2012年10月20日土曜日

海の美しい<浜辺>に(大塚 あすか 作文)


 朝露で濡れた下草を踏み、たどり着いた展望台から身を乗り出すと、遥か峰々の間にうっすら漂う雲の波が見えた。六月の夜明けは早く、登りきった陽の下で見る雲海は、爽やかではあるものの幻想的とは言いがたい。今朝の雲海はコンディションがいまいちで、海と言っても遠目に浅瀬を眺める程度。それでも隣に立つ両親は嬉しそうな表情を見せ、その姿に、旅程を組んだ姉もほっとしているようだった。

 父の退職祝いにと企画をはじめた家族旅行は、紆余曲折の末、一年遅れで初夏の北海道行きに落ち着いた。両親と姉とわたし、このメンバーで旅行をしたことは過去に数度もない。父は仕事柄土日や盆正月に休めず、昼夜を問わず呼び出されるどころか、勤務地外に出ることにすら届出が必要だった。わたしは十八を過ぎて旅を学び、それは誰かと分かち合うためのものではなく、ひとり気ままに動き回るためのものとして確立した。
 子どもたちが独立してはじめて、家族旅行の思い出がぽっかり欠けていることが気になりはじめたのか、両親はときおり後悔の言葉を口にした。父は今や自由の身となり、旅を妨げるものはない。

 前日は、トラブルにより予定が遅れ、ホテルへ向かう道中で日が暮れた。それどころか、信用ならないカーナビに導かれ迷い込んだのは、けもの道としか思えない、車一台通るのがせいぜいの山道。携帯電話の電波が途切れる頃には車内は沈黙と緊張に包まれ、激しい揺れの勢いで車が崖から落ちては大変だとばかり、レンタカーのハンドルを握る姉の手には血管が浮いた。
 そんなこんなで、ようやく舗装された道路に出て、黒々とした山の狭間に、バブルの遺跡と呼ぶにふさわしいツインタワーが目に入ったときも、場違いな毒々しさへの驚きより安堵が勝るほどだった。冒険譚を訴えるわたしに、ポーターの若者は、「僕は地元の人間ですけど、あの道は一度しか通ったことありません。熊も出ますから」と言った。
 それもこれも、このリゾートホテルの売りである雲海見物のためだった。わたしたちにとって雲海は特別なものだ。誰もあえてそれを口にはしないけれど。

 出産予定日を一ヶ月過ぎていた上に逆子だった姉は、分娩時のトラブルにより視神経に傷を負った。遠視用の分厚い眼鏡は、子どもたちのからかいの対象としては申し分のないもので、長い間、本人と両親を苦しめた。
 姉は小学校卒業までに二度の手術を受けた。地元に適当な病院がなかったのか、県境を越え熊本大学の付属病院にかかっており、完治するまで長期にわたって、三ヶ月に一度の定期検査のため熊本へ通い続けることを余儀なくされた。
 その日だけは父も仕事を休み、県外への外出許可を取った。大学病院の待ち時間は恐ろしく長く、朝一番に受付してもらうためには真夜中に家を出る必要があった。今のようにコンビニエンスストアがあったわけではないので、母は通院の前夜、ほとんど眠らず弁当を作った。
 真っ暗なうちにたたき起こされ、寝間着のまま毛布に包まれた姉とわたしは後部座席に詰め込まれる。窓越しの星空に見とれるものの、車が動き出して間もなくまた意識を失う。ひとしきり眠った後で目を覚ますのが、決まって阿蘇に差しかかる頃だった。カルデラ地形のせいもあるのか、阿蘇の雲海はそれは見事だった。朝焼けを飲み茜とも紫ともつかない複雑な色合いをした波が足下まで打ち寄せてくる、まさしく海だった。
 でも、もしかしたら阿蘇のことは、記憶の中でいくらか美化しているかもしれない。幼い姉やわたしにとって、若い両親にとって、それは唯一といっていい家族で遠出する機会だった。宿泊も観光も伴わないけれど、特別な日だった。

