2011年11月27日日曜日

一年生(原 瑠美 作文)

一年生の頃のことはよく覚えている。髪を伸ばしはじめたこと、自転車よりも早く走れたこと、UCCの缶コーヒーを飲む大人びた男の子を好きになったこと。一九八九年四月からの一年間。そうやって時期を区切って改めてあれこれ思い出してみると、普段は断片的な子供時代の記憶が、なにかまとまった形をなしていくようでおもしろい。

私が入学したのは大阪の高槻市立松原小学校というところで、郊外の学校らしく校舎もグランドも大きかった。ちゃんとした音楽室もあったはずだが、音楽の授業というとなぜか思い出すのはみんなで廊下に出て練習している光景ばかりだ。一年生はまず校歌を教えられるのだが、その中に「松原、松原、小学校」という繰り返しがある。担任の教師が誤って、ここで松原を三回繰り返すようにと教えたために、私たちは大混乱に陥った。廊下だと後ろの方からは教師の姿がよく見えないので、実は二回だけでしたと言われてもにわかには信じられない。五年生にあがる頃にもまだちゃんと歌えない子がいたほどで、いつもは気の強い教師がその間違いを正すときだけは決まりの悪そうな顔をしていた。今思うとこの校歌はどこか軍艦マーチに似ていて、大きくなってから私が軍歌に懐かしさを覚えるようになったのは、これが原因かもしれない。

一番のなかよしはリサちゃんといって、浅黒い肌と寂しげな目をした、美人で利発な女の子だった。リサちゃんは学校の前の東洋紡の社員団地に住んでいて、私はそこによく遊びに行った。この団地を抜けると学校までずいぶん近道になるのだが、小学生が集団で騒々しく侵入してくるのを防ぐためか、住人以外は立ち入り禁止ということになっていた。一年生は交通安全の規則とともに、「トウヨウボウ」には入ってはいけないということを学ぶ。不思議な響きを持つ禁じられた場所に、リサちゃんと一緒なら堂々と入っていけることがうれしかった。リサちゃんのうちから夕暮れどきに一人で帰るとき、団地内の公園をふと見ると、何人かで乗れるような幅の広いブランコの座席が一面、血に覆われていたことがある。ブランコのまわりはおばさんたちの井戸端会議場になっていたので、買い物帰りの誰かがそこで魚の血でもこぼしてしまっただけだったのだろうが、薄暗い中で見たその凝固した血の赤黒さは、今でも忘れられない。

テッちゃんという男の子とも仲がよかった。一度となりの席になったときには、授業中に二人でいたずらをして楽しんだ。鉛筆のキャップの先には小さな穴があいていて、息を吹き込むとピーと鳴る。教師が振り向くと私はキャップをサッとしまって何でもない顔を作るのだが、テッちゃんがうれしそうににこにこしているのですぐばれてしまった。テッちゃんは軽度の知的障害を持っていた。それでそんなテッちゃんを悪の道に引きずり込んでと私は二倍しかられるのだが、キャップ口笛はくせになり、何度も二人でピーピーとやった。

担任の教師だけでなく、その頃大人はよく怒った。われわれが子供の頃にはこんな悪さをしたらただではすまなかった、これくらいで許してもらえるのをありがたく思え、という理屈で激昂する。たたかれ、追い回され、罵倒され、そして子供たちは不敵な笑みを浮かべる。その邪悪な笑顔に加えて、私はいつまでも泣いていられるという特技を発見した。永遠なるうそ泣きが学校で行使されたのは国語の時間。教科書の文章を段落ごとに交代で読んでいこうという趣向に納得できず、私は読み手がころころ変わる丸読み(句点ごとに交代で読む)の方が断然おもしろいと主張し、それが受け入れられないとわかると教室の真ん中で立ったまま泣き出した。教師も強情で、私がわんわん泣く中平然と授業は進められ、ついに終業のベルが鳴った。成果は得られなかったが、永遠泣きをやり遂げてすがすがしい気分になったことを覚えている。

一九八九年は、ベルリンの壁と日本のバブルが崩壊した年でもある。私はテレビで落書きだらけの汚い壁が打ち破られるのを、ぽかんと見ていた。バブル崩壊は正確には数年後とされているのかもしれないが、拡大指向の経済の破綻が、この年からもう始まっていたことは間違いない。子供たちは消費税の導入で突然自動販売機のジュースが百円から百十円に値上がりしたことで、何かただならぬ気配を感じはじめていた。私は何の前触れもなくある日数字が静かに変わっていることに恐怖を覚え、いくつもの自動販売機を確かめてまわった。

