2012年3月14日水曜日

子供をハイにしたい夜の一冊(Chiara 書評)

絵本はおやすみ前の儀式にかかせない道具、というのは、我が家ばかりではあるまい。胎児に算数や英語を教える等、進化しすぎた子育て法に惑わされながらも、私は手抜きの子育てに終始した、少なくとも幼児期は。唯一頑張ったのは、物語を理解し始めた娘の為に友人や親族から譲り受けて本棚一つ分の絵本をそろえたことだ。娘はその日に読みたい本を選び、おふとんの上にばさりと置く。一度読んだだけで寝入ってしまうこともあれば、何度も何冊も読まされる夜もある。おやすみ前の儀式どころか、興奮して手がつけられなくなる本もある。

本書はその類である。

男の子が動物園に手紙を書く、「ペットがほしいので、なにかおくってください」。動物園は子供の願いをまじめに受け取り、適当に応える。

期待がほどよくふくらんだ頃、動物園から男の子に「おもいのでちゅうい」と札がついた大きな箱が届く。中には・・・ゾウがいた。男の子は「でか!」と言って送り返す。次に送られてきたのは長細い箱。今度はキリン。「なが!」と言ってまた送り返す。「こわ!」なライオンや「うるさ~い!」ラクダや「うわっ!」なヘビ、「やめて!」のサルがそれに続く。

送られてきた動物はみな箱や檻に入っており、ページをめくっただけでは動物は見えない。貼り付けられている紙を開いて檻をあけないと現れない仕組みになっている。そこにはペットとしては「ありえな~い」ものがいて、子供は大興奮する。非常識な動物園は次から次へと頓珍漢な動物を送り続け、子供が「たのんだあいてをまちがえた」と思い始める頃、動物園スタッフ全員熟考の末にようやく「カンペキ!」なペットを送ってよこす。

娘がほっとして寝ついてくれれば、その日はたっぷり外遊びをした日。いつまでもフリップフラップ、開けたり閉めたりしなくては気が済まない日は、動物の鳴きまねまでさせられる。この本にはまったく手こずらされた。

あれから十数年、収拾がついていたことのない娘の本棚を整理するたびに、見つければにやりと笑ってしまう一冊でもある。娘の成長につれて、ほとんどの絵本はいろいろなところでいろいろな子供にもらわれていった。でも、この絵本だけは娘の本棚に残っている。知り合いに子供が生まれると私が必ず贈る絵本でもある。

「カンペキ!」なペットにうなずくか、あばれるか、子育ては今夜も賭けになる。

(Rod Campbell, Dear Zoo, Puffin Books, 1982)

2012年3月7日水曜日

ディアハンター(CHIARA 作文)

なだらかな丘陵をおおう草原は、西斜面から差し込む陽光を受け、砂金を撒いたようだった。立ち枯れている草はみな腰丈ほどの高さで、視界はどこまでもさえぎられることはない。

右頬を叩く風が丘を這い上がる。風の前にあるものはなびき、倒され、動く。茎の太い草は首をかしげ、ちぎられた葉は風に乗って丘を駆け上る。すべてのものが一定方向に動いている。まるで大きな玉が転がっているように草原は頭を下げ、風は波になって丘を上る。波の中で、私だけが動かない。風は私の右半身に当たり二手に分かれ、通り過ぎたところで重なる。

風は生きている。意思を持っている。運びたいものだけを運び、邪悪なものは置き去りにする。
ギリシャ語では、風はプネウマと呼ぶ。プネウマは霊という意味でもある。古代、風は霊だと思われていたのだろうか。


アイダホ州北西部、見渡す限りにおいて町は無い。牛を追うカウボーイが寝泊まりする小さな家が丘の中腹に一軒あるだけだ。三つ山を越えればワシントン州、スネークリバーの向こうはオレゴン州だった。

私は、家に向かい体を引きずるように歩いていた。

一緒にいた父は、簡単な四輪のエンジン付き台車に仕留めた鹿を乗せて走り去った。父と言っても実の父ではない。いわゆるホストファーザーだ。ホームシックで泣きじゃくる一二歳の娘の肩を抱きとめてから、彼は私の父になった。二〇年後のそのときもまだ、彼は私の父親のままでいた。
家までの道のりは徒歩ならば遠くはないが、道を選ぶ台車にはでこぼこが多すぎた。遠回りの道をたどる台車に乗って、父は今夜の仮宿であるカウボーイのための小さな家に向かった。私は徒歩でそこを目指した。
風が吹く度に血の匂いが立ち上った。仕留めてすぐに首を切ったからだ。