 あの涙ぐましい通院の日々、両親はいったい幾つだっただろう。そう、多分、二十代半ばから三十代にかけて。
 姉とわたしは、すでに当時の両親の年齢を超えた。叱られてばかりだった子どもが、今では逆に「現代の常識」を親に説く。親子の立ち位置は少しずつ確実に変わりつつあると同時に、それに対する違和感もある。独身である姉とわたしは、「じいじ、ばあば」という言葉に変化を委ねることも叶わない。
 還暦前後の両親、三十代半ばの姉とわたし。家族での旅行はどこかぎこちない。両親は、過去に実現しなかった家族旅行を取り戻そうとしている。姉とわたしは、新しい家庭を作るという、おそらく両親が密かに抱いているであろう期待に添えずにいることへの後ろめたさを抱え、その罪滅ぼしの意図を持つ。いわば、欠けているものを埋めるための旅。

「阿蘇の方がすごいよね」と、占冠の山々を眺めながら口に出してみた。少なくとも、今目の前にある光景と比較可能な記憶を共有している。それが、様々な思いを打ち消し、家族をつなぐための糸であるような気がした。
「そうだよね」
 同意の言葉とともに、父が、母が、姉が、その細い糸を掴むかのように思い出を語りはじめる。

2012年8月18日土曜日

いつか<虹>色にそまる(原 瑠美 作文)


思わず笑ってしまった。
「原さん、虹の根元にはねえ、おっさんが七人ずつ立って照らしてるんだよ。ライトで。」
 そういったのは出張で岐阜に行ったときに同行した担当者で、私たちは仕事が終わってオフィスに戻る車が山道にさしかかったときに、夕空におおきな弧を描く虹(しかもダブルレインボー!)を見たのだった。その年は寒さがなかなか来なくて、京都に紅葉を見に行ったのにまだ青々としていたなんて話をよくきいたが、岐阜の山中では十一月も下旬となるとさすがに木々は美しく色づいていた。ゆるやかな下り坂の道の先は、重なりあって伸びた黄色い葉に隠れて見えない。こっちの山からあっちの山へ、橋を渡すようにくっきりとかかった虹の下を車はくぐっていった。
 「岐阜の伝説だよ。」おちゃめな担当者がそういうので、私はまた笑いながら外の景色に目をうばわれていた。
 それまでは虹というのは雲から雲へとかかるもので、雲が手の平のように上下左右に移動するにつれていろいろな形の虹ができると勝手になんとなく想像していた。もちろんそんなはずはないのだが、私は自分のいんちきセオリー以上のものをこれまで求めたことはなく、虹について深く考えてみたこともなかった。しかし夕立のあとの晴れ上がった空に浮かぶそれを見ていると、たしかに「根元」がどうなっているのか気になってくる。岐阜の虹おじさんたちはそれぞれ手に色のついたライトを持って、定位置に立っているらしい。虹は左右のライトから照らされ、対応する色どうしの光線が空中でくっつく。正確さを要求される、たいへんな作業だ。
 絵本作家のデビッド・マッキーも、虹の根っこに注目している。『エルマーとにじ』では不思議な白い虹が現れ、ほかの動物たちがこわがるなか、パッチワークのカラフルな象のエルマーだけが勇敢にも虹の根元を探しにいく。色をなくした虹に自分の色を分けてあげようというのだ。ついに見つけた虹の端にエルマーは近づいていくが、そこでなにが起こっているかは描かれない。想像力がかきたてられるシーンだ。
 虹の両端に思いを馳せることは、その一方を頭、もう片方を尾ととらえる感覚にも容易につながっていくが、世界には虹をヘビだと考える文化もあるらしい。とくに有名なのがオーストラリアのレインボー・サーパント、虹ヘビだ。アボリジニの言い伝えによるとこの虹ヘビがなにもなかったところから世界を創り、地下で眠っていた生きものを地上に連れてきたのだという。まったいらだった大地に虹ヘビが頭を打ちつけると土がえぐられた場所が池になり、盛りあがった土は山になり、するすると細長い体が通った跡は川になった。日本でも古来ヘビは水の神として祀られることがおおく、ヤマタノオロチなどの大蛇伝説もあるが、大地の凹凸や水の流れを見てその由来を空に見出した人々の目とそこから語り継がれる物語は新鮮なおどろきをくれる。
 それぞれなんの歴史的、地理的関連もなく、最初のものなんて突拍子もない発想でしかない虹伝説だが、こうして並べてみると糸のようにつながっていく感じがしておもしろい。まったく異なるようで境界線がどこにあるのかよくわからない色の集合体である虹の性質が、脈略のない遊び心を刺激してくれるのだろうか。
 最後に虹を見たのはいつだったか、思い出せない。しかし印象的な虹の記憶は時間軸を無視してぽんぽんと頭に浮かんでくる。ホノルルで、海に背を向けて山のレストランへと向かうバスから見た虹。屋久島で、これまたバスの窓から運転手に指差されて見た海に浮かぶ虹。ダブルレインボーにおかしいほど感動している男が撮影した動画がYouTubeにアップされていて、友達が送ってくれたそのURLをクリックしてパソコンの画面で見た虹、虹の映像。ちいさいころ、はじめて見た虹(「はじめて」の記憶は思い出すときによって変わるくらいあいまいでいて、強烈でもある)。おおきくなって新しい国に住みはじめて、そこではじめて見た虹。
 ふと見上げて虹が見えたら「あっ」といってしまう。思わず笑顔が広がるのを感じるのは、私のなかにも虹伝説の種がころがっているからだろうか。そこからいつか芽が出るとすれば、独立した色ではなく、色と色のあいだの微妙な調子を持ったものになればいいと思う。世界中の伝説とつながれるように。
 夏前に買って愛用している半ズボンについているベルトをキュッと締める。暗いモスグリーンの生地に、虹色のベルトがよく映える。その端にはおじさんも象もいない。いまのところ。

