2011年4月25日月曜日

新月の空に檳榔の花火 (大洞敦史作文)

高度を下げていく飛行機。機体が傾くと、窓の外に台北の夜景が現れた。小さな光が、ぽわん、と束の間ふくらんで消えた。一瞬の間を置いて、それが花火だと気づいた。ひとつではない。あそこにも、ここにも。草莓や、芒果や、檳榔子の色をした花火が、五つ、六つ、七つ……。この日は西暦二〇一一年の二月三日。台湾では建国百年の元日にあたる日だ。ぼくはこれから一ヶ月のあいだ、台湾と福建省を観光する。観光、という言葉がぼくは好きだ。光とは、知恵のこと。大昔の旅行とは異郷の暮らしの知恵を学び取り、自分の村落に持ち帰る営みだった。太平洋に浮かぶ真珠のようなこの島の放つ光を、また中国の一部でありつつも古来から中原とは異なる気風を保ってきた福建の山々に映える陽光を、ぼくは火傷するほど身に浴びたい。

午前零時前に台北市内の友人宅へ着いた。寝床の上でメモ帳を手に明日からの行程を確認する。明日はまず淡水に行ってアゲという小吃(地元の名物)を食べ、晩には基隆にて夜行のフェリー、臺馬輪に乗り込む。翌朝、台湾海峡に浮かぶ馬祖南竿島で下り、午後にふたたび船に乗り、福建省福州市近郊の馬尾埠頭へ。以後一週間ほど福州、福清、媽祖信仰の聖地・湄洲島などを巡ったのち、廈門から船で台湾の金門島へ渡り、風獅爺(地元のシーサー)を探し、その日の内に飛行機で台湾島へ戻る計画だ。台湾島と大陸を結ぶ船や飛行機のルートは「三通」と総称され、馬英九が台湾の大統領に選ばれた二〇〇八年の末以降、外国人にも開放されるようになった。

午前三時を回っても、窓の外では花火の音が、胸の下では鼓動が、鳴り止む気配もなく響いていた。

朝方、友人のご両親から三明治と烏龍茶をごちそうになる。三明治とはサンドイッチのこと。蛋餅という卵炒りクレープとならび台湾人の朝食の定番だ。台湾人は食べ物でも飲み物でも作りたてを好む。露店で売っている三明治は、大体においてパンの生地がしっとりとしていて柔らかい。

スーツケースを友人宅に預かってもらい、リュックサックと腰巻きバッグだけ身に付けて発つ。中身は福建省の友人一家への土産の菓子、ジーンズ一本、沖縄製のYシャツ二着、下着と靴下三揃いずつ、洗面具一式、使い捨てコンタクト、司馬遼太郎『街道をゆく 閩のみち』、中国語参考書、手のひらサイズのメモ帳二冊(うち一冊は筆談用)、ボールペン二本(ジェットストリーム、ハイテックCコレト)、万年筆、パスポート、中国・台湾・日本の通貨、iPhone、機内でもらったイヤホンなど。ぼくは普段から手ぶらで歩くのが好きなので、千五百円で買った腰巻きバッグは大変に重宝した。お金も貴重品もみなこの中に入れて歩いた。小銭を取り出すのがやや手間だが、財布よりもきっとすられる恐れは少ない。帰国してからも度々身に付けている。

台北駅で友人の女性二人と合流し、電車で淡水へ向かう。蔡小姐は台湾大學に勤めるデザイナーで、王小姐もインテリアのデザイナーだ。二人とも巧みに日本語を操る。日本の美術系大学院への留学を目指している蔡小姐のために、ぼくは幾つかの大学の資料を取り寄せて持ってきた。王小姐には四万十川の海苔の佃煮を手土産に持ってきたが、彼女はつい最近四国を旅行してきたばかりらしかった。龍馬は台湾でも大人気だ。ところで小姐(シャオジエ)という呼称には桃色がかったイメージがあるので避けたほうが良い、という事を以前日中学院の日本人の先生から耳にしたため、ぼくははじめ王さんを「王女士」と呼んだのだが、それに対して彼女は「女士は年寄りへの呼称、小姐と呼びなさい」と答えたので、それ以降ぼくはさほど年配でない女性に対して、ためらいなく小姐と呼びかけるようになった。