その鹿は低木の茂みに隠れていた。寝ていたのかもしれない。小さめの雌鹿だった。体の血を抜きながら父は「やわらかくてうまそうだ」と言った。撃たれた時も首を切られた時も雌鹿は「ムギュ」とだけ鳴いた。この鹿はその日仕留めた二頭目であった。


朝一番で私たちは雄鹿を撃った。角が五つに枝分かれしたその鹿は王者のように崖の上に立っていた。崖下の森で鹿を探していた私たちは、見上げた空を背に鹿が立っているのを見つけて息を止めた。私を除いた全員がゆっくりとライフルを肩にあて、静かにセイフティをはずし照準を合わせた。「おれがやる」という父の言葉に皆は引き金から指を離した。父の撃った一発目はわずかにかすっただけのようだった。一瞬左足が曲がり、バランスを崩したが鹿は倒れなかった。逃げる、と思った瞬間に母の撃った二発目が止めを刺した。鹿は右前方に倒れ、切り立った崖の飛び出た岩に体を傷つけられながら森に落ちた。ドスンという鈍い音を頼りに私たちは鹿を探した。

鹿は目を見開いたまま、やわらかな森の下草の上に横たわっていた。びくりとも動かない。動いているのは喉元から胸あたりだけだった。父はポケットからナイフを取り出すと、大きく動いている喉元を切り裂いた。血の流れは草にはじかれ、土の中へとしみていく。

ナイフはそのまま腹の上へ引かれ、みじん切りにされたような未消化の草と胃粘液の混合物が草の上にひろがり、あたたかな、青臭いにおいをもわりと漂わせた。

えぐりだされた内臓は草の上に放置された。家までは遠く、内臓をはらんだ肢体は重たい上に、肉が悪くなるからだった。足や角を持ち、鹿を引きずりながら森を出る道をたどった。森を抜けたところに鹿を置き、つないでおいた馬に乗り、家に戻った。鹿はあとで父の弟がピックアップで拾いに来るのだ。


昼食の後、私と父はもう一度銃を持って草原に出た。5ポイントの鹿は剥製にして壁に飾るには大きな勲章になるが、肉は固くてまずい。うまい鹿をもう一頭仕留める必要があったのだ。

馬の用意をしていると、父は歩いて行くと言った。今度は私もライフルを持たせてもらった。風が運ぶ藁の匂いが鼻に広がり、私は食後の散歩のようにゆったりとした時間を楽しんでいた。私のライフルの銃口は空を向いてぶらぶらしていた。

横を歩いていた父がそっと片手を私の前に伸ばし、止った。5メートル程向こうの茂みでカサっと音がし、父は静かに引き金を引いた。


家に戻りシャワーを浴びている間に、雌鹿は腹を出され、皮を剥がれ軒下に吊られていた。肉が熟成するまでこのまましばらく置くのだそうだ。内臓はコの字形の家の中庭の中央に置かれていた。血の匂いを嗅ぎつけたコヨーテに肉をやられないために、代わりに置いておくのだ。

真夜中、谷間のむこうからコヨーテの遠ぼえを聞いた。やがて彼らは庭においたはらわたにありつくだろう。私は、カーテンの隙間からでもコヨーテに見られぬよう、レールの端まで布を引いた。


二週間後、東海岸に住む私に、冷凍パックされた背肉が送られてきた。肉のパックをナイフで切り裂いたときにあがってきた草の臭いに、あわてて発泡スチロールのふたをしめた。

半年後、5ポイントの角は見事な剥製となって送られてきた。台に打ちつけられたメダルには私の名と日付が刻印されていた。

2012年3月1日木曜日

関西三原則(原 瑠美 作文)

ガラス張りのエレベーターで、人々が騒ぎだす。夜の渋谷の街の向こうに、ライトアップされたスカイツリーがぼんやりと見える。最後に入っていった私がその輪の中に加わると、さっきパーティで知り合ったばかりの女の子が嬉しそうにこちらを振り返る。「関西の方ですか」と聞かれて「はい」と言うと、目を輝かせて「やっぱり」と笑う。