海の美しい<浜辺>に(作文)


ああ海が見たいんだ、と気づく瞬間の妙にしっくりくる感じ。どうして、と次に問う声もすっかり呑みほしてくれるから、わたしはどうしても海が見たい。面倒な説明を一番向こう側へと追いやって、足はもう、潮のにおいのする方へと、ひと足先に向かっている。
 一年のはじまり、一月の終わり。卒業論文の提出締切を目前に、溜め込んだ言葉で消化不良を起こし、同じく白い顔を木枯らしにさらしてげっそりしていた友人Nと、江の島へ向かった。冬に江の島へ行くのは初めてだった。特に目的はなかったので、おいしい鯖でも食べにいこう、とだけしめし合せて、江の島行の切符を買った。書くことに行き詰って思いつめていたからか、普段は過剰に上乗せされる海への期待を準備する間もなく駅に降り立ち、ごく自然に道路の向こう側に海の気配を感じながら、横断歩道の手前で、信号が青く切り替わるのを気長に待っていた。
 幅の広い道路は片瀬海岸に沿って湾曲しながら一本、気持ちよさそうに、けれども少し気だるげに伸びている。そこへ、駅の方から続く中道がT字に交わり、その一画にある店先には生しらす丼、地魚のなめろう汁、鮪ほほ肉の竜田揚げと、読みあげたくなるような文字が躍る。ちょうどお昼を過ぎたころで、店の奥からは調理場の熱気が絶えず漏れ出してくるようだった。となりで信号待ちをしていた恋人同士が、気がつけば店の暖簾をくぐっている。道路の向こう側には、海の気配。少し前に、コンクリートの塀より上にチラとその一部を見たような気もしたし、高いところからすっと伸びている空の濃く垂れこめた部分を海と勘違いして、ほんとうはまだ海を目にしていないのかもしれなかったが、どっちでも構わなかった。とにかく、海は近い。経験から確信するのではなかった。初めて会う人のように新鮮で、しかも昔から隣にいたかのように親しげな、内側からどうしようもなく疼いてくる感じが、近づいてくる海との距離を、精確に伝えていた。いつかのあの感じを取り出してきて、全身でその場にそれを感じる、それを見る、それを嗅ぐ。海はいつも、そうやってわたしを別の場所へと密かに繋げた。
 
