時行きつけだった店の美容師は、軽く眉根を寄せて言った。

「くせ毛がきっかけで虐めにあうこともあるから、皆して縮毛矯正やヘアアイロンで必死に髪をまっすぐにするみたいですよ」

まったく、ろくな話ではない。

テレビやインターネットを通じて瞬時に情報が伝播するようになった今でも、流行の広がりにはそれなりの時間がかかり、好まれるファッションも全国均一とまではいえない。ある場所に立ち周囲を見渡せば、同じような外見の人間があふれているけれど、都市単位で比べてみるとどこかが違う。差の多少はあれども、ぼんやりとその地域なりの、独特の流行と呼べる何かが存在しているのが見てとれる。

東京でも街によって色があり、そこに集まる人たちはある程度共通した記号を身にまとっている。おそらくそれは、人が街を選んだ結果だ。自分がその街の色に合っていると思うから、もしくは染まりたいと願うから、渋谷を選んだり、銀座を選んだり、下北沢を選んだりする。選んだ場所に通い、そこにいる人々や街そのものに同化しようと姿を似せる。同じ均一化であっても、そこには多少なりとも個人の自由選択がはたらいている。

一方田舎の場合、自分の好みで選べるほど多くの場所も、色もない。まず街というどうしようもない逃れられない枠組みがあって、その中でやはり逃れ難い、統一されたスタイルが生まれているように思えるのだ。都会を離れれば離れるほどその均一性に息苦しさを感じてしまうのは、わたしが自らの育った地方都市に対して、長い間好意的な感情を持てずにいたからだろうか。

わたしは大分県大分市という、ザ・地方都市といっていいくらい典型的な田舎の中核都市で生まれ育った。テレビのチャンネル数は少なかったし、雑誌の発売日は東京よりも二日ばかり遅れていた。雑誌で目にした洋服や雑貨が欲しいと思っても、たいていの場合行動圏内に目当てのものを販売している店舗はない。それでもメディアを通した情報としては一応、東京やその他の都市と大差ないものが与えられていたはずだ。

日本の中心からはるか遠くに住む少年少女は、いつだっておそるおそる都会の流行を取り入れた。スチュワーデス(今ではこの単語自体が死語ともいえるが)を「スッチー」と呼ぶことも、履き口のゴムを抜いてだらしなくくしゅくしゅにたるませた靴下を履くことも、「彼氏」を「カレシ」と語尾を上げて発音することも、男の子がパンツを半分さらけだしながら制服のズボンを腰で履くことも。何もかもすべて、マスコミが全国津々浦々に染み渡らせて、「これが今の若い子にとっては当たり前なんだよ」とお墨付きを与えてくれた頃に、ようやく市民権を得る。当然、都会の少女たちがずるずるした靴下に飽きて紺色のぴったりしたハイソックスを履くようになってもまだしばらくのあいだ、大分の女の子たちはゴム抜きスーパールーズソックスを履き続ける。

不思議なもので、冷たい水に入るときを思わせる用心深い動きで都会の流行に追いすがる一方で、他の地域からはまったく理解されない流行が局地的に発生することもあった。中でも印象深いのは「タオラー」が一世を風靡したことだ。

ちょうどわたしが高校二年生の頃、大分市内の高校生のあいだで「タオラー現象」が巻き起こった。高校生たちが、風呂上がりの中年男性のようにタオルを首にかけ、街を闊歩するというもので、しかもそのタオルはスポーツタオルやブランドタオル、キャラクターものではいけない。新聞屋やガス屋が得意先に配っているような、あの安っぽい、ぺらぺらの白タオルがタオラーたちのヒエラルキーにおいては最上位に位置した。当時、大分の市街地は、やたらとたるませたルーズソックスを履いて、下着が見えそうなほど制服のスカートを短くし、首にタオルをかけたシュールな女子高校生であふれかえっていた。男子生徒も、制服のズボンをだらしなく腰で履きながら首に白いタオルを巻いて、それが格好良いのだと信じていた。

