2011年12月31日土曜日

よいお年をお迎えください(大洞 敦史)

読み書きクラブの皆さま

今年一年間のご活動、おつかれさまでした。
お仕事やご家庭をおもちのなかで
継続して原稿を書き、例会に出席してこられた皆さま、
またこのような貴重な場を設けていただき
例会ではいつも的確なご批評をくださっている管先生に、
あらためまして感謝申し上げます。

どなた様もよいお年をお迎えください。

大洞敦史

2011年12月26日月曜日

被ばくを「見る」(原 瑠美 書評)

自らも被ばく経験を持つ医師と、世界の被ばく問題に関するドキュメンタリーをいくつも手がけてきた映像作家の共著である。いまだ専門家の間でも定説が出ていない内部被爆の危険性について、肥田が医学的見地からわかりやすく解説し、鎌仲が被害の世界規模での広がりを浮き彫りにする。

本書が書かれる六十年前、原爆投下のときに広島市郊外に居合わせた肥田は、その瞬間とその後目にした光景を克明に記憶している。突然の熱風に思わず這いつくばったまま見上げた空には巨大な「きのこ雲」。焼けただれた人々の群れや、村を埋めつくすほどのおびただしい負傷者。直爆により死んでいく人たちの治療に追われながら、肥田はある異変に気づく。原爆投下からしばらくたって広島に入市し、一見被害を受けていないように見える人が被害者と同様の症状を訴えるようになったのだ。内部被曝の症状だったが当時は全く原因がわからない。その後の人生をかけて、肥田はこの問題に取り組むことになる。

一方、鎌仲はイラクに関するドキュメンタリー番組の制作に携わって被ばくに興味を持つようになった。取材で訪れたイラクではあちこちに放置された劣化ウラン弾からの被曝で、子どもたちが必要な薬も手に入らないまま白血病で亡くなっていく。アメリカはそれでも低線量の被ばくは人体に影響はないとして核弾頭を作り続ける。兵器の材料を得るために原子力発電所を動かす。しかしそのアメリカにも核実験に巻きこまれた帰還兵や、原発周辺に暮らす住民など、数多くの被ばく者がいる。

核兵器の廃絶運動が進まないのは、「内部被爆への無知と無理解と無関心が根源ではないか」と肥田は語る。確かに、目に見えない内部被曝の脅威を実感することは難しい。しかし実際に苦しむ被ばく者を目の当たりにしてきた二人の著者の言葉は鮮明に被害状況を浮かび上がらせ、その描写には胸がつまり、手がふるえる。それでも読む。読むことによって見る。この「見る」という感覚こそ、私たちが差し迫った状況に立ち向かうための第一歩なのかもしれない。

あまりにも大きな問題に挑もうとすれば、反発もたくさん受けるだろう。これまで困難な核廃絶運動を続けてこられた秘訣を聞かれ、「楽しかったから」と肥田は笑う。「私が変わることで相手も変わり、生きる勇気を持っていられます。」途方もない規模で拡大している放射能汚染と正面から笑顔で対決していく、そんな力を身につけたい。

(肥田舜太郎/鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威—原爆から劣化ウラン弾まで』筑摩書房、2005年)

2011年12月23日金曜日

「寄り添うための哲学」(大塚あすか 書評)

家族と暮らすことができない子どもたちの生活の場である児童養護施設。哲学の一分野である現象学を手がかりに、二人の研究者は子どもの心に寄り添おうとしてきた。本書では、彼らが自ら体験した子どもとのやりとりや立ち会った場面に、ハイデガーやサルトルの現象学的解釈を丁寧に重ねあわせてゆく。

第一章では、施設にやってきた子どもが抱く不安と、新しい環境に折り合いをつけていく過程が、日常の営みや道具との関わりを通して紹介される。第二章で描かれるのは「世間」を意識しはじめた思春期の少女達。施設外の子どもたちと自身の環境を比較して苦しむがゆえに、彼女たちは普通であることを強く望む。結果、施設の仲間同士が過剰な均一性を求め合うようになり、生活の場に息苦しさが漂いはじめてしまう。そして、第三章。虐待を「しつけ」と受け止めることで家族との関係に救いを求めていた少女は、自らの過去を正面から捉え直すことで、新たな可能性を歩み始める。

現象学という一般的でない言葉は、この本の敷居を高く見せるかもしれない。ハイデガーやサルトルの名を聞けば、難しい哲学理論をイメージして顔をしかめる人もいるだろう。しかし、本書の目的は学術的な議論ではなく、あくまで子どもの心に寄り添うことだ。離別や死別、虐待といった理由により家族と別れざるをえない子どもは、その辛さをどのように受け入れ、どのように自立への道を探るのか。平易な言葉で、日常にごくごく近い感性で語られる哲学は、きわめて自然なかたちで読む側にも寄り添ってくる。

ときに登場する子どもに自分を重ね、ときに子どもたちを見守る養育者や著者に自分を重ねながらこの本を読み進める。するといつの間にか、子どもたちが何かに期待し、それが叶わず落胆もしくは激怒するときの心の動き、彼らが孤独を噛みしめ苦しみに耐えようとする態度が、自身が苦難に立ち会ったときのそれと同じであることに気付いている。また、養育者らの立場に寄り添えば、悩み苦しんでいる他者と接することやコミュニケーションのあり方について考えずにはいられない。わたしなら、どのようにして他人の辛さと向かい合う?

他人の心の動きに思いを馳せることは、鏡をのぞきこむこととよく似ている。これは、児童福祉について書かれた本でもあるし、現象学の本でもある。その一方で、わたしたちが自分と向かい合うための本にもなり得るのだ。

(中田基昭編著、大塚類/遠藤野ゆり著『家族と暮らせない子どもたち~児童福祉施設からの再出発』新曜社、2011年)

2011年12月17日土曜日

子供好きな訳者にかかれば(CHIARA 書評)

「ウワバミってなに?」
「なんて言ったの?」
「ウ・ワ・バ・ミ。ウワバミ知らないの?」
「うーん、大酒飲みのことだけど・・・」

大人がいつも簡潔に的確な答えを与えてくれるとは限らない。

その答えは絶対に間違っていて、だからといってもう一度訊くのも嫌だ。難しい漢字でもなければややこしく長いわけでもない。それに注釈だってない。きっと誰でも知っている言葉に違いなくて、わたしは知らない。七歳のわたしは、川島小鳥が撮る『未来ちゃん』と同じ顔をして絵本をバタッと閉じた。変な本。

訳者管啓次郎は、ボアはボアと訳した。ウワバミではない。ボアという「初めからわからない言葉。大人に聞いてもしょうがない言葉。必要であれば百科事典を調べればいい」という範疇にその言葉を位置づけた。それはサン・テグジュペリ本人の意図でもあったはずだ。何語だったか忘れたが、ボストンの本屋で買ったものには「ボア」とあった。

気のきいた大人の手を経てようやくその本は、子供のための本になった。子供は、知らなくて当たり前なボアを探して言葉の森に分け入る勇気を与えられ、やがて原生林の奥深くボアと言う大蛇と対面する。  

管啓次郎は詩人と称しているが作家でもある。そして、地球上のあらゆる言語をその体に沁みこませているのではないか、と錯覚を起こさせるほどに言葉に寿がれている作家だ。    

とはいえ、言葉に巧みな者が陥るひとりよがりな世界に彼は身をおかない。彼の書く本は必ず、本のこちら側で目を輝かせる読者に向かって書かれている。彼の読者には「話題だから」「とりあえず教養として」と本を手にする者はいない。読んでいても誰も評価しやしない、その本について友と語ることもできない、そうとわかっていて相当な時間を費やして彼の本を読む。彼の読者は皆溢れそうな好奇心を持って彼の文章を丹念に読み、楽しむ。それを知っているからだろうか、管啓次郎の本には、読者への愛がある。

彼が書いた幾冊の本と同様、この本は、読み手であり買い手である子供を無視しない。この本は「ウワバミ」という適当な訳語で子供を混乱させたりしない。子供を置き去りにして、王子と自分の世界に浸ったりしない。

よい絵本とは、きらきらと目を輝かせてページをめくる子供の姿を思い浮かべながら、書かれなければならない、そう学んだ一冊だった。

(サン=テグジュペリ『星の王子さま』管啓次郎訳、角川つばさ文庫、2011年)

2011年12月14日水曜日

反抗と笑いの黒(原 瑠美 書評)

戦争、暴力、ヴェール、石油。その国に行ったことのない私にとって、イランは黒のイメージだった。ベタ塗りの画面を多く使ったこのマンガも、一見するとイメージ通りの暗い印象なのだが、ひとたびページを繰りはじめると、その黒の表情の豊かさに驚かされる。笑う子供たちの大きな口、パパのキャデラック、白髪になる前のママの髪、ときおり神様が訪れる夜の寝室。そんな黒にひきつけられて、上下二巻におよぶ自伝物語は一気に読めてしまう。

作者のマルジことマルジャン・サトラピは一九六九年、イランの裕福な家庭の一人娘として生まれた。首都テヘランのフランス語学校に通い、リベラルな両親のもとで子供の頃からたくさんの本を読んで育つ。イスラム革命直後の一九八〇年、十歳のマルジが通う学校の描写から始まるこの物語は、日ごとに激しくなる市民への暴力と戦争の恐怖、戦渦を逃れてひとりぼっちで暮らした留学生活の困難を描きながらも、最後までコミカルなタッチを失わない。

マルジの日常は子供らしい反抗と笑いに満ちている。学校ではヴェールをおもちゃにして遊んではしかられ、苦行を重んじる宗教儀式を茶化してはまたしかられる。それでいてその語りが決して真剣さを失わないのは、自分と社会とを理解しようとする、彼女の真摯な態度のためだろう。ことあるごとに、マルジは知識を広げるため読書に向かう。本を読むだけではあきたらず、刑務所の独房を水没させる拷問があると聞くと体がふやけるまでお風呂に入ってみるし、政府に反対して処刑されていく人々のことを知ると、むせ返りながらたばこを吸って反抗について考えてみる。そんなマルジの気丈さは、ときに彼女を窮地に追いこむこともある。留学先のウィーンでは差別的な発言をした尼僧にくってかかって寄宿舎を追い出され、その後恋人の浮気を知って下宿を飛び出したときは数ヶ月の路上生活を余儀なくされる。しかし帰国と結婚、そして離婚を経てもマルジの自己教育と反抗の力は衰えることなく、どんどん前へ進んでいく姿は晴れ晴れとしてたくましい。

反抗とは他者に対する最も誠実な姿勢だ。自分を偽ることなく、衝突を恐れることなく、未来へと道を拓いていく決意だ。暴力にさらされ、人々の自由が制限され続ける中で、それでもイランとそこに暮らす人々を愛し、いつも新しい仲間と笑いを見つけていくマルジの想像力に彩られて、この本の黒はみずみずしい力をたたえている。

(マルジャン・サトラピ『ペルセポリスI、II』園田恵子訳、バジリコ、2005年)

2011年12月12日月曜日

三匹の黒いパックマン(大洞 敦史 作文)

ここは東京郊外にある某大学の一ホール。「3班」と書かれたプラスチックの三角柱が置かれたテーブルには、女性二人と男性四人、そしてぼくが座っている。ぼくの向かいの席のAさん――三十歳位の大柄な男性で、いつもほほえみをうかべている――が「だいどーくん、知ってる?」とぼくに話しかけた。が、つづきがいまいち聴きとれない。机から身をのりだして耳をかたむける。ある消防団が、消火訓練のときに何かを燃やす実験をするという話のようだった。曖昧なあいづちを打ちながら聞いていると、話題はいつのまにかガラガラヘビの生態に変わっている。「時間になったので始めましょう」と、白衣を着た五十歳位の男性がマイクごしに皆に話しかけた。

この日ここでおこなわれるのは、一般に知的障害者と呼ばれている人たちを対象にしたワークショップだ。参加者は総勢六十名くらい。そのなかに、授業の一環として参加している大学生が十五名ほど混じっている。参加者の周りには白衣のスタッフが十数名、会場の後ろのほうでは参加者の家族と思われる人たちが十名ほど座っている。

ぼくは以前大学院で受けた生涯学習の授業で、この講座の主催団体の二十年間の歩みについて学び、その後主宰者の一人と連絡をとるようになった。その方に誘っていただいたことから、ぼくもこのワークショップに参加することになり、この日が初めての参加だった。

今回の主旨は、色々なゲームを通じて人づきあいのスキルを身につけよう、というものだ。

おもしろかったのは「伝言お絵かき」(とここでは呼んでおく)。二人一組になり、さらに絵を描く人と説明をする人にわかれる。絵を描く人は会場のスクリーンを背にして座る。もう一人はスクリーンにあらわれたイラストを、言葉だけで相手に伝える。描き手はその説明をたよりに絵を描いていく、というもので、元の絵をどれだけ正確に再現できるかという点が競われる。

ぼくはBさん――四十歳位のもの静かな男性――とペアになった。まずはBさんが説明し、ぼくが絵を描いた。家があって、屋根の上に猫がいて、カベには窓とドアがあり、家の横に木が一本立っていて、上のほうには目と口のついた太陽がある。彼の説明はわかりやすくかつ的確であり、こまかい部分をのぞけば、ぼくらの描いた絵は元の絵にうりふたつだった。

役割交替。スクリーンにあらわれた絵、というよりは図形を見て、めんくらった。これを一体どう説明したらいいんだろう? 白地に、切れ込みの入った黒い円が三つある。それら三つは、それぞれの中心点を結ぶと正三角形になるように、またそのうちの一辺がスクリーンの下辺と水平になるように置かれている。三つの円の切れ込みはいずれも内側を向いている。三匹の黒いパックマンが向き合っている格好だ。切れ込みの両辺は、見えない正三角形の辺と重なっている……。五分くらいの制限時間いっぱい、ぼくはこの絵を一生懸命ことばにし、Bさんもぼくのつたないことばを懸命に図像化した。真剣勝負の五分間だった。結果、Bさんの書いたイラストが元の絵といかに似ていたかは、にわかには信じがたいほどだった。

休憩時間中、ブラスバンドに入っているというC君が「ここに来ている人たちは、どんなハンディキャップをもっているのかな」とつぶやいた。そばにいたスタッフが「そんなの関係ないよ」と力づよく答えた。スタッフには内モンゴル出身の女の子がいたので、ぼくはサエンバイノー、とかバヤルララー、など知っているかぎりのモンゴル語を並べたてて笑わせてみた。

最後のゲームの流れは、まず「宴会に遅刻してきた人が話の輪の中に入ろうとして失敗する」という映像を見て、その行動のどこがよくなかったかを紙に書く。その後グループごとに実際にその場面を演じてみる、というものだ。ゲームで紙に文字を書くのはこれが初めてだった。Aさんの書く字は一文字の直径が二センチ位あり、その隣のC君はまるで米粒にでも書くかのように細密な字をぎっしり並べている。意外だったのは、Bさんが何も書かないことだった。字を書く機会は四回あり、十九歳の女子大生Dさんがなにかと彼に声をかけてあげても、とうとう彼は一文字も書かなかった。それでいて話す段になると、すこぶる饒舌なのだ。

ゲームの後にアンケート用紙が配られた。大学生用と他の参加者用の二つがあって、後者は片面一枚だが、ぼくの前には両面三枚の用紙がおかれた。ぼくに対するC君の疑問は、これによって解消されてしまった。

閉会が告げられるやいなや、年配のご婦人がBさんのもとに駆け寄るようにしてやって来て「よくがんばったね、ずっと後ろで見てたよ。さ、帰ろう」と彼に言った。

2011年12月8日木曜日

第13回のご報告(大洞 敦史)

本日の参加者は8名。原さん、岩井さん、近藤さん、大洞の作文と、原さん、志村さんの書評をとりあげました。例会の後は、岩井さんお手製の沖縄焼きそばやサラダをはじめ、差し入れの焼き鳥や餃子やお寿司などを皆でいただきました。

次回は来年の1月12日です。
今年も一年間、ありがとうございました。
どなた様も好いお年をお迎えください!

2011年12月3日土曜日

「考え続けることを止めないための」(辻井 潤一 書評)

十月末、会社派遣の震災ボランティアに参加し、宮城県の三陸沿岸地域へ行ってきた。もちろん、少しでも被災地の力になりたいという思いから手を挙げたのだが、この目で直に現地の状況を見たい気持ちもあった。出発前日、カメラを持って行くべきか、最後まで悩んだ。写真というメディアの持つ衝撃力も、無力さも、両方知っていたからだ。

出発当日に発売となった本書は、宮城県仙台市出身の写真評論家、飯沢耕太郎と、写真家とテレビディレクターという二足のわらじで活動する菱田雄介による共著であるが、二人の文章のスタンスは大きく異なる。飯沢が様々な写真家の仕事を例に挙げながら、理知的に写真論を構成しているのに対し、震災後に現地に入り撮影を行なった菱田は、実際の写真を挟みつつ、現地で見て感じたことをエッセイ調で素直に記している、といった印象だ。

また、異なるのは文章だけではなく、あることに対する二人の見解である。それは、「死者の写真」について。飯沢は、二万人近くのおびただしい死者、行方不明者が出たにもかかわらず、死者の写真がほとんど公開されないことに疑念を抱いている。アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの晩年の著作、『他者の苦痛へのまなざし』の中にある「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」という主張を引用し、死者の写真を公表すべきだ、と論じている。何が起き、何を為すべきか、帰結ではなく、思考の契機としての「死者の写真」。対して菱田は、飯沢の主張に同意しつつも、テレビディレクターとして数多くの凄惨な事件や事故、そして写真家として今回の震災の現場を目の当たりにした経験から、すべての人に現実を直視させることには抵抗があるという。少なくとも「伝え手」と呼ばれる人々が現実を知っておく必要がある、と語るに留めている。

本書は急ごしらえで作られたようで、文章には散漫な部分もやや見られるが、「今」表現しなければならない、という気概が伝わってくる一冊である。想像を絶する現実を前にした時、多くの表現者たちは、寄る辺を失ったかもしれない。それでも、表現すること、伝えることは止めない。それが本書を通じての二人のメッセージだと感じた。

結局、私はカメラを持ってボランティアに参加し、津波を被り、変色した杉林を撮影した。未だにあの高さまで波が到達したことが想像できないが、その写真によって、考え続けることはできそうな気がする。

(飯沢耕太郎/菱田雄介『アフターマス 震災後の写真』NTT出版、2011年)

2011年11月27日日曜日

一年生(原 瑠美 作文)

一年生の頃のことはよく覚えている。髪を伸ばしはじめたこと、自転車よりも早く走れたこと、UCCの缶コーヒーを飲む大人びた男の子を好きになったこと。一九八九年四月からの一年間。そうやって時期を区切って改めてあれこれ思い出してみると、普段は断片的な子供時代の記憶が、なにかまとまった形をなしていくようでおもしろい。

私が入学したのは大阪の高槻市立松原小学校というところで、郊外の学校らしく校舎もグランドも大きかった。ちゃんとした音楽室もあったはずだが、音楽の授業というとなぜか思い出すのはみんなで廊下に出て練習している光景ばかりだ。一年生はまず校歌を教えられるのだが、その中に「松原、松原、小学校」という繰り返しがある。担任の教師が誤って、ここで松原を三回繰り返すようにと教えたために、私たちは大混乱に陥った。廊下だと後ろの方からは教師の姿がよく見えないので、実は二回だけでしたと言われてもにわかには信じられない。五年生にあがる頃にもまだちゃんと歌えない子がいたほどで、いつもは気の強い教師がその間違いを正すときだけは決まりの悪そうな顔をしていた。今思うとこの校歌はどこか軍艦マーチに似ていて、大きくなってから私が軍歌に懐かしさを覚えるようになったのは、これが原因かもしれない。