正月二日目の淡水は黒山の人だかり。汗ばむ日差しの下、淡水老街を人々の体臭と排気ガスと北京語と台湾語の波に揉まれて歩く。日本にいて台湾人と知り合える機会は稀だが、ここでは右も左も台湾人だ。ぼくは無性に嬉しくなってきた。いずれは台湾で暮らしたい。けれどぼくの知っている台湾人には、台湾を脱出したがっている人が少なくない。かれらの眼は日本、アメリカ、ヨーロッパに向いている。それゆえに、しばしばここに尊い友情が生まれる。ぼくはきみの国の美点を見つけてきみに示そう、きみはきっとぼくが知らない日本の美点をぼくに教えてくれるだろう。

老街を抜けた先の広場にはカナダ人宣教師・馬偕(Mackay)博士の頭部の彫像がモアイさながらに鎮座している。ぼくらはアゲの老舗「文化阿給」をめざして小高い丘の道をすすんで行ったが、残念ながら目的の店はシャッターが降りていた。空腹をかかえて、周杰倫の映画の舞台になった淡江高級中學、馬偕博士が設立した美しい庭園を擁する真理大學、英国領事官邸跡などを見て回る。「你知道周杰倫嗎?」(あなたは周傑倫を知っている?)と王小姐がぼくに聞いた。ぼくは「當然!」(もちろん!)と答え、彼のヒット曲「七里香」をひとしきり歌ってみせた。「雨は夜通し降り止まず、ぼくの愛も溢れて止まず」……この歌は去年の夏に大学院の先輩の中国人女性が教えてくれた、ぼくが三番目に憶えた中国語の歌だ。淡水を舞台にした歌では「縁があろうとなかろうとみな兄弟、ホッタラ(乾杯)!」という出だしで始まる台湾語の歌「流浪到淡水」が有名である。

その後ぼくらは赤レンガの古城・紅毛城を探して歩いたが、一六二八年にスペイン人によって築城され、のちオランダ、鄭成功、清朝、イギリス、日本、アメリカと次々に主を変えてきた台湾を代表するこの古跡は拍子抜けするほど小ぶりな体つきで、三人ともこれがそうだと気がつかぬままに前を通り過ぎてしまっていた。

細い坂道を下りきると視界がひらけ、淡水河の河口に出た。観音山を彼岸に望み、雑踏を歩く。似顔絵描き、しゃぼん玉吹き、CDに乗せて懐メロを歌う車椅子の人。五十センチばかりもありそうな霜淇淋を手にした子どもが嬉しそうに人混みを縫って駆けて行く。ここにも「正宗阿給老店」という名のアゲの店があり、友人たちは若干不本意な様子ながらもこの店にぼくをいざなった。一階は満席、二階も満席、三階でしばらく待ってやっと座れた。アゲは台湾語だろう、とぼくに初めてアゲについて教えてくれた台湾人の友人は言っていたが、料理の特徴を聞いてみると日本の油揚げに近く、もしかすると語源は日本語ではないかと思っていた。出てきたものを見ると、外見はまったくの油揚げだ。彼女たちに聞いてみるとあっけなく「日本語ですよ」との答え。油揚げを箸で割ると春雨が顔を出した。とろみのある甘辛いスープにからめて食べる。一緒に注文したねり魚のスープ、魚丸のさっぱりした味とよく調和する。春雨と魚丸は福建省福州地方の名物でもある。

店を出ると、空にはもう薄闇がかかっていた。淡水の夕焼けの美しさは有名だ。あと一時間もここに留まれば見られたろうが、ぼくらは焼肉を食べるために夕焼けを捨てて、静まりかえった台北市街へ戻った。がらんとした大通り、店の半分はシャッターが降り、禁止されているはずの爆竹がときおり控えめにパチパチと鳴る。田季發爺という焼肉店では、腕に薔薇や龍などの入れ墨をした店員がつきっきりで具材を焼いてくれる。食事の締めに年糕を焼き、きな粉をまぶして食べた。これは日本のモチに似た食べ物で、正月によく食される。焼くよりも油で揚げる場合が多いようだ。紅豆年糕という、小豆と砂糖を混ぜた赤飯みたいな色のものもある。なお中国語圏では小麦粉を練ったり蒸したりして作る平たい形状の食べもの全般を指して「餅」と呼ぶ。日本の食文化との比較は、地元の人との会話の糸口を開くのにもってこいだ。

