2012年12月8日土曜日

子どもたちのための<料理>を作ろう(作文)


 切れ味の悪い果物ナイフで梨の皮を剥いていたら、油断をしていたからか、手を滑らせて指先に、刃先が触れてしまった。気にしないで、刃先を梨の、河原の石のようにザラザラした表面に当てて、しばらく黙って皮剥きに集中しようとした。てきぱきと切り分け、はやくこのみずみずしい梨を食べてもらいたいと気持ちは急いていて、この子は見かけによらず不器用だとか、女房はこんなきたない切り方をしなかっただとか、そういうことで残念に思われたくない気持ちが高ぶるほど、手に固定された梨のがたついた表面が目について、情けなくなってくる。追い打ちをかけるように、切れ味の悪いカッターのような果物ナイフの当たった指先から血が滲み始めているのに気がつき、「まだかい」と部屋の奥から尋ねる声に、もう少しです、と答えると血はそれに応えるかのように勢いを増して止まる気配がなく、とにかく梨を避難させたいのに、洗面所のような小さなシンクには、梨ひとつを安定して置いておけるスペースもなければ程よい容れ物もなく、切り口を抑えながらあたふたするしか方法がない。
 絆創膏など持ち合わせているはずのない状況で、血まみれのシンクでどうやって梨を切り分け、それを葡萄のとなりに並べたのか記憶にない。けれど次の場面では、何事もなかったかのように種田さんと向き合っていて、ぎこちない梨を葡萄が補ってくれることだけを念じながら、罪滅ぼしのように梨を口に放り込んでは一週間の出来事について話している。平日の正午。部屋には介助用ベッドと業務用の机、書類整理用の引き出しと小さな洋服ダンスがあるきりで、それでも来るたびに棚に並んだ本の背表紙が変わっていたり、どこからか送られてきた茶封筒が卓上に乗せられていたりする。隣の部屋に、少し前まで奥さんが住んでいた、と言う。奥さんの写真は壁に立てかけてあって、種田さんはそれを便宜上置いているとでもいうように、たまに指さしては「家内が」と話を続ける。壁にはほかに、二枚の賞状が額縁入りで引っ掛けてある。一枚は総理大臣(福田康夫)からで、もう一枚は施設から。どちらも大喜びで解説を始め、厳粛な顔をした親戚たちが、お祝いに種田さんを囲った集合写真を一緒に見せられて、応答に窮する。
 目次となる年表を書き取りながら、ずいぶん色んなことに手を出した人なのだということが明らかになっていく。自伝の執筆を手伝うのは二人目で、前回は七九歳、今回は一〇一歳だから、さらに一世代分遡ることになる。そして彼は、致命的に耳が遠い。ピンと立った小さな耳に、くすんだ肌色の、重たそうな補聴機を取り付けて、いつもの作業が始まる。始終、補聴機から耳鳴りのような甲高い音が聴こえてきて、無音の部屋によく響く。その、骨にまで響くような音抜きには、会話が成り立たない。種田さんが喋るときでさえ、人工的な巻貝のようなそれは、種田さん自身の声を聞き取りやすい周波数の電子音に変換し、白い耳の内側に向けて、ギャンギャンと響いている。「GHQの占領に際して私」は、「実はダットサンに先立って私」と「家内と世界中を私」に周期的に現れ、それを声の速度で筆記すれば「東北大学に招かれた私」に辿り着く。何度でも。一つの場面の「私」の切れ目なさはそのまま何度でも反復できるレコードのように深く刻まれていて、一度針を落とせば自動的に再生が始まる。少し遅れて電子の声がギャンギャンと追う。さらにずれ込むかたちで筆記ペンが紙の上を滑る。いくらかまとまった後でそれに目を通すと、梨をひとかけずつ食べて、次のページへ進む。
 耳で聴いて一字一句書き取ることにへとへとになって、二重の声の呪縛から放たれて温かいご飯が食べたいと、萎びていく果物を横目に考え始めたとき、一体これは誰のために話され、書き留められているのだろう、という疑問が降ってきた。七九歳の高縄さんの手伝いをしていた時は事情が違った。雇われた目的がはっきりしていて、つまり出版物にするための文章の校閲を任されていたから、声を写し取る必要などなく、キーボードで入力された文章の断片を繋げて、説明の足りない表現を付け加えたり、重複する場面を削ったりすれば済んだ。ところが今回は何か違うことが求められている。編集どころか、筆記ペンを握りしめ、耳を極度に緊張させて、ただ書きとっている。これでは創意工夫もしようがなく、しかも種田さんの中に眠っている記憶がどこまで記録されれば気が済むのか、見当がつかない。途方もない再生、途方もない筆記。
 ある日、いつものように部屋を訪れると、種田さんの姿がなかった。特にすることもないので、奥さんの写真(夫婦でローマに行った時の写真で、奥さんの顔だけをクローズアップして額縁にいれたもの。気さくそうな笑顔)を見ながら待った。不意に眠気に襲われて、机に突っ伏して眠ってしまう。やがて、戸口から入ってきた種田さんに起こされ私は、そのあと、これまでの記録を朗読しよう。

2012年10月20日土曜日

海の美しい<浜辺>に(大塚 あすか 作文)


 朝露で濡れた下草を踏み、たどり着いた展望台から身を乗り出すと、遥か峰々の間にうっすら漂う雲の波が見えた。六月の夜明けは早く、登りきった陽の下で見る雲海は、爽やかではあるものの幻想的とは言いがたい。今朝の雲海はコンディションがいまいちで、海と言っても遠目に浅瀬を眺める程度。それでも隣に立つ両親は嬉しそうな表情を見せ、その姿に、旅程を組んだ姉もほっとしているようだった。

 父の退職祝いにと企画をはじめた家族旅行は、紆余曲折の末、一年遅れで初夏の北海道行きに落ち着いた。両親と姉とわたし、このメンバーで旅行をしたことは過去に数度もない。父は仕事柄土日や盆正月に休めず、昼夜を問わず呼び出されるどころか、勤務地外に出ることにすら届出が必要だった。わたしは十八を過ぎて旅を学び、それは誰かと分かち合うためのものではなく、ひとり気ままに動き回るためのものとして確立した。
 子どもたちが独立してはじめて、家族旅行の思い出がぽっかり欠けていることが気になりはじめたのか、両親はときおり後悔の言葉を口にした。父は今や自由の身となり、旅を妨げるものはない。

 前日は、トラブルにより予定が遅れ、ホテルへ向かう道中で日が暮れた。それどころか、信用ならないカーナビに導かれ迷い込んだのは、けもの道としか思えない、車一台通るのがせいぜいの山道。携帯電話の電波が途切れる頃には車内は沈黙と緊張に包まれ、激しい揺れの勢いで車が崖から落ちては大変だとばかり、レンタカーのハンドルを握る姉の手には血管が浮いた。
 そんなこんなで、ようやく舗装された道路に出て、黒々とした山の狭間に、バブルの遺跡と呼ぶにふさわしいツインタワーが目に入ったときも、場違いな毒々しさへの驚きより安堵が勝るほどだった。冒険譚を訴えるわたしに、ポーターの若者は、「僕は地元の人間ですけど、あの道は一度しか通ったことありません。熊も出ますから」と言った。
 それもこれも、このリゾートホテルの売りである雲海見物のためだった。わたしたちにとって雲海は特別なものだ。誰もあえてそれを口にはしないけれど。

 出産予定日を一ヶ月過ぎていた上に逆子だった姉は、分娩時のトラブルにより視神経に傷を負った。遠視用の分厚い眼鏡は、子どもたちのからかいの対象としては申し分のないもので、長い間、本人と両親を苦しめた。
 姉は小学校卒業までに二度の手術を受けた。地元に適当な病院がなかったのか、県境を越え熊本大学の付属病院にかかっており、完治するまで長期にわたって、三ヶ月に一度の定期検査のため熊本へ通い続けることを余儀なくされた。
 その日だけは父も仕事を休み、県外への外出許可を取った。大学病院の待ち時間は恐ろしく長く、朝一番に受付してもらうためには真夜中に家を出る必要があった。今のようにコンビニエンスストアがあったわけではないので、母は通院の前夜、ほとんど眠らず弁当を作った。
 真っ暗なうちにたたき起こされ、寝間着のまま毛布に包まれた姉とわたしは後部座席に詰め込まれる。窓越しの星空に見とれるものの、車が動き出して間もなくまた意識を失う。ひとしきり眠った後で目を覚ますのが、決まって阿蘇に差しかかる頃だった。カルデラ地形のせいもあるのか、阿蘇の雲海はそれは見事だった。朝焼けを飲み茜とも紫ともつかない複雑な色合いをした波が足下まで打ち寄せてくる、まさしく海だった。
 でも、もしかしたら阿蘇のことは、記憶の中でいくらか美化しているかもしれない。幼い姉やわたしにとって、若い両親にとって、それは唯一といっていい家族で遠出する機会だった。宿泊も観光も伴わないけれど、特別な日だった。

 あの涙ぐましい通院の日々、両親はいったい幾つだっただろう。そう、多分、二十代半ばから三十代にかけて。
 姉とわたしは、すでに当時の両親の年齢を超えた。叱られてばかりだった子どもが、今では逆に「現代の常識」を親に説く。親子の立ち位置は少しずつ確実に変わりつつあると同時に、それに対する違和感もある。独身である姉とわたしは、「じいじ、ばあば」という言葉に変化を委ねることも叶わない。
 還暦前後の両親、三十代半ばの姉とわたし。家族での旅行はどこかぎこちない。両親は、過去に実現しなかった家族旅行を取り戻そうとしている。姉とわたしは、新しい家庭を作るという、おそらく両親が密かに抱いているであろう期待に添えずにいることへの後ろめたさを抱え、その罪滅ぼしの意図を持つ。いわば、欠けているものを埋めるための旅。

「阿蘇の方がすごいよね」と、占冠の山々を眺めながら口に出してみた。少なくとも、今目の前にある光景と比較可能な記憶を共有している。それが、様々な思いを打ち消し、家族をつなぐための糸であるような気がした。
「そうだよね」
 同意の言葉とともに、父が、母が、姉が、その細い糸を掴むかのように思い出を語りはじめる。

2012年8月18日土曜日

いつか<虹>色にそまる(原 瑠美 作文)


