2012年2月21日火曜日

母と死と嵐(原 瑠美 書評)

アメリカ南部の強烈な太陽が照りつけるミシシッピの森の中で、十五歳のエッシュは家族と暮らしている。黒人一家の生活は極度に貧しく、母はいない。年の離れた弟を生むと同時に死んでしまったのだ。二番目の兄が飼っている犬が出産し、何匹かの子犬が生まれるとともに死んでいくのを見て、エッシュは母を思わずにはいられない。海からは歴史的なハリケーンが迫ってきている。そんなとき、自分も妊娠していることに気づく。

水と熱が出会って嵐を生むように、生と死が母のイメージをめぐってせめぎあうのがこの物語の推進力だ。死は母と結びついて子どもたちの生命力を目覚めさせるものとなり、母はまた死の力を得て善悪を超えた絶対的な存在となる。そんな母というものを体現するのが、ピットブルのチャイナ。死産を経験しても動じることなく、生き残った子犬まで気まぐれに一匹殺してしまう。森の奥で行われるドッグファイトでは、出産直後というのに子犬たちの父親まで倒す。まっ白な毛皮は血で赤く染まり、口は笑っているように見える。死の女神。しかし子犬はチャイナの母乳で生かされている。

母とは何なのだろうか。エッシュはお腹の中で自己主張を始めた胎児の存在を感じながらも、自分が母になるということを受け入れられないでいる。赤ん坊の父親は、彼女のことをもう見もしない。白人なのだ。エッシュと三人の兄弟たちは、クーラーのない家と灼熱の森で毎日滝のように汗を流し、ときに血も流し、食べるものが足りないときはリスを捕まえて丸焼きにする。近所に住む白人たちとはまったく違う生活。生と死が、ここでは本当に隣り合わせだ。

ハリケーン・カトリーナが黒い雲の使者を走らせているそのとき、エッシュもまた全速力で走っている。盗みに入った家の犬から逃げるとき、赤ん坊の父親を追いかけるとき、獣のような速さで彼女は走る。そして嵐が森を直撃する。カトリーナは破壊的な母の包容力で木をなぎ倒し、犬を飲み込み、家を泥で覆って汚い水たまりを残していった。ハリケーン発生からその襲撃直後までの張りつめた十二日間を、読者はエッシュとともに駆け抜けることになる。絶望的な状況に置かれながらも生きる力を輝かせる少女の姿が、美しく、鮮烈だ。

作者のジェスミン・ワードはミシシッピ州出身、一九七七年生まれ。二作目となる本書で、二〇一一年、全米図書賞の小説部門を受賞した。

(Jesmyn Ward, Salvage the Bones, Bloomsbury, 2011)

2012年2月18日土曜日

2月18日最終回のご報告(大洞 敦史)

第15回目の例会となる本日は、読み書きクラブの最終回でした。
参加者は10名。原さん、亀﨑さん、Chiaraさん、わたしの作文と、大内さん、近藤さん、原さん、Chiaraさんの書評をとりあげました。

例会のあとはChiaraさんお手製の、目をみはるほど豪勢な日本料理を、皆さんで感嘆しつついただきました。
さらに会員の方々から管先生に贈りものが贈呈され、なんとわたしまで贈りものをいただいてしまいました。Yomikaki Clubと記名された万年筆、そして寄せ書きの石です。感極まる思いです。

わたくしからもこの場を借りて、皆様にお礼を申し上げたいと思います。
まずは管啓次郎先生、そして読み書きクラブの皆様、またこのブログを愛読してきてくださった皆様、一年半の間どうもありがとうございました。

従来の活動はこれで終わりとなり、私も三月から台湾へ行きます。が、今後も辻井さんを主力として、かたちを変えて何かをしていくことになっています。ひきつづき、共に歩んでまいりましょう。

2012年2月5日日曜日

飲食店の料理をつくっているのは誰か(宮路 雅行 作文)

気になることがある。気にする人は少ないとは思う。しかし私には気になって仕方がない。もし、気にしている人間と出会えたなら、時間をかけて「そのこと」について話してみたい。