スカイツリーを指差されて、「ほんまや」と大阪弁が口をついて出た。もちろん隠しているわけではないが、ことさら出身地を主張したいわけでもない。しかし、日頃そんなどっちつかずなスタンスでいると、このような状況になった場合にとっさに反応できない。相手は笑顔で何かおもしろい話を期待している。私は幼い頃から引っ越しが多すぎて、そんなにどっぷり関西人であるとは言いがたい。いまは大阪の北の端に両親の家があるというだけで関西とつながっているような私が、下手におもしろおかしく関西を語ろうものなら、次に道頓堀を通るときに袋だたきにあいかねない。でも、ちょっと試しにやってみようかな。きれいなおねえさんをがっかりさせるわけにはいかないし。

関西ではどんなに物静かな人でも、一日に最低五回はツッコミを入れる。相手が何かふざけたことを言ったときに、「なんでやねん」とやるのが基本形だ。ツッコミがないと恋人が急に冷たくなったときのようにションボリしてしまい、逆に想定以上に厳しいツッコミをされるとちょっと傷ついてしまうのが関西人である。ツッコみ、ツッコまれることを要求する社会では、どんなツッコミにも反応する柔軟さ、繊細さと、相手への細やかな気配りが必要となる。外部の人がそんなツッコミの機微に通じるようになるには長い時間がかかるが、以下の三つのポイントを押さえておけば、差し当たっては大丈夫なのではないだろうか。

まずは「オッサン」という名詞の使い方。これは中年男性を意味する元々の用法の他に、十五歳以上の男女に親しみを表す言葉として用いられることも多い。私は中学、高校の頃から実際によく使っていた。特に若者や女性に言う場合は、「おやじじゃないのにおやじくさい」というニュアンスが加わるので、言われた本人は、「オッサン言うな」や、「オッサンちゃうやろ」などとさらにツッコミを返すことができて、楽しみふくらむ言葉なのである。母の父は中年に達したとき、「オッサン」と呼ばれるのがいやでこの言葉を撲滅しようと、手始めに娘が口にするのを一切禁じたらしい。でもそういうときは、人に言われる前に自分から言ってしまうのがよい。「わしももうオッサンやからなあ」なんて言うと、誰かが「え、まだまだいけますよ!」と根拠のない励ましをシャウトしてくれるか、「わしの方がオッサンやで!」と自分の持ちネタに持っていこうとしてくれるはずだ。

次に、「おいしい」という状況を表す単語について。自分の発言や行動によって笑いが取れたときや、思いがけず注目されることになった場合に使われる言葉で、「あんたそれちょっとおいしいんちゃう」なんて言われた日には、もう、うはうはだ。これは窮地に立たされた人に、なんとか希望を持たせたいときにも使える。例えば、人前で何か恥ずかしいことをしてしまって落ち込んでいる友達に、「ええやん、逆においしいやん」と言って励ます。ただ、状況を瞬時に読んで絶妙のタイミングで言わなければならないので、これは上級テクニックと言える。しかし相手が「せやな」と言ってくれ、一緒に笑い合えたときの満足感は、何ものにも代えがたい。ふんだりけったりなことがあっても、それを人に話しておもしろがってもらえれば、関西人はそれだけで満足なのである。

「おいしい」状況を作りたいという欲求が無意識下にまで定着してくると、ただおいしくなるために、「言いたいだけ」で何かを言ってしまう現象が起こってくる。そんなあざとくも愛すべき性質にツッコミを入れるのが、三つ目のポイントだ。ちょっと経験を積むと、誰かが「言いたいだけ」で発言している場合が自然とわかるようになる。一度笑いを取ることができた表現を、繰り返し使っている人はあやしい。最近、同僚の女の子が、「私は玉の輿に乗るんで」と冗談で言ったときに、上司が「石油王つかまえるの?」と聞いてまわりがどっと笑ったことがあり、それ以来、その上司は何かにつけて「石油王」という言葉を使いまくっている。これはまさに言いたいだけなので、「言いたいだけですよね」と言ってあげるのがよいのだ。

エレベーターを降りると、渋谷の雑踏にまぎれて一緒にいた友達の大半とはぐれてしまい、おねえさんにも別れの挨拶をすることができなかった。今度会ったときは期待に応えて楽しませてあげることができるだろうか。

それにしても、注目されてちょっとおいしい状況になったからって、言いたいだけでこんな作文まで書いてしまった。私ももう、オッサンやな。