一番のなかよしはリサちゃんといって、浅黒い肌と寂しげな目をした、美人で利発な女の子だった。リサちゃんは学校の前の東洋紡の社員団地に住んでいて、私はそこによく遊びに行った。この団地を抜けると学校までずいぶん近道になるのだが、小学生が集団で騒々しく侵入してくるのを防ぐためか、住人以外は立ち入り禁止ということになっていた。一年生は交通安全の規則とともに、「トウヨウボウ」には入ってはいけないということを学ぶ。不思議な響きを持つ禁じられた場所に、リサちゃんと一緒なら堂々と入っていけることがうれしかった。リサちゃんのうちから夕暮れどきに一人で帰るとき、団地内の公園をふと見ると、何人かで乗れるような幅の広いブランコの座席が一面、血に覆われていたことがある。ブランコのまわりはおばさんたちの井戸端会議場になっていたので、買い物帰りの誰かがそこで魚の血でもこぼしてしまっただけだったのだろうが、薄暗い中で見たその凝固した血の赤黒さは、今でも忘れられない。

テッちゃんという男の子とも仲がよかった。一度となりの席になったときには、授業中に二人でいたずらをして楽しんだ。鉛筆のキャップの先には小さな穴があいていて、息を吹き込むとピーと鳴る。教師が振り向くと私はキャップをサッとしまって何でもない顔を作るのだが、テッちゃんがうれしそうににこにこしているのですぐばれてしまった。テッちゃんは軽度の知的障害を持っていた。それでそんなテッちゃんを悪の道に引きずり込んでと私は二倍しかられるのだが、キャップ口笛はくせになり、何度も二人でピーピーとやった。

担任の教師だけでなく、その頃大人はよく怒った。われわれが子供の頃にはこんな悪さをしたらただではすまなかった、これくらいで許してもらえるのをありがたく思え、という理屈で激昂する。たたかれ、追い回され、罵倒され、そして子供たちは不敵な笑みを浮かべる。その邪悪な笑顔に加えて、私はいつまでも泣いていられるという特技を発見した。永遠なるうそ泣きが学校で行使されたのは国語の時間。教科書の文章を段落ごとに交代で読んでいこうという趣向に納得できず、私は読み手がころころ変わる丸読み(句点ごとに交代で読む)の方が断然おもしろいと主張し、それが受け入れられないとわかると教室の真ん中で立ったまま泣き出した。教師も強情で、私がわんわん泣く中平然と授業は進められ、ついに終業のベルが鳴った。成果は得られなかったが、永遠泣きをやり遂げてすがすがしい気分になったことを覚えている。

一九八九年は、ベルリンの壁と日本のバブルが崩壊した年でもある。私はテレビで落書きだらけの汚い壁が打ち破られるのを、ぽかんと見ていた。バブル崩壊は正確には数年後とされているのかもしれないが、拡大指向の経済の破綻が、この年からもう始まっていたことは間違いない。子供たちは消費税の導入で突然自動販売機のジュースが百円から百十円に値上がりしたことで、何かただならぬ気配を感じはじめていた。私は何の前触れもなくある日数字が静かに変わっていることに恐怖を覚え、いくつもの自動販売機を確かめてまわった。

缶コーヒーの男の子にはふられてしまい、成長とともに足は遅くなり、髪はこんがらがって二年生になる前に切らなくてはならなかった。しかしまだまだ一年生の頃の記憶は尽きない。それは何世代にも渡って語りつがれる神話のようにふくらんでいく物語だ。いつか当時の仲間たちが一堂に会することがあれば、みんなではちきれそうなほどたくさんの物語を語りあってみたい。

2011年11月19日土曜日

死についての連想(大塚 あすか 作文)

祖母の夢を見た。車いすを押して、わたしはどこかへ行こうとしていた。夢の中の祖母は驚くほど軽く、段差に差しかかると車いすごとたやすく持ち上げることができる。

年末年始に、施設から外泊許可をもらった祖母と過ごした。ごく短い距離ならば自分の足で移動するものの、祖母はほとんど座ったまま、ぼんやり宙を眺めていた。会話をすればたまにとんちんかんな答えが返ってくるし、こちらの言葉を聞きとれないこともある。車いすを押して初詣に行きたかったのに、風邪を引かせるのが怖くて外に連れ出すことなく終わった。それを後悔しているから、いまだにあんな夢を見てしまうのかもしれない。

先日会った友人が寝たきりである彼女の祖父について発した「もう、いいよね」という言葉を冷たいと感じなかったのは、かつて病院で子どものように小さくなった祖父を前に、わたしも同じことを思ったからだ。がんの手術後も頭はしっかりしていた祖父は、排泄のコントロールができなくなると同時に痴呆症状を見せはじめた。そこから食事を摂る力を失い、亡くなるまではあっという間だった。おむつ着用を余儀なくされ、プライドの高い祖父は正気を保つことに耐えられなかったのだろうと、わたしは確信している。だから、あそこで亡くなったことは祖父にとって幸せだったのだと。

祖父の夢を見る。かつて家を訪れたときと同じように、のんびりと居間のこたつで話をする夢ばかり見る。わたしは祖父と十分な時間を過ごし、十分な関係を築いてきた。そして少しずつ別れの準備を積み重ねてきたからこそ、こうして寂しさなしに思い出と向き合える。「じゃあ、またね」と、笑顔で手を振り祖父の家を後にしたのと同じ調子で夢から覚めることができる。

悔いのない別ればかりではない。二十一歳のときに、幼なじみが交通事故で死んだ。現実を理解してなお、わたしは今も彼女の死を消化できていない。ときどき見る夢の中で、同じように年を重ねた彼女と過ごし、目覚めた瞬間、落胆する。祖父の夢を見た後のやわらかい気持ちとは正反対の喪失感にさいなまれる。

初めて人の死に立ち会ったとき、幼いわたしは重苦しい空気を感知できずにいた。祖父の長兄が布団に横たわり、顔には白い布がかかっていた。はとこの美保ちゃんが飼い猫を抱き上げ、おじいさんの上にかざしながら脅かしてくる。「あーちゃん、ミイが乗るとじいちゃんが起き上がるよ」、猫がまたぐと死人が起き上がるという伝承を知ったのはそのときだ。鬼ごっこのように騒ぎ、やがて周囲の大人に叱られた。それから二十年ほど過ぎた頃、葬式に出る機会が増えたわたしは喪服をあつらえた。

十月末、H氏の訃報が届いた。「想像上の一人娘と暮らしています」という自己紹介とともに絵と短文でブログを綴る彼は、聡明ではにかみ屋で、寂しげだった。当初から自虐や絶望を口にすることが多かったが、ユーモアあふれる語り口と「想像上の一人娘」の存在により、切実さはフィクションに昇華された。しかし、怪我や病気を経て、いつしか彼が架空の娘を介して語ることはなくなった。自身の苦しみを客観し、笑い飛ばす余裕が失われる様を痛ましく思う反面、その気持ちを悟られないよう努めた。H氏を知る人々は皆、いつか彼が絶望に飲み込まれる日が来るのではないかと危ぶんでいたように思う。そして今、何とも言えない重苦しさを背負い、彼の平安を祈っている。

H氏は映画や本に関する知識が豊富で、わたしが何かに興味を示すたび、世界を広げる助けとなってくれた。彼が紹介してくれる本の中には単行本未収録、絶版などの理由により手に入りづらいものもあり、そういえば、彼が最初に教えてくれた小説すら、わたしはまだ探せないままでいる。いつかどこかの古本屋で「小説新潮臨時増刊’85SUMMER」を見つけ、高橋源一郎の『優雅で感傷的なワルツ』を読むことができたら、わたしは彼を思って泣くだろう。

幼い頃、恐ろしい想像で眠れなくなる夜があった。思い浮かべるのは、テレビで見た吸血鬼キョンシーや、世界が破滅するという大予言のこと。恐怖の対象は常にイマジネーションの世界にあった。しかし大人になった今、恐れるのは現実的なものばかり。老いや死について考えることが増え、去られる怖さや去る怖さが身近になると同時に、それらに対する鈍感さも身につけた。大切な人を亡くしたら悲しみで生きていけないと信じていたわたしは、自分が近しい人の死に耐えられると知ったとき、心強さよりむしろ寂しさを感じた。しかし、望もうが望むまいが、わたしはこれからなお多くの死や別離を受け入れていくことになる。死を受容することに慣れ、今以上に鈍感になっていくだろう。

死についてつらつら考える。答えなど出るはずない。ときおり、生死の境がゆらぐ。生きている人だろうが死んでいる人だろうが、大切な人たちがいる場所は他のどこでもない、わたしの中。

2011年11月17日木曜日

天の虫、天の竜(大洞 敦史 作文)

夏、大学院のゼミ合宿で釧路へ行くことになった。年末に企画されている「川から海へ」と題したギャラリー展示のための素材集めが目的のひとつだ。ところが日程がお盆の時期に重なったこともあって格安航空券などは手に入らなかった。そこで学生たちは鈍行列車を乗り継いで北海道に渡ることになった。東京駅を始発で発つと翌日の昼頃には北海道の千歳に着く。そこからはレンタカーで釧路をめざすという計画だ。現地では釧路川をカヌーで下ることをみんな楽しみにしていた。

せっかくの機会だったが、ぼくだけはわがままを言って、ひとり長野県の天竜川へ取材に行かせてもらうことになった。天竜川の起点に位置する長野県岡谷市や中流部に位置する伊那谷地方が、ぼく個人の研究対象にゆかりの深い土地であったためだ。ぼくはいま、一九五十年代に四日市の紡績工場ではたらいていた「女工さん」と呼ばれる労働者たちの作文サークル運動について調べている。彼女たちの大半は伊那谷の農家の出身で、中学校の卒業と同時に集団就職で工場へやって来た人たちだった。彼女たちが書いた作文には、戦中から戦後にかけての伊那谷での暮らしがしばしば題材として登場する。また彼女たちの母親の中には、十代の頃にやはり女工さんとして工場に出稼ぎにいった者が数多くいる。そのおもな行き先は平野村(現岡谷市)を中心に諏訪湖・天竜川一帯にひろがる製糸工場だった。当時の平野村は全国の生糸生産量の実に六分の一ほどをその一村で産出し、「糸都」と異名をとるほどに製糸産業で栄えた土地だった。無数の煙突が林立するさまは「諏訪千本」といわれ、「諏訪のすずめは黒い」などといわれた。煙突の周りには四階建て、五階建ての乾繭倉庫群がたちならび、のべ四万人の女工さんが働いていたという。

八月下旬のある日、新宿駅から特急あずさに乗ること二時間半、岡谷駅に着いた。雨雲が頭上に低く垂れこめていることもあってか駅前の街並みはひどく殺風景に見える。コンビニも見あたらない。まずは岡谷市立蚕糸博物館をめざすことにした。岡谷銀座と名のついたもの静かな通りを、空を見上げて歩く。どこかに一本ぐらいは煙突が残っていないかと思ったのだが、煙突のえの字も見あたらない。夕方近くになってやっと一本、銭湯の煙突を見つけただけだった。歩くこと十五分ほどで博物館に着いた。一階には糸繰り機や煮繭器といった、ほとんどが木製の、ものものしい道具がところせましと並べられている。二階は養蚕関係の品々と縄文時代の土器や土偶が展示されている。うろうろしていると、一人の中年紳士から「どちらから?」と声をかけられた。ここの職員さんだという。東京から来たこと、研究のこと、天竜川を舞台にした作品をつくろうとしている事などを伝えると、ずいぶん関心をもって聞いてくれた。なおかつ、ぼくがこのあと中山社という明治八年に創立された製糸会社の跡地を訪ねようとしていることを話すと、わかりにくい場所にあるからと、わざわざ手書きで地図を書いてくれた(たしかにその場所には地図がなければとてもたどり着けなかった)。

博物館の展示物の中で、ぼくがいちばん興味をもったのは水車だった。大きさはぼくの背丈と同じくらい。そもそもは山本茂美の『あゝ野麦峠』に、明治後半の天竜川畔には工場の動力源として大小とりまぜ百輌ちかくの水車が架せられていたと書かれているのを読み、またその一部がここに所蔵されている事を知ったので、一目見てみたいと思っていたのだ。あちこちに水車が架せられている川の光景はひどく愛らしいものとして想像された。しかも水量が少なくて水車が動かないときには、男の職工が足を使ってコマネズミのように一日中回していたという。川の上空を舞うトンビの視点から、人間たちが百輌の水車を一斉に回しているさまを思いえがくと、なんともひょうきんだ。水車を熱心に写真に収めているぼくを見て、先ほどの職員さんがぼくに「水車の動力がどんな風に使われていたか知っていますか」と聞いてきた。恥ずかしながら、ぼくはそれを知らなかった。彼は糸繰り機の前にぼくをみちびき、円形状でちょうど小さな水車のようにも見える、繭から紡ぎ出した糸を巻き取る部分を、からんころんと回してみせた。百聞不如一見。ただ赤面して、感嘆の息をもらすばかりだった。

職員さんはさらに、岡谷には今なお明治時代の糸繰り機を使い、人の手で繭から糸を繰っている製糸工場があることを教えてくれた。見学も随時うけいれているという。行かない手はない。職員さんに感謝を告げて別れ、中山社跡地を訪れた足でM製糸所に向かった。四十歳くらいの若旦那の案内で作業場に入る。繭を煮る匂いと水蒸気の充満する室内で、手ぬぐいを頭に巻いた七人の女性たちが、さきほど博物館で目にしたのとそっくりの機械の中に座り込んで、黙々と糸を繰っていた。彼女たちの頭の後ろでは糸巻きの輪がからからと回り続けている。糸巻き車輪と紡がれた糸と繭を煮る鍋のかたちは、地図でみる諏訪湖と天竜川と遠州灘の構図にそっくりだ。最年長とおぼしき方は七十歳前後だろうか。若旦那はその人の真向かいに立って「こちらの方は十代の頃から糸引きの仕事をつづけてきて……」などとぼくに向かって説明する。写真を撮ってもかまわないと若旦那が言うので、ぼくははにかみがちに「失礼します」と言って彼女にカメラを向けた。彼女は目線を動かしもせず、繭を煮る釜の上でてきぱきと両手を動かすだけだ。年配の方にまじって、若い女性が一人いた。ぼくよりも少し年下かもしれない。今はまだ見習いだという。彼女はいったいどんな経緯でこの仕事に就くことになったのだろう? ぼくは少しその年長の女性や若い女性から話を聞いてみたかったのだが、声をかけられる雰囲気ではとてもなかった。若旦那にみちびかれて隣室に移ると、二人の女性が自動式糸繰り機の前で作業をしていた。足元のバケツにはエメラルド色の繭がいっぱいに積まれている。聞けばこれらは遺伝子組み換えの技術を使って、クラゲの発光する遺伝子を組み入れた蚕の繭なのだという。いったいどんな需要があって、何に加工されていくのだろうか。

仕事の手を休めて三十分ばかり熱心に解説してくれた若旦那に礼を述べて工場をあとにする。半分夢から醒めきらないような気分で、銀座通りを駅に向かって引き返す。歩いているあいだ先ほどの女性たちの姿が、明治時代の機械にでんと座りこんで、ぼくが作業場にいるあいだ両腕以外微動だにせず糸を繰りつづけていた彼女たちの姿が、脳裏に焼きついて消えなかった。とくに半世紀以上ものあいだ、ああして指先で糸を繰り続けてきたあのおばあさん。生業に徹して生きてきた人間の重みが、田んぼの黄色い目玉風船みたいなぼくのたましいに、くりかえし銃弾のように食い込んでくるのだった。

次に寄ったのは照光寺という真言宗の寺だ。境内に「蚕霊供養塔」という高さ十メートルほどの塔がある。かたわらにかけられた木の板には「繭を結ぶは智慧の業、さて世の中に施興(ほどこし)の、功績を残し潔く、身を犠牲の心こそ、偲ぶもいとど貴しや、さらば諸人集りて、貴き虫の魂に、篤き供養を捧げつゝ、永久の解脱を願はなむ、南無蚕霊大菩薩」という経文めいた文句が筆書されている。この寺の和尚が書いたらしいが、蚕たちからすれば噴飯ものの鎮魂の詞なのではなかろうか。

蚕という虫は、なまじ見映えがして柔らかい糸を吐くばかりに、五千年を超える昔から徹底して人間に利用されてきた。卵から孵って成虫になるまでわずかひと月あまり、成虫になってからは飛ぶことも栄養を摂ることもできない。そもそも口といえるものがない。これは今日養殖されている蚕の大部分が日本種と中国種をかけあわせてつくられた人工的な品種であるためだ。天然の蚕というのもあるが、きわめて珍しい。サナギから羽化した蚕はまもなく和紙の上に雌雄とりまぜばらまかれ、交尾をさせられ、雄はやがて体力を使い果たして死に、雌は産卵ののち病気の検査のためにすりつぶされる。また製糸工場におくられた繭は鍋で煮られ、中のサナギは鯉のエサになったり、人間の食用として佃煮にされる。M製糸所でもサナギの死骸がバケツに山と盛られているのを見た。

日暮れ前、諏訪湖から少し下ったところにある旧釜口水門の上に立って、足元の天竜川と、対岸に広がる岡谷の町を見渡す。昭和四年に今ぼくが見ているのとほぼ同じ角度から撮られた平野村の写真を思い起こしてみる。はっきりと変わらないのは川と湖、そして遠くにかすむ山々の輪郭。ぼくはこの町に友情をいだいた。明日の早朝には飯田線に乗って下伊那へ向かい、養命酒の製造工場の敷地にある弥生時代の遺跡を訪ねたり、舟下りをするつもりでいる。陽が沈んだら、もう一度ここへ夜景を見に来よう。

2011年11月13日日曜日

「正しさを前に」(辻井 潤一 書評)

昭和16年夏の敗戦。ともすれば、そのまま受け流してしまいそうになるが、すべては、この一見平凡に思えるタイトルに集約されている。

本書は、太平洋戦争における日本の敗戦は開戦前から既に予測されていた、という史実から展開していく。予測を立てたのは、昭和16年4月、軍・官・民から選りすぐりの三十代の俊英、三十余名を集め設立された内閣総力戦研究所の研修生たちだ。同年8月、彼らは、それぞれが総理大臣や閣僚、次官などとなって模擬内閣を作り、様々なシミュレーションを重ねた結果、「日本必敗」という結論を導き出した。その結果は当時の近衛文麿内閣に対し発表されたが、その場に陸軍大臣として同席し、10月より首相となった東条英機率いる内閣は、12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争を開戦に至らしめる。「必敗」という「結論」が提示されながら、なぜ日本は戦争に踏み切ってしまったのか。著者は丹念に分析していく。

大きな要因として、当時の二重権力構造が挙げられている。東条英機が首相に指名された理由は、おそらく米国との戦争を望んでいなかったであろう天皇の忠実な信奉者であり、軍部に圧倒的な影響力を持つ東条をトップに据えれば戦争は避けられる、という思惑があったからとされている。しかし、大日本帝国憲法下における当時の首相は「政府」の長ではあったが、もう一方の「大本営」と権力を二分していた。満州事変から日中戦争を経て、戦争をすることに固着していた大本営を、東条は抑え切ることができなかった。二重権力を超越できず、天皇と大本営、首相という自らの立場の板挟みになり苦悩する東条の姿を描き切った箇所は、本書の白眉といえる。

また、原爆投下以外はほぼ予測していたというほど高い精度だった総力戦研究所の「日本必敗」という結論も、結局、時を経て事後的に証明されたに過ぎない、という事実も見逃せない。歴史とは過去への遡及で成り立っている。どんなに「客観的」で「正しい」データがあろうと、常に歴史のただ中にいる人間にとって、今この時、何かを選択する、あるいは選択しないという決断は、「主観」の中でしか下すことはできないということだ。
本書が示唆する問題も極めて「正しく」、教育的である。しかし、震災後の今、止めどなく押し寄せるあらゆる「正論」を前にした時、本書が示す「正しさ」はあまりにも自明であり、むしろ途方に暮れされるものでもあった。

(猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』中公文庫、2010年/原著:世界文化社、1983年)

2011年11月10日木曜日

11月例会のご報告&来月の書評について

【読み書きクラブはおかげさまで、立ち上げから一周年を迎えました】

 本日の参加者は10名。原さんと大塚さんの作文、原さん、大塚さん、辻井さん、近藤さん、スガモリさん、Chiaraさんの書評を取り上げました。原稿の集まり具合がかんばしくなかったことから、ここ数日のあいだに原稿を書いてきて下さった皆さん、ありがとうございました。
 例会の後ではコヨーテのワインや美味しい食べ物を囲んで一周年をお祝いしました。Chiaraさん、大塩さんをはじめ、差し入れをしてくださったみなさん、ありがとうございました。

【12月の書評について】
・書評対象は「原発」に関する書籍に限定します。
・日本の話でも海外の話でもかまいません。

次回例会は12月8日(木)です。
今回ご参加できなかった皆さん、来月にあらためてお祝いしましょう!