思わず笑ってしまった。
「原さん、虹の根元にはねえ、おっさんが七人ずつ立って照らしてるんだよ。ライトで。」
 そういったのは出張で岐阜に行ったときに同行した担当者で、私たちは仕事が終わってオフィスに戻る車が山道にさしかかったときに、夕空におおきな弧を描く虹(しかもダブルレインボー!)を見たのだった。その年は寒さがなかなか来なくて、京都に紅葉を見に行ったのにまだ青々としていたなんて話をよくきいたが、岐阜の山中では十一月も下旬となるとさすがに木々は美しく色づいていた。ゆるやかな下り坂の道の先は、重なりあって伸びた黄色い葉に隠れて見えない。こっちの山からあっちの山へ、橋を渡すようにくっきりとかかった虹の下を車はくぐっていった。
 「岐阜の伝説だよ。」おちゃめな担当者がそういうので、私はまた笑いながら外の景色に目をうばわれていた。
 それまでは虹というのは雲から雲へとかかるもので、雲が手の平のように上下左右に移動するにつれていろいろな形の虹ができると勝手になんとなく想像していた。もちろんそんなはずはないのだが、私は自分のいんちきセオリー以上のものをこれまで求めたことはなく、虹について深く考えてみたこともなかった。しかし夕立のあとの晴れ上がった空に浮かぶそれを見ていると、たしかに「根元」がどうなっているのか気になってくる。岐阜の虹おじさんたちはそれぞれ手に色のついたライトを持って、定位置に立っているらしい。虹は左右のライトから照らされ、対応する色どうしの光線が空中でくっつく。正確さを要求される、たいへんな作業だ。
 絵本作家のデビッド・マッキーも、虹の根っこに注目している。『エルマーとにじ』では不思議な白い虹が現れ、ほかの動物たちがこわがるなか、パッチワークのカラフルな象のエルマーだけが勇敢にも虹の根元を探しにいく。色をなくした虹に自分の色を分けてあげようというのだ。ついに見つけた虹の端にエルマーは近づいていくが、そこでなにが起こっているかは描かれない。想像力がかきたてられるシーンだ。
 虹の両端に思いを馳せることは、その一方を頭、もう片方を尾ととらえる感覚にも容易につながっていくが、世界には虹をヘビだと考える文化もあるらしい。とくに有名なのがオーストラリアのレインボー・サーパント、虹ヘビだ。アボリジニの言い伝えによるとこの虹ヘビがなにもなかったところから世界を創り、地下で眠っていた生きものを地上に連れてきたのだという。まったいらだった大地に虹ヘビが頭を打ちつけると土がえぐられた場所が池になり、盛りあがった土は山になり、するすると細長い体が通った跡は川になった。日本でも古来ヘビは水の神として祀られることがおおく、ヤマタノオロチなどの大蛇伝説もあるが、大地の凹凸や水の流れを見てその由来を空に見出した人々の目とそこから語り継がれる物語は新鮮なおどろきをくれる。
 それぞれなんの歴史的、地理的関連もなく、最初のものなんて突拍子もない発想でしかない虹伝説だが、こうして並べてみると糸のようにつながっていく感じがしておもしろい。まったく異なるようで境界線がどこにあるのかよくわからない色の集合体である虹の性質が、脈略のない遊び心を刺激してくれるのだろうか。
 最後に虹を見たのはいつだったか、思い出せない。しかし印象的な虹の記憶は時間軸を無視してぽんぽんと頭に浮かんでくる。ホノルルで、海に背を向けて山のレストランへと向かうバスから見た虹。屋久島で、これまたバスの窓から運転手に指差されて見た海に浮かぶ虹。ダブルレインボーにおかしいほど感動している男が撮影した動画がYouTubeにアップされていて、友達が送ってくれたそのURLをクリックしてパソコンの画面で見た虹、虹の映像。ちいさいころ、はじめて見た虹(「はじめて」の記憶は思い出すときによって変わるくらいあいまいでいて、強烈でもある)。おおきくなって新しい国に住みはじめて、そこではじめて見た虹。
 ふと見上げて虹が見えたら「あっ」といってしまう。思わず笑顔が広がるのを感じるのは、私のなかにも虹伝説の種がころがっているからだろうか。そこからいつか芽が出るとすれば、独立した色ではなく、色と色のあいだの微妙な調子を持ったものになればいいと思う。世界中の伝説とつながれるように。
 夏前に買って愛用している半ズボンについているベルトをキュッと締める。暗いモスグリーンの生地に、虹色のベルトがよく映える。その端にはおじさんも象もいない。いまのところ。

海の美しい<浜辺>に(作文)


ああ海が見たいんだ、と気づく瞬間の妙にしっくりくる感じ。どうして、と次に問う声もすっかり呑みほしてくれるから、わたしはどうしても海が見たい。面倒な説明を一番向こう側へと追いやって、足はもう、潮のにおいのする方へと、ひと足先に向かっている。
 一年のはじまり、一月の終わり。卒業論文の提出締切を目前に、溜め込んだ言葉で消化不良を起こし、同じく白い顔を木枯らしにさらしてげっそりしていた友人Nと、江の島へ向かった。冬に江の島へ行くのは初めてだった。特に目的はなかったので、おいしい鯖でも食べにいこう、とだけしめし合せて、江の島行の切符を買った。書くことに行き詰って思いつめていたからか、普段は過剰に上乗せされる海への期待を準備する間もなく駅に降り立ち、ごく自然に道路の向こう側に海の気配を感じながら、横断歩道の手前で、信号が青く切り替わるのを気長に待っていた。
 幅の広い道路は片瀬海岸に沿って湾曲しながら一本、気持ちよさそうに、けれども少し気だるげに伸びている。そこへ、駅の方から続く中道がT字に交わり、その一画にある店先には生しらす丼、地魚のなめろう汁、鮪ほほ肉の竜田揚げと、読みあげたくなるような文字が躍る。ちょうどお昼を過ぎたころで、店の奥からは調理場の熱気が絶えず漏れ出してくるようだった。となりで信号待ちをしていた恋人同士が、気がつけば店の暖簾をくぐっている。道路の向こう側には、海の気配。少し前に、コンクリートの塀より上にチラとその一部を見たような気もしたし、高いところからすっと伸びている空の濃く垂れこめた部分を海と勘違いして、ほんとうはまだ海を目にしていないのかもしれなかったが、どっちでも構わなかった。とにかく、海は近い。経験から確信するのではなかった。初めて会う人のように新鮮で、しかも昔から隣にいたかのように親しげな、内側からどうしようもなく疼いてくる感じが、近づいてくる海との距離を、精確に伝えていた。いつかのあの感じを取り出してきて、全身でその場にそれを感じる、それを見る、それを嗅ぐ。海はいつも、そうやってわたしを別の場所へと密かに繋げた。
 
アントワープ。もうひとつの海岸線。信号待ちをしていると、広い道路に観光客むけの馬車が現れた。自動車を軽々と見下ろす白毛と栗毛の大きな馬が二頭、舗装された硬い道を鳴らしながら闊歩する。動物と機械が、道路の上で横並びになる。
三日前の夜にブリュッセルに着き、予約しておいた安ホステルが見つからず、重たい鞄を背負って夜中の二時過ぎまで見知らぬ街をさ迷い歩き、何とかして見つけ出した別のホステルに、二夜分のベッドの確約をとった。アントワープを訪ねた日、すでにブリュッセルに帰る場所はなく、駅に荷物を預けて、夜中にイギリスへと出航する船に乗ることになっていた。
広場と広場を繋げる迷路のようなブリュッセルの街並みにくらべ、アントワープでは方角が明らかだった。駅から港の方まで、道はほぼ例外なく縦と横に走る。港に歩を進めるごとに、街はころころと表情を変えて脈絡がない。アントウェルペン中央駅から、人気のないコンクリートの道路。そこへダイヤモンドの商店が立ち並ぶ通りが何の気もなく現れ、ほとんどシャッターの閉じられた店先には(いつか見たギャング映画に映し出されたいかがわしいダイヤモンド街の活気は見られなかった。休日にダイヤは売らないのか)小声で立ち話をする男たちが点々としている。すると今度は道が大きくひらけて、手足の細い女の子たちが腕にショッピングバックをぶら提げ、街を鮮やかにかき回す。ところが大通りから気まぐれに小道へと逸れると、一変して色調は下がり、着工してどれほどの月日を経たのかもあやしい建設現場が、グレーのシートに覆われて黙っている。何も被っていない建物も、色形が疎らなレンガとガラスの重なりで、風の抜けない場所にあっては風化も出来まいと、同じくじっと身じろぎもせずに、何かを待っているようだった。
横切ってゆく馬車を見送り、道路の向こう側へと踏み出す。横に広く走る道路は、馴染みのものを予告していた。日が、港の方にぐんぐんと傾いていく。古い建物は日陰からぬっと顔を出し、然るべく風化の作用を受けて、赤茶けた砂の城に似た。馬車も建物も大きくて立派だった。立派であればあるほど、地面から少しだけ浮いたおもちゃのように、どこかはぐれてしまったような印象を与えた。

繰り返し打ち寄せる波音が耳の鼓膜を支配して、繰り返し訪れる記憶の断片をばらばらの場所に置き続ける。あの時とは、どの時だったのか、足の下に、砂浜はあったのか、なかったのか、道路が繋いでいたのは、どことどこだったのか。行き着くことが帰ることにぴったりと寄り添う時、人はやすらかに顔がない。そうして顔をなくしたのっぺらぼうが、気がつけば店の暖簾をくぐっていて、おいしい鯖を頬張っている。

平成生まれの昭和(作文)


 平成という元号が始まってちょうど一年が経った頃に、わたしは生まれた。一九九〇年。世の中はバブル絶頂期にして末期。「バブル」という言葉を知ったのはそれから随分あとのことだし、「バブル」という現象を理解するのに、とても二十年では足りなかった。だから今でもその言葉から先には、何の連想も生まれない。
バブルとその崩壊の境目で、わたしの三つ子の魂は形成された。そのままうつうつと眠り込んでいくのか、それともこれから目覚めていくのか、どちらともつかないぼんやりとした時間の中を、特別に好きなことも、特別に嫌いなことも自覚しないまま、ただ漂っていた。いま、そんないわゆる少女期のようなものを、当時の感覚で手繰り寄せようとすると、うまく輪郭がつかめない。シルエットは嵐のまえの雲行きを真似て、気まぐれに記憶をにじませるだけ。《極度の引っ込み思案だったわたしは》という出だしで、その時期を語ることも出来るし、《生来の目立ちたがり屋だったわたしは》という切り口で同じ時期の自分を語ることも、不思議なことに、出来てしまう。それが「平成」というキャラクターにまみれた時代に生まれたからなのか、「少女期」特有のブレやすさからなのか、あるいはわたし個人の特質に原因があるのかは、今のところわかっていない。
ただ、そのぼんやりとしただけの何かに強烈に惹かれはじめ、それが自分にとってどんな意味をもつのか、言葉に置き換え、人に伝えることはできるのか、そんなことが無性に気になり始めた頃、同時に起こっていたことがある。

