震災から二週間ほど経った頃、代母(洗礼名の名付け親。生涯を通して信仰の先導役となることを期待される役目。男性ならば代父、いわゆるゴッドファーザーである。)からメールで添付ファイルをひとつ受け取った。中高のクラブの顧問であり恩師である代母は教育の一線を退き、米国中西部の雪深い地の、自分より老いたシスター達が暮らす修道院で奉仕しながら大学院に通っている。八〇歳まであと一息。長年英語教師として教鞭を執ってきたが、さらに宗教の教師資格を取ろうというのである。
肥満にして高血圧、飽くなき食欲と戦うこともなく、彼女のなすがままの生活習慣を見て「まだまだお迎えはこないでしょう。」と断言できる医師は誰もいまい。もはや半数以上の脳細胞が壊滅状態にあるそのおツムに何を詰め込むのか。ピカピカの新しい知識は教壇で披露されることもないままポンコツな肉体とともに昇天してしまうに違いない、と不肖の教え子ならずとも考える。「あそこは寒いんだから。外と内の温度差でさらに血圧は上がるだろうし、雪かきだって先生にはできないでしょ。ほとんどくたばりに行くようなもの。悪いこたあ言わないから、やめときなさいってば。」と止めてはみたが、耳が遠いのと相まって聞く耳を持たない。「わたしゃ行くのよ。絶対行くのよ。」と言いながら旅立った。
さらに特異な恩師のキャラはかなりのお節介。「生きているならウンとかスンとか言わんかい。」と忙しい私にせっせとメールを送りつける。時には「うちのシスター達が観たいと言っているから、ローマに行って教皇様のビデオを買ってこい。」と呆れるような命令も下す。面倒なのが、ボケ防止なのか、それとも昔の記憶は鮮明だが最近の記憶は不明瞭だからなのか、50年前に留学したイタリアが懐かしいらしく、イタリア語を交えたメールを送りつけてくることだ。イタリア語の習得をとっくの昔に放棄した私を困惑させていることがわかっていない。
とはいえ、彼女のお節介も的をすっかりはずしているわけではない。私は神学大学で学び、神学の理解という意味では代母の「導き」を必要としてはいないが、信仰の面では幼稚園児並みだからである。毎日曜日のミサには「説教がつまらない。」「日曜の朝に起きろって? ムリムリ。」と難癖をつけて行かないから、いまだに式次第が頭に入っていない。立ってはいけないところで立ちあがり、切ってはいけないところで十字を切る。祈祷文もまったく違う文言を口走るし、「さあ、みなさんでロザリオの祈りをいたしましょう。」なんて言われると、お経は勘弁してよと思いながら、携帯を耳に当て存在しない相手に「あー、それでは今すぐ確認します。」なんて言いつつ会堂を逃げだす。私が洗礼を受けたことを知った母校の機関誌に、「札付きの不良学生が卒業後二十数年を経て洗礼を受けました。神はそのときをじっと、忍耐強く待っておられたのでしょう。神には神のときがある、その言葉を体現するような事例ではないでしょうか。このようなこともあるのですから、私達も諦めずに宣教に励みましょう。」と書かれて憤慨したこともある。こんなだから、年老いた代母はしょっちゅう連絡してきては、「もうすぐ復活祭です。御復活の前には告解をして悔い改め、清々しい気持ちでその日を迎えましょう。」などとメールをよこす。” I have nothing to confess!(懺悔しなきゃならないことはなんにもありませんから)” などと教え子がキリストに向かって悪態をついているとは露ほども知らずに。
しかし、不肖の代子(信仰上の子供)も不承不承神と向き合わなくてはならぬときがある。
三月十一日、東北の太平洋沿岸部を飲みこんだ津波は、日本人の誰の心も黒い波の闇に引きずり込んだ。
人里に迫りゆく津波のその刃の先端を見つめながら、信仰を持つ者ならば誰もが、ひとりでも多くの命を救ってほしいと神や仏に祈ったはずである。どうぞ、この刃が無垢の人々を見逃してくれるように、と。