缶コーヒーの男の子にはふられてしまい、成長とともに足は遅くなり、髪はこんがらがって二年生になる前に切らなくてはならなかった。しかしまだまだ一年生の頃の記憶は尽きない。それは何世代にも渡って語りつがれる神話のようにふくらんでいく物語だ。いつか当時の仲間たちが一堂に会することがあれば、みんなではちきれそうなほどたくさんの物語を語りあってみたい。

2011年11月19日土曜日

死についての連想(大塚 あすか 作文)

祖母の夢を見た。車いすを押して、わたしはどこかへ行こうとしていた。夢の中の祖母は驚くほど軽く、段差に差しかかると車いすごとたやすく持ち上げることができる。

年末年始に、施設から外泊許可をもらった祖母と過ごした。ごく短い距離ならば自分の足で移動するものの、祖母はほとんど座ったまま、ぼんやり宙を眺めていた。会話をすればたまにとんちんかんな答えが返ってくるし、こちらの言葉を聞きとれないこともある。車いすを押して初詣に行きたかったのに、風邪を引かせるのが怖くて外に連れ出すことなく終わった。それを後悔しているから、いまだにあんな夢を見てしまうのかもしれない。

先日会った友人が寝たきりである彼女の祖父について発した「もう、いいよね」という言葉を冷たいと感じなかったのは、かつて病院で子どものように小さくなった祖父を前に、わたしも同じことを思ったからだ。がんの手術後も頭はしっかりしていた祖父は、排泄のコントロールができなくなると同時に痴呆症状を見せはじめた。そこから食事を摂る力を失い、亡くなるまではあっという間だった。おむつ着用を余儀なくされ、プライドの高い祖父は正気を保つことに耐えられなかったのだろうと、わたしは確信している。だから、あそこで亡くなったことは祖父にとって幸せだったのだと。

祖父の夢を見る。かつて家を訪れたときと同じように、のんびりと居間のこたつで話をする夢ばかり見る。わたしは祖父と十分な時間を過ごし、十分な関係を築いてきた。そして少しずつ別れの準備を積み重ねてきたからこそ、こうして寂しさなしに思い出と向き合える。「じゃあ、またね」と、笑顔で手を振り祖父の家を後にしたのと同じ調子で夢から覚めることができる。

悔いのない別ればかりではない。二十一歳のときに、幼なじみが交通事故で死んだ。現実を理解してなお、わたしは今も彼女の死を消化できていない。ときどき見る夢の中で、同じように年を重ねた彼女と過ごし、目覚めた瞬間、落胆する。祖父の夢を見た後のやわらかい気持ちとは正反対の喪失感にさいなまれる。

初めて人の死に立ち会ったとき、幼いわたしは重苦しい空気を感知できずにいた。祖父の長兄が布団に横たわり、顔には白い布がかかっていた。はとこの美保ちゃんが飼い猫を抱き上げ、おじいさんの上にかざしながら脅かしてくる。「あーちゃん、ミイが乗るとじいちゃんが起き上がるよ」、猫がまたぐと死人が起き上がるという伝承を知ったのはそのときだ。鬼ごっこのように騒ぎ、やがて周囲の大人に叱られた。それから二十年ほど過ぎた頃、葬式に出る機会が増えたわたしは喪服をあつらえた。

十月末、H氏の訃報が届いた。「想像上の一人娘と暮らしています」という自己紹介とともに絵と短文でブログを綴る彼は、聡明ではにかみ屋で、寂しげだった。当初から自虐や絶望を口にすることが多かったが、ユーモアあふれる語り口と「想像上の一人娘」の存在により、切実さはフィクションに昇華された。しかし、怪我や病気を経て、いつしか彼が架空の娘を介して語ることはなくなった。自身の苦しみを客観し、笑い飛ばす余裕が失われる様を痛ましく思う反面、その気持ちを悟られないよう努めた。H氏を知る人々は皆、いつか彼が絶望に飲み込まれる日が来るのではないかと危ぶんでいたように思う。そして今、何とも言えない重苦しさを背負い、彼の平安を祈っている。

H氏は映画や本に関する知識が豊富で、わたしが何かに興味を示すたび、世界を広げる助けとなってくれた。彼が紹介してくれる本の中には単行本未収録、絶版などの理由により手に入りづらいものもあり、そういえば、彼が最初に教えてくれた小説すら、わたしはまだ探せないままでいる。いつかどこかの古本屋で「小説新潮臨時増刊’85SUMMER」を見つけ、高橋源一郎の『優雅で感傷的なワルツ』を読むことができたら、わたしは彼を思って泣くだろう。

