読み書きクラブの皆さま
今年一年間のご活動、おつかれさまでした。
お仕事やご家庭をおもちのなかで
継続して原稿を書き、例会に出席してこられた皆さま、
またこのような貴重な場を設けていただき
例会ではいつも的確なご批評をくださっている管先生に、
あらためまして感謝申し上げます。
どなた様もよいお年をお迎えください。
大洞敦史
2011年12月31日土曜日
2011年12月26日月曜日
被ばくを「見る」(原 瑠美 書評)
自らも被ばく経験を持つ医師と、世界の被ばく問題に関するドキュメンタリーをいくつも手がけてきた映像作家の共著である。いまだ専門家の間でも定説が出ていない内部被爆の危険性について、肥田が医学的見地からわかりやすく解説し、鎌仲が被害の世界規模での広がりを浮き彫りにする。
本書が書かれる六十年前、原爆投下のときに広島市郊外に居合わせた肥田は、その瞬間とその後目にした光景を克明に記憶している。突然の熱風に思わず這いつくばったまま見上げた空には巨大な「きのこ雲」。焼けただれた人々の群れや、村を埋めつくすほどのおびただしい負傷者。直爆により死んでいく人たちの治療に追われながら、肥田はある異変に気づく。原爆投下からしばらくたって広島に入市し、一見被害を受けていないように見える人が被害者と同様の症状を訴えるようになったのだ。内部被曝の症状だったが当時は全く原因がわからない。その後の人生をかけて、肥田はこの問題に取り組むことになる。
一方、鎌仲はイラクに関するドキュメンタリー番組の制作に携わって被ばくに興味を持つようになった。取材で訪れたイラクではあちこちに放置された劣化ウラン弾からの被曝で、子どもたちが必要な薬も手に入らないまま白血病で亡くなっていく。アメリカはそれでも低線量の被ばくは人体に影響はないとして核弾頭を作り続ける。兵器の材料を得るために原子力発電所を動かす。しかしそのアメリカにも核実験に巻きこまれた帰還兵や、原発周辺に暮らす住民など、数多くの被ばく者がいる。
核兵器の廃絶運動が進まないのは、「内部被爆への無知と無理解と無関心が根源ではないか」と肥田は語る。確かに、目に見えない内部被曝の脅威を実感することは難しい。しかし実際に苦しむ被ばく者を目の当たりにしてきた二人の著者の言葉は鮮明に被害状況を浮かび上がらせ、その描写には胸がつまり、手がふるえる。それでも読む。読むことによって見る。この「見る」という感覚こそ、私たちが差し迫った状況に立ち向かうための第一歩なのかもしれない。
あまりにも大きな問題に挑もうとすれば、反発もたくさん受けるだろう。これまで困難な核廃絶運動を続けてこられた秘訣を聞かれ、「楽しかったから」と肥田は笑う。「私が変わることで相手も変わり、生きる勇気を持っていられます。」途方もない規模で拡大している放射能汚染と正面から笑顔で対決していく、そんな力を身につけたい。
(肥田舜太郎/鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威—原爆から劣化ウラン弾まで』筑摩書房、2005年)
本書が書かれる六十年前、原爆投下のときに広島市郊外に居合わせた肥田は、その瞬間とその後目にした光景を克明に記憶している。突然の熱風に思わず這いつくばったまま見上げた空には巨大な「きのこ雲」。焼けただれた人々の群れや、村を埋めつくすほどのおびただしい負傷者。直爆により死んでいく人たちの治療に追われながら、肥田はある異変に気づく。原爆投下からしばらくたって広島に入市し、一見被害を受けていないように見える人が被害者と同様の症状を訴えるようになったのだ。内部被曝の症状だったが当時は全く原因がわからない。その後の人生をかけて、肥田はこの問題に取り組むことになる。