過ぎ越しの夜、贖いの羊の血を塗られたイスラエル人の家々の門を神が通り過ぎ、エジプト人の長子だけが神の手の刃に倒れた。どうぞあの夜のように、人々をその刃先から逸らせてください。ここにいる人々はすべてあなたの創った者たちで、あなたを知らない者にしても、ほとんどすべては善意の人々です。そしてすべての人があなたに比べれば無力で脆弱な人々です。キリスト者としての私の祈りは、叫びに近かった、と思う。
しかし、祈り、頭を垂れていた私は突然神に向かって顔を上げ、「なぜ?」と問うた。神はなぜ平和に暮らしていた人々の命をもぎとる行為を許したのか。神が万能であるならば、なぜ地の揺れを、ゆるい曲線を描きながら進む大波を、止めることができなかったのか。すべてのことが神の計画のひとつだとしたら、一万数千人の命を奪うことも神の計画なのか。神はそれほど無慈悲なのか。神は人を愛するが故に、「ひとり子」であるイエス・キリストを地に遣わした、と私達は教えられている。その神がなぜ人々を見捨てることができたのか。
ひょっとしたら神はいないのではないか、自分達がいると信じている「神」は思い込みの産物ではないのか。
神はいないかもしれない—————————そう思うに足る現実の中に私達はいる。
その私を見透かしたように、震災後二週間ほど経った頃、代母からファイルがメールに添付して送られてきた。ファイルの名は’Cross in the sea ’ 。まるで世界が海に飲みこまれたように、満々と水を湛えゆるやかな波を起こしている海に、突き刺さる十字架とそこに架けられたキリストの絵であった。キリストは苦しい表情を浮かべ、海も空も不気味なほど暗い青で塗られている。波間に浮かぶキリストと十字架は、死者の魂とともに漂っているように見える。これを送ってきた代母の意図は、「イエスさまは、死者の魂をその手に抱き、天に昇られた」なのであろう。しかし私の眼には、キリストは死者の魂の重さに耐えかね、苦渋の表情を浮かべているようにしか見えない。生への惜別をする時間も持てず、愛する家族を思いながら失われた命を支えることは、キリストにさえ重すぎる。そして、代母が考えているように、死者がすべて天国に迎えられたとしても、生き残った家族も救われたと言えるのだろうか。
神は耐えられない試練は与えない、キリスト者の多くが口にする言葉だ。必ず耐えられるのだから、歯を食いしばって生きていけ、と言うのである。しかし、残された泥だらけのランドセルを前にした親に「耐えられる試練」だから、と誰が言えるのか。誰がそんな試練に耐えられるのか。神にさえ耐えかねる苦しみではないのか。それでも、耐えよ、と言うのであれば、その声は神ではない。
どこかの知事が「これは天罰だ」と言った。確かにそうかもしれない。すべての人間ではないが、私達は長らく間違った価値観の中に生きてきた。心地よい生活のために限られた資源を無駄に使い、快適さをより経済的に手に入れるためにウランやプルトニウムという人間の手には負えない物質を普段の生活に近付けてしまった。電力不足を補い地球温暖化を防ぐために原子力発電所は必要だ、と考えることはあっても、暖房を消して寒さに耐えようとは考えたこともなかった。この震災は日本が新しい道に進んでいくための試練であったのかもしれない。それでも、その試練が純朴な東北の人達の上に降りかかったことに、日本人は悲しみを覚え、知事の言葉に違和感を持った。この混乱の中にあって東北人が見せた品格を我々は誇りに思うが、日本人が世界から集める尊敬がその犠牲の上に成り立っているのであれば、それは我々の望むところではない。
ノアの箱舟は、神を信ずる者だけを乗せて波を乗り切った。