この珍妙な現象はさすがにマスコミの目にも留まり、全国ネットの情報番組で「タオラー」が紹介されたことすらあった。流行の発生源を探そうという試みだったが、結局どこの誰がはじめたファッションなのかはわからないままだった。ちなみにわたしは、タオルを首にかけることもなければルーズソックスを履くこともなかった。どこにでもいる平凡な「人と同じことを嫌う」女子高生で、アニメ『キャンディ・キャンディ』のヒロインのように髪を縦巻きにして、やはり端から見れば珍妙な格好をしていたことには変わりない。

タオラーになることなく高校生活を終え、首都圏の大学に進学して間もなくあるひとつのカルチャーショックを受けた。それまでごく普通に使っていた「ゴリい」という単語についてである。

当時大分市内の学生は、男子生徒の風貌を表すのに「ゴリい」という言葉を多用していた。これは単純に「ゴリラ」を形容詞化したもので、主に運動部に属する、筋肉質で大柄で、顔立ちもやや類人猿めいた男子生徒を指すのに使われた。

「あの先輩、ゴリいよね」「わたし、ゴリい人好みじゃないもん」等々。あくまで「ゴリラ」が語源であるので、該当するのはゴリラやオランウータンに似た人物。小柄でかわいらしい、チンパンジーやニホンザルを思わせる外見は該当しない……と、突き詰めるとそれなりに厳格な区分けがあるのだが、そこでは男の子も女の子も「ゴリい」という言葉の持つニュアンスを共有していたので、定義や許容範囲について深く考えることなく「ゴリい」は日々の会話の中ごく自然に飛び交っていたのである。この単語は若者言葉で、同じ地域でも大人が使うことはなかったように記憶している。

大分から遠く離れた場所で「ゴリい」が全国共通の表現ではないと知り、わたしは若干のショックを受けた。思春期らしい自意識で、故郷の田舎っぽさすら嫌っていた当時、気づかぬうちにどっぷりと地方特有の風習に染まっていたことが気恥ずかしくもあったのだろう。
新しい友人たちは見知らぬ言葉を面白がりながらも、微妙なニュアンスをいまひとつ理解しかねているようだった。「芸能人で言えば誰」と例示を求めてきたかと思えば、まるで的外れな人を指し、「あの人、『ゴリい』に当てはまるんじゃない」とたずねる。しかしわたしも、それまで頭で考えることなく感覚で判断してきているので、彼らに明確な「ゴリい」人の基準を教えることができず、途方に暮れた。

上京して半年も経たないうちに、わたしは「ゴリい」という言葉を使わなくなった。そのまま「ゴリい」はわたしの中で死語となり、以来一度もその単語を使ったことはないし、かつてならば「ゴリい」と形容していたであろうタイプの男性を見ても、その言葉が浮かんでくることはない。高校生の頃に親しくしていた友人たちも皆大分を離れ、わたしたちは方言を使わずに会話を交わすことが当たり前になった。もちろん誰ひとりとして、「ゴリい」などという単語を使うことはなく、今となっては「ゴリい」という言葉の存在自体が夢であったかのように思えてくる。

大分市内の中高生は、今でも「ゴリい」という単語を使うんだろうか。それとも、あのとき、あの場所、あの世代だけで通じる特別な言葉だったんだろうか。そんなことを考えながらこの文章を書いているうちに、もしかしたら「タオラー」も「ゴリい」も何もかもわたしの妄想で、あの頃の大分にもそんなものは存在しなかったのではないかという思いがわきあがり、ふっと怖さと寂しさが背筋を撫でた。

2011年2月12日土曜日

子ども病棟で過ごした日々 (近藤早利作文)

小学校六年生の年の十月のある朝。遠くの方から、今日が秋祭りであることを知らせる太鼓の音が聞こえてきた。布団の中で、だんだん目が覚めてきて、今日は僕も一日お神輿をかつぎ、太鼓を叩くのだと思っているうちに、呼吸が苦しくなってきた。吐き気もこみあげてきて、僕は窓を開けて嘔吐した。 

それから、二ヶ月くらいの間、母は僕をあちこちの病院へ連れて行ってくれたが、原因ははっきりしなかった。十二月のはじめに行った国立療養所恵那病院では、検査入院をするようにいわれ、結果的にはそのまま十五ヶ月を病院で過ごすことになった。

