2012年12月8日土曜日

子どもたちのための<料理>を作ろう(作文)


 切れ味の悪い果物ナイフで梨の皮を剥いていたら、油断をしていたからか、手を滑らせて指先に、刃先が触れてしまった。気にしないで、刃先を梨の、河原の石のようにザラザラした表面に当てて、しばらく黙って皮剥きに集中しようとした。てきぱきと切り分け、はやくこのみずみずしい梨を食べてもらいたいと気持ちは急いていて、この子は見かけによらず不器用だとか、女房はこんなきたない切り方をしなかっただとか、そういうことで残念に思われたくない気持ちが高ぶるほど、手に固定された梨のがたついた表面が目について、情けなくなってくる。追い打ちをかけるように、切れ味の悪いカッターのような果物ナイフの当たった指先から血が滲み始めているのに気がつき、「まだかい」と部屋の奥から尋ねる声に、もう少しです、と答えると血はそれに応えるかのように勢いを増して止まる気配がなく、とにかく梨を避難させたいのに、洗面所のような小さなシンクには、梨ひとつを安定して置いておけるスペースもなければ程よい容れ物もなく、切り口を抑えながらあたふたするしか方法がない。
 絆創膏など持ち合わせているはずのない状況で、血まみれのシンクでどうやって梨を切り分け、それを葡萄のとなりに並べたのか記憶にない。けれど次の場面では、何事もなかったかのように種田さんと向き合っていて、ぎこちない梨を葡萄が補ってくれることだけを念じながら、罪滅ぼしのように梨を口に放り込んでは一週間の出来事について話している。平日の正午。部屋には介助用ベッドと業務用の机、書類整理用の引き出しと小さな洋服ダンスがあるきりで、それでも来るたびに棚に並んだ本の背表紙が変わっていたり、どこからか送られてきた茶封筒が卓上に乗せられていたりする。隣の部屋に、少し前まで奥さんが住んでいた、と言う。奥さんの写真は壁に立てかけてあって、種田さんはそれを便宜上置いているとでもいうように、たまに指さしては「家内が」と話を続ける。壁にはほかに、二枚の賞状が額縁入りで引っ掛けてある。一枚は総理大臣(福田康夫)からで、もう一枚は施設から。どちらも大喜びで解説を始め、厳粛な顔をした親戚たちが、お祝いに種田さんを囲った集合写真を一緒に見せられて、応答に窮する。
 目次となる年表を書き取りながら、ずいぶん色んなことに手を出した人なのだということが明らかになっていく。自伝の執筆を手伝うのは二人目で、前回は七九歳、今回は一〇一歳だから、さらに一世代分遡ることになる。そして彼は、致命的に耳が遠い。ピンと立った小さな耳に、くすんだ肌色の、重たそうな補聴機を取り付けて、いつもの作業が始まる。始終、補聴機から耳鳴りのような甲高い音が聴こえてきて、無音の部屋によく響く。その、骨にまで響くような音抜きには、会話が成り立たない。種田さんが喋るときでさえ、人工的な巻貝のようなそれは、種田さん自身の声を聞き取りやすい周波数の電子音に変換し、白い耳の内側に向けて、ギャンギャンと響いている。「GHQの占領に際して私」は、「実はダットサンに先立って私」と「家内と世界中を私」に周期的に現れ、それを声の速度で筆記すれば「東北大学に招かれた私」に辿り着く。何度でも。一つの場面の「私」の切れ目なさはそのまま何度でも反復できるレコードのように深く刻まれていて、一度針を落とせば自動的に再生が始まる。少し遅れて電子の声がギャンギャンと追う。さらにずれ込むかたちで筆記ペンが紙の上を滑る。いくらかまとまった後でそれに目を通すと、梨をひとかけずつ食べて、次のページへ進む。
 耳で聴いて一字一句書き取ることにへとへとになって、二重の声の呪縛から放たれて温かいご飯が食べたいと、萎びていく果物を横目に考え始めたとき、一体これは誰のために話され、書き留められているのだろう、という疑問が降ってきた。七九歳の高縄さんの手伝いをしていた時は事情が違った。雇われた目的がはっきりしていて、つまり出版物にするための文章の校閲を任されていたから、声を写し取る必要などなく、キーボードで入力された文章の断片を繋げて、説明の足りない表現を付け加えたり、重複する場面を削ったりすれば済んだ。ところが今回は何か違うことが求められている。編集どころか、筆記ペンを握りしめ、耳を極度に緊張させて、ただ書きとっている。これでは創意工夫もしようがなく、しかも種田さんの中に眠っている記憶がどこまで記録されれば気が済むのか、見当がつかない。途方もない再生、途方もない筆記。
 ある日、いつものように部屋を訪れると、種田さんの姿がなかった。特にすることもないので、奥さんの写真(夫婦でローマに行った時の写真で、奥さんの顔だけをクローズアップして額縁にいれたもの。気さくそうな笑顔)を見ながら待った。不意に眠気に襲われて、机に突っ伏して眠ってしまう。やがて、戸口から入ってきた種田さんに起こされ私は、そのあと、これまでの記録を朗読しよう。