この震災で命を失ったのは、神が最も愛する人々であった。高台に人々を誘導するために逃げ遅れた人、津波警報を知らせるために有線放送のマイクから離れなかった若い女性、衛星電話を取りに戻った病院職員。ノアの箱舟を神が用意していたならば、彼らこそが乗るべきだった。そして箱舟を用意することもなく波を起こしたならば、神に慈悲の心は無い。
神は何をしていたのか。波間に漂う善良な人々になぜその手を差し出さなかったのか。人や町が海に沈むことを知っていたならば、なぜあなた一人がその苦しみを背負わなかったのか、私は送られてきたキリストの絵に問いかけた。
神のなさることに非合理は無い、年老いた聖職者は受洗前の私に言った。しかし、今私達の目の前にあることは非合理以外のなにものでもない。
寄り添うべき時にそこにいなく、救いを求めて伸ばされた手を掴むことなく見捨てるならば、その神は何の意味があって存在しているのか。
昨日の五月一日は、ヨハネ・パウロ二世が福者に列せられた日であった。神の慈悲、そして栄光にスポットライトが当たる式典をネットで見ながら、歴史においては東欧の民主化の一端を担い、神より啓示を受けた預言者であった彼が生きていたら、どう私達に答えたのか。
そしてキリスト者である私は、失われた命の意味をどう説明するのか。信仰を持つ者すべてが自問しているのだと思う。
2011年10月15日土曜日
2011年10月13日木曜日
10月例会のご報告 & 12月の書評について (大洞 敦史)
本日の参加者は10名。前半に『星の王子さま』の書評を読み、後半に作文を読みました。電車事故の影響により書評をみなさんで読めなかったことは残念でしたが、8時には全員が揃い、原さんとChiaraさんの作文について活発な意見を交わしました。
例会の後はChiaraさんお手製の韓国料理をはじめ、先月同様みなさんで持ち寄ったものをいただきながら、楽しい団らんの時間をもちました。
【12月の書評について】
・特定の書籍ではなく、「原発」に関連する内容の書籍を対象とします。
・日本の話でも海外の話でもかまいません。
・11月の書評対象は、従来どおり自由です。
次回の例会は11月10日です。皆様のご健筆をお祈りします。
例会の後はChiaraさんお手製の韓国料理をはじめ、先月同様みなさんで持ち寄ったものをいただきながら、楽しい団らんの時間をもちました。
【12月の書評について】
・特定の書籍ではなく、「原発」に関連する内容の書籍を対象とします。
・日本の話でも海外の話でもかまいません。
・11月の書評対象は、従来どおり自由です。
次回の例会は11月10日です。皆様のご健筆をお祈りします。
2011年10月6日木曜日
「内側に巣くうもの」(岩井 さやか 書評)
折しも今日は台風一過の抜けるような青空の下でこれを書いているのだが、何かをすこーんと解き放ってくれるようなそんな読後感の小説だった。読みながら、自分の思春期を、内部にとぐろを巻いていた得体の知れない怪物のような苛立ちを持て余し、いたずらにそれを解き放ってみては、傍にいた母親ばかりがそのとばっちりを受けていた日々の事を思い出した。そして吐き出しても、吐き出しても内部に抱えたどろどろとしたものは、一向に消えなかった日々の事を。
この物語の主人公も、思春期の真っただ中にいる女子高生だ。家族の前ではものすごくいい子を演じているが、本当はそれが自分がかぶっているお面にすぎない事を知っている。日々、自己嫌悪の嵐が、内部に激しく吹き荒れても、そう簡単には思いを吐き出さない。攻撃の矢を外に向かって放っても、それが結局は自分に向かって返ってくることを知っている頭のいい子なのだ。だからコーヒーを飲んでは心を落ちつけているが、カフェイン中毒からも脱却したくて、熱帯魚を飼うことを思いつく。癒しの効果を期待して渋る母親を説得した彼女は、毎夜水槽の前でほぼ寝たきりの呆けた祖母と不思議な時間を持つようになる。深夜、水槽の前でだけ祖母は覚醒するのだ。