この病院は、昭和十七年に傷痍軍人岐阜療養所として設立された古い施設で、小高い丘の上にあった。戦後は結核患者や長期療養を必要とする者が多く入院していた。僕が入った時は、子どもたちは建ったばかりの新館病棟の一角に集められていた。入院している子どもの病気で、もっとも多いのがネフローゼという腎臓の病気。次に気管支喘息。僕の病名は急性肝炎で、他に慢性肝炎の子が二人。再生不良性貧血。骨折など外科患者もいたが彼らは一直線に回復していくので入院患者といっても別種族だった。結核の子が大勢いたはずだが、別の病棟に隔離されていたので、ふれあうことはなかった。 

病院に隣接して、といっても歩いて10分ほどかかるのだが、岐阜県立緑が丘養護学校があり、病院と連携して学業の遅れが最小限になるように配慮されていた。病状が安定している子や、発作さえでなければ普通の子どもと変わらない気管支喘息の子は、毎朝、パジャマから普段着に着替えて学校へ行って授業を受ける。それが許されない子には、医師が許してくれた時間数だけ先生たちが病床まで来てくださって、一対一か、少人数のグループで授業を受ける。

かなりの子どもたちに、副腎皮質ホルモンが投与され、副作用で顔がまん丸にふくらんでいた。腹水が溜まってお腹がドッジボールみたいにせり出している子もいた。僕の顔もまん丸になった。毎日徐々に変化していくので、自分では大きく変わったとは思っていなかったけれど、見舞いに来てくれたクラスメートや久々の帰省で顔を見せてくれた兄たちは言葉を失ったようだ。僕たち、とりわけ女の子にとっては、いかに早く副腎皮質ホルモンの投薬から逃れるかは重要な問題で、多くの子どもたちが、自分で薬の量を徐々に減らしたりもした。

今では想像もつかないことだけれど、病棟にはギターの持ち込みが許されていた。長い髪を額から頬にかけた隣の部屋の安藤君が、ガットギターを弾きながらアメリカのフォークソングを歌っていた。安藤君の友人たちが、学校帰りに立ち寄って小さなセッションをすることさえあった。僕も、親にねだってヤマハの一万五千円のガットギター買ってもらった。回診に来た主治医の伊藤先生が手にとって、いきなり「湯の町エレジー」のイントロを弾いて見せてくれた。先生は名古屋大学の医学部の出身で「学生時代、学費を稼ぐために名古屋の栄町で流しをしていたんだよ」とのことだった。小さなラジオとレコード・プレイヤーを置くことも許してもらい音楽は、入院中に僕に親しいものになっていった。  

入院してしばらくすると、未成年の患者だけが古い病棟に移され、そこは「子ども病棟」と呼ばれることになった。戦争で傷ついた兵隊さんたちが長く療養したという古い木造の平屋建て。窓の外には、広い庭があって、天気のよい日は、パジャマのまま庭に出て、紙飛行機を飛ばして遊んだりした。僕は、学校へ通うことはまだ許されていなかったので、病床まで先生が来てくださった。小学校のときは、ご自身も心臓疾患で入院しておられた安藤太郎先生。中学に入って、英語は、ご自身もカリエスを患われたことのある堀井先生。数学は若い女性の加藤先生。英語と数学は、遅れると追いつくのが大変だからと時間を優先的に割り振っていただいた。おかげで、この二科目は自分のペースでどんどん進み、まったく遅れずにすんだ。国語は教科書を自習。後は、母に頼んで買ってきてもらった本を読むだけ。暮らしの手帖社の「からだの読本」は全巻熟読した。小説は遠藤周作ばかり読んでいた気がする。社会科は「後で暗記しておいてよ。履修したことにしておくから」ということであった。だから、僕は中学一年生で習ったはずの地理にいまでも疎い。