自分の生まれた年を尋ねられて「平成二年です」と答える、この儀式的なやりとりが、流行りのアイドルグループの名前を口にさせられている時のような、むず痒い恥ずかしさなしには出来なくなってしまったのだ。例によって昭和生まれの人たちは、「平成二年」という言葉を耳にした瞬間「平成かあ」「二年かあ」と反射板のように感嘆符を連発し、その間わたしの顔に「平成二年」を照合させようと一度は努力するのだけれど、取り入って続く言葉も見つけられず、笑顔を張り付けたままそこに立っている。残されるのはいつも、「平成」というプラカードを持った行列の二番目からあやまって先頭に押し出されてしまったときのような、間の悪さ。とはいえ列からはみ出ていても、列に並んだままでも、「平成」というプラカードが視界にちらつく限り、わたしはわたしの滑稽さを逃れられない。「好きで並んでいたわけじゃない!」と、昭和のタスキ掛けの中に潜り込んでしまいたくもなる。

特に何も考えず、ただヘイセイの中にいた頃、わたしは得意げに「平成二年生まれ」を口にしていた。親から買ってもらった真新しい靴を見せびらかすのと似て。そこに「ショウワの靴なんて、古くさいね!」という気持ちが混ざっていなかったと言えば、嘘になるだろう。しかしそれがコッパズカシサへと変わった時、わたしのエゴはひそかに触手をのばし始め、まるで他人を相手にするように、ぼんやりとヘイセイに馴染んでいた頃のわたしを辿り、なぞり、何もないところを想像で埋めて、目まぐるしく書き変えていた。(もともと書かれてはいなかったものを、書き変えるというのはおかしい。でも確かに、書かれてはいなくてもそれはそこに何か別のかたちであったのだ
平成への態度と相反するように、平成以前への憧れは強まっていく。それは、元号によって区切られた具体的な時代のことではなかった。昭和を生きた人たちが「あの頃はよかった」と述懐する、「あの頃」とも違っていた。どう足掻いてもたどり着けない、断絶の向こう側。色調の違う同じ絵。線はなぞれるのに、身を落とし込むことが不可能な空間。そのくせ、割り切って諦めることも許してくれない、わたしがありえたかもしれない場所。憧れの対象が昭和時代でもなく、昭和時代を生きた人々の記憶でもないとすれば、それはきっと自分自身の中にあるはずだった。

たとえばそれが「昭和」というかたちをとって、わたしを見つめ返す。「昭和」に猛烈に嫉妬しながら、同時にわたしはその昭和の場所に立ってもいて、だからこそ「平成二年」のわたしに同じくらい焦がれている。「平成二年生まれ」の〈今・ここ〉で文を書いている私に、ではない。平成に何の気もなく生れ落ちたばかりの、まだ「平成」も、「昭和」も、おとなたちだけが必要とする暗号でしかなく、江戸に生まれていようが縄文に生まれていようがお構いなしに、ひたすら熱の集まる場所へと中ることが世界のすべてだったわたしに、あこがれている。彼女はヘイセイの中で、平成以前を生きていた。それはたぶん、彼女を取り巻く人たち、まだ「平成」という言葉に馴染みきれず、昭和とバブルのさりげない延命を信じていたショウワな大人たちによって守られた、「ヘイセイ生まれの子ども」のための世界だった。

2012年7月27日金曜日

五月の<風>が吹いてきた(大塚 あすか 作文)


 4年間勤務した福岡から東京への赴任が決まり、部屋を探しに上京した日のことを覚えている。いくつか譲れない条件があり、新宿の雑居ビルにある小さな不動産会社に、わたしは7時間も居座った。若く経験の浅い営業では話がまとまらないと見かねたのか、途中からは店長が目の前に座った。もともとは大手自動車メーカーで法人営業を担当していたという店長は、さすがに話し上手で、物件を探し勧めるのもうまかった。
 夕方になり、ようやく内見にこぎ着けた部屋で、内装を確かめるわたしをよそに、店長はまずベランダに面した窓から外を眺め、落胆したように呟いた。
「ああ、これ、駄目っすね」
 彼に背中を向けてクローゼットの広さを調べていたわたしは、何がいけないんですか? と訊ねる。築年数も浅く、鉄筋コンクリートの二階角部屋、広い窓。小さいけれど脱衣所と洗面台もあり、一人で暮らすには十分な広さ。ガスコンロが一口であることを除いては、理想的な部屋であるように思えた。
「墓です」
 その言葉に振り返ると、ベランダから道路を挟み、ちょうど見下ろす位置に墓場があった。マンションの向かいにお寺があり、その敷地内に墓地があるのだ。うっそうと木々に囲まれ、いくつもの墓石や卒塔婆が見える。
「わたし、気にしません。だって、死んでいるんでしょう」
 生きている人の方がよっぽど怖いと思いませんか、と問いかけると、店長は同意しながら、しかし呆れたような表情を見せた
「確かにそのとおりですけど、そういう考え方をする人は多くないですから」

 わたしはその部屋を契約し、お寺と墓地を窓の外に眺める日々は5年目を迎えた。
 学校とお寺に囲まれた部屋は都心からの距離に見あわないほど静かで、多くの木々に囲まれている。春には学校の桜が花びらを散らし、秋には寺のイチョウがまぶしい黄金に染まる。白いカーテンをかけているので、夜明けの早い時期は目覚ましよりも早く、鳥のさえずりと窓から差し込む日の光で目を覚ます。カーテンに映り込んだ枝が影絵芝居のようにゆらゆらと揺れるのは、いくら眺めても飽きない。

 福岡勤務の最終日、わたしの涙腺は決壊した。まさか転勤くらいで泣くはずもないと思っていたのに、しゃくりあげて言葉も出なくなった。贈り物で膨れ上がったカバンを手に泣きながらタクシーに押し込まれ、最終便の飛行機で東京へ向かった。
 それまで4年間暮らしたのは、広いロフトのついた心地よい木造アパートの一室だった。剥き出しのコンクリートが目立つ新しい部屋に足を踏み入れると、空気はひんやりと冷たく「よそさま」の匂いがした。前の休みにいったん上京し、おおよその荷物は運び入れてあった。お湯も出るし電気も点く。でもここはよその家だと思った。つい数時間前まで博多にいて、でも今のわたしはこんなところにいて、明日の朝都心へ出勤するのだ。何でこんな変なことになっちゃったんだろう、およそ現実感を失った頭で考えた。
 翌朝、玄関から踏み出そうとして、足をくじいた。福岡の部屋は、玄関と外の共用廊下の間にちょっとした段差があったのだと、そのときはじめて気づいた。4年間一切意識しなかったようでいて、ほんの数センチの段差を足裏はしっかりと記憶していた。新しい部屋で、着地のタイミングを裏切られた足は、一歩目をしくじった。
 寝ぼけ眼で毎朝毎朝、わたしは懲りずに玄関でつまずき続ける。ようやく足裏が新しい間合いを覚えた頃、帰宅時に感じていた部屋の冷たさはなくなっていた。
 「よそさま」だった部屋はいつしかわたしの部屋になっていた。

 今年の春は雨が多く、せっかくの連休のほとんどを、わたしは部屋の中で過ごした。ごう、と強い風が鳴り、木々のざわめきが追いかけ、さらに雨粒が窓を叩く不規則なリズムが重なる。それらの音は、不穏だけれど、心地良く響く。そういえば、こんな感じの歌があったな。東京に大雨が降り続く日々を歌った曲。「まるで魚になった気分だよ」と、思い出して口ずさんでみる。—―「まるで、水槽の中の魚」。

「まるで水を得た金魚だな」
 東京へ転勤して1年近く経った頃、出張ついでに会いに来てくれた福岡時代の上司が言った。異動が決まったときはずいぶん心配してくれた、本当にお世話になった人だった。魚、でなく金魚、というのが、ちょっと気障なところがある彼らしい言葉選びだと思った。せっかく顔を見に来てくれたのに、ゆっくり話す時間もなく動き回るわたしは、少なくともそれを楽しんでいるように見えただろうか。
 わたしは金魚。
 水槽の中の金魚になった気持ちで窓の外の土砂降りを眺める。そのうちちょっと居眠りして、目を覚ますと雨が止んでいる。窓を大きく開けると、五月の風。ぐずぐずに身を腐らせるような、生あたたかい風。息を吸い込んで、空気の中に夏の匂いが混ざりはじめているのを知る。
 そしてわたしは、散歩に出かけることにする。

<昭和>を思い出しているとき(大塚 あすか 作文)


 だってあの人、昭和だもん。
 けっこうな頻度でこの言葉を口にしていることに気づいた。誰かが言うのを聞いて、響きが面白いので真似しているうちに体に染みついてしまったのだろう。
 地位や権力をたてに無理をきかせようとする人。人目を気にせず道路につばを吐く人。みんなが「フォーク並び」をしているのに、素知らぬ顔でレジ前に割り込んでしまう人。歩きたばこをしている人、しかも吸い殻を道路にポイ捨て。
 しょうがないよ。だって、昭和だもん。

 わたしが「昭和」を愚痴に用いるのとは対照的に、ポジティブな意味で「古き良き昭和」が語られることは少なくない。最近、昭和レトロを称して、昭和30年代へのノスタルジーを売りにしたお店や観光地を見かけることが増えた。ほぼ半世紀、それらの時代に育った人が過去を懐かしむようになるには十分な時間が過ぎたということなのだろう。
 美しい過去を懐かしむ「昭和っぽい」があり、時代遅れな様を非難したり揶揄したりする「昭和っぽい」がある。
 そもそも「昭和っぽい」って、何だろう。
 おそらく日本で生まれ育った人の多くが同じだと思うが、わたしは西暦と元号両方を、なんとなく使い分ける。例えば音楽やファッションなど、海外も絡めた文化の話をするときは間違いなく西暦を使う。一方、役所の手続きや会社の書類では、まだまだ元号が主流だ。これは、学校や企業の会計が年度単位で進んできた名残なのだろうか。「2012年度」よりも「平成24年度」の方が、しっくりくる。
 ときおり、西暦を元号に変換しなければいけない場面にでくわす。数字に弱いわたしは、頭の中ですんなり変換できず、まごつきながら指を折らざるをえない。そういうときは、元号と西暦の併用を不便だと感じる。でも、元号がなくなってしまったら、それはそれで寂しく思うことだろう。