一方、鎌仲はイラクに関するドキュメンタリー番組の制作に携わって被ばくに興味を持つようになった。取材で訪れたイラクではあちこちに放置された劣化ウラン弾からの被曝で、子どもたちが必要な薬も手に入らないまま白血病で亡くなっていく。アメリカはそれでも低線量の被ばくは人体に影響はないとして核弾頭を作り続ける。兵器の材料を得るために原子力発電所を動かす。しかしそのアメリカにも核実験に巻きこまれた帰還兵や、原発周辺に暮らす住民など、数多くの被ばく者がいる。
核兵器の廃絶運動が進まないのは、「内部被爆への無知と無理解と無関心が根源ではないか」と肥田は語る。確かに、目に見えない内部被曝の脅威を実感することは難しい。しかし実際に苦しむ被ばく者を目の当たりにしてきた二人の著者の言葉は鮮明に被害状況を浮かび上がらせ、その描写には胸がつまり、手がふるえる。それでも読む。読むことによって見る。この「見る」という感覚こそ、私たちが差し迫った状況に立ち向かうための第一歩なのかもしれない。
あまりにも大きな問題に挑もうとすれば、反発もたくさん受けるだろう。これまで困難な核廃絶運動を続けてこられた秘訣を聞かれ、「楽しかったから」と肥田は笑う。「私が変わることで相手も変わり、生きる勇気を持っていられます。」途方もない規模で拡大している放射能汚染と正面から笑顔で対決していく、そんな力を身につけたい。
(肥田舜太郎/鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威—原爆から劣化ウラン弾まで』筑摩書房、2005年)
2011年12月23日金曜日
「寄り添うための哲学」(大塚あすか 書評)
家族と暮らすことができない子どもたちの生活の場である児童養護施設。哲学の一分野である現象学を手がかりに、二人の研究者は子どもの心に寄り添おうとしてきた。本書では、彼らが自ら体験した子どもとのやりとりや立ち会った場面に、ハイデガーやサルトルの現象学的解釈を丁寧に重ねあわせてゆく。
第一章では、施設にやってきた子どもが抱く不安と、新しい環境に折り合いをつけていく過程が、日常の営みや道具との関わりを通して紹介される。第二章で描かれるのは「世間」を意識しはじめた思春期の少女達。施設外の子どもたちと自身の環境を比較して苦しむがゆえに、彼女たちは普通であることを強く望む。結果、施設の仲間同士が過剰な均一性を求め合うようになり、生活の場に息苦しさが漂いはじめてしまう。そして、第三章。虐待を「しつけ」と受け止めることで家族との関係に救いを求めていた少女は、自らの過去を正面から捉え直すことで、新たな可能性を歩み始める。
現象学という一般的でない言葉は、この本の敷居を高く見せるかもしれない。ハイデガーやサルトルの名を聞けば、難しい哲学理論をイメージして顔をしかめる人もいるだろう。しかし、本書の目的は学術的な議論ではなく、あくまで子どもの心に寄り添うことだ。離別や死別、虐待といった理由により家族と別れざるをえない子どもは、その辛さをどのように受け入れ、どのように自立への道を探るのか。平易な言葉で、日常にごくごく近い感性で語られる哲学は、きわめて自然なかたちで読む側にも寄り添ってくる。
ときに登場する子どもに自分を重ね、ときに子どもたちを見守る養育者や著者に自分を重ねながらこの本を読み進める。するといつの間にか、子どもたちが何かに期待し、それが叶わず落胆もしくは激怒するときの心の動き、彼らが孤独を噛みしめ苦しみに耐えようとする態度が、自身が苦難に立ち会ったときのそれと同じであることに気付いている。また、養育者らの立場に寄り添えば、悩み苦しんでいる他者と接することやコミュニケーションのあり方について考えずにはいられない。わたしなら、どのようにして他人の辛さと向かい合う?
