2012年7月27日金曜日

五月の<風>が吹いてきた(大塚 あすか 作文)


 4年間勤務した福岡から東京への赴任が決まり、部屋を探しに上京した日のことを覚えている。いくつか譲れない条件があり、新宿の雑居ビルにある小さな不動産会社に、わたしは7時間も居座った。若く経験の浅い営業では話がまとまらないと見かねたのか、途中からは店長が目の前に座った。もともとは大手自動車メーカーで法人営業を担当していたという店長は、さすがに話し上手で、物件を探し勧めるのもうまかった。
 夕方になり、ようやく内見にこぎ着けた部屋で、内装を確かめるわたしをよそに、店長はまずベランダに面した窓から外を眺め、落胆したように呟いた。
「ああ、これ、駄目っすね」
 彼に背中を向けてクローゼットの広さを調べていたわたしは、何がいけないんですか? と訊ねる。築年数も浅く、鉄筋コンクリートの二階角部屋、広い窓。小さいけれど脱衣所と洗面台もあり、一人で暮らすには十分な広さ。ガスコンロが一口であることを除いては、理想的な部屋であるように思えた。
「墓です」
 その言葉に振り返ると、ベランダから道路を挟み、ちょうど見下ろす位置に墓場があった。マンションの向かいにお寺があり、その敷地内に墓地があるのだ。うっそうと木々に囲まれ、いくつもの墓石や卒塔婆が見える。
「わたし、気にしません。だって、死んでいるんでしょう」
 生きている人の方がよっぽど怖いと思いませんか、と問いかけると、店長は同意しながら、しかし呆れたような表情を見せた
「確かにそのとおりですけど、そういう考え方をする人は多くないですから」

 わたしはその部屋を契約し、お寺と墓地を窓の外に眺める日々は5年目を迎えた。
 学校とお寺に囲まれた部屋は都心からの距離に見あわないほど静かで、多くの木々に囲まれている。春には学校の桜が花びらを散らし、秋には寺のイチョウがまぶしい黄金に染まる。白いカーテンをかけているので、夜明けの早い時期は目覚ましよりも早く、鳥のさえずりと窓から差し込む日の光で目を覚ます。カーテンに映り込んだ枝が影絵芝居のようにゆらゆらと揺れるのは、いくら眺めても飽きない。

 福岡勤務の最終日、わたしの涙腺は決壊した。まさか転勤くらいで泣くはずもないと思っていたのに、しゃくりあげて言葉も出なくなった。贈り物で膨れ上がったカバンを手に泣きながらタクシーに押し込まれ、最終便の飛行機で東京へ向かった。
 それまで4年間暮らしたのは、広いロフトのついた心地よい木造アパートの一室だった。剥き出しのコンクリートが目立つ新しい部屋に足を踏み入れると、空気はひんやりと冷たく「よそさま」の匂いがした。前の休みにいったん上京し、おおよその荷物は運び入れてあった。お湯も出るし電気も点く。でもここはよその家だと思った。つい数時間前まで博多にいて、でも今のわたしはこんなところにいて、明日の朝都心へ出勤するのだ。何でこんな変なことになっちゃったんだろう、およそ現実感を失った頭で考えた。
 翌朝、玄関から踏み出そうとして、足をくじいた。福岡の部屋は、玄関と外の共用廊下の間にちょっとした段差があったのだと、そのときはじめて気づいた。4年間一切意識しなかったようでいて、ほんの数センチの段差を足裏はしっかりと記憶していた。新しい部屋で、着地のタイミングを裏切られた足は、一歩目をしくじった。
 寝ぼけ眼で毎朝毎朝、わたしは懲りずに玄関でつまずき続ける。ようやく足裏が新しい間合いを覚えた頃、帰宅時に感じていた部屋の冷たさはなくなっていた。
 「よそさま」だった部屋はいつしかわたしの部屋になっていた。

 今年の春は雨が多く、せっかくの連休のほとんどを、わたしは部屋の中で過ごした。ごう、と強い風が鳴り、木々のざわめきが追いかけ、さらに雨粒が窓を叩く不規則なリズムが重なる。それらの音は、不穏だけれど、心地良く響く。そういえば、こんな感じの歌があったな。東京に大雨が降り続く日々を歌った曲。「まるで魚になった気分だよ」と、思い出して口ずさんでみる。—―「まるで、水槽の中の魚」。

「まるで水を得た金魚だな」
 東京へ転勤して1年近く経った頃、出張ついでに会いに来てくれた福岡時代の上司が言った。異動が決まったときはずいぶん心配してくれた、本当にお世話になった人だった。魚、でなく金魚、というのが、ちょっと気障なところがある彼らしい言葉選びだと思った。せっかく顔を見に来てくれたのに、ゆっくり話す時間もなく動き回るわたしは、少なくともそれを楽しんでいるように見えただろうか。
 わたしは金魚。
 水槽の中の金魚になった気持ちで窓の外の土砂降りを眺める。そのうちちょっと居眠りして、目を覚ますと雨が止んでいる。窓を大きく開けると、五月の風。ぐずぐずに身を腐らせるような、生あたたかい風。息を吸い込んで、空気の中に夏の匂いが混ざりはじめているのを知る。
 そしてわたしは、散歩に出かけることにする。