この物語では、祖母が思春期だった時代、そしてその思春期だった祖母から見た、そのさらに祖母の姿も同時並行で描かれている。年を重ねた人間の凜として生活を切り盛りしていく姿、少々の事では動じない力強さ、近すぎる存在である母親とは少し違う心地のよい距離感、核家族では味わえないもう一つ上の世代の存在が家の中にいるという安心感とそこから学べることの多さをこの物語を読みながら私は噛みしめた。かくいう私も17歳で祖父母と同じ屋根の下に住むことになって、その存在にだいぶ救われたのである。思春期、真っただ中の女子からみれば、全てを超越しているかのように見える祖母、しかしその祖母にもやはり同じように内側に抱えた何かを持て余しながら過ごした思春期があった事をこの小説は教えてくれる。
水槽という装置はなくても、最近めっきり年を取り弱々しくなった私の祖母と彼女の昔の話をしてみよう、そう思った。年を取ったからといって内部に巣くう怪物はいなくなるわけではなくて、ただ共存の仕方を習得していくだけなのだという事が薄々分かりかけてきた今だから、話し合えることがあるかもしれない。
(梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』新潮文庫、1996年)
この物語の主人公も、思春期の真っただ中にいる女子高生だ。家族の前ではものすごくいい子を演じているが、本当はそれが自分がかぶっているお面にすぎない事を知っている。日々、自己嫌悪の嵐が、内部に激しく吹き荒れても、そう簡単には思いを吐き出さない。攻撃の矢を外に向かって放っても、それが結局は自分に向かって返ってくることを知っている頭のいい子なのだ。だからコーヒーを飲んでは心を落ちつけているが、カフェイン中毒からも脱却したくて、熱帯魚を飼うことを思いつく。癒しの効果を期待して渋る母親を説得した彼女は、毎夜水槽の前でほぼ寝たきりの呆けた祖母と不思議な時間を持つようになる。深夜、水槽の前でだけ祖母は覚醒するのだ。
この物語では、祖母が思春期だった時代、そしてその思春期だった祖母から見た、そのさらに祖母の姿も同時並行で描かれている。年を重ねた人間の凜として生活を切り盛りしていく姿、少々の事では動じない力強さ、近すぎる存在である母親とは少し違う心地のよい距離感、核家族では味わえないもう一つ上の世代の存在が家の中にいるという安心感とそこから学べることの多さをこの物語を読みながら私は噛みしめた。かくいう私も17歳で祖父母と同じ屋根の下に住むことになって、その存在にだいぶ救われたのである。思春期、真っただ中の女子からみれば、全てを超越しているかのように見える祖母、しかしその祖母にもやはり同じように内側に抱えた何かを持て余しながら過ごした思春期があった事をこの小説は教えてくれる。
水槽という装置はなくても、最近めっきり年を取り弱々しくなった私の祖母と彼女の昔の話をしてみよう、そう思った。年を取ったからといって内部に巣くう怪物はいなくなるわけではなくて、ただ共存の仕方を習得していくだけなのだという事が薄々分かりかけてきた今だから、話し合えることがあるかもしれない。
(梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』新潮文庫、1996年)
2011年10月3日月曜日
「オリヴィアを探せ」(原 瑠美 書評)
オバケが見える水中眼鏡を手に入れた。眼鏡をかけて水中をのぞくと、魚の幽霊がうようよしている。それを持ってティモシーとワローの兄弟は、死んだ妹を探しにいく。ティモシーは、本当は妹を見つけたくなんかない。もう二年も前に海にさらわれた彼女は今頃どんな姿になっているかわからないし、たとえば脳みその代わりにウナギが骸骨の中で光っていてもおかしくないからだ。しかし毎日オリヴィアを探しに出かける。それがなぜかやめられない。