アントワープ。もうひとつの海岸線。信号待ちをしていると、広い道路に観光客むけの馬車が現れた。自動車を軽々と見下ろす白毛と栗毛の大きな馬が二頭、舗装された硬い道を鳴らしながら闊歩する。動物と機械が、道路の上で横並びになる。
三日前の夜にブリュッセルに着き、予約しておいた安ホステルが見つからず、重たい鞄を背負って夜中の二時過ぎまで見知らぬ街をさ迷い歩き、何とかして見つけ出した別のホステルに、二夜分のベッドの確約をとった。アントワープを訪ねた日、すでにブリュッセルに帰る場所はなく、駅に荷物を預けて、夜中にイギリスへと出航する船に乗ることになっていた。
広場と広場を繋げる迷路のようなブリュッセルの街並みにくらべ、アントワープでは方角が明らかだった。駅から港の方まで、道はほぼ例外なく縦と横に走る。港に歩を進めるごとに、街はころころと表情を変えて脈絡がない。アントウェルペン中央駅から、人気のないコンクリートの道路。そこへダイヤモンドの商店が立ち並ぶ通りが何の気もなく現れ、ほとんどシャッターの閉じられた店先には(いつか見たギャング映画に映し出されたいかがわしいダイヤモンド街の活気は見られなかった。休日にダイヤは売らないのか)小声で立ち話をする男たちが点々としている。すると今度は道が大きくひらけて、手足の細い女の子たちが腕にショッピングバックをぶら提げ、街を鮮やかにかき回す。ところが大通りから気まぐれに小道へと逸れると、一変して色調は下がり、着工してどれほどの月日を経たのかもあやしい建設現場が、グレーのシートに覆われて黙っている。何も被っていない建物も、色形が疎らなレンガとガラスの重なりで、風の抜けない場所にあっては風化も出来まいと、同じくじっと身じろぎもせずに、何かを待っているようだった。
横切ってゆく馬車を見送り、道路の向こう側へと踏み出す。横に広く走る道路は、馴染みのものを予告していた。日が、港の方にぐんぐんと傾いていく。古い建物は日陰からぬっと顔を出し、然るべく風化の作用を受けて、赤茶けた砂の城に似た。馬車も建物も大きくて立派だった。立派であればあるほど、地面から少しだけ浮いたおもちゃのように、どこかはぐれてしまったような印象を与えた。

繰り返し打ち寄せる波音が耳の鼓膜を支配して、繰り返し訪れる記憶の断片をばらばらの場所に置き続ける。あの時とは、どの時だったのか、足の下に、砂浜はあったのか、なかったのか、道路が繋いでいたのは、どことどこだったのか。行き着くことが帰ることにぴったりと寄り添う時、人はやすらかに顔がない。そうして顔をなくしたのっぺらぼうが、気がつけば店の暖簾をくぐっていて、おいしい鯖を頬張っている。

平成生まれの昭和(作文)


 平成という元号が始まってちょうど一年が経った頃に、わたしは生まれた。一九九〇年。世の中はバブル絶頂期にして末期。「バブル」という言葉を知ったのはそれから随分あとのことだし、「バブル」という現象を理解するのに、とても二十年では足りなかった。だから今でもその言葉から先には、何の連想も生まれない。
バブルとその崩壊の境目で、わたしの三つ子の魂は形成された。そのままうつうつと眠り込んでいくのか、それともこれから目覚めていくのか、どちらともつかないぼんやりとした時間の中を、特別に好きなことも、特別に嫌いなことも自覚しないまま、ただ漂っていた。いま、そんないわゆる少女期のようなものを、当時の感覚で手繰り寄せようとすると、うまく輪郭がつかめない。シルエットは嵐のまえの雲行きを真似て、気まぐれに記憶をにじませるだけ。《極度の引っ込み思案だったわたしは》という出だしで、その時期を語ることも出来るし、《生来の目立ちたがり屋だったわたしは》という切り口で同じ時期の自分を語ることも、不思議なことに、出来てしまう。それが「平成」というキャラクターにまみれた時代に生まれたからなのか、「少女期」特有のブレやすさからなのか、あるいはわたし個人の特質に原因があるのかは、今のところわかっていない。
ただ、そのぼんやりとしただけの何かに強烈に惹かれはじめ、それが自分にとってどんな意味をもつのか、言葉に置き換え、人に伝えることはできるのか、そんなことが無性に気になり始めた頃、同時に起こっていたことがある。

自分の生まれた年を尋ねられて「平成二年です」と答える、この儀式的なやりとりが、流行りのアイドルグループの名前を口にさせられている時のような、むず痒い恥ずかしさなしには出来なくなってしまったのだ。例によって昭和生まれの人たちは、「平成二年」という言葉を耳にした瞬間「平成かあ」「二年かあ」と反射板のように感嘆符を連発し、その間わたしの顔に「平成二年」を照合させようと一度は努力するのだけれど、取り入って続く言葉も見つけられず、笑顔を張り付けたままそこに立っている。残されるのはいつも、「平成」というプラカードを持った行列の二番目からあやまって先頭に押し出されてしまったときのような、間の悪さ。とはいえ列からはみ出ていても、列に並んだままでも、「平成」というプラカードが視界にちらつく限り、わたしはわたしの滑稽さを逃れられない。「好きで並んでいたわけじゃない!」と、昭和のタスキ掛けの中に潜り込んでしまいたくもなる。