 元号ってなんだろう。世紀のように、単位時間で区切られているわけではない。過去を総括して、共通の社会システムや文化で分類することとも異なっている。基本的には、ただの元首の在任期間。かつては飢饉や疫病に襲われたときに、縁起をかつぐかのように元号を変えることもあったらしいが、いずれにせよ元号それ自体は、意味のあるまとまりではない。
 けれど、名前がついてしまった以上、そこには意味が生まれてしまう。15年間しかなかった大正と64年にわたった昭和では、それぞれが含む出来事の量も、社会の揺れ動いた幅も異なる。それを無理矢理ひとまとめにして、総括する必要がどこにあるんだろう。それでも、名前がついているから、ついついラベルを貼りたくなってしまう。「大正っぽい」、「昭和っぽい」、ひとくくりに表現したくなってしまう。

 実のところ、わたしの思う「昭和っぽい」の中には、昭和の記憶でないものが少なからず含まれている。わたしが生まれ育った昭和50年代半ば以降は、そのまま平成に地続きだった。だから、年号が変わってもしばらくの間わたしは、昭和の人々が作ったシステムの中を、昭和の気持ちのままで歩いていた。そして今過去を振り返り、実際には平成に体験した物事までも「昭和っぽい」と感じてしまう。しかも、ある程度都会化された自宅での記憶と、昔ながらの生活が残り続けていた両親の田舎での記憶が入り交じって、ちぐはぐな昭和観となる。
 ぼっとん便所や五右衛門風呂がある昭和。蛍光灯は紐をひっぱって消すもので、夏にはその紐にはえ取り紙がぶらさがっていて、ときどき粘着シートが髪の毛にからまってしまい大騒ぎする昭和。スパゲッティがほぼ必ずケチャップ炒めにされていた昭和。かき氷やソーダを飲めば舌が毒々しい色に染まる昭和。長い長い休暇と「夏休みの友」。カセットを入れて遊ぶゲーム機も、バブル景気も、ウーパールーパーとエリマキトカゲや、渋谷系の音楽だって……。
 元号が変わったことを頭では理解しながら、実際は昭和の中を歩き続けていたわたしが平成に足を踏み入れたのは多分、14歳くらいの頃。そこに至ってようやく、わたしは呼び起こした思い出を「昭和っぽい」と思わなくなる。

 わたしが愚痴混じりに「あの人昭和だから」と言う場合、文脈はネガティブなだけども、行為自体はポジティブなものだ(と少なくとも自分では思っている)。その人の生まれ育った時代の背景を考えると、多少今とそぐわなくても仕方ない、その人が悪いわけではない。そういう意味合いを込め、ちょっと諦め気味に、笑いながらつぶやく。すると、怒りが消える。時代に責任転嫁してみるのも、ディスコミュニケーション解消のためのテクニックかもしれない。
 会社で「平成生まれの新入社員」を見かけることが増えてきた。今は年上への愚痴を「昭和っぽい」で片付けようとするわたしはやがて、年下の人間とのコミュニケーションに行き詰まったとき、こうぼやくのだろう。
 しょうがないよ。だってあの子、平成だもん。

2012年7月19日木曜日

<雨>が落ちてくる灰色の空が(原 瑠美 作文)


 二年ほど前、週に何回か溝の口に通っていた時期があった。東急田園都市線の駅を降りると職場のある複合施設まで送迎バスが出ているのだが、歩いてもせいぜい十五分ほど。気持ちのいい道なので朝夕の散歩がわりに歩いていた。道沿いにモダンなつくりの団地があった。立派な木々が茂る中庭をとりかこむように背の高い棟が配置され、ピロティ式の入り口の脇には花が咲きほこる噴水があった。ちょうど初夏のころで植物がみずみずしく育ち、はじめて見たときはこれこそ楽園だと思った。太陽がかがやく朝はこの楽園がひときわ美しいが、夕闇が深くなるころや薄暗い雨の日に目をひくのは道端の紫陽花だった。のぞきこむと葉のあいだから雨を吸った土のにおいがたちのぼる。それははなばなしい噴水花壇との対比で別世界の植物のようにも見えた。
 そのあたりの紫陽花では青いのが特によかった。灰色の雨の底に、青い花がぼうっと浮かびあがる。その姿にはきまっておごそかな気持ちにさせられた。むかしは梅雨なんてうっとうしいだけでいやだったけれど、それからは紫陽花の季節がなんとなく待ち遠しい。しかし職場も家も引っ越してしまって、もうあの道は歩けないのかとすこしさみしい気持ちでいたら、去年の六月、いまの都内の家の近所に新たなスターがあらわれた。
 それは背の低い、鉢植えの紫陽花で、まっ白な花を咲かせているので天気がいい日に見るとぎょっとするほどまぶしい。角を曲がってすぐの歩道に出してあるから、曲がる前からなんとなく身構えてしまう。それが、空が曇ってくると、たちまちなんとも可憐に見えてくるからふしぎだ。体はちいさいのに、立派な茂みをなす株に負けないくらいおおきな鞠のような花のかたまりを三つもつけているのがいじらしい。雨が降るとその花に雫がたまって、まるで淡い色の着物をまとった乙女が泣いているようにはかなげに見えた。風が吹いたりすると、「あの娘は大丈夫かな」とどういうわけか恋する男の子のような気持ちになった。そうやっていつも通りがかりにみとれていたが、七月に入るとだんだん元気がなくなっていき、ついにはどこかに片付けられてしまった。
 そういえば、日本の伝統のものはなんでもその季節にぴったり合うようにつくられている。着物も六月になると袷から単衣に替えて、襟や帯揚げに絽のものを使って夏を先取りしたりする。湿気でむしむしと過ごしにくいこともあれば雨がつづいて肌寒いときもあるのがこの季節だ。気温が低めの日には、目に涼しく肌にあたたかいものが好まれるという。手元にあった着物雑誌をめくってみると、この季節にふさわしい着物の生地として、夏結城、夏大島、木綿、麻縮、紬縮など、さらっと心地よさそうな名前が並んでいる。縁側に面した薄暗い和室で屋根に落ちる雨音を聞きながら、夏大島なんかを着たおでこの白い美人に冷たい緑茶をそそがれるのもいいな、とまたしてもなぜか男性目線で妄想してしまう。
 中原淳一の『花詩集』によると、紫陽花の花言葉は「高慢」。ちょっとネガティブなイメージがあるのだろうか、かわいいイラストつきで紹介されている花もあるのに、紫陽花は巻末にかんたんな紹介が載っているだけだ。もっとも、最近では市民がひとつの主張のもとに結束することを表して、「あじさい革命」といわれることもある。先日の反原発の抗議行動では、紫陽花の花をかかげて歩く人の姿が目立っていた。個人の力を集めて社会を動かすおおきな原動力としようとする試みに、ちいさな花がかたまって咲く紫陽花は、なにか象徴的な力を与えているようだ。
 もう枯れてしまったのだろうと思っていたら、あの白いスター紫陽花が今年もまたお目見えした。あっと驚いたのは背丈が三倍くらいに伸びていたからだ。朝顔を育てるときに使うような緑の棒にささえられて、三つの白い球体は去年のままに、茎がまっすぐ伸びている。並んでみると胸の高さくらいまであった。きれいな花が咲くまで家の中か裏庭か、どこか人目につかないところで大切に育てられていたのだろう。いちばん美しいときに凛とした姿で表通りに出て幸せを振りまく、これはまさに日本の乙女!角を曲がる前になごりおしくて振り返ると、灰色の空にそっと抱かれるようにして白い花が雨にゆれていた。
 「そもそも、花と云ふに、萬木千草において、四季(折節)に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。」世阿弥は『風姿花伝』にそう書いている。梅雨の季節もそろそろ終わるが、あとすこしだけ、静かな雨と薄暗い雲の下で青や白の紫陽花を楽しんでいたい。ただ、「あじさい革命」は本格的な夏が来ても枯れずにつづいてほしい。

2012年6月13日水曜日

第2期 第3回例会のご報告

本日、第3回例会を開催しました。
原さん、chiaraさん、近藤さん、辻井、大内さん(発表順)が作文を発表しました。6月のテーマは「<雨>が落ちてくる灰色の空が」でしたが、私的なエピソードから東日本大震災について書かれたものまで、参加者の個性そのままに、幅広い文章が集まりました。
7月のテーマは、「いつか<虹>色にそまる」です。
奮ってご執筆ください。


例会の後はchiaraさんお手製の牛肉サラダとスイカをいただきました。
いつもありがとうございます。

5月の<風>が吹いてきた(原 瑠美 作文)


5月に嵐が吹き荒れた。さわやかな新緑に真夏のような陽が射すと思えば急に不穏な雲がたちこめあたりは暗く黄色くなって、横浜では雹が降った。ビルの上からはさっきまで少年たちがサッカーの練習をしていた天然芝の緑に落ちる水滴が波濤のように見え、それがぱちぱちと窓ガラスを打つ氷塊に変わった。風に押されてアサガオのようにすぼまった傘を、必死でにぎりしめながら歩く人がいる。雹にあたって怪我をしないかとひやひやさせられる。マリノスの練習場からビルのある区画へと道をわたるところで突風が吹いたらしく、歩く人は前のめりになって踏ん張っていた。   
こちらも思わずおなかに力をこめながらその様子をながめていて、YouTubeでみた若手お笑いコンビ、チュートリアルの「南の島」コントを思い出した。島の娘「メイ」が日本人観光客の男の気をひこうと片言の日本語であれこれ話しかけるという設定だ。家族の貧しい暮らしを支えようと働くメイの話を聞くうち、男は次第に彼女に惹かれていく。うろおぼえだが、だいたいこんな感じだ。

男   でも、メイにばっかり働かせて、お父さんは何してはるんや。
メイ  オトウサンハ3年マエノ台風デトバァサレテェ
男  (なんてかわいそうなんや。それでも頑張ってるなんて、ええ子やなあ。)
メイ  去年ノ台風デカエッテキタァ

ええ!という男の驚きとともに笑いがこみ上げた。

台風に飛ばされる、という展開そのものは悲劇にちがいないが、どこかおかしみを含んでもいる。主人公の妻が空から降って来た冷蔵庫につぶされて死んでしまう、という映画があったが、そのひどいシーンになぜか笑えてしかたがなかった。笑ってはいけないと思うから余計に止まらなくなる。このときもそれと同じで、さらに風に乗ってまた帰ってくるというのだから、何回みてもたまらなくおもしろかった。