他人の心の動きに思いを馳せることは、鏡をのぞきこむこととよく似ている。これは、児童福祉について書かれた本でもあるし、現象学の本でもある。その一方で、わたしたちが自分と向かい合うための本にもなり得るのだ。
(中田基昭編著、大塚類/遠藤野ゆり著『家族と暮らせない子どもたち~児童福祉施設からの再出発』新曜社、2011年)
第一章では、施設にやってきた子どもが抱く不安と、新しい環境に折り合いをつけていく過程が、日常の営みや道具との関わりを通して紹介される。第二章で描かれるのは「世間」を意識しはじめた思春期の少女達。施設外の子どもたちと自身の環境を比較して苦しむがゆえに、彼女たちは普通であることを強く望む。結果、施設の仲間同士が過剰な均一性を求め合うようになり、生活の場に息苦しさが漂いはじめてしまう。そして、第三章。虐待を「しつけ」と受け止めることで家族との関係に救いを求めていた少女は、自らの過去を正面から捉え直すことで、新たな可能性を歩み始める。
現象学という一般的でない言葉は、この本の敷居を高く見せるかもしれない。ハイデガーやサルトルの名を聞けば、難しい哲学理論をイメージして顔をしかめる人もいるだろう。しかし、本書の目的は学術的な議論ではなく、あくまで子どもの心に寄り添うことだ。離別や死別、虐待といった理由により家族と別れざるをえない子どもは、その辛さをどのように受け入れ、どのように自立への道を探るのか。平易な言葉で、日常にごくごく近い感性で語られる哲学は、きわめて自然なかたちで読む側にも寄り添ってくる。
ときに登場する子どもに自分を重ね、ときに子どもたちを見守る養育者や著者に自分を重ねながらこの本を読み進める。するといつの間にか、子どもたちが何かに期待し、それが叶わず落胆もしくは激怒するときの心の動き、彼らが孤独を噛みしめ苦しみに耐えようとする態度が、自身が苦難に立ち会ったときのそれと同じであることに気付いている。また、養育者らの立場に寄り添えば、悩み苦しんでいる他者と接することやコミュニケーションのあり方について考えずにはいられない。わたしなら、どのようにして他人の辛さと向かい合う?
他人の心の動きに思いを馳せることは、鏡をのぞきこむこととよく似ている。これは、児童福祉について書かれた本でもあるし、現象学の本でもある。その一方で、わたしたちが自分と向かい合うための本にもなり得るのだ。
(中田基昭編著、大塚類/遠藤野ゆり著『家族と暮らせない子どもたち~児童福祉施設からの再出発』新曜社、2011年)
2011年12月17日土曜日
子供好きな訳者にかかれば(CHIARA 書評)
「ウワバミってなに?」
「なんて言ったの?」
「ウ・ワ・バ・ミ。ウワバミ知らないの?」
「うーん、大酒飲みのことだけど・・・」
大人がいつも簡潔に的確な答えを与えてくれるとは限らない。
その答えは絶対に間違っていて、だからといってもう一度訊くのも嫌だ。難しい漢字でもなければややこしく長いわけでもない。それに注釈だってない。きっと誰でも知っている言葉に違いなくて、わたしは知らない。七歳のわたしは、川島小鳥が撮る『未来ちゃん』と同じ顔をして絵本をバタッと閉じた。変な本。
訳者管啓次郎は、ボアはボアと訳した。ウワバミではない。ボアという「初めからわからない言葉。大人に聞いてもしょうがない言葉。必要であれば百科事典を調べればいい」という範疇にその言葉を位置づけた。それはサン・テグジュペリ本人の意図でもあったはずだ。何語だったか忘れたが、ボストンの本屋で買ったものには「ボア」とあった。
気のきいた大人の手を経てようやくその本は、子供のための本になった。子供は、知らなくて当たり前なボアを探して言葉の森に分け入る勇気を与えられ、やがて原生林の奥深くボアと言う大蛇と対面する。
管啓次郎は詩人と称しているが作家でもある。そして、地球上のあらゆる言語をその体に沁みこませているのではないか、と錯覚を起こさせるほどに言葉に寿がれている作家だ。