特に何も考えず、ただヘイセイの中にいた頃、わたしは得意げに「平成二年生まれ」を口にしていた。親から買ってもらった真新しい靴を見せびらかすのと似て。そこに「ショウワの靴なんて、古くさいね!」という気持ちが混ざっていなかったと言えば、嘘になるだろう。しかしそれがコッパズカシサへと変わった時、わたしのエゴはひそかに触手をのばし始め、まるで他人を相手にするように、ぼんやりとヘイセイに馴染んでいた頃のわたしを辿り、なぞり、何もないところを想像で埋めて、目まぐるしく書き変えていた。(もともと書かれてはいなかったものを、書き変えるというのはおかしい。でも確かに、書かれてはいなくてもそれはそこに何か別のかたちであったのだ
平成への態度と相反するように、平成以前への憧れは強まっていく。それは、元号によって区切られた具体的な時代のことではなかった。昭和を生きた人たちが「あの頃はよかった」と述懐する、「あの頃」とも違っていた。どう足掻いてもたどり着けない、断絶の向こう側。色調の違う同じ絵。線はなぞれるのに、身を落とし込むことが不可能な空間。そのくせ、割り切って諦めることも許してくれない、わたしがありえたかもしれない場所。憧れの対象が昭和時代でもなく、昭和時代を生きた人々の記憶でもないとすれば、それはきっと自分自身の中にあるはずだった。

たとえばそれが「昭和」というかたちをとって、わたしを見つめ返す。「昭和」に猛烈に嫉妬しながら、同時にわたしはその昭和の場所に立ってもいて、だからこそ「平成二年」のわたしに同じくらい焦がれている。「平成二年生まれ」の〈今・ここ〉で文を書いている私に、ではない。平成に何の気もなく生れ落ちたばかりの、まだ「平成」も、「昭和」も、おとなたちだけが必要とする暗号でしかなく、江戸に生まれていようが縄文に生まれていようがお構いなしに、ひたすら熱の集まる場所へと中ることが世界のすべてだったわたしに、あこがれている。彼女はヘイセイの中で、平成以前を生きていた。それはたぶん、彼女を取り巻く人たち、まだ「平成」という言葉に馴染みきれず、昭和とバブルのさりげない延命を信じていたショウワな大人たちによって守られた、「ヘイセイ生まれの子ども」のための世界だった。

2012年7月27日金曜日

五月の<風>が吹いてきた(大塚 あすか 作文)


 4年間勤務した福岡から東京への赴任が決まり、部屋を探しに上京した日のことを覚えている。いくつか譲れない条件があり、新宿の雑居ビルにある小さな不動産会社に、わたしは7時間も居座った。若く経験の浅い営業では話がまとまらないと見かねたのか、途中からは店長が目の前に座った。もともとは大手自動車メーカーで法人営業を担当していたという店長は、さすがに話し上手で、物件を探し勧めるのもうまかった。
 夕方になり、ようやく内見にこぎ着けた部屋で、内装を確かめるわたしをよそに、店長はまずベランダに面した窓から外を眺め、落胆したように呟いた。
「ああ、これ、駄目っすね」
 彼に背中を向けてクローゼットの広さを調べていたわたしは、何がいけないんですか? と訊ねる。築年数も浅く、鉄筋コンクリートの二階角部屋、広い窓。小さいけれど脱衣所と洗面台もあり、一人で暮らすには十分な広さ。ガスコンロが一口であることを除いては、理想的な部屋であるように思えた。
「墓です」
 その言葉に振り返ると、ベランダから道路を挟み、ちょうど見下ろす位置に墓場があった。マンションの向かいにお寺があり、その敷地内に墓地があるのだ。うっそうと木々に囲まれ、いくつもの墓石や卒塔婆が見える。
「わたし、気にしません。だって、死んでいるんでしょう」
 生きている人の方がよっぽど怖いと思いませんか、と問いかけると、店長は同意しながら、しかし呆れたような表情を見せた
「確かにそのとおりですけど、そういう考え方をする人は多くないですから」

 わたしはその部屋を契約し、お寺と墓地を窓の外に眺める日々は5年目を迎えた。
 学校とお寺に囲まれた部屋は都心からの距離に見あわないほど静かで、多くの木々に囲まれている。春には学校の桜が花びらを散らし、秋には寺のイチョウがまぶしい黄金に染まる。白いカーテンをかけているので、夜明けの早い時期は目覚ましよりも早く、鳥のさえずりと窓から差し込む日の光で目を覚ます。カーテンに映り込んだ枝が影絵芝居のようにゆらゆらと揺れるのは、いくら眺めても飽きない。