2011年10月25日火曜日

ウミガメ (原 瑠美 作文)

この夏、私はウミガメに出会った。それは本当に奇跡のような出会いだった。ハワイで、わざわざウミガメを探しに出かけたのだから当然と言えば当然かもしれないが、一匹も見つけることができない場合だってあるだろうし、たとえ見つかったとしても、いつもその出会いにふさわしい状況だとは限らない。その点、私たちの出会いは完璧だった。まわりに人影はなく、ウミガメもたった一匹で、空は青く、時間はたっぷりあった。

子供の頃から海が好きだった。大きくなったら七つの海を渡り歩く冒険者になりたかった。いつか自分で船を持って、絶滅したと言われるドウドウ鳥を探しに行こうと計画していた。その頃はなぜかドウドウはアフリカではなくオーストラリアにいたものだと思っていたが、子供にとってはどちらも変わらないくらい遠い、未知の領域だ。私は海を見ては未来の冒険を思ってわくわくしていた。しかし、自分が海そのものに惹きつけられていることを初めて意識したのは、高校生の頃だったかもしれない。

高校一年の夏休み、家族でイスラエルに行って、そこで初めて地中海を見た。母は現地で仕事をしなければならなかったので、私は弟と二人でテルアビブのビーチに来ていた。空よりも暗い色をした海を眺め、潮の匂いを吸い込むと、力がみなぎってくる。海に入ると水は体温と同じくらいに暖かく、肌のようになめらかで、私と海との境目がわからないくらいだった。人間は海から来たのだと確信して、私はどんどん沖へと向かった。「待って〜」とか細い声が聞こえて我に返ると、お互いが小さく見えるくらいの距離から弟が私を呼んでいる。私はまだ肩で波を切って歩いていたが、弟はもう足がつかなくなってしまったらしい。私は引き返して水中で弟を軽々と抱き上げ、巨人にでもなったような気分でもう一度海の中を進んでいった。穏やかな波が私のあごの下で弾ける。これ以上行くと二人で水の底を歩いて行かなければならないくらいのところまで来て、私は立ち止まった。小鳥のように小さな弟は、私の肩にしがみついている。五歳しか離れていないのに、私はこんなにも大きく、弟はこんなにも小さいのが不思議だった。私はしっかりと足をふんばって弟を少し持ち上げ、海を見せてやった。すばらしい気分だった。

ハワイの海は、イスラエルのそれとは比べものにならないほど明るい色をしている。海水はどこでも透き通っているが、やはりワイキキではウミガメ級の生き物を見ることはできないらしい。そこで最終日にラニカイビーチに出かけた。オアフ島ではとりわけ海の透明度が高くて有名なところだ。シュノーケル貸しのお兄さんは、「今はカメの季節じゃないからね」と私の冒険に懐疑的だったが、とりあえず、という感じでウミガメがいそうなスポットをいくつか教えてくれた。一人で海に行くと、泳いでいる間の荷物番がいないので緊張するものだが、お兄さんはこれにもよい対処法を教えてくれた。ビーチに敷いておく敷物の上をタオルや服で乱雑にしておき、貴重品は敷物の下に入れておくと、まず盗られることはないらしい。とにかく散らかっている感じを出すのがポイントだと言う。ビーチに着くと私はその通りにして海に入った。

ウミガメは諦めかけた頃に現れた。熱帯魚にも見慣れてきたな、などと考えていたところ、突然黒くて丸いものが目に入った。大きな目をして、口元には微笑をたたえたウミガメだ。その表情に、私は釘づけになった。海の底に沈んでいたウミガメがスイスイと泳ぎはじめたので焦ったが、近づいてみると案外ゆっくりと進んでいる。私は一緒に泳いでいくことにした。カメは急に上昇し、まさかと驚いている私のすぐ目の前で、海面から顔を出して息つぎをした。ウミガメと一緒に顔を上げると、波の向こうにとんがり帽子の無人島が二つ見えた。私は笑いだした。シュノーケルがブクブクと鳴った。ウミガメはにやりとしてまた泳いでいく。どこまでもついていけそうな気がした。すばらしい気分だった。

ふと気づくと随分沖の方まで来てしまっていて、私は突然こわくなった。それまで自分の体と一続きのもののように思っていた海が急に冷たく感じる。ウミガメの顔には離れがたい魅力があったが、私は意志の力を結集して前に進むのをやめた。さよならのつもりでブクブクとやってみせたが、ウミガメはもちろん振り返りもせず、海の青にまぎれてしまった。

あの息つぎでウミガメが見せてくれた海は、私の記憶の中で特別な位置を占めはじめている。ずっと前に弟に見せてやった海も、彼にとって特別な海になったのだろうかと考える。ここからやって来たことは確かなのに、もう二度と本当には戻ることはできない海。海は、世界との一体感を感じさせてくれると同時に、自分と他者との隔たりを、強烈に意識させてくれるものであるらしい。そんな海を見に、海を感じに、私はまた出かけていくと思う。

2011年10月19日水曜日

「かわいい人」(原 瑠美 書評)

 小さな星からやってきた王子さまが、こんなにもかわいいと思ったことはない。今までに何度か読んだことがある『星の王子さま』では、王子はいつもお話の中の存在だった。「ぼく」と王子の出会いは遠い砂漠で起こった、もしかすると夢の中のことだったかもしれない出来事。それが今、王子は自分よりも小さな、守るべきものとして、確かに存在したのだと思える。

 この本で、訳者はル・クレジオ原作の映画『モンド』の主人公に、王子の姿を重ねていると言う。どこからともなく街にやって来て、人々とふれあい、また去っていくストリート・キッドだ。確かに王子も風のように現れ、生意気な話し方で突然「ぼく」に馴れ馴れしく近づいてくる。「ちび王子」と呼ぶにふさわしい、ひょうひょうとした表情が目に浮かぶ。そんな王子に、「ぼく」はいらいらさせられることもある。しかし王子が泣き出すと、「ぼく」はいてもたってもいられなくなり、乗ってきた飛行機は故障していて、一人で砂漠に取り残されているという差し迫った状況も、王子をなぐさめることと比べたら、どうでもよいことに思えてくるのだ。

 王子が自分の星を捨てて地球にやってきたのは、どうやら星に一本だけ生えていた、薔薇の花が原因らしい。花は信じられないほど美しく、王子を幸せな気持ちにさせてくれたが、とても気取り屋で、傲慢でもあった。彼の愛を試すように薔薇が繰り出す馬鹿げた言葉に嫌気がさして、ある日ついに旅立ってしまったことを、王子は後悔しているように見える。花の言うことは、「やさしい気持ちで聞き流してやればよかった」と「ぼく」に語る。そして王子のこの薔薇への思いこそが、彼をとても壊れやすいものに見せているのだ。

 かわいいかわいいちび王子。王子に何かしてやるだけで、「ぼく」は「パーティみたいにすてきな気分」になることができる。その反面、王子の寂しさに触れて、「ぼく」は心を痛めもする。そんな「ぼく」の語る言葉に、私たち読者の心もまた、喜びと悲しみの間を大きく揺れ動く。

 読書というのはつらい行為だ。せっかく始まった物語が、いつか必ず終わってしまうのだから。物語と出会うためには、終わりへと自ら向かっていかなければならない。ちび王子に会うには、彼と別れる覚悟をしなければならないのだ。けれどこうして物語の寂しさを現実の痛みとして受けとめるとき、読書は意味のある時間に変わるのかもしれない。

(サン=テグジュペリ『星の王子さま』管啓次郎訳、角川文庫、2011年)

2011年10月15日土曜日

神は何をしていたのか (Chiara作文)

震災から二週間ほど経った頃、代母(洗礼名の名付け親。生涯を通して信仰の先導役となることを期待される役目。男性ならば代父、いわゆるゴッドファーザーである。)からメールで添付ファイルをひとつ受け取った。中高のクラブの顧問であり恩師である代母は教育の一線を退き、米国中西部の雪深い地の、自分より老いたシスター達が暮らす修道院で奉仕しながら大学院に通っている。八〇歳まであと一息。長年英語教師として教鞭を執ってきたが、さらに宗教の教師資格を取ろうというのである。
肥満にして高血圧、飽くなき食欲と戦うこともなく、彼女のなすがままの生活習慣を見て「まだまだお迎えはこないでしょう。」と断言できる医師は誰もいまい。もはや半数以上の脳細胞が壊滅状態にあるそのおツムに何を詰め込むのか。ピカピカの新しい知識は教壇で披露されることもないままポンコツな肉体とともに昇天してしまうに違いない、と不肖の教え子ならずとも考える。「あそこは寒いんだから。外と内の温度差でさらに血圧は上がるだろうし、雪かきだって先生にはできないでしょ。ほとんどくたばりに行くようなもの。悪いこたあ言わないから、やめときなさいってば。」と止めてはみたが、耳が遠いのと相まって聞く耳を持たない。「わたしゃ行くのよ。絶対行くのよ。」と言いながら旅立った。
さらに特異な恩師のキャラはかなりのお節介。「生きているならウンとかスンとか言わんかい。」と忙しい私にせっせとメールを送りつける。時には「うちのシスター達が観たいと言っているから、ローマに行って教皇様のビデオを買ってこい。」と呆れるような命令も下す。面倒なのが、ボケ防止なのか、それとも昔の記憶は鮮明だが最近の記憶は不明瞭だからなのか、50年前に留学したイタリアが懐かしいらしく、イタリア語を交えたメールを送りつけてくることだ。イタリア語の習得をとっくの昔に放棄した私を困惑させていることがわかっていない。
とはいえ、彼女のお節介も的をすっかりはずしているわけではない。私は神学大学で学び、神学の理解という意味では代母の「導き」を必要としてはいないが、信仰の面では幼稚園児並みだからである。毎日曜日のミサには「説教がつまらない。」「日曜の朝に起きろって? ムリムリ。」と難癖をつけて行かないから、いまだに式次第が頭に入っていない。立ってはいけないところで立ちあがり、切ってはいけないところで十字を切る。祈祷文もまったく違う文言を口走るし、「さあ、みなさんでロザリオの祈りをいたしましょう。」なんて言われると、お経は勘弁してよと思いながら、携帯を耳に当て存在しない相手に「あー、それでは今すぐ確認します。」なんて言いつつ会堂を逃げだす。私が洗礼を受けたことを知った母校の機関誌に、「札付きの不良学生が卒業後二十数年を経て洗礼を受けました。神はそのときをじっと、忍耐強く待っておられたのでしょう。神には神のときがある、その言葉を体現するような事例ではないでしょうか。このようなこともあるのですから、私達も諦めずに宣教に励みましょう。」と書かれて憤慨したこともある。こんなだから、年老いた代母はしょっちゅう連絡してきては、「もうすぐ復活祭です。御復活の前には告解をして悔い改め、清々しい気持ちでその日を迎えましょう。」などとメールをよこす。” I have nothing to confess!(懺悔しなきゃならないことはなんにもありませんから)” などと教え子がキリストに向かって悪態をついているとは露ほども知らずに。
しかし、不肖の代子(信仰上の子供)も不承不承神と向き合わなくてはならぬときがある。
三月十一日、東北の太平洋沿岸部を飲みこんだ津波は、日本人の誰の心も黒い波の闇に引きずり込んだ。
人里に迫りゆく津波のその刃の先端を見つめながら、信仰を持つ者ならば誰もが、ひとりでも多くの命を救ってほしいと神や仏に祈ったはずである。どうぞ、この刃が無垢の人々を見逃してくれるように、と。
過ぎ越しの夜、贖いの羊の血を塗られたイスラエル人の家々の門を神が通り過ぎ、エジプト人の長子だけが神の手の刃に倒れた。どうぞあの夜のように、人々をその刃先から逸らせてください。ここにいる人々はすべてあなたの創った者たちで、あなたを知らない者にしても、ほとんどすべては善意の人々です。そしてすべての人があなたに比べれば無力で脆弱な人々です。キリスト者としての私の祈りは、叫びに近かった、と思う。
しかし、祈り、頭を垂れていた私は突然神に向かって顔を上げ、「なぜ?」と問うた。神はなぜ平和に暮らしていた人々の命をもぎとる行為を許したのか。神が万能であるならば、なぜ地の揺れを、ゆるい曲線を描きながら進む大波を、止めることができなかったのか。すべてのことが神の計画のひとつだとしたら、一万数千人の命を奪うことも神の計画なのか。神はそれほど無慈悲なのか。神は人を愛するが故に、「ひとり子」であるイエス・キリストを地に遣わした、と私達は教えられている。その神がなぜ人々を見捨てることができたのか。
ひょっとしたら神はいないのではないか、自分達がいると信じている「神」は思い込みの産物ではないのか。
神はいないかもしれない—————————そう思うに足る現実の中に私達はいる。

その私を見透かしたように、震災後二週間ほど経った頃、代母からファイルがメールに添付して送られてきた。ファイルの名は’Cross in the sea ’ 。まるで世界が海に飲みこまれたように、満々と水を湛えゆるやかな波を起こしている海に、突き刺さる十字架とそこに架けられたキリストの絵であった。キリストは苦しい表情を浮かべ、海も空も不気味なほど暗い青で塗られている。波間に浮かぶキリストと十字架は、死者の魂とともに漂っているように見える。これを送ってきた代母の意図は、「イエスさまは、死者の魂をその手に抱き、天に昇られた」なのであろう。しかし私の眼には、キリストは死者の魂の重さに耐えかね、苦渋の表情を浮かべているようにしか見えない。生への惜別をする時間も持てず、愛する家族を思いながら失われた命を支えることは、キリストにさえ重すぎる。そして、代母が考えているように、死者がすべて天国に迎えられたとしても、生き残った家族も救われたと言えるのだろうか。
神は耐えられない試練は与えない、キリスト者の多くが口にする言葉だ。必ず耐えられるのだから、歯を食いしばって生きていけ、と言うのである。しかし、残された泥だらけのランドセルを前にした親に「耐えられる試練」だから、と誰が言えるのか。誰がそんな試練に耐えられるのか。神にさえ耐えかねる苦しみではないのか。それでも、耐えよ、と言うのであれば、その声は神ではない。
どこかの知事が「これは天罰だ」と言った。確かにそうかもしれない。すべての人間ではないが、私達は長らく間違った価値観の中に生きてきた。心地よい生活のために限られた資源を無駄に使い、快適さをより経済的に手に入れるためにウランやプルトニウムという人間の手には負えない物質を普段の生活に近付けてしまった。電力不足を補い地球温暖化を防ぐために原子力発電所は必要だ、と考えることはあっても、暖房を消して寒さに耐えようとは考えたこともなかった。この震災は日本が新しい道に進んでいくための試練であったのかもしれない。それでも、その試練が純朴な東北の人達の上に降りかかったことに、日本人は悲しみを覚え、知事の言葉に違和感を持った。この混乱の中にあって東北人が見せた品格を我々は誇りに思うが、日本人が世界から集める尊敬がその犠牲の上に成り立っているのであれば、それは我々の望むところではない。
ノアの箱舟は、神を信ずる者だけを乗せて波を乗り切った。
この震災で命を失ったのは、神が最も愛する人々であった。高台に人々を誘導するために逃げ遅れた人、津波警報を知らせるために有線放送のマイクから離れなかった若い女性、衛星電話を取りに戻った病院職員。ノアの箱舟を神が用意していたならば、彼らこそが乗るべきだった。そして箱舟を用意することもなく波を起こしたならば、神に慈悲の心は無い。
神は何をしていたのか。波間に漂う善良な人々になぜその手を差し出さなかったのか。人や町が海に沈むことを知っていたならば、なぜあなた一人がその苦しみを背負わなかったのか、私は送られてきたキリストの絵に問いかけた。
神のなさることに非合理は無い、年老いた聖職者は受洗前の私に言った。しかし、今私達の目の前にあることは非合理以外のなにものでもない。
寄り添うべき時にそこにいなく、救いを求めて伸ばされた手を掴むことなく見捨てるならば、その神は何の意味があって存在しているのか。

昨日の五月一日は、ヨハネ・パウロ二世が福者に列せられた日であった。神の慈悲、そして栄光にスポットライトが当たる式典をネットで見ながら、歴史においては東欧の民主化の一端を担い、神より啓示を受けた預言者であった彼が生きていたら、どう私達に答えたのか。         
そしてキリスト者である私は、失われた命の意味をどう説明するのか。信仰を持つ者すべてが自問しているのだと思う。

2011年10月13日木曜日

10月例会のご報告 & 12月の書評について (大洞 敦史)

本日の参加者は10名。前半に『星の王子さま』の書評を読み、後半に作文を読みました。電車事故の影響により書評をみなさんで読めなかったことは残念でしたが、8時には全員が揃い、原さんとChiaraさんの作文について活発な意見を交わしました。
例会の後はChiaraさんお手製の韓国料理をはじめ、先月同様みなさんで持ち寄ったものをいただきながら、楽しい団らんの時間をもちました。

【12月の書評について】
・特定の書籍ではなく、「原発」に関連する内容の書籍を対象とします。
・日本の話でも海外の話でもかまいません。
・11月の書評対象は、従来どおり自由です。