とはいえ、言葉に巧みな者が陥るひとりよがりな世界に彼は身をおかない。彼の書く本は必ず、本のこちら側で目を輝かせる読者に向かって書かれている。彼の読者には「話題だから」「とりあえず教養として」と本を手にする者はいない。読んでいても誰も評価しやしない、その本について友と語ることもできない、そうとわかっていて相当な時間を費やして彼の本を読む。彼の読者は皆溢れそうな好奇心を持って彼の文章を丹念に読み、楽しむ。それを知っているからだろうか、管啓次郎の本には、読者への愛がある。
彼が書いた幾冊の本と同様、この本は、読み手であり買い手である子供を無視しない。この本は「ウワバミ」という適当な訳語で子供を混乱させたりしない。子供を置き去りにして、王子と自分の世界に浸ったりしない。
よい絵本とは、きらきらと目を輝かせてページをめくる子供の姿を思い浮かべながら、書かれなければならない、そう学んだ一冊だった。
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』管啓次郎訳、角川つばさ文庫、2011年)
「なんて言ったの?」
「ウ・ワ・バ・ミ。ウワバミ知らないの?」
「うーん、大酒飲みのことだけど・・・」
大人がいつも簡潔に的確な答えを与えてくれるとは限らない。
その答えは絶対に間違っていて、だからといってもう一度訊くのも嫌だ。難しい漢字でもなければややこしく長いわけでもない。それに注釈だってない。きっと誰でも知っている言葉に違いなくて、わたしは知らない。七歳のわたしは、川島小鳥が撮る『未来ちゃん』と同じ顔をして絵本をバタッと閉じた。変な本。
訳者管啓次郎は、ボアはボアと訳した。ウワバミではない。ボアという「初めからわからない言葉。大人に聞いてもしょうがない言葉。必要であれば百科事典を調べればいい」という範疇にその言葉を位置づけた。それはサン・テグジュペリ本人の意図でもあったはずだ。何語だったか忘れたが、ボストンの本屋で買ったものには「ボア」とあった。
気のきいた大人の手を経てようやくその本は、子供のための本になった。子供は、知らなくて当たり前なボアを探して言葉の森に分け入る勇気を与えられ、やがて原生林の奥深くボアと言う大蛇と対面する。
管啓次郎は詩人と称しているが作家でもある。そして、地球上のあらゆる言語をその体に沁みこませているのではないか、と錯覚を起こさせるほどに言葉に寿がれている作家だ。
とはいえ、言葉に巧みな者が陥るひとりよがりな世界に彼は身をおかない。彼の書く本は必ず、本のこちら側で目を輝かせる読者に向かって書かれている。彼の読者には「話題だから」「とりあえず教養として」と本を手にする者はいない。読んでいても誰も評価しやしない、その本について友と語ることもできない、そうとわかっていて相当な時間を費やして彼の本を読む。彼の読者は皆溢れそうな好奇心を持って彼の文章を丹念に読み、楽しむ。それを知っているからだろうか、管啓次郎の本には、読者への愛がある。
彼が書いた幾冊の本と同様、この本は、読み手であり買い手である子供を無視しない。この本は「ウワバミ」という適当な訳語で子供を混乱させたりしない。子供を置き去りにして、王子と自分の世界に浸ったりしない。
よい絵本とは、きらきらと目を輝かせてページをめくる子供の姿を思い浮かべながら、書かれなければならない、そう学んだ一冊だった。
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』管啓次郎訳、角川つばさ文庫、2011年)
2011年12月14日水曜日
反抗と笑いの黒(原 瑠美 書評)
戦争、暴力、ヴェール、石油。その国に行ったことのない私にとって、イランは黒のイメージだった。ベタ塗りの画面を多く使ったこのマンガも、一見するとイメージ通りの暗い印象なのだが、ひとたびページを繰りはじめると、その黒の表情の豊かさに驚かされる。笑う子供たちの大きな口、パパのキャデラック、白髪になる前のママの髪、ときおり神様が訪れる夜の寝室。そんな黒にひきつけられて、上下二巻におよぶ自伝物語は一気に読めてしまう。
作者のマルジことマルジャン・サトラピは一九六九年、イランの裕福な家庭の一人娘として生まれた。首都テヘランのフランス語学校に通い、リベラルな両親のもとで子供の頃からたくさんの本を読んで育つ。イスラム革命直後の一九八〇年、十歳のマルジが通う学校の描写から始まるこの物語は、日ごとに激しくなる市民への暴力と戦争の恐怖、戦渦を逃れてひとりぼっちで暮らした留学生活の困難を描きながらも、最後までコミカルなタッチを失わない。