カレン・ラッセルのデビュー作である本書は、奇怪な物語ばかりを集めた短編集だ。幽霊と駆け落ちしようとする姉を追いかけて月夜に繰り出す少女、歴史上のあらゆる悲劇を夢に見てしまう少年、そして表題作の「狼に育てられた女の子たちの家」では、狼人間の子孫である少女たちが、修道院で厳しい教育を受ける様子がグロテスクな細部にいたるまで語られる。しばしばぞっとさせられるようなお話に、なぜかとても惹きつけられる。ある花屋の店先で、友達が、「ここはきらきらしている」と言っていた。大切に育てられている植物たちが、光を発しているように見えたという。それと同じ感じがする。何かがどこかで光っているような気がして、読みはじめるとやめられない。中でも「ホーンティング・オリヴィア」は、この本の中に散りばめられた光の源に、最も接近できる作品だ。
巨大なカニの甲羅で作ったソリで遊んでいるうちに、小さなオリヴィアが浜辺から姿を消した。十二歳未満の子供をそこで一人で遊ばせてはいけないという決まりだったのに、ワローもティモシーもそれぞれ家でやりたいことがあって、まだ八歳半のオリヴィアを置いてきてしまったのだ。オリヴィアの体は見つからなかった。大人が諦めた後も妹を探し続ける兄弟は、オリヴィアが残した絵をたよりに、ついにここだと思われる場所を見つける。まっくらな洞窟に、発光するミミズが群生している、おそろしいところだ。穴の底には幽霊のオリヴィアがただよっているかもしれないと考えて、ティモシーは身震いする。それでも勇気を出して息を吸い込み、海にもぐった。
暗い海の底でティモシーが出会ったオリヴィアは、曇った水中眼鏡ごしに見える光。なんだか私たちがいつも探しているものに似ている。それはどこにもないかもしれないし、どこにでもあるかもしれない。それでも探し続けるとき、突然見える光がある。
カレン・ラッセルのデビュー作である本書は、奇怪な物語ばかりを集めた短編集だ。幽霊と駆け落ちしようとする姉を追いかけて月夜に繰り出す少女、歴史上のあらゆる悲劇を夢に見てしまう少年、そして表題作の「狼に育てられた女の子たちの家」では、狼人間の子孫である少女たちが、修道院で厳しい教育を受ける様子がグロテスクな細部にいたるまで語られる。しばしばぞっとさせられるようなお話に、なぜかとても惹きつけられる。ある花屋の店先で、友達が、「ここはきらきらしている」と言っていた。大切に育てられている植物たちが、光を発しているように見えたという。それと同じ感じがする。何かがどこかで光っているような気がして、読みはじめるとやめられない。中でも「ホーンティング・オリヴィア」は、この本の中に散りばめられた光の源に、最も接近できる作品だ。
巨大なカニの甲羅で作ったソリで遊んでいるうちに、小さなオリヴィアが浜辺から姿を消した。十二歳未満の子供をそこで一人で遊ばせてはいけないという決まりだったのに、ワローもティモシーもそれぞれ家でやりたいことがあって、まだ八歳半のオリヴィアを置いてきてしまったのだ。オリヴィアの体は見つからなかった。大人が諦めた後も妹を探し続ける兄弟は、オリヴィアが残した絵をたよりに、ついにここだと思われる場所を見つける。まっくらな洞窟に、発光するミミズが群生している、おそろしいところだ。穴の底には幽霊のオリヴィアがただよっているかもしれないと考えて、ティモシーは身震いする。それでも勇気を出して息を吸い込み、海にもぐった。
暗い海の底でティモシーが出会ったオリヴィアは、曇った水中眼鏡ごしに見える光。なんだか私たちがいつも探しているものに似ている。それはどこにもないかもしれないし、どこにでもあるかもしれない。それでも探し続けるとき、突然見える光がある。
(Karen Russell, St. Lucy’s Home for Girls Raised by Wolves, Vintage Books, 2006.)