 福岡勤務の最終日、わたしの涙腺は決壊した。まさか転勤くらいで泣くはずもないと思っていたのに、しゃくりあげて言葉も出なくなった。贈り物で膨れ上がったカバンを手に泣きながらタクシーに押し込まれ、最終便の飛行機で東京へ向かった。
 それまで4年間暮らしたのは、広いロフトのついた心地よい木造アパートの一室だった。剥き出しのコンクリートが目立つ新しい部屋に足を踏み入れると、空気はひんやりと冷たく「よそさま」の匂いがした。前の休みにいったん上京し、おおよその荷物は運び入れてあった。お湯も出るし電気も点く。でもここはよその家だと思った。つい数時間前まで博多にいて、でも今のわたしはこんなところにいて、明日の朝都心へ出勤するのだ。何でこんな変なことになっちゃったんだろう、およそ現実感を失った頭で考えた。
 翌朝、玄関から踏み出そうとして、足をくじいた。福岡の部屋は、玄関と外の共用廊下の間にちょっとした段差があったのだと、そのときはじめて気づいた。4年間一切意識しなかったようでいて、ほんの数センチの段差を足裏はしっかりと記憶していた。新しい部屋で、着地のタイミングを裏切られた足は、一歩目をしくじった。
 寝ぼけ眼で毎朝毎朝、わたしは懲りずに玄関でつまずき続ける。ようやく足裏が新しい間合いを覚えた頃、帰宅時に感じていた部屋の冷たさはなくなっていた。
 「よそさま」だった部屋はいつしかわたしの部屋になっていた。

 今年の春は雨が多く、せっかくの連休のほとんどを、わたしは部屋の中で過ごした。ごう、と強い風が鳴り、木々のざわめきが追いかけ、さらに雨粒が窓を叩く不規則なリズムが重なる。それらの音は、不穏だけれど、心地良く響く。そういえば、こんな感じの歌があったな。東京に大雨が降り続く日々を歌った曲。「まるで魚になった気分だよ」と、思い出して口ずさんでみる。—―「まるで、水槽の中の魚」。

「まるで水を得た金魚だな」
 東京へ転勤して1年近く経った頃、出張ついでに会いに来てくれた福岡時代の上司が言った。異動が決まったときはずいぶん心配してくれた、本当にお世話になった人だった。魚、でなく金魚、というのが、ちょっと気障なところがある彼らしい言葉選びだと思った。せっかく顔を見に来てくれたのに、ゆっくり話す時間もなく動き回るわたしは、少なくともそれを楽しんでいるように見えただろうか。
 わたしは金魚。
 水槽の中の金魚になった気持ちで窓の外の土砂降りを眺める。そのうちちょっと居眠りして、目を覚ますと雨が止んでいる。窓を大きく開けると、五月の風。ぐずぐずに身を腐らせるような、生あたたかい風。息を吸い込んで、空気の中に夏の匂いが混ざりはじめているのを知る。
 そしてわたしは、散歩に出かけることにする。

<昭和>を思い出しているとき(大塚 あすか 作文)


 だってあの人、昭和だもん。
 けっこうな頻度でこの言葉を口にしていることに気づいた。誰かが言うのを聞いて、響きが面白いので真似しているうちに体に染みついてしまったのだろう。
 地位や権力をたてに無理をきかせようとする人。人目を気にせず道路につばを吐く人。みんなが「フォーク並び」をしているのに、素知らぬ顔でレジ前に割り込んでしまう人。歩きたばこをしている人、しかも吸い殻を道路にポイ捨て。
 しょうがないよ。だって、昭和だもん。