次回の例会は11月10日です。皆様のご健筆をお祈りします。


2011年10月6日木曜日

「内側に巣くうもの」(岩井 さやか 書評)

折しも今日は台風一過の抜けるような青空の下でこれを書いているのだが、何かをすこーんと解き放ってくれるようなそんな読後感の小説だった。読みながら、自分の思春期を、内部にとぐろを巻いていた得体の知れない怪物のような苛立ちを持て余し、いたずらにそれを解き放ってみては、傍にいた母親ばかりがそのとばっちりを受けていた日々の事を思い出した。そして吐き出しても、吐き出しても内部に抱えたどろどろとしたものは、一向に消えなかった日々の事を。

この物語の主人公も、思春期の真っただ中にいる女子高生だ。家族の前ではものすごくいい子を演じているが、本当はそれが自分がかぶっているお面にすぎない事を知っている。日々、自己嫌悪の嵐が、内部に激しく吹き荒れても、そう簡単には思いを吐き出さない。攻撃の矢を外に向かって放っても、それが結局は自分に向かって返ってくることを知っている頭のいい子なのだ。だからコーヒーを飲んでは心を落ちつけているが、カフェイン中毒からも脱却したくて、熱帯魚を飼うことを思いつく。癒しの効果を期待して渋る母親を説得した彼女は、毎夜水槽の前でほぼ寝たきりの呆けた祖母と不思議な時間を持つようになる。深夜、水槽の前でだけ祖母は覚醒するのだ。

この物語では、祖母が思春期だった時代、そしてその思春期だった祖母から見た、そのさらに祖母の姿も同時並行で描かれている。年を重ねた人間の凜として生活を切り盛りしていく姿、少々の事では動じない力強さ、近すぎる存在である母親とは少し違う心地のよい距離感、核家族では味わえないもう一つ上の世代の存在が家の中にいるという安心感とそこから学べることの多さをこの物語を読みながら私は噛みしめた。かくいう私も17歳で祖父母と同じ屋根の下に住むことになって、その存在にだいぶ救われたのである。思春期、真っただ中の女子からみれば、全てを超越しているかのように見える祖母、しかしその祖母にもやはり同じように内側に抱えた何かを持て余しながら過ごした思春期があった事をこの小説は教えてくれる。

水槽という装置はなくても、最近めっきり年を取り弱々しくなった私の祖母と彼女の昔の話をしてみよう、そう思った。年を取ったからといって内部に巣くう怪物はいなくなるわけではなくて、ただ共存の仕方を習得していくだけなのだという事が薄々分かりかけてきた今だから、話し合えることがあるかもしれない。

(梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』新潮文庫、1996年)

2011年10月3日月曜日

「オリヴィアを探せ」(原 瑠美 書評)

オバケが見える水中眼鏡を手に入れた。眼鏡をかけて水中をのぞくと、魚の幽霊がうようよしている。それを持ってティモシーとワローの兄弟は、死んだ妹を探しにいく。ティモシーは、本当は妹を見つけたくなんかない。もう二年も前に海にさらわれた彼女は今頃どんな姿になっているかわからないし、たとえば脳みその代わりにウナギが骸骨の中で光っていてもおかしくないからだ。しかし毎日オリヴィアを探しに出かける。それがなぜかやめられない。

カレン・ラッセルのデビュー作である本書は、奇怪な物語ばかりを集めた短編集だ。幽霊と駆け落ちしようとする姉を追いかけて月夜に繰り出す少女、歴史上のあらゆる悲劇を夢に見てしまう少年、そして表題作の「狼に育てられた女の子たちの家」では、狼人間の子孫である少女たちが、修道院で厳しい教育を受ける様子がグロテスクな細部にいたるまで語られる。しばしばぞっとさせられるようなお話に、なぜかとても惹きつけられる。ある花屋の店先で、友達が、「ここはきらきらしている」と言っていた。大切に育てられている植物たちが、光を発しているように見えたという。それと同じ感じがする。何かがどこかで光っているような気がして、読みはじめるとやめられない。中でも「ホーンティング・オリヴィア」は、この本の中に散りばめられた光の源に、最も接近できる作品だ。

巨大なカニの甲羅で作ったソリで遊んでいるうちに、小さなオリヴィアが浜辺から姿を消した。十二歳未満の子供をそこで一人で遊ばせてはいけないという決まりだったのに、ワローもティモシーもそれぞれ家でやりたいことがあって、まだ八歳半のオリヴィアを置いてきてしまったのだ。オリヴィアの体は見つからなかった。大人が諦めた後も妹を探し続ける兄弟は、オリヴィアが残した絵をたよりに、ついにここだと思われる場所を見つける。まっくらな洞窟に、発光するミミズが群生している、おそろしいところだ。穴の底には幽霊のオリヴィアがただよっているかもしれないと考えて、ティモシーは身震いする。それでも勇気を出して息を吸い込み、海にもぐった。

暗い海の底でティモシーが出会ったオリヴィアは、曇った水中眼鏡ごしに見える光。なんだか私たちがいつも探しているものに似ている。それはどこにもないかもしれないし、どこにでもあるかもしれない。それでも探し続けるとき、突然見える光がある。

(Karen Russell, St. Lucy’s Home for Girls Raised by Wolves, Vintage Books, 2006.)

2011年9月28日水曜日

「被災者の死を「二人称の死」へ変換する試み」(近藤 早利 書評)

この本には、東日本大震災の際、実際にあった事柄をモチーフとした短編マンガが九編とコラムが一編、収められています。

孫を守ろうと抱きかかえたまま、亡くなったおばあちゃん。
生前の母に対する態度を悔いる母子家庭の娘。
飼い主であったおじいさんを喪った犬のタロ。
職業的使命に従うよりも身の安全を考えてしまったがゆえに、患者を守れなかったことに苦しむナース。
頼りないと思われていたが、住民の多くを救って殉職した警察官。
放射能による高濃度汚染地区からの退去命令に従わない老夫婦。
被災者が家族の死を受容してふたたび立ち上がるまでを見届けた自衛隊員。
川縁の瓦礫の山を片付け、まわりを菜の花で一杯にしたおじさん。
その後、コラムとして、作者自身のボランティア体験記が挟まれ、最後に「再生」と題する一編があります。

柳田邦男さんは、死には「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があるといわれました。一人称の死は、自らの死。二人称の死は、家族や親しい友人など、自分の生活の一部を形づくっていた人の死。そして、第三者の死。
しかし、東日本大震災で亡くなられた人の数を思うと、もうひとつ、統計的な死、というようなカテゴリーを付け加えなくてはならない気がします。

震災後、テレビやネットで悲惨な現実と悲しい訃報に接する度に、大泣きしてばかりいた作者は、親しい人から勧められて、泣き続けるエネルギーをマンガと文章に定着することを決意しました。それは、統計的な死を、二人称の死に変換し、死者たちを彼岸から私たちの心の中に引き戻そうという試みだったといえましょう。

作者の試みは、最初ブログで発表され、ツイッターを通じて大きな反響を呼ぶこととなり、一冊の本に編まれることになりました。

最後の一編「再生」の中で、ひとり遺された母子家庭の娘の山中ゆかりは、卒業生総代として答辞を読むことになります。私は、この答辞の文章のなかに、間違ったシステムの上のみせかけの繁栄に安住してしまっていた我々が、もっとも嚙み締めなければいけない言葉が書かれていると感じています。その言葉を、ここに引き写したい気持ちを抑えるのが苦しいですが、やはり、その部分は、この本を手にとって読んで頂きたいと思います。

(みすこそ『いつか、菜の花畑で〜東日本大震災を忘れない』扶桑社、2011年)

2011年9月23日金曜日

9月22日例会のご報告(大洞 敦史)


本日の参加者は、初参加の方2名を含めて13名。初回以来の盛況ぶりでした。例会では作文1本(志村さん)と書評4本(近藤さん、原さん、辻井さん、岩井さん)をとりあげたのち、10月以降の方針について話し合いました。主な変更点を以下に記します。

【作文】
・字数は1900字〜2000字とする。(テーマは従来通り任意)

【書評】
・「あらかじめ本を指定する」方式と従来通りの方式を毎月交互におこなう。
・10月の対象書籍は管啓次郎訳『星の王子様』(角川文庫、角川つばさ文庫いずれも可)
・11月は従来通り。12月は「あらかじめ本を指定する」方式。
・12月に対象とする本は10月の例会の際に決める。推薦したい本がある人は、10月の例会までにメーリングリスト上でプレゼンテーションをしてください。
・書き上がったら、書評用テンプレート(Wordファイル)を使って大洞に送る。
・テンプレートのDLはこちらから。
http://hobo.no-blog.jp/ph/rev_temp.doc
・字数は従来通り950〜1000字。

【その他】
・Google Docsなどのサービスを使ってインターネット上でファイルを共有し、例会の前に読めるようにしてはという提案も出ています。一方、そうすると例会に出る楽しみが薄れるという意見も。今後の検討事項といたしましょう。

例会終了後は、皆様からの差し入れをいただき、管先生と近藤さんによる弾き語りを聴きながら、なごやかなひとときを過ごしました。特にChiaraさんお手製の豚のリエット、鮭のムース、トリュフ入りチーズ、近藤さんお手製のライスサラダは大好評でした。皆様ありがとうございました。

次回は10月13日(第二木曜)19時からです。来月またお会いしましょう!

2011年9月8日木曜日

大塚あすか&原瑠美から提案です。

10月から、ちょっと新しいことしてみませんか。


1.書評は事前に参加者が対象書籍を読んでくる。
2.作文は毎回チャレンジ目標を設ける。
(例:同じテーマで長文と短文を書く[文字数を削る練習]、同じテーマで全員が書く)

真剣に読み書きに取り組むメンバーが集まる読み書きクラブ。
新しい目標を持つことで、さらに議論を深めるきっかけになると思います。

実施期間は2011年10月から2012年3月、ちょうど大学の後期にあたります。

管先生から10月の最初の書評課題をいただきました。
『星の王子さま』。

書評用のテンプレートを大洞さんからメーリングリスト宛に展開していただきます。
次の半年間、継続して参加をご希望の方で、まだMLに登録されていない方は
大洞さんまでご連絡ください。
この提案に関するご意見などもMLへどうぞ。

よろしくお願いします。

* * *
大洞からの追記です。
9月22日の例会では、作文と書評を従来どおりにとりあげる予定です。
投稿数はまだどちらも0本ですので、ご寄稿をお待ちしています。
(寄稿予定の方は早めにお知らせいただけると助かります)

10月の例会は13日(木)の19時からです。
書評では管啓次郎訳『星の王子さま』(角川文庫版、角川つばさ文庫版いずれも可)を対象にします。
例会での議論を深めるために、執筆なさらない方も事前に読んでいただけますようにお願いします。

2011年8月13日土曜日

長大なグラデーションを知覚せよ(辻井 潤一 書評)

本書は、美術家の高松次郎が1972年にサンパウロ・ビエンナーレで発表し、91年に自身の手によって再構成した「写真の写真」シリーズをまとめた写真集である。写真の中に写真が写された、その名の通り「写真の写真」が収められている。ちなみにモノクロである。

ここからは便宜的に、写真の中の写真を「写真´」と呼ぶことにしたい。さて、「写真の写真」に目をやると、まずその中に写し込まれた「写真´」にどうしても目がいく。「写真´」はたわんでいたり、丸まっていたり、光が反射し一部が白く飛んで見えなくなっていたりして、写し取られた人物や風景が判別しづらいものばかりだ。通常、写真を観る時、多くの人はそこに写し出されたイメージをまず読み取ろうとするが、ここではその写真観賞の導入ともいうべき部分が瓦解しているため、たわみや丸まり、光の反射によって、「写真´」は印画紙という物質である、という事実がただ確認されるばかりだ。仕方ないので次に、「写真´」がどのような状況にあるのかを認識しようと試みる。机上に置かれたり、壁にピンナップされたり、額装されたりしているが、それらの状況は「写真´」の内容が判別しづらいせいで、何故そのような状況にあるのか、意図が掴めない。そして、宙ぶらりんの感覚のまま、意識はいよいよ「写真´」を写した「写真の写真」へと移行する。「写真´」のフレームの外へと一旦解放され、「写真の写真」のフレームへと収束していく。ここにきて初めて、私は一体何を観ているのだろうか、という根本的な疑問に直面することになる。写真に写し出されているモチーフか、印画紙という物質か、あるいは、「写真の写真」から勝手に連想した物語を自給自足で観賞しているのではないか、という気にさえなってくる。

人間の脳はかなり都合良くできていて、得た情報を削ぎ落としたり、補完したりしてから認識する、というのはよく聞く話だ。ある「ありのまま」のものがあったとしても、それを「ありのまま」享受することは有り得ず、先入観や知識の有無、関心の度合といった、何かしらの「フィルター」を通してからしか、私たちは感じることができない。

高松は、写真をさらに写真に収めるというトートロジーを提示することによって、「ありのまま」なものと「フィルタリング」されたものの間に、長大なグラデーションがあることを知覚させようとしたのではないだろうか。

(高松次郎『PHOTOGRAPH』赤々舎、2008年)

2011年8月1日月曜日

次回の例会は9月22日(木)(大洞敦史)

先日も回覧メールでお知らせいたしましたが、諸般の事情により8月は例会をお休みします。
次回は9月22日(木)、19時開始です。しばらく皆様にお目にかかれず寂しい思いがいたしますが、お互いに精進いたしましょう。充実した夏をお過ごしください。

2011年7月29日金曜日

正解のない世界をゆたかに楽しく生きる技法(近藤早利書評)

本書は、高校の英語教師を十三年間務めてから家庭科教師に転身した著者による「日々の暮らしを自分で整えるためのガイド」だ。 

一章は「自立」について。朝起きてベッドや布団の始末を自分でしていますか。部屋の掃除は。服は自分で選んで買って、毎朝、自分で組み合わせてますか。ここまでが、個人の自立で、その後、食事作り、後かたつけ、ゴミ出し、トイレやお風呂の掃除、買い物を家族のためにしているか、が問われている。

二章は「家族の中で生きる」。この章のすばらしいところは、「そもそも家族とは何か」に関する生徒たちとのやりとりが紹介されていることだ。一緒に暮らすのが家族なのか。ならば単身赴任の父は家族ではないのか。血のつながりが家族なのか。それでは夫婦は家族でないことになってしまう。制度が家族を決めるのか。長年一緒に暮らしながら結婚していない男女やゲイのカップルはどうなのか。養護施設で十五年間一緒に育った孤児仲間は。おじいさんとおばあさんがこよなく愛する猫は。猫ではなくサボテンだったら。こうして、私たちは「自分にとっての家族とは何か」を原点から考えさせられる。

三章は「社会の中で生きる」。労働、お金、消費、などについて語られた後、どんな百歳になりたいか、が問われ、最終章の「ゆたかに生きる」につながる。他者に依存せず、支配せず、一人でいても、仲間がいても楽しい。そんな風に生きられたらいいね、という著者の考えが、いくつかの実例を交えて語られる。

『正しいパンツのたたみ方』というタイトルは、著者の友人が、洗濯物を取り込んでたたむ度に、妻から「パンツのたたみ方が正しくない」と叱られてしまうというエピソードから取られている。受験科目とちがって、家庭科には(音楽も美術も体育もそうだけれど)、唯一の正解はない。人のパンツのたたみ方を責めすぎないようにしよう。

ところで、僕は、炊事・洗濯・掃除は並の主婦よりはるかにできる。とうそぶいて、人の家に招かれてグラスが曇っていないかチェックするようないやな男だ。そして、この国のエネルギー政策を決めてきた人たちは、炊事・掃除・洗濯のどれもまともにできない人だと想像している。自分で出すゴミを、自前で始末ができないようなことには、最初から手を出してはいけないのは、個人でも企業でも国家でも同じだろう。公務員試験にも国政選挙にも、家庭科の実地試験をくわえてもらいたいものだ。

(南野忠晴『正しいパンツのたたみ方』岩波ジュニア新書、2011年)

2011年7月20日水曜日

大庭のおばあちゃんのこと (近藤 早利作文)

あれやこれやに縛られた生活が息苦しくなると、いつも、大庭のおばあちゃんのことを思い出す。

僕の育った家は、岐阜県の東南のはずれの標高三三〇メートルの小さな町にあって、進学した名古屋の私立高校へ通学できる距離にはなかった。それで、僕は、高校の隣にある自動車修理工場に下宿していて、夏休みには父母のいる家に帰った。帰ると、母から「大庭へ挨拶に行っとんさい」といわれる。大庭というのは母の実家だ。農家で庭が大きいから「大庭」。大庭のおばあちゃんはそこにいる。

夏の陽射しの中を、ぶらぶらと二十分ほど歩いて大庭につく。短い坂の登り口の横には道路に面して農具小屋と鯉を飼っている池がある。坂を上がって道路より二メートルほど上に、南に向いた長い縁側のある母屋があって、その右に離れが、左にはニワトリ小屋と土蔵がある。

母屋の裏、北側は小さな山の斜面が迫っている。そこには、かつて防空壕として使われた横穴がある。従姉妹たちと、隠れん坊をして遊んだとき、必ず隠れた場所。入り口に近すぎては、かんたんに見つかってしまう。かといって、奥へ進んで行くと、陽も差さず、灯りもなくて、何より天井が崩れ落ちてきそうでこわい。そこは天然冷蔵庫とも呼ばれていて、自家製の味噌やたまりを醸造する桶が置いてあった。幼いころ、僕たちは、冷んやりとした空気の中で、代わる代わる麹の匂いに包まれて息をひそめていた。

母屋の長い縁側に腰掛けると、目の前には、さっき僕が歩いていた道路の向こう側に、青々と田が続く。さらに向こうには、お寺やお墓や神社のある小高い森が見える。大庭を訪ねたとき、いつも晴れていたはずはないのだが、僕の記憶の中にあるのは、夏の青空に雲が浮いており、稲穂が風に揺れている景色だけだ。

おばあちゃんは、明治に生まれて、ずっとこの町で過ごしてきた。隣の村から嫁いできて、三男二女をもうけた。母が小学生だった昭和一〇年代、大庭にはニワトリだけでなく、牛も山羊もいたという。牛は開墾のため。山羊は搾乳のため。農業をしながら動物に囲まれて過ごすのは、楽しそうというのは甘い考えだ。現金収入が乏しければ、自給自足に近づく。母たちは、学校へ通うための藁草履を自分たちで編んでいたし、着物は何度でも繕い直して着ていた。標高の高い町だから、冬は本当に寒い。子どもたちは氷点下でも素足に草履で、しもやけやあかぎれだらけで、本当につらかったという。

おじいちゃんは、そんな生活から抜け出すべく、家をおばあちゃんに任せて、養豚業でひとやま当てようと名古屋へ行ってしまった。一時的な成功は、おじいちゃんの遊ぶ金になってしまい、となり町に、僕の母によく似た女性がいて、おじいちゃんの隠し子と噂されている、という話もきいた。

子どもたちのことを任されたおばあちゃんは、倹約を重ねて、三男二女に、できる限りの教育を授けた。でも子どもたちの生活は平穏とはいえず、長男は徴兵され、終戦後六年にわたってシベリアに抑留された。次男は復員後、花屋さんを始めたけれど長くアルコール中毒に苦しんだ。長女は宮大工の家に嫁いで、穏やかな生活を営んでいたが、次女である僕の母の人生は波瀾の連続だった。

