2011年8月13日土曜日

長大なグラデーションを知覚せよ(辻井 潤一 書評)

本書は、美術家の高松次郎が1972年にサンパウロ・ビエンナーレで発表し、91年に自身の手によって再構成した「写真の写真」シリーズをまとめた写真集である。写真の中に写真が写された、その名の通り「写真の写真」が収められている。ちなみにモノクロである。

ここからは便宜的に、写真の中の写真を「写真´」と呼ぶことにしたい。さて、「写真の写真」に目をやると、まずその中に写し込まれた「写真´」にどうしても目がいく。「写真´」はたわんでいたり、丸まっていたり、光が反射し一部が白く飛んで見えなくなっていたりして、写し取られた人物や風景が判別しづらいものばかりだ。通常、写真を観る時、多くの人はそこに写し出されたイメージをまず読み取ろうとするが、ここではその写真観賞の導入ともいうべき部分が瓦解しているため、たわみや丸まり、光の反射によって、「写真´」は印画紙という物質である、という事実がただ確認されるばかりだ。仕方ないので次に、「写真´」がどのような状況にあるのかを認識しようと試みる。机上に置かれたり、壁にピンナップされたり、額装されたりしているが、それらの状況は「写真´」の内容が判別しづらいせいで、何故そのような状況にあるのか、意図が掴めない。そして、宙ぶらりんの感覚のまま、意識はいよいよ「写真´」を写した「写真の写真」へと移行する。「写真´」のフレームの外へと一旦解放され、「写真の写真」のフレームへと収束していく。ここにきて初めて、私は一体何を観ているのだろうか、という根本的な疑問に直面することになる。写真に写し出されているモチーフか、印画紙という物質か、あるいは、「写真の写真」から勝手に連想した物語を自給自足で観賞しているのではないか、という気にさえなってくる。

人間の脳はかなり都合良くできていて、得た情報を削ぎ落としたり、補完したりしてから認識する、というのはよく聞く話だ。ある「ありのまま」のものがあったとしても、それを「ありのまま」享受することは有り得ず、先入観や知識の有無、関心の度合といった、何かしらの「フィルター」を通してからしか、私たちは感じることができない。

高松は、写真をさらに写真に収めるというトートロジーを提示することによって、「ありのまま」なものと「フィルタリング」されたものの間に、長大なグラデーションがあることを知覚させようとしたのではないだろうか。

(高松次郎『PHOTOGRAPH』赤々舎、2008年)

2011年8月1日月曜日

次回の例会は9月22日(木)(大洞敦史)

先日も回覧メールでお知らせいたしましたが、諸般の事情により8月は例会をお休みします。
次回は9月22日(木)、19時開始です。しばらく皆様にお目にかかれず寂しい思いがいたしますが、お互いに精進いたしましょう。充実した夏をお過ごしください。