マルジの日常は子供らしい反抗と笑いに満ちている。学校ではヴェールをおもちゃにして遊んではしかられ、苦行を重んじる宗教儀式を茶化してはまたしかられる。それでいてその語りが決して真剣さを失わないのは、自分と社会とを理解しようとする、彼女の真摯な態度のためだろう。ことあるごとに、マルジは知識を広げるため読書に向かう。本を読むだけではあきたらず、刑務所の独房を水没させる拷問があると聞くと体がふやけるまでお風呂に入ってみるし、政府に反対して処刑されていく人々のことを知ると、むせ返りながらたばこを吸って反抗について考えてみる。そんなマルジの気丈さは、ときに彼女を窮地に追いこむこともある。留学先のウィーンでは差別的な発言をした尼僧にくってかかって寄宿舎を追い出され、その後恋人の浮気を知って下宿を飛び出したときは数ヶ月の路上生活を余儀なくされる。しかし帰国と結婚、そして離婚を経てもマルジの自己教育と反抗の力は衰えることなく、どんどん前へ進んでいく姿は晴れ晴れとしてたくましい。
反抗とは他者に対する最も誠実な姿勢だ。自分を偽ることなく、衝突を恐れることなく、未来へと道を拓いていく決意だ。暴力にさらされ、人々の自由が制限され続ける中で、それでもイランとそこに暮らす人々を愛し、いつも新しい仲間と笑いを見つけていくマルジの想像力に彩られて、この本の黒はみずみずしい力をたたえている。
(マルジャン・サトラピ『ペルセポリスI、II』園田恵子訳、バジリコ、2005年)
作者のマルジことマルジャン・サトラピは一九六九年、イランの裕福な家庭の一人娘として生まれた。首都テヘランのフランス語学校に通い、リベラルな両親のもとで子供の頃からたくさんの本を読んで育つ。イスラム革命直後の一九八〇年、十歳のマルジが通う学校の描写から始まるこの物語は、日ごとに激しくなる市民への暴力と戦争の恐怖、戦渦を逃れてひとりぼっちで暮らした留学生活の困難を描きながらも、最後までコミカルなタッチを失わない。
マルジの日常は子供らしい反抗と笑いに満ちている。学校ではヴェールをおもちゃにして遊んではしかられ、苦行を重んじる宗教儀式を茶化してはまたしかられる。それでいてその語りが決して真剣さを失わないのは、自分と社会とを理解しようとする、彼女の真摯な態度のためだろう。ことあるごとに、マルジは知識を広げるため読書に向かう。本を読むだけではあきたらず、刑務所の独房を水没させる拷問があると聞くと体がふやけるまでお風呂に入ってみるし、政府に反対して処刑されていく人々のことを知ると、むせ返りながらたばこを吸って反抗について考えてみる。そんなマルジの気丈さは、ときに彼女を窮地に追いこむこともある。留学先のウィーンでは差別的な発言をした尼僧にくってかかって寄宿舎を追い出され、その後恋人の浮気を知って下宿を飛び出したときは数ヶ月の路上生活を余儀なくされる。しかし帰国と結婚、そして離婚を経てもマルジの自己教育と反抗の力は衰えることなく、どんどん前へ進んでいく姿は晴れ晴れとしてたくましい。
反抗とは他者に対する最も誠実な姿勢だ。自分を偽ることなく、衝突を恐れることなく、未来へと道を拓いていく決意だ。暴力にさらされ、人々の自由が制限され続ける中で、それでもイランとそこに暮らす人々を愛し、いつも新しい仲間と笑いを見つけていくマルジの想像力に彩られて、この本の黒はみずみずしい力をたたえている。
(マルジャン・サトラピ『ペルセポリスI、II』園田恵子訳、バジリコ、2005年)
2011年12月12日月曜日
三匹の黒いパックマン(大洞 敦史 作文)
ここは東京郊外にある某大学の一ホール。「3班」と書かれたプラスチックの三角柱が置かれたテーブルには、女性二人と男性四人、そしてぼくが座っている。ぼくの向かいの席のAさん――三十歳位の大柄な男性で、いつもほほえみをうかべている――が「だいどーくん、知ってる?」とぼくに話しかけた。が、つづきがいまいち聴きとれない。机から身をのりだして耳をかたむける。ある消防団が、消火訓練のときに何かを燃やす実験をするという話のようだった。曖昧なあいづちを打ちながら聞いていると、話題はいつのまにかガラガラヘビの生態に変わっている。「時間になったので始めましょう」と、白衣を着た五十歳位の男性がマイクごしに皆に話しかけた。