2011年9月28日水曜日
「被災者の死を「二人称の死」へ変換する試み」(近藤 早利 書評)
この本には、東日本大震災の際、実際にあった事柄をモチーフとした短編マンガが九編とコラムが一編、収められています。
孫を守ろうと抱きかかえたまま、亡くなったおばあちゃん。
生前の母に対する態度を悔いる母子家庭の娘。
飼い主であったおじいさんを喪った犬のタロ。
職業的使命に従うよりも身の安全を考えてしまったがゆえに、患者を守れなかったことに苦しむナース。
頼りないと思われていたが、住民の多くを救って殉職した警察官。
放射能による高濃度汚染地区からの退去命令に従わない老夫婦。
被災者が家族の死を受容してふたたび立ち上がるまでを見届けた自衛隊員。
川縁の瓦礫の山を片付け、まわりを菜の花で一杯にしたおじさん。
その後、コラムとして、作者自身のボランティア体験記が挟まれ、最後に「再生」と題する一編があります。
柳田邦男さんは、死には「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があるといわれました。一人称の死は、自らの死。二人称の死は、家族や親しい友人など、自分の生活の一部を形づくっていた人の死。そして、第三者の死。
しかし、東日本大震災で亡くなられた人の数を思うと、もうひとつ、統計的な死、というようなカテゴリーを付け加えなくてはならない気がします。
震災後、テレビやネットで悲惨な現実と悲しい訃報に接する度に、大泣きしてばかりいた作者は、親しい人から勧められて、泣き続けるエネルギーをマンガと文章に定着することを決意しました。それは、統計的な死を、二人称の死に変換し、死者たちを彼岸から私たちの心の中に引き戻そうという試みだったといえましょう。
作者の試みは、最初ブログで発表され、ツイッターを通じて大きな反響を呼ぶこととなり、一冊の本に編まれることになりました。
最後の一編「再生」の中で、ひとり遺された母子家庭の娘の山中ゆかりは、卒業生総代として答辞を読むことになります。私は、この答辞の文章のなかに、間違ったシステムの上のみせかけの繁栄に安住してしまっていた我々が、もっとも嚙み締めなければいけない言葉が書かれていると感じています。その言葉を、ここに引き写したい気持ちを抑えるのが苦しいですが、やはり、その部分は、この本を手にとって読んで頂きたいと思います。
(みすこそ『いつか、菜の花畑で〜東日本大震災を忘れない』扶桑社、2011年)
孫を守ろうと抱きかかえたまま、亡くなったおばあちゃん。
生前の母に対する態度を悔いる母子家庭の娘。
飼い主であったおじいさんを喪った犬のタロ。
職業的使命に従うよりも身の安全を考えてしまったがゆえに、患者を守れなかったことに苦しむナース。
頼りないと思われていたが、住民の多くを救って殉職した警察官。
放射能による高濃度汚染地区からの退去命令に従わない老夫婦。
被災者が家族の死を受容してふたたび立ち上がるまでを見届けた自衛隊員。
川縁の瓦礫の山を片付け、まわりを菜の花で一杯にしたおじさん。
その後、コラムとして、作者自身のボランティア体験記が挟まれ、最後に「再生」と題する一編があります。
柳田邦男さんは、死には「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があるといわれました。一人称の死は、自らの死。二人称の死は、家族や親しい友人など、自分の生活の一部を形づくっていた人の死。そして、第三者の死。
しかし、東日本大震災で亡くなられた人の数を思うと、もうひとつ、統計的な死、というようなカテゴリーを付け加えなくてはならない気がします。
震災後、テレビやネットで悲惨な現実と悲しい訃報に接する度に、大泣きしてばかりいた作者は、親しい人から勧められて、泣き続けるエネルギーをマンガと文章に定着することを決意しました。それは、統計的な死を、二人称の死に変換し、死者たちを彼岸から私たちの心の中に引き戻そうという試みだったといえましょう。
作者の試みは、最初ブログで発表され、ツイッターを通じて大きな反響を呼ぶこととなり、一冊の本に編まれることになりました。