幼い頃、恐ろしい想像で眠れなくなる夜があった。思い浮かべるのは、テレビで見た吸血鬼キョンシーや、世界が破滅するという大予言のこと。恐怖の対象は常にイマジネーションの世界にあった。しかし大人になった今、恐れるのは現実的なものばかり。老いや死について考えることが増え、去られる怖さや去る怖さが身近になると同時に、それらに対する鈍感さも身につけた。大切な人を亡くしたら悲しみで生きていけないと信じていたわたしは、自分が近しい人の死に耐えられると知ったとき、心強さよりむしろ寂しさを感じた。しかし、望もうが望むまいが、わたしはこれからなお多くの死や別離を受け入れていくことになる。死を受容することに慣れ、今以上に鈍感になっていくだろう。

死についてつらつら考える。答えなど出るはずない。ときおり、生死の境がゆらぐ。生きている人だろうが死んでいる人だろうが、大切な人たちがいる場所は他のどこでもない、わたしの中。

2011年11月17日木曜日

天の虫、天の竜(大洞 敦史 作文)

夏、大学院のゼミ合宿で釧路へ行くことになった。年末に企画されている「川から海へ」と題したギャラリー展示のための素材集めが目的のひとつだ。ところが日程がお盆の時期に重なったこともあって格安航空券などは手に入らなかった。そこで学生たちは鈍行列車を乗り継いで北海道に渡ることになった。東京駅を始発で発つと翌日の昼頃には北海道の千歳に着く。そこからはレンタカーで釧路をめざすという計画だ。現地では釧路川をカヌーで下ることをみんな楽しみにしていた。

せっかくの機会だったが、ぼくだけはわがままを言って、ひとり長野県の天竜川へ取材に行かせてもらうことになった。天竜川の起点に位置する長野県岡谷市や中流部に位置する伊那谷地方が、ぼく個人の研究対象にゆかりの深い土地であったためだ。ぼくはいま、一九五十年代に四日市の紡績工場ではたらいていた「女工さん」と呼ばれる労働者たちの作文サークル運動について調べている。彼女たちの大半は伊那谷の農家の出身で、中学校の卒業と同時に集団就職で工場へやって来た人たちだった。彼女たちが書いた作文には、戦中から戦後にかけての伊那谷での暮らしがしばしば題材として登場する。また彼女たちの母親の中には、十代の頃にやはり女工さんとして工場に出稼ぎにいった者が数多くいる。そのおもな行き先は平野村(現岡谷市)を中心に諏訪湖・天竜川一帯にひろがる製糸工場だった。当時の平野村は全国の生糸生産量の実に六分の一ほどをその一村で産出し、「糸都」と異名をとるほどに製糸産業で栄えた土地だった。無数の煙突が林立するさまは「諏訪千本」といわれ、「諏訪のすずめは黒い」などといわれた。煙突の周りには四階建て、五階建ての乾繭倉庫群がたちならび、のべ四万人の女工さんが働いていたという。

八月下旬のある日、新宿駅から特急あずさに乗ること二時間半、岡谷駅に着いた。雨雲が頭上に低く垂れこめていることもあってか駅前の街並みはひどく殺風景に見える。コンビニも見あたらない。まずは岡谷市立蚕糸博物館をめざすことにした。岡谷銀座と名のついたもの静かな通りを、空を見上げて歩く。どこかに一本ぐらいは煙突が残っていないかと思ったのだが、煙突のえの字も見あたらない。夕方近くになってやっと一本、銭湯の煙突を見つけただけだった。歩くこと十五分ほどで博物館に着いた。一階には糸繰り機や煮繭器といった、ほとんどが木製の、ものものしい道具がところせましと並べられている。二階は養蚕関係の品々と縄文時代の土器や土偶が展示されている。うろうろしていると、一人の中年紳士から「どちらから?」と声をかけられた。ここの職員さんだという。東京から来たこと、研究のこと、天竜川を舞台にした作品をつくろうとしている事などを伝えると、ずいぶん関心をもって聞いてくれた。なおかつ、ぼくがこのあと中山社という明治八年に創立された製糸会社の跡地を訪ねようとしていることを話すと、わかりにくい場所にあるからと、わざわざ手書きで地図を書いてくれた(たしかにその場所には地図がなければとてもたどり着けなかった)。