最初の夫の酒癖と暴力に苦しみ、離婚して男の子一人を連れて実家に戻ることになった。その後、再婚し、生まれたのが僕だ。父も最初の妻と別れてふたりの子を抱えていた。だから、僕には、母を同じくする兄がひとり、父を同じくする兄がふたりいて、父母を同じくする兄弟はいない。ややこしい。

僕が高校生の頃には、そうした波瀾は過去のものになっていた。末っ子の叔父が家を継ぎ、町役場に勤めて順調に昇進し、兼業農家として生活は安定していた。

訪ねていけば、おばあちゃんは、かならずいる。どこかに出かけたりなどしない。生涯で家以外のところに泊まったことは二度しかないといっていた。一度は、次男が生死に関わる病気になって遠く離れた町の病院へ連れて行ったとき、もう一度は僕が小学生の時に、母が、自動車の運転免許を取って、おばあちゃんが旅行というものを経験したことがないのはかわいそうだといって、僕と一緒に伊良子岬へ連れて行ったときだ。

農業と家事で働き詰めだったおばあちゃんの腰はすっかり曲がっていて、つかう杖は、三十センチくらいで足りていた。ちいちゃい、ちいちゃい人だった。

おばあちゃんは、田や畑にでることはなくなっていたけれど、行くと、たいてい風通しのよい玄関の上がり框に腰掛けて、何か手を動かしていた。野菜の皮をむいたり、繕いものをしたり。編み物には熱心だった。

あいさつをすませると、僕のために飲み物とおやつを用意してくれる。カルピスだ。曲がった腰で、ゆっくりと台所へいって、ドアがひとつしかない冷蔵庫から製氷皿を出して、小さなグラスにふたつくらいだけ氷を入れる。そこにカルピスの濃縮液を入れて、水を足す。水はもちろん井戸水だ。カルピス・ウオーターなんて製品はなかった。おやつも自家製だ。寒天に茹で小豆や牛乳を入れて固めて冷たく冷やしたもの。食パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたもの。夏みかんの皮を砂糖づけにしたもの。おばあちゃんは食べないで、僕の分だけ用意してくれる。 

飲み物とおやつが用意できると、いろいろ話をする。かならず聞かれるのは学校の成績のことだ。母親のちがう僕の兄たちの成績がよかったので、僕だけが成績が悪かったら、それは大庭の血統のせいだ、ということになるから、といって、いつも気にしてくれていた。生徒が一学年百人しかいない中学校の秀才だった僕は、名古屋の高校では、はじめは中の下がいいところだった。学校と名古屋という土地にはなじめなかったけど、おばあちゃんをがっかりさせたくないこともあって、地道に勉強に励んだ。休みの度に、前よりも順位が上がったよ、と報告できた。

それから、親戚みんなの近況を話し合う。僕は、東京の大学に行っている兄たちのことを報告する。おばあちゃんは、子と孫たちの近況。それから、町の人たちのこと。誰が嫁に行った、中風で倒れた人がいる、家を建てたけど嫁がいないとか。文字どおりの四方山ばなし。ゆっくり、ゆっくりお話をする。

本の話も時々した。おばあちゃんは、たどたどしい字しか書けなかったが、本を読むのは好きで山岡荘八の『徳川家康』がお気に入りだった。有吉佐和子の『恍惚の人』の感想を聞かせてくれたこともあった。時々「むつかしい理屈はわからんが」といいながら、政治や政治家の批評もした。

そうやって、のんびりとした時間を過ごしたのち、僕は「じゃあそろそろ帰るで」という。おばあちゃんは「そうか、もう帰るか。ちょっと待っておれ」といって、農作業用のはさみを持って、短い杖をつきながら、ゆっくり坂道を下りていく。そして、坂の下の田の畦に植えられた枝豆を、根本から切って渡してくれる。枝豆の束が増えて、あごの高さになると「もうこれくらいでええか」と、おしまいになる。それから、僕は、青臭い枝豆を両手とあごで支えて、腕や顔がかゆくなりそうな気がしてあわてて坂を登る。おばあちゃんは、ゆっくりゆっくり戻ってきて、枝豆を新聞紙でくるんで持ちやすくしてくれる。

僕は「ありがとう。またくるで」といって、枝豆の包みを持って大庭を後にする。おばちゃんは、坂の上から僕を見送ってくれる。曲がった腰を、精一杯伸ばして。

数年前、高校時代の友人の管啓次郎君から贈られた『ホノルル、ブラジル』という本で「reinhabitation」ということばを知った。《土地のいろいろな水の流れとか、その土地の植物相や動物相をじっくり見きわめた上で、自分自身がその土地に責任を持ってそこに土着化していくこと》(同書p66)。

この部分を読んだとき、ことばの定義と、おばあちゃんの生き方は僕の中でまっすぐに結びついた。

おばあちゃんは、土を耕し、稲や野菜を植え、動物の世話をしながら、少ない数の本を、ゆっくり、繰り返し読んで自分の生活の作法や信念をつくりあげた。借り物のことばは、何一つ言わなかった。自分が誰かに影響を与えようなんて、すこしも考えていなかった。自分が生きた痕跡をこの世に残したいと、あがいてもいなかった。ただ、家族と近隣における、その時々の自分の役割を、責任を持って静かに果たした。かっこいい。

僕が、大学四年生の冬、おばあちゃんは亡くなった。

おばあちゃんは、僕を含めて、すべての孫の子ども、つまりまだ見ぬ曾孫たちのために、毛糸のちゃんちゃんこ二着ずつを編んでおいてくれていた。男の子のための青と、女の子のためのピンク。たどたどしい字で「さとし 男」「さとし 女」と孫の名前と曾孫の性別を書いた箱に収めてくれていた。

亡くなった日は、いつものように編み物をしていて「ちょっとえらい(苦しい)」といって、横になって、そのまま入院することもなく息絶えた。

だから、おばあちゃんが、生涯で家以外のところに泊まったことは二度しかないという事実は、最後まで変わらなかった。

2011年7月18日月曜日

第9回例会のご報告と次回のお知らせ(大洞 敦史)

7月14日に開催した例会の参加者は管先生、近藤さん、辻井さん、私の4名でした。郷里のおばあ様との思い出をテーマにした近藤さんの作文を読んで、私にはこみ上げてくるものがありました。公開をご期待ください。

次回は8月11日(木)の19時から開催いたします。ただし管先生はいらっしゃらないかもしれません。なお今回は例会のあとで、おにぎりを食べながらひととき語り合いました。次回は近藤さんが用意してきてくださったお酒とお菓子をいただきたいと思います。なにかとあわただしい時期ですが、皆様のご健筆をお祈りしています。

2011年6月25日土曜日

引っ越し!引っ越し!(原瑠美作文)

子供の頃大事にしていたくまのプーさんのぬいぐるみが、ある日突然いなくなった。何度か行方不明になりかけては、奇跡の帰還を果たしていたプーさんだったのに。温泉旅館から郵送されて帰って来たこともある。ほとんど原形を留めていないプーさんを見つけた宿の主人が、これはただのぬいぐるみではないと察し、従業員に聞いてまわって持ち主を突きとめ、わざわざ送ってくれたのだった。そんなプーさんが見つからなくなってしまった。大阪から東京に引っ越したときだ。七歳の私は母を責め、自分のいたらなさを嘆き、段ボールを何度もひっくり返して探したが、とうとうプーさんは出てこなかった。

そんな思い出があるからというわけではないが、私は引っ越しがきらいだった。荷造りは大変だし、住みなれた家を離れるのはいやだったし、仲良くなった近所の犬とも別れたくなかった。プーさんほどの大事件にはならなくても、引っ越す度にいつも何かがなくなった。例えばランドセル。「もう使わないかと思ったの」と母は言い、引っ越しのときは荷物を整理しなければいけないものだと言い聞かされて、その時はしぶしぶ諦めたが、当時私はまだ二年生だったので、今から考えるとやっぱりおかしい。最近ではマグカップ。小学生の頃、引っ越す前に親友がお別れにとくれたもので、二十年近くも大切に持っていたのに、つい先日思い出して探してみたら見つからなかった。去年の夏に引っ越す前の家で撮った写真には写っているので、これも引っ越しのときにどこかにまぎれてしまったとしか考えられない。

直接本人に確認したわけではないが、たぶん弟も引っ越しがきらいだったと思う。「引っ越すよ」と言われると、二人で「えー」と渋っていた。いつだったか移動の途中、乗り物酔いの激しい弟はまだ飛行機にも乗らないうちに、空港のロビーの真ん中で、いましがた食べたばかりのものをたっぷりもどしてしまった。母がそれを両手で受け止めようとしたために、ティッシュとビニール袋を求めて私が一人で空港内を奔走するという事態になった。引っ越しには事件がつきものだ。

祖母が生きていた頃は引っ越しとなると、みんなでぞろぞろ新しい家を見に行った。曾祖母もついてきて、父はたいてい仕事でいないので、二人の老婆に母と弟、それに私を加えたおかしな五人組が、あれこれ難癖をつけながら見てまわる。居間の壁の張り出しに、ところせましと先祖の遺影を並べてある家を見せられたときは、みんなさすがに参ってしまった。そのすぐ後に見学した家は、関西ではわりと勢力のある新興宗教の本部のすぐ裏にあり、周辺のテレビ電波を妨害するほどの丘を一部削り取った崖の中腹という、理想的とは言いがたい立地条件だったが、直前の物件との比較効果で印象がよかった。母がピンときてすぐに決めたこの家に、両親は今でも住んでいる。うちの東側は家を建てることができないほどの急斜面なので、仕方なくツツジが一面に植えられている。赤紫色の花がいっせいに開花する初夏の頃に窓を開け放つと、甘い香りが家中に漂う。夏になると大小さまざまなヤモリが家の外といわず中といわず、縦横無尽に這いまわる。山の家に住むのが夢だったという母は、ここを終の住処と決めているらしい。

やはり引っ越しは家を見てから決めなければいけない。インターネットで見つけた家に予約金を払ってから到着してみると、聞いていた条件とは全然違っていたことがある。友達と三人で住むはずだったその家には先住者がいて、一番いい部屋を占領していたのだ。寝室三つに大きなキッチン、学生さんのルームシェアに最適!そんな謳い文句はなんだったのか。大家と大げんかした後、一週間でその家を出た。大学の新学期が始まる直前だったので、新しい家を探すのも一苦労だったが、運よくすぐに入居できる場所が見つかった。自家用車の最大積載量を優に超える荷物を街の反対側まで運んでもらうのに、確か問題の家の先住者に四、五千円支払ったと思う。当時としてはなけなしの資金だった。

学生時代にも、そういえばどたばたとよく引っ越した。お湯が満足に出ない家に二回ほどあたったことがある。一軒目は湯沸かし器の出力がきわめて低いためにシャワーのスピードについていけず、二軒目はお湯をためておくためのタンクが小さすぎてすぐに使い果たしてしまう、という仕様の差こそあれ、どちらの家でも、冬場の入浴は死ぬほど寒かった。それで今でも家を探すときにはまず、お湯はちゃんと出ますか、としつこいくらいに聞いてしまい、不動産屋に怪訝な顔をされる。

低出力の湯沸かし器しかなかった家は、洛中洛外図に描かれているような昔ながらの長屋の造りで、一人暮らし向けの家賃で犬が飼えるというので引っ越したのだが、お湯以外にも問題がたくさんあった。奥の和室はほとんど日当りがなく、私が越してくる前には雨漏りもしていたらしく、畳には水たまりの跡があった。夜電気を消すと柱の両脇に、琥珀色の光の筋が走った。よく見ると、土壁がさけてできた隙間に、隣の住人が向こう側からガムテープを貼っているのだった。私も貼らなければ、と思い続けて一年間、気にしつつも結局さけた壁はさけたままにして過ごしてしまった。その長屋には私の犬のほかにも動物がいて、フクロウを飼っているうちの前を通ると、ときおり「ホー」という森の声がした。

引っ越し続きであまりにせわしない学生時代を過ごしたので、就職したら、今度は三年くらい腰を据えて住んでみたいと思っていた。そんな期待の新居はくじびきで決められることになり、新入社員が女子と男子に分かれて茶封筒に入れられた間取り図を取り合った。私が引き当てたのは湘南の海の近くの案外いい物件で、風が吹くと潮の香りがした。風向きが変わるとそれは養豚場の匂いに変わり、電車を降りた途端に鼻がもげそうになることもあったが、それでも家に着くとほっと心が休まった。天気のいい日はどこまでも続く田んぼや、県の体育施設の広い芝生の中を散歩した。あんなにすがすがしい場所に住むのは初めてだった。

湘南に三年はいるつもりが、二年目にまた引っ越してしまった。プーさんをなくした家に住んで以来、二度目の都民生活である。街も部屋も気に入っているのに、ときどきまた物件情報をネットで検索している。最近の不動産サイトでは、室内の様子を写した画像も充実していて、よい部屋を見つけると思わず真剣に考えこんでしまう。家具は全部置けるだろうか、通勤は便利か、建具の色は好みに合うか。「引っ越し!引っ越し!」そう考えるといい知れない、わくわくした気持ちにとらわれて息もできない。

次に引っ越すときも、きっとまた多くの持ち物を処分しなければいけない。引っ越しの荷物の中で、いつも一番やっかいなのは重い本なので、そこからまず手をつける必要があるだろう。でも大きな刺激を受けた展覧会で買った画集や、友達がメッセージを書いてくれた本を、捨てられるはずがない。家具や家電製品も、引っ越し先によっては買い替えなければいけないかもしれない。しかし中学生のときに自分で組み立てて色まで塗った棚や、本を読むにも昼寝をするにも愛用しているソファと、どうして別れられよう。物だけではない。また想像もできないような事件が待ちかまえていて、定住生活の落ち着きが奪われてしまうに違いない。引っ越しには犠牲がつきものだ。それでも引っ越しを続けてしまうのはなぜだろう。居住のために引っ越しているのか、引っ越しのために居住しているのか、もうわからない。生まれる前からそこに暮らしていたような、そんな場所を求めていろいろな土地をさまよっているのだろうか。

三月の震災で家を失った人たちが、故郷の再建に向けた思いを語っているのをテレビでみて、胸をうたれた。何かに追い立てられるように引っ越しを繰り返してきた私には、故郷と呼べる場所がない。この間大阪に帰郷してみると母が、駅前の住宅街にいい家を見つけたの、と目を輝かせていた。山の家にずっと住むと決めていたはずなのに、あの様子だと本当に引っ越ししかねない。引っ越し熱は遺伝するのだろうか。こうなればもう覚悟を決めて、引っ越しこそふるさとだと、胸を張って言えるようになるまで引っ越しを続けるしかないと思う。

2011年6月22日水曜日

物語から遠く離れて、見えるもの(辻井潤一作文)

今年に入ってから散髪するたびに、会社の同僚や大学時代の友人から「サッカーの長友に似てるね」とよく言われる。先日は渋谷のアイリッシュパブで酔っぱらったマレーシア人男性に「ヘイ!ナガトーモ!」と言われて突然抱きつかれたりもした。背格好やふてぶてしい態度、面構えなどが似ていると評判だ。

長友佑都選手は日本代表のDFであり、昨年六月の南アフリカW杯ベスト16入りや、今年一月のアジア杯優勝に貢献したことが認められ、JリーグのFC東京から、クラブ世界一であるイタリア・セリアAのインテルに移籍、先発で活躍を続けている。私はもっぱら熱烈なプロ野球党なので、サッカーには人並み程度しか関心を払ってこなかったが、長友に似ていると言われてから、いつの間にか彼をテレビで追いかけるようになっていた。すると、世界のトップレベルで活躍する長友を通して、今まで気付かなかったサッカーの魅力が感じ取れるような気がしてきた。


サッカーの誰もが知っている基本的な制約はただ一つ、手を使うな、ということである。手の可動性や器用さが、大脳の発達を促し、霊長類から人類への進化をリードしてきたことは疑いの余地がない。ある意味、人類はその進化の過程で、足(いや、後足と言うべきか)の大半の機能を失ってしまった、と言えるだろう。そう考えるとサッカーは、足にかろうじて残された「走る」「蹴る」といった機能をフル活用し、「後足の復権」を目指すところから生まれてきたようにも思えてくる。二足歩行をDNAに組み込まれ、もとより「歪められて」生まれた後足を、二足歩行者を最も美しく魅せてくれる動詞である「走る」と「蹴る」の連携によって洗練すること。それがサッカーの根源的な思想なのかもしれない。

「走る」と「蹴る」の連携が生み出す魅力、それは「速度の美」である。検証のために、ラグビーとサッカーを比較してみたい。ラクビーは紛糾するスクラムの中から、いかにしてボールを掴み出すか、というゲームである。手の使用のために不可避となるタックル、モール、ファウルによって、ゲームはたびたび中断される。サッカーでは、センタリングやコーナーキックに見られるように、空所から群れの中にボールが蹴り込まれる。弧を描いてボールが到着するとき、人々はその群れがどう集合し、どう分散していくかを心待ちにする。ラグビーにおいて、群れは幾重にも折り重なり、不動性を保つ。サッカーでは、群れはまるでミジンコのように群れながら変形し、動き回る。だから、時間かせぎのために味方陣内で安易にボールを回し始めると、観客は不平をあらわにするのだ。速度の損なわれたゲームは、何よりも嫌悪される。それは美しくないから。ラグビーの場合、ファウルは危険だから禁じられるが、サッカーの場合は危険であるからばかりでなく、美しくないからこそ禁じられる。ディフェンスが抜かれたあと、足をひっかけて独走を阻むケースは多く見られるが、こうしたプロフェッショナルなファウルに対する観客の反応も厳しい。それは倒れた選手の負傷や痛みに対する共感ばかりではなく、おそらくは彼がこれから披露したであろう「速度の遊戯」をぶち壊したことへの怒りにもよるだろう。ファウルのあとのフリーキックやペナルティキックは、速度によって表現された美を損なった者に対する制裁なのである。

「速度の美」という魅力に気付いてから、部署一のサッカー狂であるアダチ先輩に、最も美しいプレーヤーは誰か、と尋ねてみた。アダチ先輩は、「86年メキシコW杯でフランス代表だったミシェル・プラティニだね」と即答。早速youtubeで観てみた。確かに美しい。同時にマラドーナやジダンの映像も観てみたが、彼らは強く激しいが、美しいと形容するのには少し戸惑う。あらゆるファウルを克服し突入する「速度の美」に、言葉は要らない。有無を言わせない魅力がそこにはある。しかし、それでも私は結局サッカーよりもプロ野球党であり続けると思う。なぜだろう。


小学校一年生の時、父に連れられて横浜スタジアムで初めて野球観戦をした。それ以来、今なお観続けている。一口に野球観戦と言っても、プロ野球や高校野球、大学野球、社会人野球、あるいはメジャーリーグなど、様々な舞台がある。その中でも、私は特にプロ野球が好きなのだが、それは、プロ野球が日本で最も質の高いプレーを見せてくれる場であると同時に、「物語」に回収されない「試合」がそこにあるからだと考えている。