この日ここでおこなわれるのは、一般に知的障害者と呼ばれている人たちを対象にしたワークショップだ。参加者は総勢六十名くらい。そのなかに、授業の一環として参加している大学生が十五名ほど混じっている。参加者の周りには白衣のスタッフが十数名、会場の後ろのほうでは参加者の家族と思われる人たちが十名ほど座っている。
ぼくは以前大学院で受けた生涯学習の授業で、この講座の主催団体の二十年間の歩みについて学び、その後主宰者の一人と連絡をとるようになった。その方に誘っていただいたことから、ぼくもこのワークショップに参加することになり、この日が初めての参加だった。
今回の主旨は、色々なゲームを通じて人づきあいのスキルを身につけよう、というものだ。
おもしろかったのは「伝言お絵かき」(とここでは呼んでおく)。二人一組になり、さらに絵を描く人と説明をする人にわかれる。絵を描く人は会場のスクリーンを背にして座る。もう一人はスクリーンにあらわれたイラストを、言葉だけで相手に伝える。描き手はその説明をたよりに絵を描いていく、というもので、元の絵をどれだけ正確に再現できるかという点が競われる。
ぼくはBさん――四十歳位のもの静かな男性――とペアになった。まずはBさんが説明し、ぼくが絵を描いた。家があって、屋根の上に猫がいて、カベには窓とドアがあり、家の横に木が一本立っていて、上のほうには目と口のついた太陽がある。彼の説明はわかりやすくかつ的確であり、こまかい部分をのぞけば、ぼくらの描いた絵は元の絵にうりふたつだった。
役割交替。スクリーンにあらわれた絵、というよりは図形を見て、めんくらった。これを一体どう説明したらいいんだろう? 白地に、切れ込みの入った黒い円が三つある。それら三つは、それぞれの中心点を結ぶと正三角形になるように、またそのうちの一辺がスクリーンの下辺と水平になるように置かれている。三つの円の切れ込みはいずれも内側を向いている。三匹の黒いパックマンが向き合っている格好だ。切れ込みの両辺は、見えない正三角形の辺と重なっている……。五分くらいの制限時間いっぱい、ぼくはこの絵を一生懸命ことばにし、Bさんもぼくのつたないことばを懸命に図像化した。真剣勝負の五分間だった。結果、Bさんの書いたイラストが元の絵といかに似ていたかは、にわかには信じがたいほどだった。
休憩時間中、ブラスバンドに入っているというC君が「ここに来ている人たちは、どんなハンディキャップをもっているのかな」とつぶやいた。そばにいたスタッフが「そんなの関係ないよ」と力づよく答えた。スタッフには内モンゴル出身の女の子がいたので、ぼくはサエンバイノー、とかバヤルララー、など知っているかぎりのモンゴル語を並べたてて笑わせてみた。
最後のゲームの流れは、まず「宴会に遅刻してきた人が話の輪の中に入ろうとして失敗する」という映像を見て、その行動のどこがよくなかったかを紙に書く。その後グループごとに実際にその場面を演じてみる、というものだ。ゲームで紙に文字を書くのはこれが初めてだった。Aさんの書く字は一文字の直径が二センチ位あり、その隣のC君はまるで米粒にでも書くかのように細密な字をぎっしり並べている。意外だったのは、Bさんが何も書かないことだった。字を書く機会は四回あり、十九歳の女子大生Dさんがなにかと彼に声をかけてあげても、とうとう彼は一文字も書かなかった。それでいて話す段になると、すこぶる饒舌なのだ。
ゲームの後にアンケート用紙が配られた。大学生用と他の参加者用の二つがあって、後者は片面一枚だが、ぼくの前には両面三枚の用紙がおかれた。ぼくに対するC君の疑問は、これによって解消されてしまった。
閉会が告げられるやいなや、年配のご婦人がBさんのもとに駆け寄るようにしてやって来て「よくがんばったね、ずっと後ろで見てたよ。さ、帰ろう」と彼に言った。
この日ここでおこなわれるのは、一般に知的障害者と呼ばれている人たちを対象にしたワークショップだ。参加者は総勢六十名くらい。そのなかに、授業の一環として参加している大学生が十五名ほど混じっている。参加者の周りには白衣のスタッフが十数名、会場の後ろのほうでは参加者の家族と思われる人たちが十名ほど座っている。