さすがにメイの父親のような事例はあまりないと思うが、風にさらわれた人がおなじ風に地上まで送りとどけられるというのはあり得ないことではないようだ。カンザス出身のアメリカ人の友達によれば、彼の町では竜巻に連れ去られた赤ちゃんが、何マイルか離れた丘の上で無傷でみつかったことがあるという。赤ちゃんのちいさな体と無抵抗な姿勢がそのときの風の具合とうまく作用したのだろう。これが大人だったらそうはいかなかったかもしれないが、考えてみれば空中に舞い上がったものは宇宙にでも飛び出さない限りかならず地上のどこかにもどってくるはずで、海に近いところでは竜巻が通り過ぎたあとで車のボンネットの上に魚がたくさん落ちていた、などということもよく聞く話だ。

風はどうやって起こるのだろうと百科事典をひもとくと、「種々の緯度と高度における大気の不均等な加熱および地球の自転の影響によって決まる」(ブリタニカ国際大百科事典)とあった。熱い空気と冷たい空気がぶつかりあい、地球の自転という運動の力と地形の起伏などが影響して、風は生まれ、強くなったり弱くなったりするものらしい。さらにほかの百科事典もみてみると、世界には旋風によって神が人間を天にいざなうと信じる部族や、笛を吹いて風を呼ぶ呪術を操る集団がいることがわかった。人間の能力ではコントロールできない自然の力に、意味と秩序をあたえようとする試みにちがいない。

風は人々に危害を加えるものであると同時に、力をあたえてくれるものでもある。雨をもたらしたり、船を進めたりする風の力を日常的に肌で感じることの少ない都市での暮らしでも、ときどき、いつまでも記憶に残るような風が吹く。なにげなく開けた窓から舞い込んだ南風、学校の屋上にのぼったとき、立ち上がったとたんに吹きつけた山嵐。季節が変わってこんもりと緑を復活させた山並みを見上げて、思わず「わはは」と笑いがもれた。風はいつでも吹いているのだが、5月の風が運ぶよろこびはとりわけおおきく感じられる。

横浜の歩く人はなんとか難関の横断歩道を越えたようだった。芝生がうっすら白く見えはじめるとだんだん雹もやみ、仕事が手につかなくてそわそわと窓辺に集まった人々が見守るなか、風がみるみる雲を吹き散らしていった。青空の破片が見え、夕方には雲の残りかすが空に浮かんでいるだけになった。

ひさしぶりに「南の島」コントがみたくなって探してみたけれどみつからなかった。動画が削除されたらしい。暴風といえばつい最近も北関東で竜巻が猛威をふるい、甚大な被害をもたらした。去年の台風では私も、乗った電車が途中で止まって数時間足止めをくらい、歩いて家に帰ろうとした同僚は橋の上であやうく飛ばされそうになったとあとから聞いた。本格的な台風や竜巻にあえばもちろん笑う余裕などなくなるのだが、それでも強い風に吹かれることを思うとなぜか体に力がみなぎり心はわきたつ。あのコントも、気長に待っていればいつか風に乗ってまた投稿されることがあるかもしれない。

<昭和>を思い出しているとき(原 瑠美 作文)


昭子の父はたしか材木問屋をしていて、商いを広げようとしたのか、氷砂糖を輸入していたころがあったという。そのころは氷砂糖なんて知っている人はあまりいなかった。昭子はその味をずっとおぼえていた。大人になると雀荘を経営したが、象牙の牌は生活のためにぜんぶ売らなければならなかった。そうやって女手ひとつで三人の子どもを育てた。いちばん上の男の子が私の父だ。

和子の母は広島で芸者をしていた。やくざの玉造にみそめられ、三人の娘を連れて大阪にやってきた。玉造は枚方に山を買い、頂上に屋敷を建て、夜な夜な酒をはった池に祇園の芸妓たちを乗せた船を浮かべてあそんだ。かと思えば食べるものにも着るものにも困る日があった。そんな浮世離れした生活を取材しにやってきた新聞記者と、和子は結婚した。夫に先立たれると寝る間もおしんで勉強して不動産業の資格を取り、ふたりの娘を育てた。上の娘が私の母だ。

〈昭和〉というと思い出すのはふたりの祖母のことばかりだ。ふたり合わせて「昭和」、なんて単純な言葉あそびに運命を感じるだけでなく、私にとって昭和は彼女たちの人生とかさなって意味を持っている。私が三つのときに亡くなった和子の一生は昭和にすっぽりおさまっているし、高校生になる直前まで家にいて面倒をみてくれた昭子も、よく昭和の時代の話を聞かせてくれた。

もっと話を聞きたかった、と思う。戦時中、昭子は道ばたで米軍の小型機にねらわれて、岩のうしろに隠れたけれど逃げ場がない。もうどうにでもなれとあきらめて、さあ撃てとばかりに岩の上にのぼって大の字に寝てみたら飛行機はしばし沈黙して去っていったと言う。もんぺの女と黒っぽい飛行機、見つめ合うふたり。小さいころから何度も聞いているうちに、私は物陰から一部始終を見ていたかのように、その様子をありありと思い浮かべることができるようになった。

ある夜、まだ若かったころ、昭子はお姫さまになる夢を見た。あんみつ姫みたいに(たぶん私にわかりやすいように当時はやっていたアニメの例を出してくれたのだろう)かわいい髪飾りをたくさんつけたお姫さまだ。おそらく着物は赤、派手な帯をしめてかごに乗って街へでかけるところだった。「おそらく」というのは、残念なことにその夢は白黒だったからだ。せっかく晴れ着を着たのにその色を想像するしかないなんて、と昭子はその話をするたびにくやしがっていた。もしもカラーで夢を見ていたら、着物のことやかご屋のことをもっと詳細に聞けたにちがいない。私もくやしかった。

和子との思い出はずっと少ないが、それゆえに小さな出来事のひとつひとつがなにか重大な事件のように、鮮烈な印象を残している。ワイン色のちゃぶ台でふたりで絵を描く、ワゴン車の助手席のチャイルドシートに乗せてもらって出かける、京阪電車の車内でふざけて首にしがみつく。どれも短い、無音の映像として思い出される。言葉をおぼえる前の記憶だろうか。あるいは小さい頃の写真を見たり話に聞いたりしたことを、自分の記憶だと思い込んでいるだけかもしれない。

和子はよく、「カモナマイハウス」をくちずさんでいたらしい。日本では江利チエミの「家へおいでよ」としてヒットした曲だ。しかしその歌詞を聞くとどうもおかしい。気の抜けた調子で「カツレツ十五銭ビフステーキハムサラダエビのフライは時の相場・・・」と延々と食べものの名前とその値段を列挙したあとで、とってつけたように「カモナマイハウス、マイハイハーウス」と二回繰り返すのだ。替え歌だったのかもしれない。なににせよもう調べようがない。和子の自作だったらすごいなあと思う。

明治生まれの曾祖母がまだまだ元気なころに祖母たちは亡くなった。昭和の女は苦労ばかりしたから、と言う人がいた。そうかもしれない。父や母は暗い昭和から抜け出そうと、前へ前へと進んだ。しかし私は無責任に、ランダムに、〈昭和〉を思い出す。

私は和子を悲しませた。入院先の病院に見舞いに行ったとき、何日か前までべったりくっついていた私が妙にもじもじしているので、「もう忘れてしもたんやなあ」とさみしそうにしていたと聞く。私は昭子も悲しませた。脚が痛いからと椅子に座ってこたつにあたるので布団が持ち上がり、つい「寒いやん」と言ってしまった。昭子は「ごめんな」と言ってうつむいていた。昭和よ、ごめん。

昭子が名前を書くところを何度も見た。郵便局についていくと、ちょうど私の目の高さにある台の上でなにかの用紙にせっせと記入している。私と同じ名字の下に続けられる、私の名前とは全くちがう二文字。「昭和」と書きそうだけどちがう。保険や新しい預金口座の申請で、書きまちがえたら大変だ。昭子の名前は機能を持っていた。その名前を書くと大人の世界がまわる。手続きが進む。しかしいまはかつての力を失って、名前はひっそりと記憶をとじこめている。

2012年5月19日土曜日

第2期 第2回例会のご報告

本日、第2回例会を開催しました。参加者は4名。

まず、三宅さん、大塚さんが作文を発表。三宅さん(平成生まれ)は先月発表できなかった4月のテーマ「<昭和>を思い出しているとき」、大塚さんは今月のテーマ「五月の<風>が吹いてきた」で作文を執筆してくださいました。6月のテーマは「<雨>が落ちてくる灰色の空が」です。

読書会パートでは、課題図書である『図鑑少年』を取り上げました。
参加者が少なかったこともあり、今回は全体の印象を語り合うだけに留まりましたが、次回以降は一文一文を精読するような形を取っていきたいと考えています。

第3回例会の開催日は6/11(月)、19時〜です。

2012年4月28日土曜日

第2期 第1回例会のご報告

本日、読み書きクラブ第2期の第1回例会を開催しました。
参加者は管先生、近藤さん、chiaraさん、大塚さん、原さん、三宅さん(初参加)、辻井。

まず、「毎月、管先生からのお題で作文を書いてくる」という新たな取り組みについて。4月のお題は「<昭和>を思い出しているとき」。原さん、chiaraさん、大塚さん、近藤さん(発表順)の作文を取り上げ、意見を交わしました。同じ<昭和>というテーマでありながら、四者四様の文章が紡がれていて、新しい取り組みに手応えを感じました。5月のテーマは「五月の<風>が吹いてきた」です。

そして、今回からの試みである読書会(?)パートですが、今回は実験的に辻井が選んだ下記のテクストを読みました。

岡崎乾二郎「でもの哲学」
http://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/demo/voice/OKK030310_philosophy/
作文パートが長引いたため時間が足りず、突っ込んだ議論はできませんでしたが、管先生が短時間で颯爽と論点を整理され、まとめあげた様子には大変驚きました…。次回以降は、ある特定の本を取り上げ、それを参加者で精読していく形を取ることにします。一ヶ月に一冊、ではなく、数ヶ月にわたって同じ本を一文一文ジックリ読んでいきます。来月からの課題図書は、管先生ご推薦の、大竹昭子『図鑑少年』です。
http://www.amazon.co.jp/図鑑少年-中公文庫-大竹-昭子/dp/412205379X


第2回例会の開催日は5/19(土)。奮ってご参加、ご執筆ください。

2012年4月19日木曜日

管理人交代(辻井潤一)

前任の大洞さんよりブログ管理人を引き継ぎました。
今後は私が読み書きクラブに関する情報を当ブログにアップしていきます。
宜しくお願い致します。

2012年3月14日水曜日

子供をハイにしたい夜の一冊(Chiara 書評)