子ども病棟に配された看護婦さんたちは、みんなやさしかった。新館では男の子に圧倒的な支持を得ていた工藤さんが、子ども病棟の担当にならなかったことで、みんながっかりしていた。時々、用事もないのに新館へ行って廊下にある車椅子で競争をしながら、工藤さんの近くにいって視線を合わせてもらうだけでどきどきしていた。でも僕の本当の憧れは、工藤さんよりもう少し年上の藤井さんだった。

彼女たちも、大人の患者を相手にするよりも気楽だったのだろう。消灯時間を過ぎても眠れないで、看護婦詰所(当時はナース・ステーションなんていわなかった)へ行くと、長い間、遊び相手になってくれたことを覚えている。置いてある聴診器の使い方を教わったり、医学用語辞典から、わざと際どい言葉を選んで「これ、どういう意味か教えて」なんていったりしていたのは、栴檀は双葉より芳し、いや、こういう場合は、三つ子の魂百までと言うべきなのか。

お正月や旧盆には、病棟の子どもたちの多くは、短くても一泊、退院間近の子は試験運転として一週間ほどの外泊を許された。僕はといえば、入院から八ヶ月が過ぎた旧盆にも外泊を許可されなかった。病棟で一泊も許されなかったのは僕だけだった。朝から、友人たちの親や兄弟が迎えに来て、病棟からは一人、二人と人が減っていく。最後の一人が帰って行き、そして日が暮れて、病棟は深閑とし、僕はひとりだった。母が、ある時間までは来てくれていたかも知れないが、記憶には残っていない。やがて消灯時間になって、部屋には、窓ガラスから差し込む庭の照明の薄明かり以外に何もない。横になってじっとしているが眠れない。起き上がってベッドに座っていると、入院して初めて、涙が溢れてきた。お正月も自宅で過ごせなかった。お盆も家に帰してもらえなかった。それがつらいのではなかった。日本には何千万人も子どもがいるだろうに、どうして「この僕」だけが選ばれたのか、それがわからなくて、いるのかどうかわからない神様を呪い、そして祈った。ひとしきり泣いて、灯りをつけて本を読んでいるといつしか眠ってしまった。

秋口になって、急に体調が悪くなった。寝ていると、突然、鼓動が激しくなって息もできない気がして、入院して初めてナース・コールのボタンを押した。脈拍数は二〇〇を超えていて、このまま死ぬかも知れないと思うほど苦しいことが二度ほどあった。これは肝炎とは関係のない心因性のものだったようだが、同じ頃、激しい吐き気が襲ってきた。鏡を見ると白目が黄色くなっていた。このまま、どんどん病気が重くなって死んでしまうのかなあ、と思った。

病棟にいると、死は身近なものだ。結核病棟の誰それが亡くなったそうだ、という話が数ヶ月に一度は流れてくる。結核は治ったが、喘息が治らずこちらの病棟に移ってきた晴美ちゃんが、急に具合が悪くなって、そのまま帰ってこなかったことがある。小さくて色が真っ白で髪が茶色で囁くくようにしゃべる小学校一年生の卓くんも、いなくなった。一般病棟から僕の隣室に運ばれてきたお年寄りが、明け方具合悪くなって、未明から看護婦さんや医師が入れ替わり出入りしたが、急に静かになってお亡くなりになったことを知ったこともあった。

そんな風に死は身近なものだった。ある日看護婦さんに「死んじゃった人は怖くない?」と聞いたら「怖くないよ。死んじゃった人は何もしないから。生きてる人の方が怖いよ」と言われた。

その時期は、大きく恢復するために必要な落ちこみだったのか、その後、検査結果が、劇的によくなった。十二月のある日、伊藤先生から「年が明けたら養護学校へ通っていいよ。三月まで行ってみて、大丈夫だったら、退院して、四月から地元の学校へ行けるよ。」といわれた。

そうして、その言葉どおり、僕は、中学二年生から、明智中学校に復帰することになった。学力テストも何もなく、校長先生が面接して「これなら元の学年にいれていいな」それでおわり。

このようにして過ごした子ども病棟の十五ヶ月は、明らかに僕の本質を形づくっている。まだ、世の中を覆うシステムの網目が緩やかだった頃の、懐かしく、今では「幸せだった」といってもいい日々の記憶。