博物館の展示物の中で、ぼくがいちばん興味をもったのは水車だった。大きさはぼくの背丈と同じくらい。そもそもは山本茂美の『あゝ野麦峠』に、明治後半の天竜川畔には工場の動力源として大小とりまぜ百輌ちかくの水車が架せられていたと書かれているのを読み、またその一部がここに所蔵されている事を知ったので、一目見てみたいと思っていたのだ。あちこちに水車が架せられている川の光景はひどく愛らしいものとして想像された。しかも水量が少なくて水車が動かないときには、男の職工が足を使ってコマネズミのように一日中回していたという。川の上空を舞うトンビの視点から、人間たちが百輌の水車を一斉に回しているさまを思いえがくと、なんともひょうきんだ。水車を熱心に写真に収めているぼくを見て、先ほどの職員さんがぼくに「水車の動力がどんな風に使われていたか知っていますか」と聞いてきた。恥ずかしながら、ぼくはそれを知らなかった。彼は糸繰り機の前にぼくをみちびき、円形状でちょうど小さな水車のようにも見える、繭から紡ぎ出した糸を巻き取る部分を、からんころんと回してみせた。百聞不如一見。ただ赤面して、感嘆の息をもらすばかりだった。

職員さんはさらに、岡谷には今なお明治時代の糸繰り機を使い、人の手で繭から糸を繰っている製糸工場があることを教えてくれた。見学も随時うけいれているという。行かない手はない。職員さんに感謝を告げて別れ、中山社跡地を訪れた足でM製糸所に向かった。四十歳くらいの若旦那の案内で作業場に入る。繭を煮る匂いと水蒸気の充満する室内で、手ぬぐいを頭に巻いた七人の女性たちが、さきほど博物館で目にしたのとそっくりの機械の中に座り込んで、黙々と糸を繰っていた。彼女たちの頭の後ろでは糸巻きの輪がからからと回り続けている。糸巻き車輪と紡がれた糸と繭を煮る鍋のかたちは、地図でみる諏訪湖と天竜川と遠州灘の構図にそっくりだ。最年長とおぼしき方は七十歳前後だろうか。若旦那はその人の真向かいに立って「こちらの方は十代の頃から糸引きの仕事をつづけてきて……」などとぼくに向かって説明する。写真を撮ってもかまわないと若旦那が言うので、ぼくははにかみがちに「失礼します」と言って彼女にカメラを向けた。彼女は目線を動かしもせず、繭を煮る釜の上でてきぱきと両手を動かすだけだ。年配の方にまじって、若い女性が一人いた。ぼくよりも少し年下かもしれない。今はまだ見習いだという。彼女はいったいどんな経緯でこの仕事に就くことになったのだろう? ぼくは少しその年長の女性や若い女性から話を聞いてみたかったのだが、声をかけられる雰囲気ではとてもなかった。若旦那にみちびかれて隣室に移ると、二人の女性が自動式糸繰り機の前で作業をしていた。足元のバケツにはエメラルド色の繭がいっぱいに積まれている。聞けばこれらは遺伝子組み換えの技術を使って、クラゲの発光する遺伝子を組み入れた蚕の繭なのだという。いったいどんな需要があって、何に加工されていくのだろうか。

仕事の手を休めて三十分ばかり熱心に解説してくれた若旦那に礼を述べて工場をあとにする。半分夢から醒めきらないような気分で、銀座通りを駅に向かって引き返す。歩いているあいだ先ほどの女性たちの姿が、明治時代の機械にでんと座りこんで、ぼくが作業場にいるあいだ両腕以外微動だにせず糸を繰りつづけていた彼女たちの姿が、脳裏に焼きついて消えなかった。とくに半世紀以上ものあいだ、ああして指先で糸を繰り続けてきたあのおばあさん。生業に徹して生きてきた人間の重みが、田んぼの黄色い目玉風船みたいなぼくのたましいに、くりかえし銃弾のように食い込んでくるのだった。

次に寄ったのは照光寺という真言宗の寺だ。境内に「蚕霊供養塔」という高さ十メートルほどの塔がある。かたわらにかけられた木の板には「繭を結ぶは智慧の業、さて世の中に施興(ほどこし)の、功績を残し潔く、身を犠牲の心こそ、偲ぶもいとど貴しや、さらば諸人集りて、貴き虫の魂に、篤き供養を捧げつゝ、永久の解脱を願はなむ、南無蚕霊大菩薩」という経文めいた文句が筆書されている。この寺の和尚が書いたらしいが、蚕たちからすれば噴飯ものの鎮魂の詞なのではなかろうか。