 わたしが「昭和」を愚痴に用いるのとは対照的に、ポジティブな意味で「古き良き昭和」が語られることは少なくない。最近、昭和レトロを称して、昭和30年代へのノスタルジーを売りにしたお店や観光地を見かけることが増えた。ほぼ半世紀、それらの時代に育った人が過去を懐かしむようになるには十分な時間が過ぎたということなのだろう。
 美しい過去を懐かしむ「昭和っぽい」があり、時代遅れな様を非難したり揶揄したりする「昭和っぽい」がある。
 そもそも「昭和っぽい」って、何だろう。
 おそらく日本で生まれ育った人の多くが同じだと思うが、わたしは西暦と元号両方を、なんとなく使い分ける。例えば音楽やファッションなど、海外も絡めた文化の話をするときは間違いなく西暦を使う。一方、役所の手続きや会社の書類では、まだまだ元号が主流だ。これは、学校や企業の会計が年度単位で進んできた名残なのだろうか。「2012年度」よりも「平成24年度」の方が、しっくりくる。
 ときおり、西暦を元号に変換しなければいけない場面にでくわす。数字に弱いわたしは、頭の中ですんなり変換できず、まごつきながら指を折らざるをえない。そういうときは、元号と西暦の併用を不便だと感じる。でも、元号がなくなってしまったら、それはそれで寂しく思うことだろう。

 元号ってなんだろう。世紀のように、単位時間で区切られているわけではない。過去を総括して、共通の社会システムや文化で分類することとも異なっている。基本的には、ただの元首の在任期間。かつては飢饉や疫病に襲われたときに、縁起をかつぐかのように元号を変えることもあったらしいが、いずれにせよ元号それ自体は、意味のあるまとまりではない。
 けれど、名前がついてしまった以上、そこには意味が生まれてしまう。15年間しかなかった大正と64年にわたった昭和では、それぞれが含む出来事の量も、社会の揺れ動いた幅も異なる。それを無理矢理ひとまとめにして、総括する必要がどこにあるんだろう。それでも、名前がついているから、ついついラベルを貼りたくなってしまう。「大正っぽい」、「昭和っぽい」、ひとくくりに表現したくなってしまう。

 実のところ、わたしの思う「昭和っぽい」の中には、昭和の記憶でないものが少なからず含まれている。わたしが生まれ育った昭和50年代半ば以降は、そのまま平成に地続きだった。だから、年号が変わってもしばらくの間わたしは、昭和の人々が作ったシステムの中を、昭和の気持ちのままで歩いていた。そして今過去を振り返り、実際には平成に体験した物事までも「昭和っぽい」と感じてしまう。しかも、ある程度都会化された自宅での記憶と、昔ながらの生活が残り続けていた両親の田舎での記憶が入り交じって、ちぐはぐな昭和観となる。
 ぼっとん便所や五右衛門風呂がある昭和。蛍光灯は紐をひっぱって消すもので、夏にはその紐にはえ取り紙がぶらさがっていて、ときどき粘着シートが髪の毛にからまってしまい大騒ぎする昭和。スパゲッティがほぼ必ずケチャップ炒めにされていた昭和。かき氷やソーダを飲めば舌が毒々しい色に染まる昭和。長い長い休暇と「夏休みの友」。カセットを入れて遊ぶゲーム機も、バブル景気も、ウーパールーパーとエリマキトカゲや、渋谷系の音楽だって……。
 元号が変わったことを頭では理解しながら、実際は昭和の中を歩き続けていたわたしが平成に足を踏み入れたのは多分、14歳くらいの頃。そこに至ってようやく、わたしは呼び起こした思い出を「昭和っぽい」と思わなくなる。

 わたしが愚痴混じりに「あの人昭和だから」と言う場合、文脈はネガティブなだけども、行為自体はポジティブなものだ(と少なくとも自分では思っている)。その人の生まれ育った時代の背景を考えると、多少今とそぐわなくても仕方ない、その人が悪いわけではない。そういう意味合いを込め、ちょっと諦め気味に、笑いながらつぶやく。すると、怒りが消える。時代に責任転嫁してみるのも、ディスコミュニケーション解消のためのテクニックかもしれない。
 会社で「平成生まれの新入社員」を見かけることが増えてきた。今は年上への愚痴を「昭和っぽい」で片付けようとするわたしはやがて、年下の人間とのコミュニケーションに行き詰まったとき、こうぼやくのだろう。
 しょうがないよ。だってあの子、平成だもん。

2012年7月19日木曜日

<雨>が落ちてくる灰色の空が(原 瑠美 作文)