繁華街を歩いていた。午後からの予定は特にない。昼食について真剣に考えていた。大きな街だから店には困らなそうだ。体調も悪くない。全て使うことはできないが、昼食代には十分な現金を持っている。時刻は十二時半、じっくりと時間をかけて店を選び客がひけた頃に入店する予定だ。私が食べたいものを食べるための条件はかなり良いと言える。あとは、食べたいと思っている抽象的な味や食感などのイメージをもとに的確な料理を決め、その料理を提供してくれる店を探しあてるだけだ。あるいは、店を探し歩きまわることで直感的に食べたいと思える料理との出会いを獲得するかだ。前者は食欲にたいして忠実に料理を選べる事になる。後者は発見した店によって欲求が変化させられることになる。大事なのは選んだ料理が食欲を満たせるかどうかだ。そもそも、その日の気温や最近食べたものなど様々な要因によって食欲は変化させられている。前者も後者もあまり変わらないのではないだろうか。そのようなことを考えながら、私は店を探し歩きまわった。

運よく私の食欲を満たせそうな店がみつかった。注文をすませ、料理がはこばれて来るまでの時間を持て余していた。その店は客席から調理場をみることができた。このような場合、調理過程や調理人の人柄や動作などをみることも料理を楽しむ重要な要素だと思う。料理をつくることが好きで真剣に取り組んでいる調理人もいれば、ある程度好きではあるがルーチンワークになってしまっている調理人もいるだろう。表情や声から読みとれるその日のテンション。動作や手つきからは熟練度がみえて来る。この調理人はどれくらい料理をつくりたいと思っているのか。また、その調理人がつくりたい料理はこの店でつくることができるのであろうか。調理人の欲求は店の方針や手に入る材料などに左右されているはずだ。どのくらい欲求を正確に満たしているのかが気になりだす。私に、私の食欲に対して繊細に当てはまる料理をつくれる技術があればいいのに。実際は抽象的な食べたいという欲求から具体的な料理を発想するにも一苦労だ。私は遠慮なく調理場をながめながら、欲求を満たすという事の難しさについて考えていた。

食前にトイレに行っておくことにした。食事の途中でトイレに行きたくなるのは避けたかったし、手もしっかり洗って気分よく食事にのぞみたかったからだ。いつも思うのだが便器というのは妙な形をしている。長い年月をかけて発達してきた形なのだろう、どの便器も似たような形をしている。もちろん注意してみれば違いは沢山ある。汚れにくさを考えてつくられたものや、節水を第一に設計されているものもある。これらは利用者の欲求から生まれたのだろうか。それともデザインする人間のつくりたいという欲求からだろうか。一般的な形というものを獲得してしまった便器を大きく改良するのは難しいだろう。さらに言えば、画期的な便器をデザインしたとして、それが一般的な形として認知される事はもの凄く難しいだろう。そもそも、完成度の高い便器をつくりたいと思う欲求と自分のつくった便器を世間に浸透させたいという欲求は別々の欲求と考えたほうがよいかもしれない。二つの欲求の間で葛藤するデザイナーは少なくないだろう。ぼんやりとだが、欲求とつくることの関係性のイメージが頭の中に起ちあがってくる。しっかり考えがまとまらないまま、私は席に戻った。

注文した料理がはこばれて来た。私はその料理を食べはじめた。しかし、食べる速度よりも思考の速度のが速いような状態だった。誰かの欲求によってものがつくられるのならば、この料理は私の食欲によってつくられているという事になる。直接手を動かして料理をつくっているのは調理人に間違いない。しかし、毎日同じものを作り続けている調理人の欲求より、私の食欲のほうが十数分前までは大きかったのではないだろうか。欲求の大きいほうがその料理をつくっているという考えは暴力的すぎる。そもそも欲求は大きい小さい以外にも色々な属性があると思う。この料理を最初につくった人の欲求はどのような欲求だったのだろうか。もしかすると、この料理は時間をかけて多くの人の欲求によって成熟してきたのかもしれない。

考え事をしているうちに、私は料理を食べ終えてしまった。食欲が満たされたという実感はない。消え失せてしまった感じだ。しかし、私は気になって仕方がないのだ。私が食した料理をつくった欲求について。