2012年8月18日土曜日

平成生まれの昭和(作文)


 平成という元号が始まってちょうど一年が経った頃に、わたしは生まれた。一九九〇年。世の中はバブル絶頂期にして末期。「バブル」という言葉を知ったのはそれから随分あとのことだし、「バブル」という現象を理解するのに、とても二十年では足りなかった。だから今でもその言葉から先には、何の連想も生まれない。
バブルとその崩壊の境目で、わたしの三つ子の魂は形成された。そのままうつうつと眠り込んでいくのか、それともこれから目覚めていくのか、どちらともつかないぼんやりとした時間の中を、特別に好きなことも、特別に嫌いなことも自覚しないまま、ただ漂っていた。いま、そんないわゆる少女期のようなものを、当時の感覚で手繰り寄せようとすると、うまく輪郭がつかめない。シルエットは嵐のまえの雲行きを真似て、気まぐれに記憶をにじませるだけ。《極度の引っ込み思案だったわたしは》という出だしで、その時期を語ることも出来るし、《生来の目立ちたがり屋だったわたしは》という切り口で同じ時期の自分を語ることも、不思議なことに、出来てしまう。それが「平成」というキャラクターにまみれた時代に生まれたからなのか、「少女期」特有のブレやすさからなのか、あるいはわたし個人の特質に原因があるのかは、今のところわかっていない。
ただ、そのぼんやりとしただけの何かに強烈に惹かれはじめ、それが自分にとってどんな意味をもつのか、言葉に置き換え、人に伝えることはできるのか、そんなことが無性に気になり始めた頃、同時に起こっていたことがある。

自分の生まれた年を尋ねられて「平成二年です」と答える、この儀式的なやりとりが、流行りのアイドルグループの名前を口にさせられている時のような、むず痒い恥ずかしさなしには出来なくなってしまったのだ。例によって昭和生まれの人たちは、「平成二年」という言葉を耳にした瞬間「平成かあ」「二年かあ」と反射板のように感嘆符を連発し、その間わたしの顔に「平成二年」を照合させようと一度は努力するのだけれど、取り入って続く言葉も見つけられず、笑顔を張り付けたままそこに立っている。残されるのはいつも、「平成」というプラカードを持った行列の二番目からあやまって先頭に押し出されてしまったときのような、間の悪さ。とはいえ列からはみ出ていても、列に並んだままでも、「平成」というプラカードが視界にちらつく限り、わたしはわたしの滑稽さを逃れられない。「好きで並んでいたわけじゃない!」と、昭和のタスキ掛けの中に潜り込んでしまいたくもなる。

特に何も考えず、ただヘイセイの中にいた頃、わたしは得意げに「平成二年生まれ」を口にしていた。親から買ってもらった真新しい靴を見せびらかすのと似て。そこに「ショウワの靴なんて、古くさいね!」という気持ちが混ざっていなかったと言えば、嘘になるだろう。しかしそれがコッパズカシサへと変わった時、わたしのエゴはひそかに触手をのばし始め、まるで他人を相手にするように、ぼんやりとヘイセイに馴染んでいた頃のわたしを辿り、なぞり、何もないところを想像で埋めて、目まぐるしく書き変えていた。(もともと書かれてはいなかったものを、書き変えるというのはおかしい。でも確かに、書かれてはいなくてもそれはそこに何か別のかたちであったのだ
平成への態度と相反するように、平成以前への憧れは強まっていく。それは、元号によって区切られた具体的な時代のことではなかった。昭和を生きた人たちが「あの頃はよかった」と述懐する、「あの頃」とも違っていた。どう足掻いてもたどり着けない、断絶の向こう側。色調の違う同じ絵。線はなぞれるのに、身を落とし込むことが不可能な空間。そのくせ、割り切って諦めることも許してくれない、わたしがありえたかもしれない場所。憧れの対象が昭和時代でもなく、昭和時代を生きた人々の記憶でもないとすれば、それはきっと自分自身の中にあるはずだった。

たとえばそれが「昭和」というかたちをとって、わたしを見つめ返す。「昭和」に猛烈に嫉妬しながら、同時にわたしはその昭和の場所に立ってもいて、だからこそ「平成二年」のわたしに同じくらい焦がれている。「平成二年生まれ」の〈今・ここ〉で文を書いている私に、ではない。平成に何の気もなく生れ落ちたばかりの、まだ「平成」も、「昭和」も、おとなたちだけが必要とする暗号でしかなく、江戸に生まれていようが縄文に生まれていようがお構いなしに、ひたすら熱の集まる場所へと中ることが世界のすべてだったわたしに、あこがれている。彼女はヘイセイの中で、平成以前を生きていた。それはたぶん、彼女を取り巻く人たち、まだ「平成」という言葉に馴染みきれず、昭和とバブルのさりげない延命を信じていたショウワな大人たちによって守られた、「ヘイセイ生まれの子ども」のための世界だった。