絵本はおやすみ前の儀式にかかせない道具、というのは、我が家ばかりではあるまい。胎児に算数や英語を教える等、進化しすぎた子育て法に惑わされながらも、私は手抜きの子育てに終始した、少なくとも幼児期は。唯一頑張ったのは、物語を理解し始めた娘の為に友人や親族から譲り受けて本棚一つ分の絵本をそろえたことだ。娘はその日に読みたい本を選び、おふとんの上にばさりと置く。一度読んだだけで寝入ってしまうこともあれば、何度も何冊も読まされる夜もある。おやすみ前の儀式どころか、興奮して手がつけられなくなる本もある。

本書はその類である。

男の子が動物園に手紙を書く、「ペットがほしいので、なにかおくってください」。動物園は子供の願いをまじめに受け取り、適当に応える。

期待がほどよくふくらんだ頃、動物園から男の子に「おもいのでちゅうい」と札がついた大きな箱が届く。中には・・・ゾウがいた。男の子は「でか!」と言って送り返す。次に送られてきたのは長細い箱。今度はキリン。「なが!」と言ってまた送り返す。「こわ!」なライオンや「うるさ~い!」ラクダや「うわっ!」なヘビ、「やめて!」のサルがそれに続く。

送られてきた動物はみな箱や檻に入っており、ページをめくっただけでは動物は見えない。貼り付けられている紙を開いて檻をあけないと現れない仕組みになっている。そこにはペットとしては「ありえな~い」ものがいて、子供は大興奮する。非常識な動物園は次から次へと頓珍漢な動物を送り続け、子供が「たのんだあいてをまちがえた」と思い始める頃、動物園スタッフ全員熟考の末にようやく「カンペキ!」なペットを送ってよこす。

娘がほっとして寝ついてくれれば、その日はたっぷり外遊びをした日。いつまでもフリップフラップ、開けたり閉めたりしなくては気が済まない日は、動物の鳴きまねまでさせられる。この本にはまったく手こずらされた。

あれから十数年、収拾がついていたことのない娘の本棚を整理するたびに、見つければにやりと笑ってしまう一冊でもある。娘の成長につれて、ほとんどの絵本はいろいろなところでいろいろな子供にもらわれていった。でも、この絵本だけは娘の本棚に残っている。知り合いに子供が生まれると私が必ず贈る絵本でもある。

「カンペキ!」なペットにうなずくか、あばれるか、子育ては今夜も賭けになる。

(Rod Campbell, Dear Zoo, Puffin Books, 1982)

2012年3月7日水曜日

ディアハンター(CHIARA 作文)

なだらかな丘陵をおおう草原は、西斜面から差し込む陽光を受け、砂金を撒いたようだった。立ち枯れている草はみな腰丈ほどの高さで、視界はどこまでもさえぎられることはない。

右頬を叩く風が丘を這い上がる。風の前にあるものはなびき、倒され、動く。茎の太い草は首をかしげ、ちぎられた葉は風に乗って丘を駆け上る。すべてのものが一定方向に動いている。まるで大きな玉が転がっているように草原は頭を下げ、風は波になって丘を上る。波の中で、私だけが動かない。風は私の右半身に当たり二手に分かれ、通り過ぎたところで重なる。

風は生きている。意思を持っている。運びたいものだけを運び、邪悪なものは置き去りにする。
ギリシャ語では、風はプネウマと呼ぶ。プネウマは霊という意味でもある。古代、風は霊だと思われていたのだろうか。


アイダホ州北西部、見渡す限りにおいて町は無い。牛を追うカウボーイが寝泊まりする小さな家が丘の中腹に一軒あるだけだ。三つ山を越えればワシントン州、スネークリバーの向こうはオレゴン州だった。

私は、家に向かい体を引きずるように歩いていた。

一緒にいた父は、簡単な四輪のエンジン付き台車に仕留めた鹿を乗せて走り去った。父と言っても実の父ではない。いわゆるホストファーザーだ。ホームシックで泣きじゃくる一二歳の娘の肩を抱きとめてから、彼は私の父になった。二〇年後のそのときもまだ、彼は私の父親のままでいた。
家までの道のりは徒歩ならば遠くはないが、道を選ぶ台車にはでこぼこが多すぎた。遠回りの道をたどる台車に乗って、父は今夜の仮宿であるカウボーイのための小さな家に向かった。私は徒歩でそこを目指した。
風が吹く度に血の匂いが立ち上った。仕留めてすぐに首を切ったからだ。

その鹿は低木の茂みに隠れていた。寝ていたのかもしれない。小さめの雌鹿だった。体の血を抜きながら父は「やわらかくてうまそうだ」と言った。撃たれた時も首を切られた時も雌鹿は「ムギュ」とだけ鳴いた。この鹿はその日仕留めた二頭目であった。


朝一番で私たちは雄鹿を撃った。角が五つに枝分かれしたその鹿は王者のように崖の上に立っていた。崖下の森で鹿を探していた私たちは、見上げた空を背に鹿が立っているのを見つけて息を止めた。私を除いた全員がゆっくりとライフルを肩にあて、静かにセイフティをはずし照準を合わせた。「おれがやる」という父の言葉に皆は引き金から指を離した。父の撃った一発目はわずかにかすっただけのようだった。一瞬左足が曲がり、バランスを崩したが鹿は倒れなかった。逃げる、と思った瞬間に母の撃った二発目が止めを刺した。鹿は右前方に倒れ、切り立った崖の飛び出た岩に体を傷つけられながら森に落ちた。ドスンという鈍い音を頼りに私たちは鹿を探した。

鹿は目を見開いたまま、やわらかな森の下草の上に横たわっていた。びくりとも動かない。動いているのは喉元から胸あたりだけだった。父はポケットからナイフを取り出すと、大きく動いている喉元を切り裂いた。血の流れは草にはじかれ、土の中へとしみていく。

ナイフはそのまま腹の上へ引かれ、みじん切りにされたような未消化の草と胃粘液の混合物が草の上にひろがり、あたたかな、青臭いにおいをもわりと漂わせた。

えぐりだされた内臓は草の上に放置された。家までは遠く、内臓をはらんだ肢体は重たい上に、肉が悪くなるからだった。足や角を持ち、鹿を引きずりながら森を出る道をたどった。森を抜けたところに鹿を置き、つないでおいた馬に乗り、家に戻った。鹿はあとで父の弟がピックアップで拾いに来るのだ。


昼食の後、私と父はもう一度銃を持って草原に出た。5ポイントの鹿は剥製にして壁に飾るには大きな勲章になるが、肉は固くてまずい。うまい鹿をもう一頭仕留める必要があったのだ。

馬の用意をしていると、父は歩いて行くと言った。今度は私もライフルを持たせてもらった。風が運ぶ藁の匂いが鼻に広がり、私は食後の散歩のようにゆったりとした時間を楽しんでいた。私のライフルの銃口は空を向いてぶらぶらしていた。

横を歩いていた父がそっと片手を私の前に伸ばし、止った。5メートル程向こうの茂みでカサっと音がし、父は静かに引き金を引いた。


家に戻りシャワーを浴びている間に、雌鹿は腹を出され、皮を剥がれ軒下に吊られていた。肉が熟成するまでこのまましばらく置くのだそうだ。内臓はコの字形の家の中庭の中央に置かれていた。血の匂いを嗅ぎつけたコヨーテに肉をやられないために、代わりに置いておくのだ。

真夜中、谷間のむこうからコヨーテの遠ぼえを聞いた。やがて彼らは庭においたはらわたにありつくだろう。私は、カーテンの隙間からでもコヨーテに見られぬよう、レールの端まで布を引いた。


二週間後、東海岸に住む私に、冷凍パックされた背肉が送られてきた。肉のパックをナイフで切り裂いたときにあがってきた草の臭いに、あわてて発泡スチロールのふたをしめた。

半年後、5ポイントの角は見事な剥製となって送られてきた。台に打ちつけられたメダルには私の名と日付が刻印されていた。

2012年3月1日木曜日

関西三原則(原 瑠美 作文)

ガラス張りのエレベーターで、人々が騒ぎだす。夜の渋谷の街の向こうに、ライトアップされたスカイツリーがぼんやりと見える。最後に入っていった私がその輪の中に加わると、さっきパーティで知り合ったばかりの女の子が嬉しそうにこちらを振り返る。「関西の方ですか」と聞かれて「はい」と言うと、目を輝かせて「やっぱり」と笑う。

スカイツリーを指差されて、「ほんまや」と大阪弁が口をついて出た。もちろん隠しているわけではないが、ことさら出身地を主張したいわけでもない。しかし、日頃そんなどっちつかずなスタンスでいると、このような状況になった場合にとっさに反応できない。相手は笑顔で何かおもしろい話を期待している。私は幼い頃から引っ越しが多すぎて、そんなにどっぷり関西人であるとは言いがたい。いまは大阪の北の端に両親の家があるというだけで関西とつながっているような私が、下手におもしろおかしく関西を語ろうものなら、次に道頓堀を通るときに袋だたきにあいかねない。でも、ちょっと試しにやってみようかな。きれいなおねえさんをがっかりさせるわけにはいかないし。

関西ではどんなに物静かな人でも、一日に最低五回はツッコミを入れる。相手が何かふざけたことを言ったときに、「なんでやねん」とやるのが基本形だ。ツッコミがないと恋人が急に冷たくなったときのようにションボリしてしまい、逆に想定以上に厳しいツッコミをされるとちょっと傷ついてしまうのが関西人である。ツッコみ、ツッコまれることを要求する社会では、どんなツッコミにも反応する柔軟さ、繊細さと、相手への細やかな気配りが必要となる。外部の人がそんなツッコミの機微に通じるようになるには長い時間がかかるが、以下の三つのポイントを押さえておけば、差し当たっては大丈夫なのではないだろうか。

まずは「オッサン」という名詞の使い方。これは中年男性を意味する元々の用法の他に、十五歳以上の男女に親しみを表す言葉として用いられることも多い。私は中学、高校の頃から実際によく使っていた。特に若者や女性に言う場合は、「おやじじゃないのにおやじくさい」というニュアンスが加わるので、言われた本人は、「オッサン言うな」や、「オッサンちゃうやろ」などとさらにツッコミを返すことができて、楽しみふくらむ言葉なのである。母の父は中年に達したとき、「オッサン」と呼ばれるのがいやでこの言葉を撲滅しようと、手始めに娘が口にするのを一切禁じたらしい。でもそういうときは、人に言われる前に自分から言ってしまうのがよい。「わしももうオッサンやからなあ」なんて言うと、誰かが「え、まだまだいけますよ!」と根拠のない励ましをシャウトしてくれるか、「わしの方がオッサンやで!」と自分の持ちネタに持っていこうとしてくれるはずだ。