<昭和>を思い出しているとき(大塚 あすか 作文)


 だってあの人、昭和だもん。
 けっこうな頻度でこの言葉を口にしていることに気づいた。誰かが言うのを聞いて、響きが面白いので真似しているうちに体に染みついてしまったのだろう。
 地位や権力をたてに無理をきかせようとする人。人目を気にせず道路につばを吐く人。みんなが「フォーク並び」をしているのに、素知らぬ顔でレジ前に割り込んでしまう人。歩きたばこをしている人、しかも吸い殻を道路にポイ捨て。
 しょうがないよ。だって、昭和だもん。

 わたしが「昭和」を愚痴に用いるのとは対照的に、ポジティブな意味で「古き良き昭和」が語られることは少なくない。最近、昭和レトロを称して、昭和30年代へのノスタルジーを売りにしたお店や観光地を見かけることが増えた。ほぼ半世紀、それらの時代に育った人が過去を懐かしむようになるには十分な時間が過ぎたということなのだろう。
 美しい過去を懐かしむ「昭和っぽい」があり、時代遅れな様を非難したり揶揄したりする「昭和っぽい」がある。
 そもそも「昭和っぽい」って、何だろう。
 おそらく日本で生まれ育った人の多くが同じだと思うが、わたしは西暦と元号両方を、なんとなく使い分ける。例えば音楽やファッションなど、海外も絡めた文化の話をするときは間違いなく西暦を使う。一方、役所の手続きや会社の書類では、まだまだ元号が主流だ。これは、学校や企業の会計が年度単位で進んできた名残なのだろうか。「2012年度」よりも「平成24年度」の方が、しっくりくる。
 ときおり、西暦を元号に変換しなければいけない場面にでくわす。数字に弱いわたしは、頭の中ですんなり変換できず、まごつきながら指を折らざるをえない。そういうときは、元号と西暦の併用を不便だと感じる。でも、元号がなくなってしまったら、それはそれで寂しく思うことだろう。

 元号ってなんだろう。世紀のように、単位時間で区切られているわけではない。過去を総括して、共通の社会システムや文化で分類することとも異なっている。基本的には、ただの元首の在任期間。かつては飢饉や疫病に襲われたときに、縁起をかつぐかのように元号を変えることもあったらしいが、いずれにせよ元号それ自体は、意味のあるまとまりではない。
 けれど、名前がついてしまった以上、そこには意味が生まれてしまう。15年間しかなかった大正と64年にわたった昭和では、それぞれが含む出来事の量も、社会の揺れ動いた幅も異なる。それを無理矢理ひとまとめにして、総括する必要がどこにあるんだろう。それでも、名前がついているから、ついついラベルを貼りたくなってしまう。「大正っぽい」、「昭和っぽい」、ひとくくりに表現したくなってしまう。

 実のところ、わたしの思う「昭和っぽい」の中には、昭和の記憶でないものが少なからず含まれている。わたしが生まれ育った昭和50年代半ば以降は、そのまま平成に地続きだった。だから、年号が変わってもしばらくの間わたしは、昭和の人々が作ったシステムの中を、昭和の気持ちのままで歩いていた。そして今過去を振り返り、実際には平成に体験した物事までも「昭和っぽい」と感じてしまう。しかも、ある程度都会化された自宅での記憶と、昔ながらの生活が残り続けていた両親の田舎での記憶が入り交じって、ちぐはぐな昭和観となる。
 ぼっとん便所や五右衛門風呂がある昭和。蛍光灯は紐をひっぱって消すもので、夏にはその紐にはえ取り紙がぶらさがっていて、ときどき粘着シートが髪の毛にからまってしまい大騒ぎする昭和。スパゲッティがほぼ必ずケチャップ炒めにされていた昭和。かき氷やソーダを飲めば舌が毒々しい色に染まる昭和。長い長い休暇と「夏休みの友」。カセットを入れて遊ぶゲーム機も、バブル景気も、ウーパールーパーとエリマキトカゲや、渋谷系の音楽だって……。
 元号が変わったことを頭では理解しながら、実際は昭和の中を歩き続けていたわたしが平成に足を踏み入れたのは多分、14歳くらいの頃。そこに至ってようやく、わたしは呼び起こした思い出を「昭和っぽい」と思わなくなる。

 わたしが愚痴混じりに「あの人昭和だから」と言う場合、文脈はネガティブなだけども、行為自体はポジティブなものだ(と少なくとも自分では思っている)。その人の生まれ育った時代の背景を考えると、多少今とそぐわなくても仕方ない、その人が悪いわけではない。そういう意味合いを込め、ちょっと諦め気味に、笑いながらつぶやく。すると、怒りが消える。時代に責任転嫁してみるのも、ディスコミュニケーション解消のためのテクニックかもしれない。
 会社で「平成生まれの新入社員」を見かけることが増えてきた。今は年上への愚痴を「昭和っぽい」で片付けようとするわたしはやがて、年下の人間とのコミュニケーションに行き詰まったとき、こうぼやくのだろう。
 しょうがないよ。だってあの子、平成だもん。