 二年ほど前、週に何回か溝の口に通っていた時期があった。東急田園都市線の駅を降りると職場のある複合施設まで送迎バスが出ているのだが、歩いてもせいぜい十五分ほど。気持ちのいい道なので朝夕の散歩がわりに歩いていた。道沿いにモダンなつくりの団地があった。立派な木々が茂る中庭をとりかこむように背の高い棟が配置され、ピロティ式の入り口の脇には花が咲きほこる噴水があった。ちょうど初夏のころで植物がみずみずしく育ち、はじめて見たときはこれこそ楽園だと思った。太陽がかがやく朝はこの楽園がひときわ美しいが、夕闇が深くなるころや薄暗い雨の日に目をひくのは道端の紫陽花だった。のぞきこむと葉のあいだから雨を吸った土のにおいがたちのぼる。それははなばなしい噴水花壇との対比で別世界の植物のようにも見えた。
 そのあたりの紫陽花では青いのが特によかった。灰色の雨の底に、青い花がぼうっと浮かびあがる。その姿にはきまっておごそかな気持ちにさせられた。むかしは梅雨なんてうっとうしいだけでいやだったけれど、それからは紫陽花の季節がなんとなく待ち遠しい。しかし職場も家も引っ越してしまって、もうあの道は歩けないのかとすこしさみしい気持ちでいたら、去年の六月、いまの都内の家の近所に新たなスターがあらわれた。
 それは背の低い、鉢植えの紫陽花で、まっ白な花を咲かせているので天気がいい日に見るとぎょっとするほどまぶしい。角を曲がってすぐの歩道に出してあるから、曲がる前からなんとなく身構えてしまう。それが、空が曇ってくると、たちまちなんとも可憐に見えてくるからふしぎだ。体はちいさいのに、立派な茂みをなす株に負けないくらいおおきな鞠のような花のかたまりを三つもつけているのがいじらしい。雨が降るとその花に雫がたまって、まるで淡い色の着物をまとった乙女が泣いているようにはかなげに見えた。風が吹いたりすると、「あの娘は大丈夫かな」とどういうわけか恋する男の子のような気持ちになった。そうやっていつも通りがかりにみとれていたが、七月に入るとだんだん元気がなくなっていき、ついにはどこかに片付けられてしまった。
 そういえば、日本の伝統のものはなんでもその季節にぴったり合うようにつくられている。着物も六月になると袷から単衣に替えて、襟や帯揚げに絽のものを使って夏を先取りしたりする。湿気でむしむしと過ごしにくいこともあれば雨がつづいて肌寒いときもあるのがこの季節だ。気温が低めの日には、目に涼しく肌にあたたかいものが好まれるという。手元にあった着物雑誌をめくってみると、この季節にふさわしい着物の生地として、夏結城、夏大島、木綿、麻縮、紬縮など、さらっと心地よさそうな名前が並んでいる。縁側に面した薄暗い和室で屋根に落ちる雨音を聞きながら、夏大島なんかを着たおでこの白い美人に冷たい緑茶をそそがれるのもいいな、とまたしてもなぜか男性目線で妄想してしまう。
 中原淳一の『花詩集』によると、紫陽花の花言葉は「高慢」。ちょっとネガティブなイメージがあるのだろうか、かわいいイラストつきで紹介されている花もあるのに、紫陽花は巻末にかんたんな紹介が載っているだけだ。もっとも、最近では市民がひとつの主張のもとに結束することを表して、「あじさい革命」といわれることもある。先日の反原発の抗議行動では、紫陽花の花をかかげて歩く人の姿が目立っていた。個人の力を集めて社会を動かすおおきな原動力としようとする試みに、ちいさな花がかたまって咲く紫陽花は、なにか象徴的な力を与えているようだ。
 もう枯れてしまったのだろうと思っていたら、あの白いスター紫陽花が今年もまたお目見えした。あっと驚いたのは背丈が三倍くらいに伸びていたからだ。朝顔を育てるときに使うような緑の棒にささえられて、三つの白い球体は去年のままに、茎がまっすぐ伸びている。並んでみると胸の高さくらいまであった。きれいな花が咲くまで家の中か裏庭か、どこか人目につかないところで大切に育てられていたのだろう。いちばん美しいときに凛とした姿で表通りに出て幸せを振りまく、これはまさに日本の乙女!角を曲がる前になごりおしくて振り返ると、灰色の空にそっと抱かれるようにして白い花が雨にゆれていた。
 「そもそも、花と云ふに、萬木千草において、四季(折節)に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に、翫ぶなり。」世阿弥は『風姿花伝』にそう書いている。梅雨の季節もそろそろ終わるが、あとすこしだけ、静かな雨と薄暗い雲の下で青や白の紫陽花を楽しんでいたい。ただ、「あじさい革命」は本格的な夏が来ても枯れずにつづいてほしい。