2012年6月13日水曜日

第2期 第3回例会のご報告

本日、第3回例会を開催しました。
原さん、chiaraさん、近藤さん、辻井、大内さん(発表順)が作文を発表しました。6月のテーマは「<雨>が落ちてくる灰色の空が」でしたが、私的なエピソードから東日本大震災について書かれたものまで、参加者の個性そのままに、幅広い文章が集まりました。
7月のテーマは、「いつか<虹>色にそまる」です。
奮ってご執筆ください。


例会の後はchiaraさんお手製の牛肉サラダとスイカをいただきました。
いつもありがとうございます。

5月の<風>が吹いてきた(原 瑠美 作文)


5月に嵐が吹き荒れた。さわやかな新緑に真夏のような陽が射すと思えば急に不穏な雲がたちこめあたりは暗く黄色くなって、横浜では雹が降った。ビルの上からはさっきまで少年たちがサッカーの練習をしていた天然芝の緑に落ちる水滴が波濤のように見え、それがぱちぱちと窓ガラスを打つ氷塊に変わった。風に押されてアサガオのようにすぼまった傘を、必死でにぎりしめながら歩く人がいる。雹にあたって怪我をしないかとひやひやさせられる。マリノスの練習場からビルのある区画へと道をわたるところで突風が吹いたらしく、歩く人は前のめりになって踏ん張っていた。   
こちらも思わずおなかに力をこめながらその様子をながめていて、YouTubeでみた若手お笑いコンビ、チュートリアルの「南の島」コントを思い出した。島の娘「メイ」が日本人観光客の男の気をひこうと片言の日本語であれこれ話しかけるという設定だ。家族の貧しい暮らしを支えようと働くメイの話を聞くうち、男は次第に彼女に惹かれていく。うろおぼえだが、だいたいこんな感じだ。

男   でも、メイにばっかり働かせて、お父さんは何してはるんや。
メイ  オトウサンハ3年マエノ台風デトバァサレテェ
男  (なんてかわいそうなんや。それでも頑張ってるなんて、ええ子やなあ。)
メイ  去年ノ台風デカエッテキタァ

ええ!という男の驚きとともに笑いがこみ上げた。

台風に飛ばされる、という展開そのものは悲劇にちがいないが、どこかおかしみを含んでもいる。主人公の妻が空から降って来た冷蔵庫につぶされて死んでしまう、という映画があったが、そのひどいシーンになぜか笑えてしかたがなかった。笑ってはいけないと思うから余計に止まらなくなる。このときもそれと同じで、さらに風に乗ってまた帰ってくるというのだから、何回みてもたまらなくおもしろかった。

さすがにメイの父親のような事例はあまりないと思うが、風にさらわれた人がおなじ風に地上まで送りとどけられるというのはあり得ないことではないようだ。カンザス出身のアメリカ人の友達によれば、彼の町では竜巻に連れ去られた赤ちゃんが、何マイルか離れた丘の上で無傷でみつかったことがあるという。赤ちゃんのちいさな体と無抵抗な姿勢がそのときの風の具合とうまく作用したのだろう。これが大人だったらそうはいかなかったかもしれないが、考えてみれば空中に舞い上がったものは宇宙にでも飛び出さない限りかならず地上のどこかにもどってくるはずで、海に近いところでは竜巻が通り過ぎたあとで車のボンネットの上に魚がたくさん落ちていた、などということもよく聞く話だ。

風はどうやって起こるのだろうと百科事典をひもとくと、「種々の緯度と高度における大気の不均等な加熱および地球の自転の影響によって決まる」(ブリタニカ国際大百科事典)とあった。熱い空気と冷たい空気がぶつかりあい、地球の自転という運動の力と地形の起伏などが影響して、風は生まれ、強くなったり弱くなったりするものらしい。さらにほかの百科事典もみてみると、世界には旋風によって神が人間を天にいざなうと信じる部族や、笛を吹いて風を呼ぶ呪術を操る集団がいることがわかった。人間の能力ではコントロールできない自然の力に、意味と秩序をあたえようとする試みにちがいない。

風は人々に危害を加えるものであると同時に、力をあたえてくれるものでもある。雨をもたらしたり、船を進めたりする風の力を日常的に肌で感じることの少ない都市での暮らしでも、ときどき、いつまでも記憶に残るような風が吹く。なにげなく開けた窓から舞い込んだ南風、学校の屋上にのぼったとき、立ち上がったとたんに吹きつけた山嵐。季節が変わってこんもりと緑を復活させた山並みを見上げて、思わず「わはは」と笑いがもれた。風はいつでも吹いているのだが、5月の風が運ぶよろこびはとりわけおおきく感じられる。

横浜の歩く人はなんとか難関の横断歩道を越えたようだった。芝生がうっすら白く見えはじめるとだんだん雹もやみ、仕事が手につかなくてそわそわと窓辺に集まった人々が見守るなか、風がみるみる雲を吹き散らしていった。青空の破片が見え、夕方には雲の残りかすが空に浮かんでいるだけになった。

ひさしぶりに「南の島」コントがみたくなって探してみたけれどみつからなかった。動画が削除されたらしい。暴風といえばつい最近も北関東で竜巻が猛威をふるい、甚大な被害をもたらした。去年の台風では私も、乗った電車が途中で止まって数時間足止めをくらい、歩いて家に帰ろうとした同僚は橋の上であやうく飛ばされそうになったとあとから聞いた。本格的な台風や竜巻にあえばもちろん笑う余裕などなくなるのだが、それでも強い風に吹かれることを思うとなぜか体に力がみなぎり心はわきたつ。あのコントも、気長に待っていればいつか風に乗ってまた投稿されることがあるかもしれない。