台北駅で二人と別れ、列車に乗り込む。基隆までは各駅停車で五十分弱。座席は空いていたが、ぼくは公共の場で座ることにためらいを覚える。この夜も扉のガラス越しに、花火の上がるのが見えた。向かいの席で二人の女性が膝をからめ、指をからめてうっとりと互いの唇をついばんでいる姿がガラスに映っている。元来ぼくはひとり旅が好きだが、道連れと分かれるとしばらくは静けさに対して落ち着きを保てない。でもひとりの時には極力、ひとりならではの喜びを享受したい。旅の半分はひとりで沈思・観光し、半分は地元の友人たちと楽しく過ごしかつ生きた知識を得るのが、ぼくの肌にあう旅のスタンスだ。「基隆、就到了」という車内放送が流れると、ぼくは網棚から膨れたリュックを注意深く下ろして肩に掛け、せわしなく点滅をくりかえす檳榔屋のネオンと音のしない花火に視線を預けつつ、昨年の六月、指導教官とここを訪れた際に寺院のある小高い丘の上から見渡した、雨に煙る基隆の黙想的な街並みを思い起こしていた。

2011年4月21日木曜日

くどさと裏腹の真摯さ (辻井潤一書評)

オウム真理教や彼らの起こした事件には、膨大な言葉が費やされてきた。しかし、その鬱蒼とした言説の森は、時に真実や本質を覆い隠し、逆に見えなくしてはいないだろうか。カルト教団が暴走しただけ。そんなありきたりな「狂気の物語」に落とし込むのは簡単だ。著者は、その安直さに否を唱える。

著者の経歴は異色だ。東京大学物理学科出身でありながら、本業は作曲家/指揮者であり、現在は母校で音楽論を講じる大学教員でもある。そんな著者が本書でテーマとするのは、大学時代の親友であり、地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨のことである。なぜ、豊田はサリンを撒いてしまったのか。なぜ、オウムに入信してしまったのか。数多くの疑問に突き動かされながら、一連の裁判の中で、ただひたすら「沈黙」を貫く豊田に迫っていく。

今まで加害者/被害者という二項対立のせいで見えなかった、あるいはタブー視されてきた「加害者になった被害者」としてのサリン事件の実行犯たち。そのような「被害者」を、これから生み出さないためには何が必要なのか。本書は、博覧強記の著者が、物理学や音楽、戦争史、宗教学といった自らが有する様々な知を連関させながら試みた、粘り強い思考の軌跡である。

そして、〈局所最適、全体崩壊〉というキーワードが紡ぎ出された。個々を局所的に見れば決して間違っていなくとも、それらが繋ぎ合わされた時に崩壊する組織のシステム構造のことだ。著者は、戦前の日本軍に、東大に、オウムに、そして戦後から続く現代の日本社会の中に、それが見出せると語る。全体崩壊の責任を、個人に押しつけ断罪しても、何も改善されないのだ、とも。では、どうすれば良いのか。提示された一つの回答は、「沈黙」との訣別である。黙して語らず、罰を受け入れる戦前の日本海軍のことを「サイレント・ネイビー」と呼んだそうだが、豊田をそれに例えている。日本人らしい美意識とも言えるが、それでは何も変わらない。過ちも何もかも、全てを白日の下に晒し、語り、記録し、考え続けること。一つひとつの事象をどう論証し、何を導き出すか。それは著者と豊田が共有した、物理学という学問の作法の実践ではないだろうか。

本書は、全体を通してやや強引な理論付けが散見されたり、終盤では同じような主張が繰り返されたりと、正直くどい。しかし、それは二度と豊田のような人間を生み出したくないという真摯さと裏腹のものだと思う。

(伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』集英社文庫、2010年)

2011年4月18日月曜日

広島小倉7万歩 (兼田言子作文)

2泊3日で広島、小倉へ強行撮影旅行に行ってきた。

25000分の1の地図を3枚買う。広島、小倉、八幡。広島は見事なデルタ地帯。小倉は南北に港があり、中央の山間部には陸上自衛隊富野分屯地の文字が目立つ。小倉の西隣の八幡は水色の湾部分、平地と山、それから新日本製鉄八幡製鉄所がそれぞれ1:1:1:1に土地を分けている。市街地の道が格子状のエリアは空襲、原爆の被災地とほぼ重なる。