次に、「おいしい」という状況を表す単語について。自分の発言や行動によって笑いが取れたときや、思いがけず注目されることになった場合に使われる言葉で、「あんたそれちょっとおいしいんちゃう」なんて言われた日には、もう、うはうはだ。これは窮地に立たされた人に、なんとか希望を持たせたいときにも使える。例えば、人前で何か恥ずかしいことをしてしまって落ち込んでいる友達に、「ええやん、逆においしいやん」と言って励ます。ただ、状況を瞬時に読んで絶妙のタイミングで言わなければならないので、これは上級テクニックと言える。しかし相手が「せやな」と言ってくれ、一緒に笑い合えたときの満足感は、何ものにも代えがたい。ふんだりけったりなことがあっても、それを人に話しておもしろがってもらえれば、関西人はそれだけで満足なのである。

「おいしい」状況を作りたいという欲求が無意識下にまで定着してくると、ただおいしくなるために、「言いたいだけ」で何かを言ってしまう現象が起こってくる。そんなあざとくも愛すべき性質にツッコミを入れるのが、三つ目のポイントだ。ちょっと経験を積むと、誰かが「言いたいだけ」で発言している場合が自然とわかるようになる。一度笑いを取ることができた表現を、繰り返し使っている人はあやしい。最近、同僚の女の子が、「私は玉の輿に乗るんで」と冗談で言ったときに、上司が「石油王つかまえるの?」と聞いてまわりがどっと笑ったことがあり、それ以来、その上司は何かにつけて「石油王」という言葉を使いまくっている。これはまさに言いたいだけなので、「言いたいだけですよね」と言ってあげるのがよいのだ。

エレベーターを降りると、渋谷の雑踏にまぎれて一緒にいた友達の大半とはぐれてしまい、おねえさんにも別れの挨拶をすることができなかった。今度会ったときは期待に応えて楽しませてあげることができるだろうか。

それにしても、注目されてちょっとおいしい状況になったからって、言いたいだけでこんな作文まで書いてしまった。私ももう、オッサンやな。

2012年2月21日火曜日

母と死と嵐(原 瑠美 書評)

アメリカ南部の強烈な太陽が照りつけるミシシッピの森の中で、十五歳のエッシュは家族と暮らしている。黒人一家の生活は極度に貧しく、母はいない。年の離れた弟を生むと同時に死んでしまったのだ。二番目の兄が飼っている犬が出産し、何匹かの子犬が生まれるとともに死んでいくのを見て、エッシュは母を思わずにはいられない。海からは歴史的なハリケーンが迫ってきている。そんなとき、自分も妊娠していることに気づく。

水と熱が出会って嵐を生むように、生と死が母のイメージをめぐってせめぎあうのがこの物語の推進力だ。死は母と結びついて子どもたちの生命力を目覚めさせるものとなり、母はまた死の力を得て善悪を超えた絶対的な存在となる。そんな母というものを体現するのが、ピットブルのチャイナ。死産を経験しても動じることなく、生き残った子犬まで気まぐれに一匹殺してしまう。森の奥で行われるドッグファイトでは、出産直後というのに子犬たちの父親まで倒す。まっ白な毛皮は血で赤く染まり、口は笑っているように見える。死の女神。しかし子犬はチャイナの母乳で生かされている。

母とは何なのだろうか。エッシュはお腹の中で自己主張を始めた胎児の存在を感じながらも、自分が母になるということを受け入れられないでいる。赤ん坊の父親は、彼女のことをもう見もしない。白人なのだ。エッシュと三人の兄弟たちは、クーラーのない家と灼熱の森で毎日滝のように汗を流し、ときに血も流し、食べるものが足りないときはリスを捕まえて丸焼きにする。近所に住む白人たちとはまったく違う生活。生と死が、ここでは本当に隣り合わせだ。

ハリケーン・カトリーナが黒い雲の使者を走らせているそのとき、エッシュもまた全速力で走っている。盗みに入った家の犬から逃げるとき、赤ん坊の父親を追いかけるとき、獣のような速さで彼女は走る。そして嵐が森を直撃する。カトリーナは破壊的な母の包容力で木をなぎ倒し、犬を飲み込み、家を泥で覆って汚い水たまりを残していった。ハリケーン発生からその襲撃直後までの張りつめた十二日間を、読者はエッシュとともに駆け抜けることになる。絶望的な状況に置かれながらも生きる力を輝かせる少女の姿が、美しく、鮮烈だ。

作者のジェスミン・ワードはミシシッピ州出身、一九七七年生まれ。二作目となる本書で、二〇一一年、全米図書賞の小説部門を受賞した。

(Jesmyn Ward, Salvage the Bones, Bloomsbury, 2011)

2012年2月18日土曜日

2月18日最終回のご報告(大洞 敦史)

第15回目の例会となる本日は、読み書きクラブの最終回でした。
参加者は10名。原さん、亀﨑さん、Chiaraさん、わたしの作文と、大内さん、近藤さん、原さん、Chiaraさんの書評をとりあげました。

例会のあとはChiaraさんお手製の、目をみはるほど豪勢な日本料理を、皆さんで感嘆しつついただきました。
さらに会員の方々から管先生に贈りものが贈呈され、なんとわたしまで贈りものをいただいてしまいました。Yomikaki Clubと記名された万年筆、そして寄せ書きの石です。感極まる思いです。

わたくしからもこの場を借りて、皆様にお礼を申し上げたいと思います。
まずは管啓次郎先生、そして読み書きクラブの皆様、またこのブログを愛読してきてくださった皆様、一年半の間どうもありがとうございました。

従来の活動はこれで終わりとなり、私も三月から台湾へ行きます。が、今後も辻井さんを主力として、かたちを変えて何かをしていくことになっています。ひきつづき、共に歩んでまいりましょう。

2012年2月5日日曜日

飲食店の料理をつくっているのは誰か(宮路 雅行 作文)

気になることがある。気にする人は少ないとは思う。しかし私には気になって仕方がない。もし、気にしている人間と出会えたなら、時間をかけて「そのこと」について話してみたい。

繁華街を歩いていた。午後からの予定は特にない。昼食について真剣に考えていた。大きな街だから店には困らなそうだ。体調も悪くない。全て使うことはできないが、昼食代には十分な現金を持っている。時刻は十二時半、じっくりと時間をかけて店を選び客がひけた頃に入店する予定だ。私が食べたいものを食べるための条件はかなり良いと言える。あとは、食べたいと思っている抽象的な味や食感などのイメージをもとに的確な料理を決め、その料理を提供してくれる店を探しあてるだけだ。あるいは、店を探し歩きまわることで直感的に食べたいと思える料理との出会いを獲得するかだ。前者は食欲にたいして忠実に料理を選べる事になる。後者は発見した店によって欲求が変化させられることになる。大事なのは選んだ料理が食欲を満たせるかどうかだ。そもそも、その日の気温や最近食べたものなど様々な要因によって食欲は変化させられている。前者も後者もあまり変わらないのではないだろうか。そのようなことを考えながら、私は店を探し歩きまわった。

運よく私の食欲を満たせそうな店がみつかった。注文をすませ、料理がはこばれて来るまでの時間を持て余していた。その店は客席から調理場をみることができた。このような場合、調理過程や調理人の人柄や動作などをみることも料理を楽しむ重要な要素だと思う。料理をつくることが好きで真剣に取り組んでいる調理人もいれば、ある程度好きではあるがルーチンワークになってしまっている調理人もいるだろう。表情や声から読みとれるその日のテンション。動作や手つきからは熟練度がみえて来る。この調理人はどれくらい料理をつくりたいと思っているのか。また、その調理人がつくりたい料理はこの店でつくることができるのであろうか。調理人の欲求は店の方針や手に入る材料などに左右されているはずだ。どのくらい欲求を正確に満たしているのかが気になりだす。私に、私の食欲に対して繊細に当てはまる料理をつくれる技術があればいいのに。実際は抽象的な食べたいという欲求から具体的な料理を発想するにも一苦労だ。私は遠慮なく調理場をながめながら、欲求を満たすという事の難しさについて考えていた。

食前にトイレに行っておくことにした。食事の途中でトイレに行きたくなるのは避けたかったし、手もしっかり洗って気分よく食事にのぞみたかったからだ。いつも思うのだが便器というのは妙な形をしている。長い年月をかけて発達してきた形なのだろう、どの便器も似たような形をしている。もちろん注意してみれば違いは沢山ある。汚れにくさを考えてつくられたものや、節水を第一に設計されているものもある。これらは利用者の欲求から生まれたのだろうか。それともデザインする人間のつくりたいという欲求からだろうか。一般的な形というものを獲得してしまった便器を大きく改良するのは難しいだろう。さらに言えば、画期的な便器をデザインしたとして、それが一般的な形として認知される事はもの凄く難しいだろう。そもそも、完成度の高い便器をつくりたいと思う欲求と自分のつくった便器を世間に浸透させたいという欲求は別々の欲求と考えたほうがよいかもしれない。二つの欲求の間で葛藤するデザイナーは少なくないだろう。ぼんやりとだが、欲求とつくることの関係性のイメージが頭の中に起ちあがってくる。しっかり考えがまとまらないまま、私は席に戻った。

注文した料理がはこばれて来た。私はその料理を食べはじめた。しかし、食べる速度よりも思考の速度のが速いような状態だった。誰かの欲求によってものがつくられるのならば、この料理は私の食欲によってつくられているという事になる。直接手を動かして料理をつくっているのは調理人に間違いない。しかし、毎日同じものを作り続けている調理人の欲求より、私の食欲のほうが十数分前までは大きかったのではないだろうか。欲求の大きいほうがその料理をつくっているという考えは暴力的すぎる。そもそも欲求は大きい小さい以外にも色々な属性があると思う。この料理を最初につくった人の欲求はどのような欲求だったのだろうか。もしかすると、この料理は時間をかけて多くの人の欲求によって成熟してきたのかもしれない。

考え事をしているうちに、私は料理を食べ終えてしまった。食欲が満たされたという実感はない。消え失せてしまった感じだ。しかし、私は気になって仕方がないのだ。私が食した料理をつくった欲求について。

2012年1月23日月曜日

京都、東山、犬の街(原 瑠美 作文)

東山は美しい。三条大橋からまっすぐな道の向こうに見える、ほんの一部だけきりとられた姿さえ、ハッとするほどやわらかな丸みをおびている。「東山」というのは京の街の東側を縁どる山々の総称で、北は比叡山から南は伏見の稲荷山までが含まれる。しかし学生時代に岡崎に住んでいた私にとっては大文字山から蹴上のあたりまでの山並みがやはり懐かしく、東山というと真っ先に思い浮かべるのはこの辺りの景色だ。

