2013年4月25日木曜日

裏返されたキャンバス(辻井 潤一 書評)



 いま読んでいるのは、果たして〈小説〉なのだろうか。本書を読みながら持ち続けた疑問である。
 本書は、バスク語の小説家である著者と同名の主人公、キルメン・ウリベが、自作の小説を、より正確に言えば本書を書くためのプロセスそのものを描いた小説である。講演のため、バスク地方の中心都市ビルバオからニューヨークへと向かう旅路の描写と、小説のために集められたエピソードとの交錯が、詩的な文体によって綴られていく。郷里の画家の失われた壁画、祖父の漁船の名前の由来、漁師として生きた父や叔父たちの言葉、スペイン内戦が残した悲劇の数々。随所に差し挟まれる記憶や逸話の多くは、おそらく主人公=著者であるウリベが見聞きした実話だと思われる。とりとめもないイメージの連続と、断定することなくためらい続けるような書きぶりによって、読み進めていくうちに、現実とフィクションの境界は曖昧になっていく。そしてウリベは、本書の中で次のように幾度となく繰り返す。「本当であろうが嘘であろうが、一番大事なのは物語そのものなのだから。」(P66

 通常、私たちは小説を読むとき、フィクションであることを暗黙的に了承した上で、現実とのズレを無意識のうちに埋め合わせながら、小説世界に没入する。それは絵画を観る作法に似ている。所詮はキャンバス上の単なる絵具の集積にもかかわらず、観者はそこに描かれた世界や事物を読み解こうとする。この小説と絵画のフィクションであるがゆえの通底に、ウリベは自覚的だったはずだ。その証拠に、本書の中で、ある一枚の絵画に言及している。ディエゴ・ベラスケスの《ラス・メニーナス》である。(P152)宮廷画家だったベラスケスが描いたのは、キャンバスの前で国王夫妻の肖像画を描く自身と、その光景を見つめる王女とお付きの女官たちがいる室内風景。肖像画のキャンバスは、その裏側しか描かれていない。観者は、絵画の中にさらけ出された道具立てのみで、国王夫妻の肖像画を感じ取るしかない。
 ウリベも本書において、小説のためのあらゆるイメージを、現実とフィクションの分け隔てをしないまま、提示している。不意によみがえる記憶、語り継がれてきた逸話、そして家族への想い。読者は、それらのイメージのゆるやかな連関の中に身を委ね、たゆたい、未だ見ぬ小説に想いを馳せればいい。それこそが、この〈小説〉を読むことなのである。

(キルメン・ウリベ『ビルバオ−ニューヨーク−ビルバオ』金子奈美訳、白水社、2012年)