<昭和>を思い出しているとき(原 瑠美 作文)


昭子の父はたしか材木問屋をしていて、商いを広げようとしたのか、氷砂糖を輸入していたころがあったという。そのころは氷砂糖なんて知っている人はあまりいなかった。昭子はその味をずっとおぼえていた。大人になると雀荘を経営したが、象牙の牌は生活のためにぜんぶ売らなければならなかった。そうやって女手ひとつで三人の子どもを育てた。いちばん上の男の子が私の父だ。

和子の母は広島で芸者をしていた。やくざの玉造にみそめられ、三人の娘を連れて大阪にやってきた。玉造は枚方に山を買い、頂上に屋敷を建て、夜な夜な酒をはった池に祇園の芸妓たちを乗せた船を浮かべてあそんだ。かと思えば食べるものにも着るものにも困る日があった。そんな浮世離れした生活を取材しにやってきた新聞記者と、和子は結婚した。夫に先立たれると寝る間もおしんで勉強して不動産業の資格を取り、ふたりの娘を育てた。上の娘が私の母だ。

〈昭和〉というと思い出すのはふたりの祖母のことばかりだ。ふたり合わせて「昭和」、なんて単純な言葉あそびに運命を感じるだけでなく、私にとって昭和は彼女たちの人生とかさなって意味を持っている。私が三つのときに亡くなった和子の一生は昭和にすっぽりおさまっているし、高校生になる直前まで家にいて面倒をみてくれた昭子も、よく昭和の時代の話を聞かせてくれた。

もっと話を聞きたかった、と思う。戦時中、昭子は道ばたで米軍の小型機にねらわれて、岩のうしろに隠れたけれど逃げ場がない。もうどうにでもなれとあきらめて、さあ撃てとばかりに岩の上にのぼって大の字に寝てみたら飛行機はしばし沈黙して去っていったと言う。もんぺの女と黒っぽい飛行機、見つめ合うふたり。小さいころから何度も聞いているうちに、私は物陰から一部始終を見ていたかのように、その様子をありありと思い浮かべることができるようになった。

ある夜、まだ若かったころ、昭子はお姫さまになる夢を見た。あんみつ姫みたいに(たぶん私にわかりやすいように当時はやっていたアニメの例を出してくれたのだろう)かわいい髪飾りをたくさんつけたお姫さまだ。おそらく着物は赤、派手な帯をしめてかごに乗って街へでかけるところだった。「おそらく」というのは、残念なことにその夢は白黒だったからだ。せっかく晴れ着を着たのにその色を想像するしかないなんて、と昭子はその話をするたびにくやしがっていた。もしもカラーで夢を見ていたら、着物のことやかご屋のことをもっと詳細に聞けたにちがいない。私もくやしかった。

和子との思い出はずっと少ないが、それゆえに小さな出来事のひとつひとつがなにか重大な事件のように、鮮烈な印象を残している。ワイン色のちゃぶ台でふたりで絵を描く、ワゴン車の助手席のチャイルドシートに乗せてもらって出かける、京阪電車の車内でふざけて首にしがみつく。どれも短い、無音の映像として思い出される。言葉をおぼえる前の記憶だろうか。あるいは小さい頃の写真を見たり話に聞いたりしたことを、自分の記憶だと思い込んでいるだけかもしれない。

和子はよく、「カモナマイハウス」をくちずさんでいたらしい。日本では江利チエミの「家へおいでよ」としてヒットした曲だ。しかしその歌詞を聞くとどうもおかしい。気の抜けた調子で「カツレツ十五銭ビフステーキハムサラダエビのフライは時の相場・・・」と延々と食べものの名前とその値段を列挙したあとで、とってつけたように「カモナマイハウス、マイハイハーウス」と二回繰り返すのだ。替え歌だったのかもしれない。なににせよもう調べようがない。和子の自作だったらすごいなあと思う。

明治生まれの曾祖母がまだまだ元気なころに祖母たちは亡くなった。昭和の女は苦労ばかりしたから、と言う人がいた。そうかもしれない。父や母は暗い昭和から抜け出そうと、前へ前へと進んだ。しかし私は無責任に、ランダムに、〈昭和〉を思い出す。

私は和子を悲しませた。入院先の病院に見舞いに行ったとき、何日か前までべったりくっついていた私が妙にもじもじしているので、「もう忘れてしもたんやなあ」とさみしそうにしていたと聞く。私は昭子も悲しませた。脚が痛いからと椅子に座ってこたつにあたるので布団が持ち上がり、つい「寒いやん」と言ってしまった。昭子は「ごめんな」と言ってうつむいていた。昭和よ、ごめん。

昭子が名前を書くところを何度も見た。郵便局についていくと、ちょうど私の目の高さにある台の上でなにかの用紙にせっせと記入している。私と同じ名字の下に続けられる、私の名前とは全くちがう二文字。「昭和」と書きそうだけどちがう。保険や新しい預金口座の申請で、書きまちがえたら大変だ。昭子の名前は機能を持っていた。その名前を書くと大人の世界がまわる。手続きが進む。しかしいまはかつての力を失って、名前はひっそりと記憶をとじこめている。