2011年7月20日水曜日

大庭のおばあちゃんのこと (近藤 早利作文)

あれやこれやに縛られた生活が息苦しくなると、いつも、大庭のおばあちゃんのことを思い出す。

僕の育った家は、岐阜県の東南のはずれの標高三三〇メートルの小さな町にあって、進学した名古屋の私立高校へ通学できる距離にはなかった。それで、僕は、高校の隣にある自動車修理工場に下宿していて、夏休みには父母のいる家に帰った。帰ると、母から「大庭へ挨拶に行っとんさい」といわれる。大庭というのは母の実家だ。農家で庭が大きいから「大庭」。大庭のおばあちゃんはそこにいる。

夏の陽射しの中を、ぶらぶらと二十分ほど歩いて大庭につく。短い坂の登り口の横には道路に面して農具小屋と鯉を飼っている池がある。坂を上がって道路より二メートルほど上に、南に向いた長い縁側のある母屋があって、その右に離れが、左にはニワトリ小屋と土蔵がある。

母屋の裏、北側は小さな山の斜面が迫っている。そこには、かつて防空壕として使われた横穴がある。従姉妹たちと、隠れん坊をして遊んだとき、必ず隠れた場所。入り口に近すぎては、かんたんに見つかってしまう。かといって、奥へ進んで行くと、陽も差さず、灯りもなくて、何より天井が崩れ落ちてきそうでこわい。そこは天然冷蔵庫とも呼ばれていて、自家製の味噌やたまりを醸造する桶が置いてあった。幼いころ、僕たちは、冷んやりとした空気の中で、代わる代わる麹の匂いに包まれて息をひそめていた。

母屋の長い縁側に腰掛けると、目の前には、さっき僕が歩いていた道路の向こう側に、青々と田が続く。さらに向こうには、お寺やお墓や神社のある小高い森が見える。大庭を訪ねたとき、いつも晴れていたはずはないのだが、僕の記憶の中にあるのは、夏の青空に雲が浮いており、稲穂が風に揺れている景色だけだ。

おばあちゃんは、明治に生まれて、ずっとこの町で過ごしてきた。隣の村から嫁いできて、三男二女をもうけた。母が小学生だった昭和一〇年代、大庭にはニワトリだけでなく、牛も山羊もいたという。牛は開墾のため。山羊は搾乳のため。農業をしながら動物に囲まれて過ごすのは、楽しそうというのは甘い考えだ。現金収入が乏しければ、自給自足に近づく。母たちは、学校へ通うための藁草履を自分たちで編んでいたし、着物は何度でも繕い直して着ていた。標高の高い町だから、冬は本当に寒い。子どもたちは氷点下でも素足に草履で、しもやけやあかぎれだらけで、本当につらかったという。

おじいちゃんは、そんな生活から抜け出すべく、家をおばあちゃんに任せて、養豚業でひとやま当てようと名古屋へ行ってしまった。一時的な成功は、おじいちゃんの遊ぶ金になってしまい、となり町に、僕の母によく似た女性がいて、おじいちゃんの隠し子と噂されている、という話もきいた。

子どもたちのことを任されたおばあちゃんは、倹約を重ねて、三男二女に、できる限りの教育を授けた。でも子どもたちの生活は平穏とはいえず、長男は徴兵され、終戦後六年にわたってシベリアに抑留された。次男は復員後、花屋さんを始めたけれど長くアルコール中毒に苦しんだ。長女は宮大工の家に嫁いで、穏やかな生活を営んでいたが、次女である僕の母の人生は波瀾の連続だった。

最初の夫の酒癖と暴力に苦しみ、離婚して男の子一人を連れて実家に戻ることになった。その後、再婚し、生まれたのが僕だ。父も最初の妻と別れてふたりの子を抱えていた。だから、僕には、母を同じくする兄がひとり、父を同じくする兄がふたりいて、父母を同じくする兄弟はいない。ややこしい。

僕が高校生の頃には、そうした波瀾は過去のものになっていた。末っ子の叔父が家を継ぎ、町役場に勤めて順調に昇進し、兼業農家として生活は安定していた。

訪ねていけば、おばあちゃんは、かならずいる。どこかに出かけたりなどしない。生涯で家以外のところに泊まったことは二度しかないといっていた。一度は、次男が生死に関わる病気になって遠く離れた町の病院へ連れて行ったとき、もう一度は僕が小学生の時に、母が、自動車の運転免許を取って、おばあちゃんが旅行というものを経験したことがないのはかわいそうだといって、僕と一緒に伊良子岬へ連れて行ったときだ。