広島にいられるのは半日。駅からホテルまでの1キロほどの道も撮影しながら歩く。街路樹が力強い。川には2、300メートルおきに橋がかけられている。自分の立っている橋から隣の橋を渡っている人のシルエットが見える。歩いていたり、自転車だったり。ゆったりとした街の日常風景を垣間見る感覚。川の水も結構綺麗で、しじみ、あゆ、さらにはうなぎまで獲れるらしい。そのためか川へ降りられる階段が頻繁にある。柵もないからつい降りてしまう。川床にはぽこぽこと土が盛り上がっているところがみえる。手を伸ばしてミニ潮干狩りでもしたくなるも右手にはカメラ、時間もない。ぐっとこらえて先を急ぐ。ふと橋の袂に目をやるとほぼすべての橋に史跡看板がある。爆心地からの距離がかかれ、何年にできて、爆撃で壊れたから何年につくられたとか、壊れなかったから被災時にはこんなふうに使われたとか。デザインや古さで竣工年を推測できるようになり、ますます川沿い散歩が興にのってくる。

地図を広げて「この橋はこの橋かな?」なんてやっていると後ろから自転車に乗った白人男性に声をかけられる。前に小さな男の子を乗せて、「大丈夫ですか?」と。私は筋金入りの方向音痴だから迷子になったと自覚することも難しいのだが、声をかけてもらったことがうれしくて、お言葉に甘えてホテルの場所を確認する。でも彼はそこを知らない。格安パックツアーの最安ホテル。住民が気づかないようなホテルなんだなと不安と期待が入り混じる。アメリカ人のように見える彼が、この街でなじんで暮らしている。男の子は青い目を伏し目がちにしてかわいい。

チェックインの開始時刻を目指して撮影しながら歩いていたはずが、大幅に時間オーバー。早足でホテルを目指すと、すんなりと発見できた。幸先がいい。マンションみたいな外観の、中は普通のビジネスホテルだった。大慌てで原爆ドームと資料館に向かい、駆け足でめぐる。戦跡として君臨している建物が街に溶け込んでいるのが印象的だ。会社帰りの同僚たちがおしゃべりしながらドームのわきを横切っていく。

すっかり暮れてライトアップされたドームが川面に映っているのを見ていたら、グロリア・アンサルドゥーア『ボーダーランズ』にでてくる挿話を思い出した。父親が死んだとき、母親が家中の鏡を毛布で覆った。残された者が死者の魂が住む場所へと行ってしまわないように。この話を読んで以来、鏡のもつリフレクションという現象が気にかかっている。物体そのものを直接見ることと鏡像を見ることの違いは何か。立体が平面になり、左右反転像になる。現実は鏡像に変換されることで、どこか違う世界への通路になるのかもしれない。メキシコでは死者の世界に通じる。それはどこか神秘的な話のようだけれど、人は自分の顔を鏡でしか見ることができないのだから、鏡像はとても日常的な世界でもある。鏡像だから到達できる視点、失う視点はなんだろうか。鏡の機能が内省に影響を与えているとしたら、全ての事物を鏡像で見てみたくなる。リフレクションは反射、反映、熟考、反省。一眼「レフ」カメラの構造にはそれが組み込まれている。

川に倒立した原爆ドームを長時間露光で撮影することにする。ドームは毎日この自らの揺らぐ姿を見ているのだろうか。見ているとすればどんなことを考えているのだろう。そうやって思いをめぐらせようと集中してみる。しばらくするとたしかに見ているはずだ、と思えてくるのだけど、それ以上先には進まない。ただ像が揺らぎ続けるだけ。そう簡単には教えてあげないよ、と言われているようでもある。でもなんとなく、建物自体を見るよりも影を見る方がドームを見ている実感がした。

思考が進まないと今度は動き続ける揺れが気になってくる。自分を鏡で見ることはあってもなかなか水面に映った自分の姿を見ることはない。鏡像と一言でいっても鏡か水面かでは内省具合も随分と変わるだろう。そういえば、キューバではどこも驚くほど鏡が歪んでいた。ただマタンサスの裕福な民家にある巨大な鏡だけが恐ろしいほどに正確だった。マタンサスはハーシーラインの駅がある砂糖工場で栄えた街、石油採掘施設、製油所や造船所もあるらしい軍のにおいがする異色の街だった。カストロは毎日どんな鏡で自分をみているのだろう。