蚕という虫は、なまじ見映えがして柔らかい糸を吐くばかりに、五千年を超える昔から徹底して人間に利用されてきた。卵から孵って成虫になるまでわずかひと月あまり、成虫になってからは飛ぶことも栄養を摂ることもできない。そもそも口といえるものがない。これは今日養殖されている蚕の大部分が日本種と中国種をかけあわせてつくられた人工的な品種であるためだ。天然の蚕というのもあるが、きわめて珍しい。サナギから羽化した蚕はまもなく和紙の上に雌雄とりまぜばらまかれ、交尾をさせられ、雄はやがて体力を使い果たして死に、雌は産卵ののち病気の検査のためにすりつぶされる。また製糸工場におくられた繭は鍋で煮られ、中のサナギは鯉のエサになったり、人間の食用として佃煮にされる。M製糸所でもサナギの死骸がバケツに山と盛られているのを見た。

日暮れ前、諏訪湖から少し下ったところにある旧釜口水門の上に立って、足元の天竜川と、対岸に広がる岡谷の町を見渡す。昭和四年に今ぼくが見ているのとほぼ同じ角度から撮られた平野村の写真を思い起こしてみる。はっきりと変わらないのは川と湖、そして遠くにかすむ山々の輪郭。ぼくはこの町に友情をいだいた。明日の早朝には飯田線に乗って下伊那へ向かい、養命酒の製造工場の敷地にある弥生時代の遺跡を訪ねたり、舟下りをするつもりでいる。陽が沈んだら、もう一度ここへ夜景を見に来よう。

2011年11月13日日曜日

「正しさを前に」(辻井 潤一 書評)

昭和16年夏の敗戦。ともすれば、そのまま受け流してしまいそうになるが、すべては、この一見平凡に思えるタイトルに集約されている。

本書は、太平洋戦争における日本の敗戦は開戦前から既に予測されていた、という史実から展開していく。予測を立てたのは、昭和16年4月、軍・官・民から選りすぐりの三十代の俊英、三十余名を集め設立された内閣総力戦研究所の研修生たちだ。同年8月、彼らは、それぞれが総理大臣や閣僚、次官などとなって模擬内閣を作り、様々なシミュレーションを重ねた結果、「日本必敗」という結論を導き出した。その結果は当時の近衛文麿内閣に対し発表されたが、その場に陸軍大臣として同席し、10月より首相となった東条英機率いる内閣は、12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争を開戦に至らしめる。「必敗」という「結論」が提示されながら、なぜ日本は戦争に踏み切ってしまったのか。著者は丹念に分析していく。

大きな要因として、当時の二重権力構造が挙げられている。東条英機が首相に指名された理由は、おそらく米国との戦争を望んでいなかったであろう天皇の忠実な信奉者であり、軍部に圧倒的な影響力を持つ東条をトップに据えれば戦争は避けられる、という思惑があったからとされている。しかし、大日本帝国憲法下における当時の首相は「政府」の長ではあったが、もう一方の「大本営」と権力を二分していた。満州事変から日中戦争を経て、戦争をすることに固着していた大本営を、東条は抑え切ることができなかった。二重権力を超越できず、天皇と大本営、首相という自らの立場の板挟みになり苦悩する東条の姿を描き切った箇所は、本書の白眉といえる。

また、原爆投下以外はほぼ予測していたというほど高い精度だった総力戦研究所の「日本必敗」という結論も、結局、時を経て事後的に証明されたに過ぎない、という事実も見逃せない。歴史とは過去への遡及で成り立っている。どんなに「客観的」で「正しい」データがあろうと、常に歴史のただ中にいる人間にとって、今この時、何かを選択する、あるいは選択しないという決断は、「主観」の中でしか下すことはできないということだ。
本書が示唆する問題も極めて「正しく」、教育的である。しかし、震災後の今、止めどなく押し寄せるあらゆる「正論」を前にした時、本書が示す「正しさ」はあまりにも自明であり、むしろ途方に暮れされるものでもあった。

(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』中公文庫、2010年/原著:世界文化社、1983年)

2011年11月10日木曜日

11月例会のご報告&来月の書評について

【読み書きクラブはおかげさまで、立ち上げから一周年を迎えました】

 本日の参加者は10名。原さんと大塚さんの作文、原さん、大塚さん、辻井さん、近藤さん、スガモリさん、Chiaraさんの書評を取り上げました。原稿の集まり具合がかんばしくなかったことから、ここ数日のあいだに原稿を書いてきて下さった皆さん、ありがとうございました。
 例会の後ではコヨーテのワインや美味しい食べ物を囲んで一周年をお祝いしました。Chiaraさん、大塩さんをはじめ、差し入れをしてくださったみなさん、ありがとうございました。

【12月の書評について】
・書評対象は「原発」に関する書籍に限定します。
・日本の話でも海外の話でもかまいません。

次回例会は12月8日(木)です。
今回ご参加できなかった皆さん、来月にあらためてお祝いしましょう!