他の球技に比べて野球は、恐ろしく複雑なスポーツである。サッカーであれば「手を使わずにボールをゴールにたくさん入れる」、バスケットボールであれば「ボールを持たずにボールをゴールにたくさん入れる」、バレーボールであれば「自分のコートにボールを落とさず、相手のコートにたくさんボールを落とす」といった具合に、初心者に簡単に説明ができる。だが、野球はそもそも攻守が非対称である上、バットやグローブなど、いくつもの専用の道具を使用するため、一言で説明がつかない。ルールブックはタウンページほどの分厚さである。

このようにルールが説明困難なスポーツである野球を、解説なしで観るためには、ある程度のリテラシーが必要であり、それを補完するために、解説や「物語」が導入される。では、野球における「物語」とはどんなものか。例えば高校野球。最近であれば、東日本大震災で被災しながらも春のセンバツに出場した宮城県の東北高校が思い出される。「東北高校は初戦で敗れはしたが、その懸命なプレーは被災地に勇気と希望を与えた」という物語が、彼らには付加されていた。東北高校に限らず、多くの観客は往々にして、甲子園でプレーする球児たちに「高校三年間の努力の集大成」や「青春」といった物語を与え、消費する。私の母も、「野球に関心は無いけど高校野球だけは好きだ」と言う。おそらく母は、試合ではなく、「物語」を観ているのだろう。それを悪いことだとは思わない。物語が野球に持ち込まれ、野球人気が高まることに異論はない。しかし、「試合」そのものを楽しんでほしいとも思う。

負けたらそこで終わり、という一発勝負の高校野球とは違い、プロ野球のシーズンは長い。ペナントは現在、年間144試合を戦う。プレーオフはあるものの、優勝はシーズンで最も勝率の高いチームに決まる。そうなると当然、一試合一試合の重みはどうしても薄れてくる。仮にある試合で劇的なサヨナラホームランや、好投手の投げ合いがあっても、それらは強力な物語には成り得ない。

私は神奈川県出身で、地元球団の横浜ベイスターズのファンだ。現在、ベイスターズはこれ以上ないほど弱体化しており、昨年は史上初の3年連続年間90敗という不名誉な記録まで打ち立ててしまった。優勝したのは1960年と1998年の二回だけであり、それ以外は常に弱小のレッテルを貼られ続けてきた球団である。スター選手もほとんどおらず、とにかく地味なチームなのだ。まったく「物語」の香りがしない。プロ野球にもかつては、巨人が王・長嶋のONコンビを擁し築いたV9時代を筆頭に、数多くの黄金期で形成した強大な物語が存在した。阪神も60〜70年代で圧倒的な人気を誇り、85年の日本一で頂点を迎え、その後の低迷期すら「ダメ虎」という呼称によって、ある種の物語性を帯びていた感がある。そうした時代と比べてしまうと、もはや現在のプロ野球に「物語」は存在しないのかもしれない。人気も下がる一方だ。しかし、それでも私はプロ野球を楽しく観続けている。なぜだろう。


突飛だが、戦後アメリカの美術界を牽引したクレメント・グリーンバーグという美術評論家のことを思い出した。彼は「フォーマリズム批評」という美術評論の様式を提唱したことで知られている。ここで乱暴に、そして恣意的に、フォーマリズム批評を一言で解説してしまえば、それは「作家の人生や思想に立ち入ることなく、作品が持つ色や形、大きさといった、その作品から読み取れる要素のみで、作品としての良し悪しを判断する」ということである。この考えには賛否あったが、グリーンバーグの言説が戦後アメリカの美術界を活性化させたのは事実である。「作家」という「物語」から遠く離れて、ただ「作品」そのものに向き合おうとすること。私はそれを、プロ野球観戦で行なおうとしているのかもしれない。


プロ野球の「物語」が失効した今、私はただ、選手たちの一挙手一投足に、時々見せる凄い打球やピッチングに、スタジアムやテレビの前でビールを飲みながら息を飲む。野球という複雑なスポーツの中に、一瞬の煌めきを見つける。その瞬間が好きだからこそ、プロ野球を観続けているのだと思う。

2011年6月20日月曜日

転換期を生きる私たちへの問い(スガモリアサコ書評)

「現在」がどのような時代であるのかを客観的にみつめることは難しい。人は都合の悪いことから目を背けてしまいがちであるし、時代を説明するときに用いる言葉そのものがどうしても時代の影響を受けてしまう。本書は、会社経営者である著者が統計と実感に基づき、転換期にある「現在」の日本の状況をできるだけ正確な認識で把握しようと書いた本である。

現在の日本では人口の減少、経済成長の停滞が由々しき事態とされている。政府が、企業が、日本経済を再び成長路線に戻そう、経済を復興させるために出生率を上げよう、と声高に言う。発言の前提には、「経済は右肩上がりに成長するもの」「人口は増やすもの」という考えがあるが、著者はそこに疑問を投げかける。

統計で、戦後日本60年間の経済成長と総人口の推移をみると、ほぼ20年周期で変化していることがわかる。高度成長時代と言われた’56年〜’72年は年平均9%の成長を遂げていたが、‘72年のオイルショックや‘91年のバブル崩壊を経て成長は鈍化し、'08年のリーマンショック以降はマイナス成長となりつつある。一方、人口推移は’06年に総人口のピークをむかえ、以降は急激に減少している。

この状況を説明するにあたり、著者はフランスの人口学者であるエマニュエル・トッドが唱える「収斂仮説」を参照し、「成長の鈍化、人口の減少は日本がダメになったから引き起こされたのではなく、経済発展と民主化のプロセスで人口が増え、成熟とともに出生率が下がっている」のだと指摘する。そして問題なのは、成長戦略がないことではなく成長しなくてもやっていけるための戦略がないことだと言う。長い日本の歴史を遡っても、人口が減る局面をむかえるのは初めてのこと。今の私たちは先例のない時代を生きていることを認識し、その意味を考えるところから始める必要がある、と提言する。

本書を最後まで読み進めても、こうすれば良いという具体的な方策は示されない。事実を積み重ね、冷静に現状分析をし、問いを開く形で終わる。著者のもとには明確な結論がないことへの批判が寄せられるそうだが、そこは読み手の一人ひとりが問いを受け止めて考えることではないだろうか。3月11日の東日本大震災以降、社会はさらに大きく揺れている。この混乱を経てどのような価値観を築いていくのか、本書に議論のきっかけが示されているように思う。

(平川克美『移行期的混乱——経済成長神話の終わり』筑摩書房、2010年)

2011年6月16日木曜日

第8回のご報告(大洞敦史)

今回は作文4本、書評5本と過去最多の作品が集まりました。例会にも12名の方が参加され、賑やかな雰囲気のなかで活発に意見を交わしました。作品をとりあげられた方は、いつもどおり再度ご推敲の上で大洞まで原稿をご再送ください。その後ブログに掲載させていただきます。

今回取り上げることのできなかった作品も順次ブログに掲載していきますので、メーリングリストなどで感想その他を交わしていきましょう。なおメーリングリストへの現在の加入者数は9名です。招待状に記載されているURLをクリックしないとリストに加入されませんので、加入をご希望の方は5月25日にお送りしました招待状を再度ご確認ください。

次回は7月14日(木)19時開始です。ご健筆をお祈りいたします。

2011年5月27日金曜日

冒険が始まる (原瑠美書評)

説明しがたい情熱に、ある日突然取りつかれることがある。『ニューヨーク・タイムズ』など数誌に寄稿する若手ジャーナリストであるアダムは、旅先でふいに「果物から呼びかけられた」と感じ、果物についての本を書こうと思い立った。果物に関する書物を読みあさり、熱帯地方への旅を繰り返し、ときには危険を冒してまで自ら見聞きした情報をもとに書かれた本書は、果物の手引書に留まらず、生きることそのものへの示唆を与えてくれる、力強い一冊に仕上がっている。

果物をめぐるアダムの旅はさまざまな冒険に満ちている。すさまじい臭気を放つドリアンをアパートの部屋に持ち込んだときは警察沙汰になりそうになり、果食主義者からあやしげな食品を勧められて、思わずたじろいだこともある。果物をめぐる密輸や汚職、不正な薬品使用に迫ろうと、北アメリカの果物市場の裏側に分け入っていく過程では、手に汗握る場面も多い。

なぜ人は果物にここまで心惹かれるのか。アダムはこう説明している。まず、それが植物の生殖活動と深く関わっているということ。花が子孫を残すために果実を結ぶ様子は、性のイメージを想起させるとともに、生命の豊かな力を感じさせる。また、果物が見せる無限の多様性は、人間の知的好奇心を刺激し、すべてを知りたいという欲求を掻きたてる。さらに果物は追憶へと人を誘い、子供の頃の記憶を甦らせることもある。アダムはそんな魅力に魅入られた変人奇人を取材しつつ、自分もいつしかフルーツ・ハンターへと成長していく。

しかし、アダムは完全な果物狂にはならなかったようだ。「ぼくたちは食の源から引き離され、食物が自然のなかでどんなふうに育つのかも忘れてしまった。」そう語るアダムには、果物を通して生を考えようとする若者の姿が見える。

本書が終わりに近づいても、アダムは果てしない果物の世界の、ほんの一端を垣間みただけのような気がして呆然としてしまう。果物のすべてを知って満ち足りた気持ちで暮らすユートピアには、永遠にたどりつけない気がする。しかし、「ユートピアのない地図など一顧だにする価値もない」と彼は言う。いずれ必ず訪れる死を見据えながらも、手の届くはずのない、完全な世界の実現に向かって全力で進んでいくことが、生きるということなのかもしれない。本書はそんな人生の冒険の始まりにふさわしい。次の世代のフルーツ・ハンターは、きっとこの本を手に取る若者の中にいる。

(アダム・リース・ゴウルナー『フルーツ・ハンター 果物をめぐる冒険とビジネス』立石光子訳、白水社、2009年)

2011年5月23日月曜日

わたしの近視眼的世界 (大塚あすか作文)

小学生の頃、通知表の「わすれものをしない」という項目の評価は決まって「がんばりましょう」だった。要するに最低評価。「忘れ物がとても多いので気をつけましょう」という意味合いである。

いつのまにか、持ち物を忘れることはへった。大抵の子供は成長するにつれて要領がよくなっていくもので、多分にもれず、わたしも出かける前に荷物を再確認する習慣を身につけたのだ。一方、根本的な覚えの悪さ、忘れやすさはいかんともしがたく、今でもわたしを苦しめ続けている。

わたしの目に映る世界は、常にぼんやりとしている。二十年来の付き合いである強度の近視と乱視が原因で、コンタクトレンズで矯正していても、すぐに疲れて視界がぼやけてしまう。目の前に広がるのは漠然としたイメージのかたまりで、外を歩けば顔のぼやけた人間があちらこちらを動いている。よっぽどコンディションのいいとき以外、細かな顔の造作まで識別することはむずかしい。視力が低下しはじめた十歳の頃から、このあいまいな映像の中を生きてきた。そのせいで――と少なくともわたしは信じているわけだが、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。病的といっていいほどに。

よっぽど印象的な相手以外、数回顔をあわせた程度では人の顔を覚えられないわたしに対して、家族や友人は「視力の問題じゃなく、それって、他人に興味がないってことなんじゃないの」と辛辣に言い放つ。認めてしまうのは悔しいのでとりあえず否定はするけれど、確かに視力が悪い人が誰しもわたしのような悩みを持っているわけではなさそうだ。

この四月、人事異動で新しい上司がやってきた。赴任初日に親睦のため同じ仕事をしているグループでランチに出かけ、まだ打ち解けない雰囲気の中食事をしていると、彼がおもむろに切り出した。

「大塚さんとは、県人会で会ったことがあるよね」

こういう不意打ちをくらうと頭が真っ白になる。硬直状態から必死に体勢を立て直し、「どうも、ご無沙汰しています」と適当に話をあわせるか、「ごめんなさい、覚えていないんです」とへらへら笑って謝るか、その場の空気を読みながら決断する以外に方法はない。

今どき珍しいかもしれないが、わたしの勤め先では同郷の人間が友好を深めるための県人会が盛んだ。相当数が働く組織なので、ほとんどの同郷人とは普段の仕事で関わる機会がまったくない。たまにしか会わないから、いつまで経っても誰が誰だかよくわからない。いっそ写真付き名簿でも配ってくれれば一生懸命勉強するのに。

いろいろな場に誘ってもらってもまったく顔が広くならない理由の第一は、この記憶力の貧弱さだと確信している。接客業なら致命的だった。いや、接客業でなくとも無意識に非礼を働いてしまうことが多すぎて、世の中を渡っていくには大きなマイナスである。顔を覚えていない相手には、当然ながらすれ違っても会釈すらしない。相手がわたしのことを知人だと認識しているのだとすれば、どう考えても無礼な振る舞いだ。

日常的に顔をあわせない面々とお酒を飲むことになって現地で合流ともなれば、緊張も最高潮。個室のお店ならともかく、たくさんのグループが混在しているだだっぴろいフロアで、「知り合いなんだから、ここまで来ればわかるだろう」とばかり案内の店員に放りだされた瞬間、自分がどのテーブルに行けばいいのかわからず立ちすくんでしまう。誰かがこちらに手を振っているように見えて、だったら多分知り合いなのだろうと振り返したところ正真正銘の見知らぬ人で、怪訝な顔をされてしまったことも一度や二度ではない。映画が好きなのに俳優の顔を覚えるのが苦手なので、「この人どこかで見たような気がするんだけど、気のせいかな」というもやもやした気持ちをエンドクレジットまで引きずり続けることも日常茶飯事だ。

覚えることが苦手なだけならともかく、忘れることだって得意だ。大学生の頃、夏休みがあけるたびに友人の名前が思い出せなくなっていて途方に暮れた。盆正月に親類が集まる場で当たり前のように話しかけてくる相手の半分近くについて、実はそれが誰だかわかっていない。

切々と悩みを訴えたところ、「イメージで覚えるんだよ。特徴を覚えるの」と、人の顔を覚えるのが得意な友人が教えてくれた。そういえば、人事を長くやっていた上司が以前、面接では後でどういう応募者だったか思い出せるように、簡単な似顔絵を残すようにしていると教えてくれた。どうやら冗談ではないようで、入社してずいぶん経ってから、書庫の整理中に採用関係の資料を偶然目にしてしまった先輩は、そこに自分の似顔絵を発見した。

「丸描いて、その真ん中あたりにちょんちょんって目鼻が打ってあって、横に『寄ってる』って書いてあるの。ひどいよね」

笑いながらこぼす彼の顔は確かにパーツがぎゅっと中心に寄っていた。

イメージで覚えるというのは確かに効果的だろう。似顔絵を描くのがうまい人は皆、人の顔を覚える能力に長けている。が、人の顔を特徴づけて認識できるからこそ、記憶もできれば似顔絵も得意になるわけで、そもそもの映像認識能力が貧弱なわたしは、折角のアドバイスも活かしようがない。

だが、よくよく考えると覚えるのが苦手なのは人の顔だけではない。電話を切った後で相手の言っていたことをメモに起こす同僚は多いが、なかなかその真似ができない。話を聞きながらメモを取らないと、新しい言葉が耳に入るたびに直前に聴いたことがどんどん頭から抜けていって、電話を切ったときには相手の名前すら思い出せないのだ。

本や映画の内容も、観ただけ読んだだけ、絶え間なく忘れていく。印象に残ったシーンや漠然とした作品全体の手触り、好きだったか嫌いだったか、断片やイメージだけが頼りなく手の中に残る。

例えば「ホビット庄」。

ずいぶん昔、気が遠くなるほど長い話を必死に読んだ記憶があるのだけど、『指輪物語』が映画化された際に頭の中を探ってみたところ、からっぽの底からようやく見つけ出せたのは「ホビット庄」という単語ひとつきりだった。多分語感が面白かったので鮮明に記憶に残ってしまったんだろう。当然その単語が何を指すのかは、覚えていない。あれだけ時間と労力をかけて読んだのに。

例えば村上春樹。

わたしは彼の世界観のある部分にはとても惹かれながら、別のある部分が鼻についてしかたない。いくつかの短編はとても好きだけど、多くの長編をさほど好きになれなかった。しかし、彼の長編のうち『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だけはとても好きで、もう十年以上にわたって、おおむね一年に一度読み返している。とても人気のある初期の代表作だから、読んだことのある人は多いだろう。

そう、あれ。「やみくろ」の出てくる。「やみくろ」が出てきて、「ぼく」と「やみくろ」が……えーと。ああ、そうそう、わたし、あれを最初に読んだとき、安部公房の『密会』みたいな小説だと思ったんだ。なんだか『密会』っぽいの。え、『密会』読んだことないんだ。どんな話かって。ええと、確か病院で、馬男と骨の溶ける少女が出てきて……カイワレ大根が、なんだっけ。

万事この調子である。

さすがに、こんな部分まで近視のせいにすることはできない。さんざん言い訳をしてきたけれど、要するにわたしは記憶力が心もとない人間だという、ただそれだけ。覚えることが苦手で、忘れることが得意で、いつもあいまいな記憶を、ふわふわした頼りない世界を歩いている。

なんだか切なかったな、なんだかわくわくしたな、そんな手触りだけを頼りに映画や小説と付き合っていくのは悪いことばかりではない。何度も繰り返すことで、以前感じたことを再確認できる場合もあるし、新しい発見ができる場合もある。同じ作品を何度だって新鮮な気持ちで繰り返すことができる。

わたしは今年もきっと、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返すだろう。『密会』を読み返すだろう。そして、すぐさま忘れてしまうだろう。もしかしたら、これらの小説のことがとても好きだから、読み返すためにわざと忘れているのかもしれないと思うくらいに。

そんな風に強がって、でもやっぱり、本や映画を味わうのと生活していくのは違う。できることならば、もう少しだけ人の顔を覚えられるようになりたい。そうすればもう少しスムーズに生きていけるんじゃないか、もう少したくさんの人とうまく付き合っていけるのではないか。出会い直すのも悪くはないけれど、誰かわからないけど面白い人たちと会ったな、という気持ちだけを頼りに人と付き合うのも面白くはあるけれど、それはどちらも実生活には不向きな発想だ。

これは視力のせいではない、多分そう。あきらめながらも、レーシック手術で視力を矯正したら、人の顔を覚えることができるようになるのではないか、などとときどき妄想してみる。

2011年5月16日月曜日

森と詩人のロゴス (原瑠美書評)

本書は森との関係という一貫したテーマを通して、西洋文明と、それを形作る人間とはどのようなものかを見極めようとした冒険的な著作である。様々な形で表現されてきた森が語られる中で特に印象的なのは、森と人間の言語活動、とりわけ詩との深い関係が強調されている点だ。著者は詩人、アンドレーア・ザンゾットを訪ね、二人で原生林を歩いたときに本書の着想を得ている。

「古くから続く森はザンゾットの記憶の相関物。森が跡形もなく消えるとき、詩人ザンゾットも忘れ去られてしまう」

森の記憶は、人間以前の存在であった巨人たちが、突然とどろいたゼウスの雷鳴に驚いて天を仰ぎ、それまで暮らしていた森の外の世界の存在を初めて知覚するところに始まる。著者はこれを「ロゴス、すなわち意識の地平の顕現」と呼ぶ。「ロゴス」とは「関係」を意味するギリシア語だった。森という無の中に暮らしていた巨人は、この神話の中で初めて外部との関係から自己を認識する。