7分の露光時間を終えて、目の前の川に意識が戻る。爆撃をうけ死んでいく人たちは水を飲みたいと訴えたという。その水の供給源でもあり、身を投げた者もいる、ずっと広島の街を映し続けている、覆えない鏡。死者と生者を隔てる時間の壁を宙吊りにした、いつでも行き来できる天の川、か。

翌朝すぐに小倉へと向かう。徳山あたりで巨大な製油所を車窓から眺めると、エリアがぐっと変わるのを感じる。こんな大規模な工場を見たことがない。どの施設が何をしているのか全く分からない。これは何になるんだ、プラモデルの組み立て前を見ているようである。同じ形ごとに整列され、むき出しのパーツが並び、それぞれに働きがある、らしい。ひときわ目に付くのは火を噴く煙突。小倉に着いたら造兵廠跡に向かおうと思っていたから目の前の工場も軍事施設にしか見えない。絶対わたしもここの工場の生産物の恩恵を被っている。でも、何もわからない。

広島に比べれば小倉は時間がある。駅に近い造兵廠跡よりまずは街を俯瞰できるような高い場所、大雑把な行き方しかわからないが高蔵山の山頂付近にある高倉保塁跡(南側の周防灘から攻められたときのための要塞)を目指すことにした。高蔵山の標高は357メートル。山登りをするという気負いはない。小倉駅から15分ほど電車に乗り、最寄り駅である下曽根駅に到着。最寄りといっても登山道の入口につながる国道沿いの交差点まではバスで行くような距離だが、その方面へのバスはない。列を作るタクシー運転手のまなざしを背中で感じながら川沿いの道を選びとにかく歩きはじめる。街路樹が不思議な弱々しさでぽつぽつと並んでいる。川の西側にいくつかの低い山が見える。送電鉄塔がたくさんある山やない山がある。これから登る山がどれかの特定もできないまま、ひたすら歩く。ほとんど人にすれ違わない。川沿いの道を外れて住宅街に入っても人はいないし、商店もない。ベッドタウンで平日の明るい時間は人の動きが少ない街という印象だ。

歩き疲れてきた頃に山の入口に到着。スタート地点に立てた安堵感を束の間感じるも、薄暗い道を一歩一歩登るにつれ緊張感が増してくる。不法投棄をしている軽トラやリードをつけずに散歩している犬にすれ違う。いわゆる森林浴をするような風情ではない。心細さを無視して舗装された一本道を登りきると整備された大きな休憩所があった。もうすっかり午後の光だ。高倉保塁跡は山頂付近にあるはずだから、もっと上に行かなくてはいけない。休む間もなく次に登る道はどれだと躍起になる。来た道の舗装が終わったさらに先、藪の中に入ると滑り台くらいの急な斜面が現われ足立山へという標識。大混乱だ。もうどこへ行ったらよいのか全くわからないが、ここで引き返すわけにもいかない。突き当たりの少し手前にいくつかあった分かれ道を半信半疑ながらも勘を働かせて選んで、登る。古いコンクリートの跡や、新しい丸太状の階段で一喜一憂する。しばらく登っては、ここは違うだろうと自分で納得がいくと戻る。結局すべての分かれ道を試し、彷徨うこと3時間。気力も体力もすっかり尽き果てて休憩所で呆然としていた。一向に休まらない身体を余所に心は焦燥感に駆られてくる。頭はまるでサッカーのPK戦のような気分だった。残すは明日1日、後がない。そこへ年配の男性が現われた。日課の散歩のような出立ちである。最後の望みをかけおずおずと高倉保塁跡について尋ねてみると、驚くほど詳細にご存知であった。おかげさまで翌日なんとかリベンジ成功。

東京に戻るとたくさんのものを撮り残してきてしまったという思いが迫ってきて、観光旅行の日程では撮影には行かないと誓った。が、2週間もすると消えない身体的記憶のせいかこれはこれで印象的ないい旅だったと思い直した。暗室で浮かび上がった像は、旅の感触とは違う静かなものだった。

2011年4月15日金曜日

第6回のご報告 (大洞敦史)

先週の土曜日に原稿がまだ一本も届いていないことを皆様にお伝えしましてから、3名の方がご執筆くださいました。例会では10名の方がご参加になり、例になく充実した議論を交わしました。いつもありがとうございます。

次回は5月12日(木)19時からです。皆様のご健筆をお祈りいたします。

なお、例会以外にも会員同士で意見交換のできる場がほしいとのご要望が寄せられています。メーリングリストあるいは掲示板のようなかたちで検討してみたいと考えています。この件につきましてもご意見をお持ちの方はぜひお寄せ下さい。