最後の一編「再生」の中で、ひとり遺された母子家庭の娘の山中ゆかりは、卒業生総代として答辞を読むことになります。私は、この答辞の文章のなかに、間違ったシステムの上のみせかけの繁栄に安住してしまっていた我々が、もっとも嚙み締めなければいけない言葉が書かれていると感じています。その言葉を、ここに引き写したい気持ちを抑えるのが苦しいですが、やはり、その部分は、この本を手にとって読んで頂きたいと思います。
(みすこそ『いつか、菜の花畑で〜東日本大震災を忘れない』扶桑社、2011年)
2011年9月23日金曜日
9月22日例会のご報告(大洞 敦史)
本日の参加者は、初参加の方2名を含めて13名。初回以来の盛況ぶりでした。例会では作文1本(志村さん)と書評4本(近藤さん、原さん、辻井さん、岩井さん)をとりあげたのち、10月以降の方針について話し合いました。主な変更点を以下に記します。
【作文】
・字数は1900字〜2000字とする。(テーマは従来通り任意)
【書評】
・「あらかじめ本を指定する」方式と従来通りの方式を毎月交互におこなう。
・10月の対象書籍は管啓次郎訳『星の王子様』(角川文庫、角川つばさ文庫いずれも可)
・11月は従来通り。12月は「あらかじめ本を指定する」方式。
・12月に対象とする本は10月の例会の際に決める。推薦したい本がある人は、10月の例会までにメーリングリスト上でプレゼンテーションをしてください。
・書き上がったら、書評用テンプレート(Wordファイル)を使って大洞に送る。
【その他】
・Google Docsなどのサービスを使ってインターネット上でファイルを共有し、例会の前に読めるようにしてはという提案も出ています。一方、そうすると例会に出る楽しみが薄れるという意見も。今後の検討事項といたしましょう。
例会終了後は、皆様からの差し入れをいただき、管先生と近藤さんによる弾き語りを聴きながら、なごやかなひとときを過ごしました。特にChiaraさんお手製の豚のリエット、鮭のムース、トリュフ入りチーズ、近藤さんお手製のライスサラダは大好評でした。皆様ありがとうございました。
次回は10月13日(第二木曜)19時からです。来月またお会いしましょう!
2011年9月8日木曜日
大塚あすか&原瑠美から提案です。
10月から、ちょっと新しいことしてみませんか。
1.書評は事前に参加者が対象書籍を読んでくる。
2.作文は毎回チャレンジ目標を設ける。
(例:同じテーマで長文と短文を書く[文字数を削る練習]、 同じテーマで全員が書く)
真剣に読み書きに取り組むメンバーが集まる読み書きクラブ。
新しい目標を持つことで、 さらに議論を深めるきっかけになると思います。
実施期間は2011年10月から2012年3月、 ちょうど大学の後期にあたります。
管先生から10月の最初の書評課題をいただきました。
『星の王子さま』。
書評用のテンプレートを大洞さんからメーリングリスト宛に展開し ていただきます。
次の半年間、継続して参加をご希望の方で、 まだMLに登録されていない方は
大洞さんまでご連絡ください。
この提案に関するご意見などもMLへどうぞ。
よろしくお願いします。
* * *
大洞からの追記です。
9月22日の例会では、作文と書評を従来どおりにとりあげる予定です。
投稿数はまだどちらも0本ですので、ご寄稿をお待ちしています。
(寄稿予定の方は早めにお知らせいただけると助かります)
10月の例会は13日(木)の19時からです。
書評では管啓次郎訳『星の王子さま』(角川文庫版、角川つばさ文庫版いずれも可)を対象にします。
例会での議論を深めるために、執筆なさらない方も事前に読んでいただけますようにお願いします。
* * *
大洞からの追記です。
9月22日の例会では、作文と書評を従来どおりにとりあげる予定です。
投稿数はまだどちらも0本ですので、ご寄稿をお待ちしています。
(寄稿予定の方は早めにお知らせいただけると助かります)
10月の例会は13日(木)の19時からです。
書評では管啓次郎訳『星の王子さま』(角川文庫版、角川つばさ文庫版いずれも可)を対象にします。
例会での議論を深めるために、執筆なさらない方も事前に読んでいただけますようにお願いします。
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