神の意思を示すのは雷をはじめとする空からの啓示であり、厚い枝葉でその言葉を遮る森は、神への冒涜と考えられるようになった。森が切り開かれ、都市が形成されると、残った森は都市の秩序の外部として恐れられ、狩猟の場や木材などを提供する有用性にばかり目が向けられるようになる。こうした人間と森との対立について考えると、「自然界の理法にはない言語という事象」に行き当たると著者は言う。言語により自然を超越すると同時に、自然から疎外された人間は、ロゴスによりそれぞれの居住する土地にかろうじて関係づけられている。しかしロゴスは言語の生みの親でもある。

ロゴスとは何か、という問いに答える代わりに、本書はザンゾットの詩で結ばれる。人間と自然との複雑な関係は、詩作に凝縮されると著者は考えているようだ。

「詩は気候や環境の変化が精神に及ぼす影響をも書き留める。(中略)最良の現代詩は一種の精神的生態学だ」

森という外部なしに人間の内部はなく、文明や都市や歴史もありえない。両者は互いにロゴスという解読不可能な深い意味によって結ばれている。森に対して破壊的にも創造的にもなるロゴスという力を、創造的に働かせることがこれからの人間の責任であると著者は言う。この責任を、詩の世界で果たそうとする詩人と、その姿に鼓舞される著者の言葉に触れて、読者もまた、周囲の自然との関係をもう一度考えてみることができるのではないだろうか。

(ロバート・P・ハリスン『森の記憶』金利光訳、工作舎、1996年)

2011年5月14日土曜日

第7回のご報告 (大洞敦史)

今回の参加者は9名。雨の中をおつかれさまでした。
回を追うごとに原稿の水準が高まってきている事を実感します。

次回の例会は6月16日(第三木曜)です。ふるってご執筆ください。

会員相互の交流の場を設ける案についても話し合いまして、メーリングリストをつくる事に決まりました。媒体にはGoogleグループを考えています。今月中には稼動させたいと思います。

ひとまず会員全員を登録させていただくつもりです。それにあたりまして、 私がお預かりしているものとは別のメールアドレスでの加入を希望する方や、加入を希望しないという方がおられましたら、お早めに大洞のほうまでお知らせください。
(自分からメールを送信しない限り、メールアドレスが他の会員に知られないように設定いたします)

2011年5月2日月曜日

あなたは旅人ですか (Chiara作文)

ローマの町の治安の悪さは、凸凹(でこぼこ)な遺跡の、隅の親石でまどろんでいる猫に聞くまでもない。ローマの猫、と言えば、この町の遺跡にやたら猫が多いのは、ネズミ退治に置かれているのであって、誰かが飼っているわけじゃない。日本では、犬は外で猫は中、と大概決まっている。室内犬も昔は「座敷犬」なんて偉そうな名前で、子供心にも偉そうだと思っていた。しかしローマでは、犬は家人とともに暮らし、猫は大抵風来坊で家には入れてもらえずに自分の食いぶちは自分で稼ぐ。ローマではないがシチリアでアカザエビの美味しい浜のレストランに行く坂道で、殺気立った猫の視線を背中に感じ振り返り、眼をとばしていた猫に「わかったよ。ついておいで」とため息交じりに声をかけたこともある。

いやいや猫より怖い人間の話をしよう。

もしローマを旅するあなたにたっぷりと時間があるならば、ターミナル駅とヴァティカン市国を結ぶ64番のバスを、どこか途中の、できれば人の少ない安全なバス停で、じっくりと眺めてみるといい。鉄道と地下鉄とバスターミナルが交差するターミナル駅から町一番の観光名所のヴァティカン市国を目指すのは観光客と決まっている。64番のバスには観光客がどっさりと積まれているのだが、観光客は全乗客の3分の1程度でしかない。あとの3分の2は、見栄っ張りで洋服にはお金をかけるローマっ子にはとても見えない、顔は浅黒く身なりもほぼスリだと断定できる皆さんだ。バスの乗客の3人に1人である観光客があとの2人に狙われている。つまり観光客はこの狭いバスの車内で2人の従者をしたがえていることになる。豪華客船並みのサービスだ。

旧市街も物騒さにおいてはバスの車中に変わらない。観光客のバッグをひったくったバイクが、石畳の狭い道のショウウィンドウを右に左に吸い寄せられて歩く気ままな人の流れのあいだを巧みに走り抜けていく。バイクにタックルをかけようなんて向こう見ずな人間は誰もいない。警官でさえ「マンマミーア」と肩をすくめるだけだ。     
年に2回のバーゲンにいそいそでかけ、パトカーの眼の前なら安全と駐車して車に帰ったら、バーゲンで買いまくった荷物がトランクの中からそっくり消えていたという話を聞いたことがある。パトカーの中でおしゃべりに夢中な警官に文句をいったら、「それ、俺の仕事じゃないし」と答えたそうだ。
かくしてバッグにおきざりにされた観光客は茫然と立ち尽くす。それでもこの町の救いは「かわいそうに。警察がすぐ来るからね。泥棒はつかまらないけど。」と言って慰めてくれる人が群がるようにいることか。早口のイタリア語で慰められたところで、残念なことに観光客の耳には波の音のようにしか聞こえないのだろうが。

ある日、親しい老神父が達者な日本語で、「この町はカトリックの町ね、でも泥棒だらけね。恥ずかしいね。カトリックの町なのにまずいね。カトリックのせいかもしれないからね、大問題ね。秘密に調べたね。そしたら、むかーしのローマのときからここは悪い人がいーっぱいいましたね。カトリックが来る前から泥棒はいましたね。泥棒はカトリックのせいじゃなかったね。安心したねえ。」と話した。人生の大半を神に祈り、宣教のために極東や未開の地を渡り歩いた善良な神父を悩ませるほどに、この町の有り様はひどい。

そこが巡礼地と呼ばれていても、観光地というものはそういうものらしい。

イタリアは南に行くほど犯罪率は上がっていく。しかし、南に行くほど食べ物は美味しく、人は楽しい。そして海も美しいから、旅人には悩みの種だ。ナポリ湾に沈んでいく太陽が海に反射し、黄金の道のような一筋を描き出す。ローマ帝国の過去の栄光を感じる瞬間だ。この一瞬を見るためなら命も惜しくない、そう思っても不思議ではない。末期がんだった伯父が、「ナポリを見て死ぬ」と日本からやってきたことがあった。「人生最後の思い出がひったくりでもいいの?」とナポリ行きを思いとどまらせようとしたが彼は納得しなかった。ヴェスヴィオ山にまで登り、ナポリ湾を眺め、満足な旅を終えて、静かに人生の旅も終えた。

第二次大戦直後、その美しいナポリの港にアメリカ海軍の軍艦が入港した。ちっぽけな船が並ぶナポリ湾で威容を誇るその船にイタリア人は目を見張った。ムッソリーニを追いやって連合国側に寝返ったイタリアも、しぶとく粘りイタリアに陣取るドイツ軍には閉口していた。その居直りドイツ人を追い払ってくれたのがアメリカ人だ。大歓待を受けたに違いない。しかし、その船をよだれを垂らして眺めている悪党がいたことに、人のいいアメリカ兵が気づくはずもない。悪党どもは、船に乗り込み、「掃除しますから」とか「水と食料の補給が必要でしょう」とか、よくは知らないが適当なことを言って、アメリカ兵を一人残らず船から下ろした。ほどなく船は岸壁を離れた。あわてるアメリカ兵を港に残して。

その後、その船の消息はいっさい途切れた。巨艦がどこに運ばれたのか、入り組んだ島陰にでも隠したのか、それだって随分目立っただろうに。大体ただの悪党がどうやって操舵したのか。疑問は数限りなく頭に浮かんでくるのだが、とにもかくにも船は姿を消した。多分あっというまに解体されて売り払われた。やる気のない警察がぐずぐずとしている間に。     

ナポリの路上に停車されている車でハンドルが鋼鉄製の輪っかでロックされていないものは数えるほどだし、ポケットの中の財布なんてア・ピース・オブ・ケイク(おちゃのこさいさい)。ローマでは見つからないような品もナポリならば容易に入手できる。もう10年以上前のことだが、「エルメスのバーキンのゴールド」、私には呪文にしか思えない単語を日本から来た観光客の多くが欲しがった。しかし、ローマの店で見つけられることは決してなかった。なんでも日本ではほとんどプレミアものとからしかった。その呪文を写真で見せられて、これを見たら必ず買っておいてね、と言われた。値段を聞いてひっくり返ったが、日本に帰ればこの2倍で売れる、と耳元で囁く悪魔もいた。その「エルメスの・・・」のまさにそのものを持っているイタリア人の知り合いがいた。「ごめんなさい。それどこで買った?」と聞いてみたら、あっさり「ナポリよ」と返ってきた。「ナポリか・・・」、誘惑に駆られて、勇気を出して行ってみようかと思ったが、すぐに考え直した。店を出たが最後、ひったくりにアタックされて、その呪文は消え去るに違いない。ビビデバビデブー、シンデレラのかぼちゃの馬車のように。運が悪ければ、腕の一本も折るかもしれない。買い物も命がけなのである、ナポリでは。
それでも、この町と海を見て死にたいと思う観光客は死ぬほどいる。


NYでわずかな金を目当てに拳銃でおどされて命の危険を感じ、ヨーロッパでまんまと身ぐるみはがされた旅人は、善良な魂を求めてアジアに向かう。
スリもひったくりもいなさそうな鄙びた村なら大丈夫、だと思っている旅人も、ナポリに旅立つ観光客とさしては変わらない。藁ぶき屋根の家が立ち並び、緩やかな斜面が続く山並みが村をその手に抱く、そんな村の車も通らない通りで、藁で編んだ素朴な鳥かごや水で薄められた醸造酒を不当な値段で買わされることだってないとはいえない。

どんなに美しい村でも、その美しさが世間に広まれば、財布の紐がゆるんだ旅人と、旅人を目当てにした小賢しい人間が集まってくる。善良な村の人をだまして土地を借り店を開き、たった一本しかない村の動脈である通りにはぼったくりの土産物屋が並ぶことになる。美しい村にも美しくない心を持った人間が一握りはいるから、土地の人が作る高くてまずい料理に旅人が首をかしげることもあるだろう。

旅慣れた旅人ほど手に負えないものはない。メモリーカードが埋まってしまうほどの写真を撮って、ご自慢の一枚をブログに貼り付ける。そして、自分が見つけた珠玉の村を夢見るように語る。「とても素敵な村を見つけたんだ、君を連れて行ってあげたいな」と耳元で囁くような。旅人が気のいい奴ならば、「よし、今度みんなで行こう!」なんて雄叫びをあげるかもしれない。親切心も度を越して、ガイドブックにアクセスまで投稿してしまったら、もはやこの旅人は自爆している。

善良な旅人はこうして、善良な人が住む美しい村をひとつひとつ潰していく。

だから――正しい旅人は何も語らない。何も書かない。

旅に出るなら、何も手に持ってはいけない。カメラもノートパソコンもガイドブックもすべてごみ箱に捨てて旅に出よう。この日のために鍛えぬいた体と、誇らしげについている筋肉は、どこまでも歩いて行けることを保証してくれる。

若者よ、旅立とう、地球の果てまで。

2011年4月25日月曜日

新月の空に檳榔の花火 (大洞敦史作文)

高度を下げていく飛行機。機体が傾くと、窓の外に台北の夜景が現れた。小さな光が、ぽわん、と束の間ふくらんで消えた。一瞬の間を置いて、それが花火だと気づいた。ひとつではない。あそこにも、ここにも。草莓や、芒果や、檳榔子の色をした花火が、五つ、六つ、七つ……。この日は西暦二〇一一年の二月三日。台湾では建国百年の元日にあたる日だ。ぼくはこれから一ヶ月のあいだ、台湾と福建省を観光する。観光、という言葉がぼくは好きだ。光とは、知恵のこと。大昔の旅行とは異郷の暮らしの知恵を学び取り、自分の村落に持ち帰る営みだった。太平洋に浮かぶ真珠のようなこの島の放つ光を、また中国の一部でありつつも古来から中原とは異なる気風を保ってきた福建の山々に映える陽光を、ぼくは火傷するほど身に浴びたい。

午前零時前に台北市内の友人宅へ着いた。寝床の上でメモ帳を手に明日からの行程を確認する。明日はまず淡水に行ってアゲという小吃(地元の名物)を食べ、晩には基隆にて夜行のフェリー、臺馬輪に乗り込む。翌朝、台湾海峡に浮かぶ馬祖南竿島で下り、午後にふたたび船に乗り、福建省福州市近郊の馬尾埠頭へ。以後一週間ほど福州、福清、媽祖信仰の聖地・湄洲島などを巡ったのち、廈門から船で台湾の金門島へ渡り、風獅爺(地元のシーサー)を探し、その日の内に飛行機で台湾島へ戻る計画だ。台湾島と大陸を結ぶ船や飛行機のルートは「三通」と総称され、馬英九が台湾の大統領に選ばれた二〇〇八年の末以降、外国人にも開放されるようになった。

午前三時を回っても、窓の外では花火の音が、胸の下では鼓動が、鳴り止む気配もなく響いていた。

朝方、友人のご両親から三明治と烏龍茶をごちそうになる。三明治とはサンドイッチのこと。蛋餅という卵炒りクレープとならび台湾人の朝食の定番だ。台湾人は食べ物でも飲み物でも作りたてを好む。露店で売っている三明治は、大体においてパンの生地がしっとりとしていて柔らかい。

スーツケースを友人宅に預かってもらい、リュックサックと腰巻きバッグだけ身に付けて発つ。中身は福建省の友人一家への土産の菓子、ジーンズ一本、沖縄製のYシャツ二着、下着と靴下三揃いずつ、洗面具一式、使い捨てコンタクト、司馬遼太郎『街道をゆく 閩のみち』、中国語参考書、手のひらサイズのメモ帳二冊(うち一冊は筆談用)、ボールペン二本(ジェットストリーム、ハイテックCコレト)、万年筆、パスポート、中国・台湾・日本の通貨、iPhone、機内でもらったイヤホンなど。ぼくは普段から手ぶらで歩くのが好きなので、千五百円で買った腰巻きバッグは大変に重宝した。お金も貴重品もみなこの中に入れて歩いた。小銭を取り出すのがやや手間だが、財布よりもきっとすられる恐れは少ない。帰国してからも度々身に付けている。

台北駅で友人の女性二人と合流し、電車で淡水へ向かう。蔡小姐は台湾大學に勤めるデザイナーで、王小姐もインテリアのデザイナーだ。二人とも巧みに日本語を操る。日本の美術系大学院への留学を目指している蔡小姐のために、ぼくは幾つかの大学の資料を取り寄せて持ってきた。王小姐には四万十川の海苔の佃煮を手土産に持ってきたが、彼女はつい最近四国を旅行してきたばかりらしかった。龍馬は台湾でも大人気だ。ところで小姐(シャオジエ)という呼称には桃色がかったイメージがあるので避けたほうが良い、という事を以前日中学院の日本人の先生から耳にしたため、ぼくははじめ王さんを「王女士」と呼んだのだが、それに対して彼女は「女士は年寄りへの呼称、小姐と呼びなさい」と答えたので、それ以降ぼくはさほど年配でない女性に対して、ためらいなく小姐と呼びかけるようになった。

正月二日目の淡水は黒山の人だかり。汗ばむ日差しの下、淡水老街を人々の体臭と排気ガスと北京語と台湾語の波に揉まれて歩く。日本にいて台湾人と知り合える機会は稀だが、ここでは右も左も台湾人だ。ぼくは無性に嬉しくなってきた。いずれは台湾で暮らしたい。けれどぼくの知っている台湾人には、台湾を脱出したがっている人が少なくない。かれらの眼は日本、アメリカ、ヨーロッパに向いている。それゆえに、しばしばここに尊い友情が生まれる。ぼくはきみの国の美点を見つけてきみに示そう、きみはきっとぼくが知らない日本の美点をぼくに教えてくれるだろう。

老街を抜けた先の広場にはカナダ人宣教師・馬偕(Mackay)博士の頭部の彫像がモアイさながらに鎮座している。ぼくらはアゲの老舗「文化阿給」をめざして小高い丘の道をすすんで行ったが、残念ながら目的の店はシャッターが降りていた。空腹をかかえて、周杰倫の映画の舞台になった淡江高級中學、馬偕博士が設立した美しい庭園を擁する真理大學、英国領事官邸跡などを見て回る。「你知道周杰倫嗎?」(あなたは周傑倫を知っている?)と王小姐がぼくに聞いた。ぼくは「當然!」(もちろん!)と答え、彼のヒット曲「七里香」をひとしきり歌ってみせた。「雨は夜通し降り止まず、ぼくの愛も溢れて止まず」……この歌は去年の夏に大学院の先輩の中国人女性が教えてくれた、ぼくが三番目に憶えた中国語の歌だ。淡水を舞台にした歌では「縁があろうとなかろうとみな兄弟、ホッタラ(乾杯)!」という出だしで始まる台湾語の歌「流浪到淡水」が有名である。

その後ぼくらは赤レンガの古城・紅毛城を探して歩いたが、一六二八年にスペイン人によって築城され、のちオランダ、鄭成功、清朝、イギリス、日本、アメリカと次々に主を変えてきた台湾を代表するこの古跡は拍子抜けするほど小ぶりな体つきで、三人ともこれがそうだと気がつかぬままに前を通り過ぎてしまっていた。

細い坂道を下りきると視界がひらけ、淡水河の河口に出た。観音山を彼岸に望み、雑踏を歩く。似顔絵描き、しゃぼん玉吹き、CDに乗せて懐メロを歌う車椅子の人。五十センチばかりもありそうな霜淇淋を手にした子どもが嬉しそうに人混みを縫って駆けて行く。ここにも「正宗阿給老店」という名のアゲの店があり、友人たちは若干不本意な様子ながらもこの店にぼくをいざなった。一階は満席、二階も満席、三階でしばらく待ってやっと座れた。アゲは台湾語だろう、とぼくに初めてアゲについて教えてくれた台湾人の友人は言っていたが、料理の特徴を聞いてみると日本の油揚げに近く、もしかすると語源は日本語ではないかと思っていた。出てきたものを見ると、外見はまったくの油揚げだ。彼女たちに聞いてみるとあっけなく「日本語ですよ」との答え。油揚げを箸で割ると春雨が顔を出した。とろみのある甘辛いスープにからめて食べる。一緒に注文したねり魚のスープ、魚丸のさっぱりした味とよく調和する。春雨と魚丸は福建省福州地方の名物でもある。

店を出ると、空にはもう薄闇がかかっていた。淡水の夕焼けの美しさは有名だ。あと一時間もここに留まれば見られたろうが、ぼくらは焼肉を食べるために夕焼けを捨てて、静まりかえった台北市街へ戻った。がらんとした大通り、店の半分はシャッターが降り、禁止されているはずの爆竹がときおり控えめにパチパチと鳴る。田季發爺という焼肉店では、腕に薔薇や龍などの入れ墨をした店員がつきっきりで具材を焼いてくれる。食事の締めに年糕を焼き、きな粉をまぶして食べた。これは日本のモチに似た食べ物で、正月によく食される。焼くよりも油で揚げる場合が多いようだ。紅豆年糕という、小豆と砂糖を混ぜた赤飯みたいな色のものもある。なお中国語圏では小麦粉を練ったり蒸したりして作る平たい形状の食べもの全般を指して「餅」と呼ぶ。日本の食文化との比較は、地元の人との会話の糸口を開くのにもってこいだ。