2011年4月11日月曜日

粗末な北極星に向かって (辻井潤一書評)

本書は、芥川賞を先日受賞し、「平成の破滅型私小説家」と評される著者の、初期の代表作である。中学卒業後、日雇い労働で生計を立てながら、風俗通いと酒浸りの生活を送っていた主人公の男。念願叶い、三十を過ぎてからとある女と同棲を始めるも、生来の堪え性の無さと暴力癖のせいで、その束の間の蜜月は崩壊していく。というのが本書のプロットであるが、この作品の特異な点は、時折「藤澤清造」という大正時代の私小説家にまつわるエピソードが差し挟まれていることだろう。

慢性的な性病に由来する精神破綻の末、芝公園のベンチで凍死、という壮絶な最期を遂げた清造の私小説に出会った男は、「自分よりも駄目な奴がいる」と共鳴し、清造に深く傾倒していく。清造のものとなれば、小説から生原稿、手紙、果ては墓標や位牌までも収集し、月命日には東京から石川県七尾市にある菩提寺への墓参を欠かさないという入れ込み様。男の悲願は、『藤澤清造全集』の刊行であり、その資金として数百万円の借金をしている。男の無為な日常と、狂気じみた清造への執着とのコントラストは、一人の人間が内包する二面性や矛盾、俗なるものと背中合わせの聖なる何か、といった陳腐な構図に当てはめてしまうこともできなくはない。

だが、本書(というより著者)において注目すべきは、「完成したら死んでもいい」とまで言っている清造全集が、近刊と銘打ってから十年近く経った今も未刊という点である。全集の資金を、女との同棲費用にしたり、入れあげたソープ嬢に百万円騙しとられたりと、ことあるごとに日常の欲望のために浪費しているからだ。はて、あの清造に対する崇拝は、その程度のものだったのか。この足踏みとも言うべき事態は、本当に大事なものこそ、自分の近くに引き寄せるのではなく、どこか遠くから眺めていたい、という意識の表れではないだろうか。

世間からあまりにずれながら、それでも意地汚く生きようともがく主人公の男にとって、清造は、方角を示す北極星のような存在と言えるだろう。北極星を我が身に取り込むほどの覚悟は、男にはまだない。しかし、清造自身は、本書のタイトルでもある「どうで死ぬ身の一踊り」という覚悟でもって、その波乱の人生を駆け抜けた。男は、果たして清造になれるのか。それとも、星の煌めきをひたすら距離を保ちながら追い続けるのか。著者と、その著作を私自身追って、その覚悟のほどを見届けていきたい。

(西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』講談社文庫、2009年)

2011年4月6日水曜日

奇妙、でもピュアな愛の話 (スガモリアサコ書評)

恋愛小説集ではなく「変愛小説集」だ。本書は、翻訳家である岸本佐知子氏が現代英米文学の中に埋もれていた中から拾い上げた、ヘンテコな愛にまつわる話を集めたアンソロジーである。

木に恋をする、人を丸ごと飲み込んでしまう、全身に歯が生える病にかかる、どれもこれも奇妙な設定の話ばかり。それにも関わらず、読んでいるうちに心が揺さぶられ深く共感してしまうのは、愛する気持ちの切実さ、人の心の複雑さ、人間関係の困難さがリアルに描かれているからだろう。

「僕らが天王星に着くころ」(レイ・ヴクサヴィッチ)は、皮膚の一部が宇宙服に変わり、やがて宇宙に飛び立ってしまうという流行り病に罹った夫婦の話。妻のモリーが先に発病し、夫のジャックも遅れて発病するがモリーの病気の進行に追いつかない。二人が一緒に飛び立つことは難しい。モリーは別れなくてはならないことを既に諦めているが、ジャックは別れを受け入れられない。モリーの宇宙服が完成し、いよいよ飛び立つ瞬間、ジャックは叫ぶ。
「こんなの嘘だ!」
「これはきっと夢だ。だって理屈に合わないじゃないか、いろんなことがまだ途中なんだ。」
運命の非情さと身を引き裂かれんばかりの叫びに、胸の奥までギュッと締め付けられた。