2012年7月19日木曜日

<雨>が落ちてくる灰色の空が(原 瑠美 作文)


 二年ほど前、週に何回か溝の口に通っていた時期があった。東急田園都市線の駅を降りると職場のある複合施設まで送迎バスが出ているのだが、歩いてもせいぜい十五分ほど。気持ちのいい道なので朝夕の散歩がわりに歩いていた。道沿いにモダンなつくりの団地があった。立派な木々が茂る中庭をとりかこむように背の高い棟が配置され、ピロティ式の入り口の脇には花が咲きほこる噴水があった。ちょうど初夏のころで植物がみずみずしく育ち、はじめて見たときはこれこそ楽園だと思った。太陽がかがやく朝はこの楽園がひときわ美しいが、夕闇が深くなるころや薄暗い雨の日に目をひくのは道端の紫陽花だった。のぞきこむと葉のあいだから雨を吸った土のにおいがたちのぼる。それははなばなしい噴水花壇との対比で別世界の植物のようにも見えた。
 そのあたりの紫陽花では青いのが特によかった。灰色の雨の底に、青い花がぼうっと浮かびあがる。その姿にはきまっておごそかな気持ちにさせられた。むかしは梅雨なんてうっとうしいだけでいやだったけれど、それからは紫陽花の季節がなんとなく待ち遠しい。しかし職場も家も引っ越してしまって、もうあの道は歩けないのかとすこしさみしい気持ちでいたら、去年の六月、いまの都内の家の近所に新たなスターがあらわれた。
 それは背の低い、鉢植えの紫陽花で、まっ白な花を咲かせているので天気がいい日に見るとぎょっとするほどまぶしい。角を曲がってすぐの歩道に出してあるから、曲がる前からなんとなく身構えてしまう。それが、空が曇ってくると、たちまちなんとも可憐に見えてくるからふしぎだ。体はちいさいのに、立派な茂みをなす株に負けないくらいおおきな鞠のような花のかたまりを三つもつけているのがいじらしい。雨が降るとその花に雫がたまって、まるで淡い色の着物をまとった乙女が泣いているようにはかなげに見えた。風が吹いたりすると、「あの娘は大丈夫かな」とどういうわけか恋する男の子のような気持ちになった。そうやっていつも通りがかりにみとれていたが、七月に入るとだんだん元気がなくなっていき、ついにはどこかに片付けられてしまった。
 そういえば、日本の伝統のものはなんでもその季節にぴったり合うようにつくられている。着物も六月になると袷から単衣に替えて、襟や帯揚げに絽のものを使って夏を先取りしたりする。湿気でむしむしと過ごしにくいこともあれば雨がつづいて肌寒いときもあるのがこの季節だ。気温が低めの日には、目に涼しく肌にあたたかいものが好まれるという。手元にあった着物雑誌をめくってみると、この季節にふさわしい着物の生地として、夏結城、夏大島、木綿、麻縮、紬縮など、さらっと心地よさそうな名前が並んでいる。縁側に面した薄暗い和室で屋根に落ちる雨音を聞きながら、夏大島なんかを着たおでこの白い美人に冷たい緑茶をそそがれるのもいいな、とまたしてもなぜか男性目線で妄想してしまう。
 中原淳一の『花詩集』によると、紫陽花の花言葉は「高慢」。ちょっとネガティブなイメージがあるのだろうか、かわいいイラストつきで紹介されている花もあるのに、紫陽花は巻末にかんたんな紹介が載っているだけだ。もっとも、最近では市民がひとつの主張のもとに結束することを表して、「あじさい革命」といわれることもある。先日の反原発の抗議行動では、紫陽花の花をかかげて歩く人の姿が目立っていた。個人の力を集めて社会を動かすおおきな原動力としようとする試みに、ちいさな花がかたまって咲く紫陽花は、なにか象徴的な力を与えているようだ。
 もう枯れてしまったのだろうと思っていたら、あの白いスター紫陽花が今年もまたお目見えした。あっと驚いたのは背丈が三倍くらいに伸びていたからだ。朝顔を育てるときに使うような緑の棒にささえられて、三つの白い球体は去年のままに、茎がまっすぐ伸びている。並んでみると胸の高さくらいまであった。きれいな花が咲くまで家の中か裏庭か、どこか人目につかないところで大切に育てられていたのだろう。いちばん美しいときに凛とした姿で表通りに出て幸せを振りまく、これはまさに日本の乙女!角を曲がる前になごりおしくて振り返ると、灰色の空にそっと抱かれるようにして白い花が雨にゆれていた。
 「そもそも、花と云ふに、萬木千草において、四季(折節)に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。」世阿弥は『風姿花伝』にそう書いている。梅雨の季節もそろそろ終わるが、あとすこしだけ、静かな雨と薄暗い雲の下で青や白の紫陽花を楽しんでいたい。ただ、「あじさい革命」は本格的な夏が来ても枯れずにつづいてほしい。