農業と家事で働き詰めだったおばあちゃんの腰はすっかり曲がっていて、つかう杖は、三十センチくらいで足りていた。ちいちゃい、ちいちゃい人だった。

おばあちゃんは、田や畑にでることはなくなっていたけれど、行くと、たいてい風通しのよい玄関の上がり框に腰掛けて、何か手を動かしていた。野菜の皮をむいたり、繕いものをしたり。編み物には熱心だった。

あいさつをすませると、僕のために飲み物とおやつを用意してくれる。カルピスだ。曲がった腰で、ゆっくりと台所へいって、ドアがひとつしかない冷蔵庫から製氷皿を出して、小さなグラスにふたつくらいだけ氷を入れる。そこにカルピスの濃縮液を入れて、水を足す。水はもちろん井戸水だ。カルピス・ウオーターなんて製品はなかった。おやつも自家製だ。寒天に茹で小豆や牛乳を入れて固めて冷たく冷やしたもの。食パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたもの。夏みかんの皮を砂糖づけにしたもの。おばあちゃんは食べないで、僕の分だけ用意してくれる。 

飲み物とおやつが用意できると、いろいろ話をする。かならず聞かれるのは学校の成績のことだ。母親のちがう僕の兄たちの成績がよかったので、僕だけが成績が悪かったら、それは大庭の血統のせいだ、ということになるから、といって、いつも気にしてくれていた。生徒が一学年百人しかいない中学校の秀才だった僕は、名古屋の高校では、はじめは中の下がいいところだった。学校と名古屋という土地にはなじめなかったけど、おばあちゃんをがっかりさせたくないこともあって、地道に勉強に励んだ。休みの度に、前よりも順位が上がったよ、と報告できた。

それから、親戚みんなの近況を話し合う。僕は、東京の大学に行っている兄たちのことを報告する。おばあちゃんは、子と孫たちの近況。それから、町の人たちのこと。誰が嫁に行った、中風で倒れた人がいる、家を建てたけど嫁がいないとか。文字どおりの四方山ばなし。ゆっくり、ゆっくりお話をする。

本の話も時々した。おばあちゃんは、たどたどしい字しか書けなかったが、本を読むのは好きで山岡荘八の『徳川家康』がお気に入りだった。有吉佐和子の『恍惚の人』の感想を聞かせてくれたこともあった。時々「むつかしい理屈はわからんが」といいながら、政治や政治家の批評もした。

そうやって、のんびりとした時間を過ごしたのち、僕は「じゃあそろそろ帰るで」という。おばあちゃんは「そうか、もう帰るか。ちょっと待っておれ」といって、農作業用のはさみを持って、短い杖をつきながら、ゆっくり坂道を下りていく。そして、坂の下の田の畦に植えられた枝豆を、根本から切って渡してくれる。枝豆の束が増えて、あごの高さになると「もうこれくらいでええか」と、おしまいになる。それから、僕は、青臭い枝豆を両手とあごで支えて、腕や顔がかゆくなりそうな気がしてあわてて坂を登る。おばあちゃんは、ゆっくりゆっくり戻ってきて、枝豆を新聞紙でくるんで持ちやすくしてくれる。

僕は「ありがとう。またくるで」といって、枝豆の包みを持って大庭を後にする。おばちゃんは、坂の上から僕を見送ってくれる。曲がった腰を、精一杯伸ばして。

数年前、高校時代の友人の管啓次郎君から贈られた『ホノルル、ブラジル』という本で「reinhabitation」ということばを知った。《土地のいろいろな水の流れとか、その土地の植物相や動物相をじっくり見きわめた上で、自分自身がその土地に責任を持ってそこに土着化していくこと》(同書p66)。

この部分を読んだとき、ことばの定義と、おばあちゃんの生き方は僕の中でまっすぐに結びついた。

おばあちゃんは、土を耕し、稲や野菜を植え、動物の世話をしながら、少ない数の本を、ゆっくり、繰り返し読んで自分の生活の作法や信念をつくりあげた。借り物のことばは、何一つ言わなかった。自分が誰かに影響を与えようなんて、すこしも考えていなかった。自分が生きた痕跡をこの世に残したいと、あがいてもいなかった。ただ、家族と近隣における、その時々の自分の役割を、責任を持って静かに果たした。かっこいい。

僕が、大学四年生の冬、おばあちゃんは亡くなった。

おばあちゃんは、僕を含めて、すべての孫の子ども、つまりまだ見ぬ曾孫たちのために、毛糸のちゃんちゃんこ二着ずつを編んでおいてくれていた。男の子のための青と、女の子のためのピンク。たどたどしい字で「さとし 男」「さとし 女」と孫の名前と曾孫の性別を書いた箱に収めてくれていた。

亡くなった日は、いつものように編み物をしていて「ちょっとえらい(苦しい)」といって、横になって、そのまま入院することもなく息絶えた。

だから、おばあちゃんが、生涯で家以外のところに泊まったことは二度しかないという事実は、最後まで変わらなかった。