「彼氏島」(ステイシー・リクター)は、女子大生ギャルが船の沈没事故に遭い、漂着した孤島にはイケメン男子しか住んでいなかったという話。彼女はたくさんの彼氏たちと付き合う。彼氏たちはそれぞれに魅力的で彼女に優しい。なのに、どうしてもしっくりこない。彼女は言う。
「あたしは彼氏たちから何かを、とらえどころのない、小さなかけらのような何かを取り出したかった。でもどんなに注意深く彼らと寝ても、それが手に入ったと感じる瞬間はなかった。」
彼女は遊んでいるようにみえるが真剣なのだ。恋愛だけじゃ満たされない。本当の幸せって何だろう?と自問自答を繰り返す。本当の幸せを求めずにはいられない女子の気持ち、わかるなぁと頷いた。

変愛小説集の登場人物たちはひたむきに愛を求めるが、いわゆる恋愛小説にあるようなハッピーエンドは訪れない。彼らは相手が不在であることへの喪失感、思い通りにならないにならない現実へのもどかしさを抱えつつ、それでもなお生きていく。その姿に私は励まされた。読後は切なさと温かさがないまぜになった複雑な感情が残る。余韻が心地よい。

(岸本佐知子編訳『変愛小説集』講談社、2008年)
(岸本佐知子編訳『変愛小説集2』講談社、2010年)

2011年4月2日土曜日

休日、本屋が「しま」をめざす理由 (大内達也作文)

本屋で働いている人って、やっぱり本が好きで好きでしょうがない人たちなんだなと、つくづく思う。

小学生のころ、近所によく焼き芋屋さんが売りに来ていた。「おっちゃん、焼き芋好きだから焼き芋屋になったの?」と聞いたら「馬鹿だな坊主、焼き芋好きだったら芋ばっかり食って商売上がったりだろ。芋は苦手だね」と返され、そんなもんかと納得したものだ。しかし、芋屋と本屋はちがう。

書店員の薄給が業界の定説なのはともかく、長時間立ちっぱなしで、重たいダンボールの持ち運びで大抵は腰をやられてる。検品、仕分け、棚入れ、発注、棚整理といった雑用(と言ってはいけませんね、ごめんなさい)的仕事が九割で、創造的な仕事とやらは一割もない。あんなにたくさんの魅力的な本に囲まれているのに、そもそも仕事中は一行たりとも本を読めない。なぜかって? 山積みになった仕事を片付けるのに精一杯で、本を開いている余裕がないのだ。

そういう意味では、本好きにとっては見込み違いもはなはだしい職場なのだ。ハタと立ち止まって「こんな筈じゃなかったのでは?」と考える暇さえないのがかえって救いだったりして。

それでも、それでもですよ。隙を見つけては本の表紙や帯の文句をチラチラッと眺めたり、人目を盗んでページをパラッと開けてみたりする。なにしろ気になる本があちこちにある。ゆっくり読めないから余計気になる。休憩時間になったら、もう我慢できない。ささっと食事を済ませて、売場に直行。当たりをつけていた書棚を物色する。そんなこんなで、休憩時間に店内を徘徊する店員が目につく。休憩時間だけじゃない。出勤前と仕事上がりにも店内をうろつく書店員が目立つ。あ、あいつまたこんなところに、と思っても知らん顔で通り過ぎるのだ。至福の時間を邪魔しちゃ悪い。

なんと休みの日にも本屋に行く書店員が多いこと多いこと。みんなで休みの日を申し合わせて一緒に古本屋巡りをしたりしている。さすがに自分の店に行く人はいないが、「きのう~書店行ってきました……」「え、私もおととい行ってきたよ」なんて盛り上がる。他の本屋に行かないような書店員は失格だと宣言した大先輩がいたけれど、別に勉強しに行ったり「盗み」に行っているわけじゃなく、ただ好きで行っているにすぎない。困るのは、せっかくウキウキ気分で新しい本屋を訪れたのに同僚と鉢合わせすることだ。本に没頭すると周囲に対する警戒心がぐっと薄れてガードが甘くなる。そんな時、ふと気付くと顔見知りが隣に立ってニヤニヤ立ち読みしてたりするから油断ならない。そおっと、本を棚にもどして静かに立ち去らなくてはならない。

書店員はなぜ休みの日にまで本屋に行くのか。本と最も近いはずの書店員が、日常業務に押されいつの間にか本と遠く離れてしまっているからではないだろうか。そんな本との距離を縮めたくて、書店員は休みの日に本屋へ行く。