ぼくは以前大学院で受けた生涯学習の授業で、この講座の主催団体の二十年間の歩みについて学び、その後主宰者の一人と連絡をとるようになった。その方に誘っていただいたことから、ぼくもこのワークショップに参加することになり、この日が初めての参加だった。
今回の主旨は、色々なゲームを通じて人づきあいのスキルを身につけよう、というものだ。
おもしろかったのは「伝言お絵かき」(とここでは呼んでおく)。二人一組になり、さらに絵を描く人と説明をする人にわかれる。絵を描く人は会場のスクリーンを背にして座る。もう一人はスクリーンにあらわれたイラストを、言葉だけで相手に伝える。描き手はその説明をたよりに絵を描いていく、というもので、元の絵をどれだけ正確に再現できるかという点が競われる。
ぼくはBさん――四十歳位のもの静かな男性――とペアになった。まずはBさんが説明し、ぼくが絵を描いた。家があって、屋根の上に猫がいて、カベには窓とドアがあり、家の横に木が一本立っていて、上のほうには目と口のついた太陽がある。彼の説明はわかりやすくかつ的確であり、こまかい部分をのぞけば、ぼくらの描いた絵は元の絵にうりふたつだった。
役割交替。スクリーンにあらわれた絵、というよりは図形を見て、めんくらった。これを一体どう説明したらいいんだろう? 白地に、切れ込みの入った黒い円が三つある。それら三つは、それぞれの中心点を結ぶと正三角形になるように、またそのうちの一辺がスクリーンの下辺と水平になるように置かれている。三つの円の切れ込みはいずれも内側を向いている。三匹の黒いパックマンが向き合っている格好だ。切れ込みの両辺は、見えない正三角形の辺と重なっている……。五分くらいの制限時間いっぱい、ぼくはこの絵を一生懸命ことばにし、Bさんもぼくのつたないことばを懸命に図像化した。真剣勝負の五分間だった。結果、Bさんの書いたイラストが元の絵といかに似ていたかは、にわかには信じがたいほどだった。
休憩時間中、ブラスバンドに入っているというC君が「ここに来ている人たちは、どんなハンディキャップをもっているのかな」とつぶやいた。そばにいたスタッフが「そんなの関係ないよ」と力づよく答えた。スタッフには内モンゴル出身の女の子がいたので、ぼくはサエンバイノー、とかバヤルララー、など知っているかぎりのモンゴル語を並べたてて笑わせてみた。
最後のゲームの流れは、まず「宴会に遅刻してきた人が話の輪の中に入ろうとして失敗する」という映像を見て、その行動のどこがよくなかったかを紙に書く。その後グループごとに実際にその場面を演じてみる、というものだ。ゲームで紙に文字を書くのはこれが初めてだった。Aさんの書く字は一文字の直径が二センチ位あり、その隣のC君はまるで米粒にでも書くかのように細密な字をぎっしり並べている。意外だったのは、Bさんが何も書かないことだった。字を書く機会は四回あり、十九歳の女子大生Dさんがなにかと彼に声をかけてあげても、とうとう彼は一文字も書かなかった。それでいて話す段になると、すこぶる饒舌なのだ。
ゲームの後にアンケート用紙が配られた。大学生用と他の参加者用の二つがあって、後者は片面一枚だが、ぼくの前には両面三枚の用紙がおかれた。ぼくに対するC君の疑問は、これによって解消されてしまった。
閉会が告げられるやいなや、年配のご婦人がBさんのもとに駆け寄るようにしてやって来て「よくがんばったね、ずっと後ろで見てたよ。さ、帰ろう」と彼に言った。
2011年12月8日木曜日
第13回のご報告(大洞 敦史)
本日の参加者は8名。原さん、岩井さん、近藤さん、大洞の作文と、原さん、志村さんの書評をとりあげました。例会の後は、岩井さんお手製の沖縄焼きそばやサラダをはじめ、差し入れの焼き鳥や餃子やお寿司などを皆でいただきました。
次回は来年の1月12日です。
今年も一年間、ありがとうございました。
どなた様も好いお年をお迎えください!
次回は来年の1月12日です。
今年も一年間、ありがとうございました。
どなた様も好いお年をお迎えください!