学生の一人暮らしだったが犬を飼っていたので、毎日の散歩でこの界隈は歩き尽くしている。春は桜吹雪が石畳を舞い、夏はしたたるような緑が街をぬらす。秋の終わり頃は特に美しく、紅葉に色づく街並を南禅寺のあたりから美術館の近くまで歩いていると、犬は何度も観光客に呼びとめられ、よいところに住んでいると羨ましがられ、おりこうさんだと誉められていた。

犬の名前はタケという。小学生のときに盲導犬の調教師になりたいと思いつめてやっとかってもらった犬だ。ゴールデン・レトリバーの雄なのだが、子犬の頃に伝染病にかかったせいで成長が遅れてしまい、結局雌犬と同じくらいの大きさにしかならなかった。それでも町中では目を引くほど大きい。タケを連れて住める場所なんてそうそうないだろうと思っていたのだが、最初に入った不動産屋に紹介された物件に、あっさり入居が決まった。丸太町通りに面した比較的便利な場所にある、立派な日本家屋の裏に隠れてひしめくように建っている長屋の一室だった。日当りは悪い、設備は古い、隣の部屋からは音も明かりも漏れてくる。屋根はおそらく洛中洛外図の隅に描かれているような板張りに石をのせた類いのものだっただろう。雨が降ると豪快なリズムを刻んだ。それでも部屋の前がちょうど物干し場になっていて、おじさんばかりの住人たちがほとんど洗濯をしないために、タケは比較的広いスペースを自由に使うことができたのは都合がよかった。

鴨川沿いを歩くのもよい気分なのだろうが、タケとの散歩では決まって山の方に足が向いた。丸太町通りを東に進み、平安時代の陰謀に思いを馳せながら鹿ヶ谷を通り過ぎ、小さな渓流のように流れの早い琵琶湖疎水を超えて、脇から南禅寺に入る。寺の奥には明治時代に造られた水路閣があって、いまでも琵琶湖からの水はここを通って運ばれてくる。

この橋の上を、水の流れに沿って歩いていけることはあまり知られていない。心地のよい水音を聞きながら地下鉄蹴上駅の裏手まで出ると、そこは多くの犠牲者を出して完成した疎水の記念公園になっている。そこから東山に分け入っていくように進路を取ると、急な坂道を登りきったところに日向大神宮という神社がある。ここはいつ行っても誰もいない、犬と一緒でなければ逃げ出してしまいそうなほど静かな場所だ。神社は山に囲まれている。松や杉が多く、ここは針葉樹のテリトリーになっているらしい。そびえ立つ緑の絶壁を背景に、大小さまざまな古代の茅葺き屋根が配置された境内を見渡すと、思わずため息が出る。上り坂とさらに続いた階段に息をはずませて、ふたりで奥の神殿へと向かう。神殿には月のように丸い鏡が置かれている。天照大神が宿る鏡だ。しかし今はいない。ように感じる。私たちは更に奥へと舗装もされていない小道を登っていく。

山と神社の境界に小さな洞窟がある。天の岩戸、かつて女神が隠れた穴を模したものだ。一度だけ、私は勇気を出してこの穴を通り抜けたことがある。大仏の胎内くぐりと同じで開運のご利益があるそうなのだが、くの字型に折れ曲がった洞窟の中は真っ暗でこわい。それでも弱虫のままでいるのは癪なので、私は犬のリードを握りしめて突入した。暗闇の中にろうそくの光が見える。こんなところにまで神がまつられているのだ。闇に揺れるろうそくは本当にこわい。けれど私はもう引き返すこともできず、目を固く閉じて、タケにすがるようにして洞窟を抜けた。永遠に思えるほどの長い道のりだったが、やっとの思いでたどり着いた出口からはちょっと首を伸ばすと、すぐそこに入り口の立て看板が見えた。

さすがにこの日は疲れ果てて岡崎まで帰ってくると、美術館の前はやはり観光客でにぎわい、平安神宮の大鳥居は西日を浴びてまぶしく朱い。東山も赤に黄色に粧って、それを見上げながら歩いていると、犬を連れた人たちに声をかけられる。立派なわんちゃんですね、散歩はいつもこの辺ですか、毛皮にはキャベツと鶏肉がいいんですよね、それではまた。東山が紫の夕闇にしずむ頃、私たちも長屋に帰りつく。耳の後ろのやわらかく縮れた毛をなでてやって、両手で顔を挟みこむと、タケは息を詰めるほど喜んで、瞳をうるませて私を見あげる。

2012年1月21日土曜日

52歳、今日も走れば行き倒れ(Chiara作文)

「52歳です!」自己紹介はこう決める。
あとの言葉は、TPOでいろいろだけど、出だしは変わらない。


「52歳」――なんか文句ありまっか。

52歳には見えない、という自負がある。出かけるときには鏡の前で右腕を天高く揚げ、ガンダムポーズで(上石神井駅前のガンダムはそうしている)、「きょうもイケテル52歳!」と気合をいれる。肩関節も抜けそうに張り切る母に娘は目を細めて、「きょうもアブナイ52歳」とつぶやき背中を向ける。液化窒素のように冷たいわが子の言葉も、鋼鉄の50肩で跳ね返す。ときに弛んだ二の腕に突き刺さり、激痛に跳びまわることもないわけではない。

女子高生の娘の友達も「お母さん、わっかーい!」と言ってくれる。ただし、それはあまりうれしくない。若い、という言葉が年配者に向けられるときには、未熟とか頭が足りていない、のと同義語だからだ。若い人に「ワカイ!」と言うときは、無限の可能性と光り輝く前途を意味するが、年寄りに向けられるときには憐憫の情が籠められている。

見た目は若いが中身は濃い、と信じている。だから、若い、のではなく、若ヅクリと言ってほしいと思っている。若ヅクリという言葉には美人というニュアンスもなんとなくあるような気がする。

美人という修飾語も一番聞きたかった20代には縁がなかった―と寂しく思う。50代にもかかわらず見苦しいほど張り切っているのは、その時代への復讐をしているのかもしれない。

復讐。女の復讐心ほど怖いものはない。ひと頃女の井戸端会議を盛り上げたアンアンの「抱かれたい男」ランキング。リストを前に、40女の復讐心はいやが上にも燃え盛ったものだ。不遇な20代を過ごした女ほど、その刃は鋭く光った。

キムタクが一位? 美しくセクシーにして愛らしく男っぽい、これ以上何を望もうか。しかし中年女の刃は、一位と評された男を前に更に鋭く研がれ、光り輝くその剣には一点の曇りとてない。「ナルシストよね、絶対。うんともすんとも動かないわね。よって却下。」と天下の美男子を切り捨てる。かくして女は雲の上の男を一気に地に落とすことに溜飲を下げ、5段にまで行きついた己の腹回りはちらともその頭をかすめない。

魅力が衰えれば衰えただけ、内なるエネルギーは沸き上がり、毒舌は火を噴く。それが女と言うものだ、と周囲を見ながらそう思う。

アンアンも「抱かれたい男」ランキングをしなくなり、あれから10年、熟年女の喧嘩の売り先も先細ってきた。
「最近のキムタク、眼の下のタルミ気にならない?」
「撮影前は、彼のコラーゲン注射待ちだって、この間どっかで読んだわ。」
「いやだーそんなの気にしないで~。キムタクはキムタクよ。弛んでも緩んでもキ・ム・タ・ク。」
かくして、かつての敵キムタクでさえ同朋に招き入れ、熟年女はとどまることを知らずに増長する。


熟年女も、すっかり世間に厭われる存在になってはじめて、行く末を思いながら来し方を振り返る。思えばここ10数年、上り調子とは言えなくなった。

35歳を超えたときには、言語能力の衰えを感じた。それ以降、新しい言語はなかなか頭に入らなかった。イタリア語は、動詞がイタリア男のように好き勝手に活用するのを知ったその日にお暇を取らせていただくことにした。アラビア語は端からやる気なし。必要あって古代ギリシャ語に取り組んだ時には、動詞が48通りにも活用するのを知り、「しまった、イタリア語のが楽勝だった」と匙を投げた過去に臍をかんだが時はすでに遅し。50代にして向き合った韓国語は、愛するヨンサマの言葉、今度こそは石が砕けるまで齧りついてやる、と固い決心で数十冊の教科書を買いこんだが、どの本も最初の数ページで挫折した。

衰えていくのは脳ばかりではない。40歳を迎えたときには明らかな体力の衰えを感じた。坂道を駆け足で上がれば、あっという間に心臓はあぶり始めた。上を向いて、前を向いて、気持ちは向いても体は重力に引き摺り下ろされ、行く手を見る前に転ばぬ先の杖を探す。


脳にも体力にも限界を感じ、45歳になって人生を諦めた。もがいても無駄、と潔く諦める人生観が身に着いた。

50歳を越えた今、そろそろと終い支度にかかっている。脳卒中、脳梗塞、心臓発作、がん、あの世に辿り着くにはどれがいいかと悩みつつ、食生活も理想的な最期に向かってそれに倣う。やっぱり心臓発作であっという間にぽっくり、というのが誰もの願い。毎日せっせと鶏手羽と豚バラを食す。コラーゲン摂取でお肌はツヤツヤ、でも、日々脂肪は血管にへばりつく。

最高の最期が望めそうだ。


「52歳、今日も走るぞ」と勢いこめばぎっくり腰で一歩も進めない。そこらで野垂れ死ぬのはまっぴらごめん。そろそろペース配分考えようか。

2012年1月13日金曜日

1月例会の報告&来月の書評対象と開催日について(大洞 敦史)

本日の参加者は14名。原さん、宮路さん、岩井さん、大塚さんの作文と辻井さん、近藤さんの書評をとりあげました(時間不足で原さんと大塚さんの書評がとりあげられず、すみません。可能でしたら次回あらためて)。例会の後は、いつものように食べ物飲み物を囲んでの懇親会。差し入れをしてくださった皆様、ありがとうございました。

連絡事項1:来月の書評対象は「動物」に関わる本の中からお選びください。

連絡事項2:次回の開催日は変則的に2月18日(土)の午前10時から開催します。

連絡事項3:次回が読み書きクラブの最終回です。ふるってご参加ください!

2012年1月4日水曜日

謹賀新年(大洞 敦史)

読み書きクラブの皆様

明けましておめでとうございます。
皆様にはどのようなお正月を過ごされましたでしょうか。
(私は正月三日間ほとんど外に出ませんでした)
現在のかたちでの活動は3月までとなりますが、
今年もよろしくお願い申し上げます。

次回の例会は12日(木)19時から。
原稿もお待ちしております。
(只今届いているのは作文一本のみ)