休日は近場の大型書店に行く気になれず、遠くのこじんまりした個性的な本屋に行く。ふだんは物理的に近いのに本との距離が遠くなっているので、逆に、物理的に遠い場所に出かけることによって本との距離を縮めようと考えてのことだ。

一軒目は少しばかり遠出しよう。東京駅から横須賀線に乗って小一時間。三浦半島西側、相模湾に面した逗子という駅で降りる。そこからバスに乗って三〇分ほど、秋谷海岸を越えて峯山バス停で降車。そこはもう目の前が海。冬晴れの日は空も澄み切ってすがすがしい風が流れてゆく。国道の陸側は切り立った小山になっていて、かなり急な坂を登らなければならない。案内などは見当たらず、周囲は畑と民家ばかりで人気がない。危惧していたように目的の場所を見失い、小山を上りきってしまった。息も絶え絶えだ。けれど、なんて素晴らしい眺めなんだろう。遠くに見える大型船が切り裂く波がキラキラ光って美しい。道に迷ってあせっているはずが、なんとも穏やかな気分になる。

四〇分ぐらい探し回った末、どう考えてもここしかないという民家への径を入って行った。それらしき表示があるが、なにせ初めてなので確信がもてない。裏庭に回ってみたが、暗くて中がよく見えない。「すみません、どなたかいますかー。す、み、ま、せーん」何度呼びかけても、むなしく誰も出てこなかった。扉は固く閉ざされ、臨時休業の看板も「ちょっとそこまで買物に行ってきます。三〇分ほどで戻ります」といった張り紙も貼っていなかった。

当然のことながら、営業日と時間はホームページで念入りに確かめた。さらに、「サウダージ・ブックス」というそのブック・サロンをやっている人からの、イベントの案内を同僚が受けたという話も聞いた。まさか、営業していないなどとは考えなかった。見込み発車的にここまでやってきてしまったぼくが悪いので、腹も立たず、まあ、こんなこともあるさ、といった気分だ。「サウダージ(郷愁)」という命名、海辺の景色、民家でくつろぐ読書、といった事前情報から想像するに、さぞかし気持ちのいい「本の空間」を体験できると期待しただけに、少し残念ではある。

気を取り直して、二軒目へ。下町は深川資料館通り商店街にある「しまぶっく」。最近できたばかりなので初々しい雰囲気だ。屋号でわかるとおり、この店のキーコンセプトは「島」。こちらも、今福さんの「群島論」に触発されて企図された本屋だという。店主の渡辺さんが熱狂的なサッカーファンなのでマラドーナの本とかがあって、そこはご愛嬌なんだけれど。

四間はありそうな広々とした間口が魅力的だ。見渡すと、芸術、人文、文芸中心の品ぞろえ。渡辺さん自身の眼鏡にかなった本ばかりが並んでいるので屑本が全くない。「一〇〇円のしま」にある本さえそそるのだ。面白いのは和書は古本、洋書は新刊という仕入方針で、いわば古本屋なのに買取りはやらない。売れても同じ本を仕入れられない古本で棚を維持するのは至難の業で、核となる本が売れれば全体の構成が崩れる。それをひょいとやってのけてしまうのだから、恐れ入る。

実は渡辺さんとは数年間同じ本屋で働いた仲でもあり、彼があちこちを転々としていた間、ずっと気になっていたのだ。棚をつくらせたら驚くような凄腕をもっているのに、一緒に酒を飲むと「もうやんなっちゃったよ、仕事辞めて沖縄でゆっくりしたいよ」みたいなことばっかり言うやさぐれオヤジなのだ。会社組織みたいなものが、つくづく性に合わないんだろうな。ある意味サラリーマンのほうが気楽なことも多いのに、独立して店をやろうなんて結構なエネルギーもいるし、リスクも大きいだろうに。

下町の変化のゆるやかさが彼の志向する「辺境性」にマッチしていて、とても居心地のいい空間になっていると思う。渡辺さんは書店員というより、本屋のオヤジなのだ。ようやく、彼本来の居場所を見つけたのかもしれない。「仕入れは大変でしょう?」と聞いたら、「でも毎日が楽しいよ。何しろストレス・ゼロだからね」と満面の笑みで答えた。たしかに店主と本との距離が近い。地域とも密着している。ぼくらの求めている答えの一つがここにある。なんだかとても羨ましくなって、そそくさと店を後にした。