2011年12月3日土曜日
「考え続けることを止めないための」(辻井 潤一 書評)
十月末、会社派遣の震災ボランティアに参加し、宮城県の三陸沿岸地域へ行ってきた。もちろん、少しでも被災地の力になりたいという思いから手を挙げたのだが、この目で直に現地の状況を見たい気持ちもあった。出発前日、カメラを持って行くべきか、最後まで悩んだ。写真というメディアの持つ衝撃力も、無力さも、両方知っていたからだ。
出発当日に発売となった本書は、宮城県仙台市出身の写真評論家、飯沢耕太郎と、写真家とテレビディレクターという二足のわらじで活動する菱田雄介による共著であるが、二人の文章のスタンスは大きく異なる。飯沢が様々な写真家の仕事を例に挙げながら、理知的に写真論を構成しているのに対し、震災後に現地に入り撮影を行なった菱田は、実際の写真を挟みつつ、現地で見て感じたことをエッセイ調で素直に記している、といった印象だ。
また、異なるのは文章だけではなく、あることに対する二人の見解である。それは、「死者の写真」について。飯沢は、二万人近くのおびただしい死者、行方不明者が出たにもかかわらず、死者の写真がほとんど公開されないことに疑念を抱いている。アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの晩年の著作、『他者の苦痛へのまなざし』の中にある「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」という主張を引用し、死者の写真を公表すべきだ、と論じている。何が起き、何を為すべきか、帰結ではなく、思考の契機としての「死者の写真」。対して菱田は、飯沢の主張に同意しつつも、テレビディレクターとして数多くの凄惨な事件や事故、そして写真家として今回の震災の現場を目の当たりにした経験から、すべての人に現実を直視させることには抵抗があるという。少なくとも「伝え手」と呼ばれる人々が現実を知っておく必要がある、と語るに留めている。
本書は急ごしらえで作られたようで、文章には散漫な部分もやや見られるが、「今」表現しなければならない、という気概が伝わってくる一冊である。想像を絶する現実を前にした時、多くの表現者たちは、寄る辺を失ったかもしれない。それでも、表現すること、伝えることは止めない。それが本書を通じての二人のメッセージだと感じた。
結局、私はカメラを持ってボランティアに参加し、津波を被り、変色した杉林を撮影した。未だにあの高さまで波が到達したことが想像できないが、その写真によって、考え続けることはできそうな気がする。
(飯沢耕太郎/菱田雄介『アフターマス 震災後の写真』NTT出版、2011年)
出発当日に発売となった本書は、宮城県仙台市出身の写真評論家、飯沢耕太郎と、写真家とテレビディレクターという二足のわらじで活動する菱田雄介による共著であるが、二人の文章のスタンスは大きく異なる。飯沢が様々な写真家の仕事を例に挙げながら、理知的に写真論を構成しているのに対し、震災後に現地に入り撮影を行なった菱田は、実際の写真を挟みつつ、現地で見て感じたことをエッセイ調で素直に記している、といった印象だ。
また、異なるのは文章だけではなく、あることに対する二人の見解である。それは、「死者の写真」について。飯沢は、二万人近くのおびただしい死者、行方不明者が出たにもかかわらず、死者の写真がほとんど公開されないことに疑念を抱いている。アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの晩年の著作、『他者の苦痛へのまなざし』の中にある「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」という主張を引用し、死者の写真を公表すべきだ、と論じている。何が起き、何を為すべきか、帰結ではなく、思考の契機としての「死者の写真」。対して菱田は、飯沢の主張に同意しつつも、テレビディレクターとして数多くの凄惨な事件や事故、そして写真家として今回の震災の現場を目の当たりにした経験から、すべての人に現実を直視させることには抵抗があるという。少なくとも「伝え手」と呼ばれる人々が現実を知っておく必要がある、と語るに留めている。
本書は急ごしらえで作られたようで、文章には散漫な部分もやや見られるが、「今」表現しなければならない、という気概が伝わってくる一冊である。想像を絶する現実を前にした時、多くの表現者たちは、寄る辺を失ったかもしれない。それでも、表現すること、伝えることは止めない。それが本書を通じての二人のメッセージだと感じた。
結局、私はカメラを持ってボランティアに参加し、津波を被り、変色した杉林を撮影した。未だにあの高さまで波が到達したことが想像できないが、その写真によって、考え続けることはできそうな気がする。
(飯沢耕太郎/菱田雄介『アフターマス 震災後の写真』NTT出版、2011年)
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