台北駅で二人と別れ、列車に乗り込む。基隆までは各駅停車で五十分弱。座席は空いていたが、ぼくは公共の場で座ることにためらいを覚える。この夜も扉のガラス越しに、花火の上がるのが見えた。向かいの席で二人の女性が膝をからめ、指をからめてうっとりと互いの唇をついばんでいる姿がガラスに映っている。元来ぼくはひとり旅が好きだが、道連れと分かれるとしばらくは静けさに対して落ち着きを保てない。でもひとりの時には極力、ひとりならではの喜びを享受したい。旅の半分はひとりで沈思・観光し、半分は地元の友人たちと楽しく過ごしかつ生きた知識を得るのが、ぼくの肌にあう旅のスタンスだ。「基隆、就到了」という車内放送が流れると、ぼくは網棚から膨れたリュックを注意深く下ろして肩に掛け、せわしなく点滅をくりかえす檳榔屋のネオンと音のしない花火に視線を預けつつ、昨年の六月、指導教官とここを訪れた際に寺院のある小高い丘の上から見渡した、雨に煙る基隆の黙想的な街並みを思い起こしていた。

2011年4月21日木曜日

くどさと裏腹の真摯さ (辻井潤一書評)

オウム真理教や彼らの起こした事件には、膨大な言葉が費やされてきた。しかし、その鬱蒼とした言説の森は、時に真実や本質を覆い隠し、逆に見えなくしてはいないだろうか。カルト教団が暴走しただけ。そんなありきたりな「狂気の物語」に落とし込むのは簡単だ。著者は、その安直さに否を唱える。

著者の経歴は異色だ。東京大学物理学科出身でありながら、本業は作曲家/指揮者であり、現在は母校で音楽論を講じる大学教員でもある。そんな著者が本書でテーマとするのは、大学時代の親友であり、地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨のことである。なぜ、豊田はサリンを撒いてしまったのか。なぜ、オウムに入信してしまったのか。数多くの疑問に突き動かされながら、一連の裁判の中で、ただひたすら「沈黙」を貫く豊田に迫っていく。

今まで加害者/被害者という二項対立のせいで見えなかった、あるいはタブー視されてきた「加害者になった被害者」としてのサリン事件の実行犯たち。そのような「被害者」を、これから生み出さないためには何が必要なのか。本書は、博覧強記の著者が、物理学や音楽、戦争史、宗教学といった自らが有する様々な知を連関させながら試みた、粘り強い思考の軌跡である。

そして、〈局所最適、全体崩壊〉というキーワードが紡ぎ出された。個々を局所的に見れば決して間違っていなくとも、それらが繋ぎ合わされた時に崩壊する組織のシステム構造のことだ。著者は、戦前の日本軍に、東大に、オウムに、そして戦後から続く現代の日本社会の中に、それが見出せると語る。全体崩壊の責任を、個人に押しつけ断罪しても、何も改善されないのだ、とも。では、どうすれば良いのか。提示された一つの回答は、「沈黙」との訣別である。黙して語らず、罰を受け入れる戦前の日本海軍のことを「サイレント・ネイビー」と呼んだそうだが、豊田をそれに例えている。日本人らしい美意識とも言えるが、それでは何も変わらない。過ちも何もかも、全てを白日の下に晒し、語り、記録し、考え続けること。一つひとつの事象をどう論証し、何を導き出すか。それは著者と豊田が共有した、物理学という学問の作法の実践ではないだろうか。

本書は、全体を通してやや強引な理論付けが散見されたり、終盤では同じような主張が繰り返されたりと、正直くどい。しかし、それは二度と豊田のような人間を生み出したくないという真摯さと裏腹のものだと思う。

(伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』集英社文庫、2010年)

2011年4月18日月曜日

広島小倉7万歩 (兼田言子作文)

2泊3日で広島、小倉へ強行撮影旅行に行ってきた。

25000分の1の地図を3枚買う。広島、小倉、八幡。広島は見事なデルタ地帯。小倉は南北に港があり、中央の山間部には陸上自衛隊富野分屯地の文字が目立つ。小倉の西隣の八幡は水色の湾部分、平地と山、それから新日本製鉄八幡製鉄所がそれぞれ1:1:1:1に土地を分けている。市街地の道が格子状のエリアは空襲、原爆の被災地とほぼ重なる。

広島にいられるのは半日。駅からホテルまでの1キロほどの道も撮影しながら歩く。街路樹が力強い。川には2、300メートルおきに橋がかけられている。自分の立っている橋から隣の橋を渡っている人のシルエットが見える。歩いていたり、自転車だったり。ゆったりとした街の日常風景を垣間見る感覚。川の水も結構綺麗で、しじみ、あゆ、さらにはうなぎまで獲れるらしい。そのためか川へ降りられる階段が頻繁にある。柵もないからつい降りてしまう。川床にはぽこぽこと土が盛り上がっているところがみえる。手を伸ばしてミニ潮干狩りでもしたくなるも右手にはカメラ、時間もない。ぐっとこらえて先を急ぐ。ふと橋の袂に目をやるとほぼすべての橋に史跡看板がある。爆心地からの距離がかかれ、何年にできて、爆撃で壊れたから何年につくられたとか、壊れなかったから被災時にはこんなふうに使われたとか。デザインや古さで竣工年を推測できるようになり、ますます川沿い散歩が興にのってくる。

地図を広げて「この橋はこの橋かな?」なんてやっていると後ろから自転車に乗った白人男性に声をかけられる。前に小さな男の子を乗せて、「大丈夫ですか?」と。私は筋金入りの方向音痴だから迷子になったと自覚することも難しいのだが、声をかけてもらったことがうれしくて、お言葉に甘えてホテルの場所を確認する。でも彼はそこを知らない。格安パックツアーの最安ホテル。住民が気づかないようなホテルなんだなと不安と期待が入り混じる。アメリカ人のように見える彼が、この街でなじんで暮らしている。男の子は青い目を伏し目がちにしてかわいい。

チェックインの開始時刻を目指して撮影しながら歩いていたはずが、大幅に時間オーバー。早足でホテルを目指すと、すんなりと発見できた。幸先がいい。マンションみたいな外観の、中は普通のビジネスホテルだった。大慌てで原爆ドームと資料館に向かい、駆け足でめぐる。戦跡として君臨している建物が街に溶け込んでいるのが印象的だ。会社帰りの同僚たちがおしゃべりしながらドームのわきを横切っていく。

すっかり暮れてライトアップされたドームが川面に映っているのを見ていたら、グロリア・アンサルドゥーア『ボーダーランズ』にでてくる挿話を思い出した。父親が死んだとき、母親が家中の鏡を毛布で覆った。残された者が死者の魂が住む場所へと行ってしまわないように。この話を読んで以来、鏡のもつリフレクションという現象が気にかかっている。物体そのものを直接見ることと鏡像を見ることの違いは何か。立体が平面になり、左右反転像になる。現実は鏡像に変換されることで、どこか違う世界への通路になるのかもしれない。メキシコでは死者の世界に通じる。それはどこか神秘的な話のようだけれど、人は自分の顔を鏡でしか見ることができないのだから、鏡像はとても日常的な世界でもある。鏡像だから到達できる視点、失う視点はなんだろうか。鏡の機能が内省に影響を与えているとしたら、全ての事物を鏡像で見てみたくなる。リフレクションは反射、反映、熟考、反省。一眼「レフ」カメラの構造にはそれが組み込まれている。

川に倒立した原爆ドームを長時間露光で撮影することにする。ドームは毎日この自らの揺らぐ姿を見ているのだろうか。見ているとすればどんなことを考えているのだろう。そうやって思いをめぐらせようと集中してみる。しばらくするとたしかに見ているはずだ、と思えてくるのだけど、それ以上先には進まない。ただ像が揺らぎ続けるだけ。そう簡単には教えてあげないよ、と言われているようでもある。でもなんとなく、建物自体を見るよりも影を見る方がドームを見ている実感がした。

思考が進まないと今度は動き続ける揺れが気になってくる。自分を鏡で見ることはあってもなかなか水面に映った自分の姿を見ることはない。鏡像と一言でいっても鏡か水面かでは内省具合も随分と変わるだろう。そういえば、キューバではどこも驚くほど鏡が歪んでいた。ただマタンサスの裕福な民家にある巨大な鏡だけが恐ろしいほどに正確だった。マタンサスはハーシーラインの駅がある砂糖工場で栄えた街、石油採掘施設、製油所や造船所もあるらしい軍のにおいがする異色の街だった。カストロは毎日どんな鏡で自分をみているのだろう。

7分の露光時間を終えて、目の前の川に意識が戻る。爆撃をうけ死んでいく人たちは水を飲みたいと訴えたという。その水の供給源でもあり、身を投げた者もいる、ずっと広島の街を映し続けている、覆えない鏡。死者と生者を隔てる時間の壁を宙吊りにした、いつでも行き来できる天の川、か。

翌朝すぐに小倉へと向かう。徳山あたりで巨大な製油所を車窓から眺めると、エリアがぐっと変わるのを感じる。こんな大規模な工場を見たことがない。どの施設が何をしているのか全く分からない。これは何になるんだ、プラモデルの組み立て前を見ているようである。同じ形ごとに整列され、むき出しのパーツが並び、それぞれに働きがある、らしい。ひときわ目に付くのは火を噴く煙突。小倉に着いたら造兵廠跡に向かおうと思っていたから目の前の工場も軍事施設にしか見えない。絶対わたしもここの工場の生産物の恩恵を被っている。でも、何もわからない。

広島に比べれば小倉は時間がある。駅に近い造兵廠跡よりまずは街を俯瞰できるような高い場所、大雑把な行き方しかわからないが高蔵山の山頂付近にある高倉保塁跡(南側の周防灘から攻められたときのための要塞)を目指すことにした。高蔵山の標高は357メートル。山登りをするという気負いはない。小倉駅から15分ほど電車に乗り、最寄り駅である下曽根駅に到着。最寄りといっても登山道の入口につながる国道沿いの交差点まではバスで行くような距離だが、その方面へのバスはない。列を作るタクシー運転手のまなざしを背中で感じながら川沿いの道を選びとにかく歩きはじめる。街路樹が不思議な弱々しさでぽつぽつと並んでいる。川の西側にいくつかの低い山が見える。送電鉄塔がたくさんある山やない山がある。これから登る山がどれかの特定もできないまま、ひたすら歩く。ほとんど人にすれ違わない。川沿いの道を外れて住宅街に入っても人はいないし、商店もない。ベッドタウンで平日の明るい時間は人の動きが少ない街という印象だ。

歩き疲れてきた頃に山の入口に到着。スタート地点に立てた安堵感を束の間感じるも、薄暗い道を一歩一歩登るにつれ緊張感が増してくる。不法投棄をしている軽トラやリードをつけずに散歩している犬にすれ違う。いわゆる森林浴をするような風情ではない。心細さを無視して舗装された一本道を登りきると整備された大きな休憩所があった。もうすっかり午後の光だ。高倉保塁跡は山頂付近にあるはずだから、もっと上に行かなくてはいけない。休む間もなく次に登る道はどれだと躍起になる。来た道の舗装が終わったさらに先、藪の中に入ると滑り台くらいの急な斜面が現われ足立山へという標識。大混乱だ。もうどこへ行ったらよいのか全くわからないが、ここで引き返すわけにもいかない。突き当たりの少し手前にいくつかあった分かれ道を半信半疑ながらも勘を働かせて選んで、登る。古いコンクリートの跡や、新しい丸太状の階段で一喜一憂する。しばらく登っては、ここは違うだろうと自分で納得がいくと戻る。結局すべての分かれ道を試し、彷徨うこと3時間。気力も体力もすっかり尽き果てて休憩所で呆然としていた。一向に休まらない身体を余所に心は焦燥感に駆られてくる。頭はまるでサッカーのPK戦のような気分だった。残すは明日1日、後がない。そこへ年配の男性が現われた。日課の散歩のような出立ちである。最後の望みをかけおずおずと高倉保塁跡について尋ねてみると、驚くほど詳細にご存知であった。おかげさまで翌日なんとかリベンジ成功。

東京に戻るとたくさんのものを撮り残してきてしまったという思いが迫ってきて、観光旅行の日程では撮影には行かないと誓った。が、2週間もすると消えない身体的記憶のせいかこれはこれで印象的ないい旅だったと思い直した。暗室で浮かび上がった像は、旅の感触とは違う静かなものだった。

2011年4月15日金曜日

第6回のご報告 (大洞敦史)

先週の土曜日に原稿がまだ一本も届いていないことを皆様にお伝えしましてから、3名の方がご執筆くださいました。例会では10名の方がご参加になり、例になく充実した議論を交わしました。いつもありがとうございます。

次回は5月12日(木)19時からです。皆様のご健筆をお祈りいたします。

なお、例会以外にも会員同士で意見交換のできる場がほしいとのご要望が寄せられています。メーリングリストあるいは掲示板のようなかたちで検討してみたいと考えています。この件につきましてもご意見をお持ちの方はぜひお寄せ下さい。

2011年4月11日月曜日

粗末な北極星に向かって (辻井潤一書評)

本書は、芥川賞を先日受賞し、「平成の破滅型私小説家」と評される著者の、初期の代表作である。中学卒業後、日雇い労働で生計を立てながら、風俗通いと酒浸りの生活を送っていた主人公の男。念願叶い、三十を過ぎてからとある女と同棲を始めるも、生来の堪え性の無さと暴力癖のせいで、その束の間の蜜月は崩壊していく。というのが本書のプロットであるが、この作品の特異な点は、時折「藤澤清造」という大正時代の私小説家にまつわるエピソードが差し挟まれていることだろう。

慢性的な性病に由来する精神破綻の末、芝公園のベンチで凍死、という壮絶な最期を遂げた清造の私小説に出会った男は、「自分よりも駄目な奴がいる」と共鳴し、清造に深く傾倒していく。清造のものとなれば、小説から生原稿、手紙、果ては墓標や位牌までも収集し、月命日には東京から石川県七尾市にある菩提寺への墓参を欠かさないという入れ込み様。男の悲願は、『藤澤清造全集』の刊行であり、その資金として数百万円の借金をしている。男の無為な日常と、狂気じみた清造への執着とのコントラストは、一人の人間が内包する二面性や矛盾、俗なるものと背中合わせの聖なる何か、といった陳腐な構図に当てはめてしまうこともできなくはない。

だが、本書(というより著者)において注目すべきは、「完成したら死んでもいい」とまで言っている清造全集が、近刊と銘打ってから十年近く経った今も未刊という点である。全集の資金を、女との同棲費用にしたり、入れあげたソープ嬢に百万円騙しとられたりと、ことあるごとに日常の欲望のために浪費しているからだ。はて、あの清造に対する崇拝は、その程度のものだったのか。この足踏みとも言うべき事態は、本当に大事なものこそ、自分の近くに引き寄せるのではなく、どこか遠くから眺めていたい、という意識の表れではないだろうか。

世間からあまりにずれながら、それでも意地汚く生きようともがく主人公の男にとって、清造は、方角を示す北極星のような存在と言えるだろう。北極星を我が身に取り込むほどの覚悟は、男にはまだない。しかし、清造自身は、本書のタイトルでもある「どうで死ぬ身の一踊り」という覚悟でもって、その波乱の人生を駆け抜けた。男は、果たして清造になれるのか。それとも、星の煌めきをひたすら距離を保ちながら追い続けるのか。著者と、その著作を私自身追って、その覚悟のほどを見届けていきたい。

(西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』講談社文庫、2009年)

2011年4月6日水曜日

奇妙、でもピュアな愛の話 (スガモリアサコ書評)

恋愛小説集ではなく「変愛小説集」だ。本書は、翻訳家である岸本佐知子氏が現代英米文学の中に埋もれていた中から拾い上げた、ヘンテコな愛にまつわる話を集めたアンソロジーである。

木に恋をする、人を丸ごと飲み込んでしまう、全身に歯が生える病にかかる、どれもこれも奇妙な設定の話ばかり。それにも関わらず、読んでいるうちに心が揺さぶられ深く共感してしまうのは、愛する気持ちの切実さ、人の心の複雑さ、人間関係の困難さがリアルに描かれているからだろう。

「僕らが天王星に着くころ」(レイ・ヴクサヴィッチ)は、皮膚の一部が宇宙服に変わり、やがて宇宙に飛び立ってしまうという流行り病に罹った夫婦の話。妻のモリーが先に発病し、夫のジャックも遅れて発病するがモリーの病気の進行に追いつかない。二人が一緒に飛び立つことは難しい。モリーは別れなくてはならないことを既に諦めているが、ジャックは別れを受け入れられない。モリーの宇宙服が完成し、いよいよ飛び立つ瞬間、ジャックは叫ぶ。
「こんなの嘘だ!」
「これはきっと夢だ。だって理屈に合わないじゃないか、いろんなことがまだ途中なんだ。」
運命の非情さと身を引き裂かれんばかりの叫びに、胸の奥までギュッと締め付けられた。

「彼氏島」(ステイシー・リクター)は、女子大生ギャルが船の沈没事故に遭い、漂着した孤島にはイケメン男子しか住んでいなかったという話。彼女はたくさんの彼氏たちと付き合う。彼氏たちはそれぞれに魅力的で彼女に優しい。なのに、どうしてもしっくりこない。彼女は言う。
「あたしは彼氏たちから何かを、とらえどころのない、小さなかけらのような何かを取り出したかった。でもどんなに注意深く彼らと寝ても、それが手に入ったと感じる瞬間はなかった。」
彼女は遊んでいるようにみえるが真剣なのだ。恋愛だけじゃ満たされない。本当の幸せって何だろう?と自問自答を繰り返す。本当の幸せを求めずにはいられない女子の気持ち、わかるなぁと頷いた。

変愛小説集の登場人物たちはひたむきに愛を求めるが、いわゆる恋愛小説にあるようなハッピーエンドは訪れない。彼らは相手が不在であることへの喪失感、思い通りにならないにならない現実へのもどかしさを抱えつつ、それでもなお生きていく。その姿に私は励まされた。読後は切なさと温かさがないまぜになった複雑な感情が残る。余韻が心地よい。

(岸本佐知子編訳『変愛小説集』講談社、2008年)
(岸本佐知子編訳『変愛小説集2』講談社、2010年)

2011年4月2日土曜日

休日、本屋が「しま」をめざす理由 (大内達也作文)

本屋で働いている人って、やっぱり本が好きで好きでしょうがない人たちなんだなと、つくづく思う。

小学生のころ、近所によく焼き芋屋さんが売りに来ていた。「おっちゃん、焼き芋好きだから焼き芋屋になったの?」と聞いたら「馬鹿だな坊主、焼き芋好きだったら芋ばっかり食って商売上がったりだろ。芋は苦手だね」と返され、そんなもんかと納得したものだ。しかし、芋屋と本屋はちがう。

書店員の薄給が業界の定説なのはともかく、長時間立ちっぱなしで、重たいダンボールの持ち運びで大抵は腰をやられてる。検品、仕分け、棚入れ、発注、棚整理といった雑用(と言ってはいけませんね、ごめんなさい)的仕事が九割で、創造的な仕事とやらは一割もない。あんなにたくさんの魅力的な本に囲まれているのに、そもそも仕事中は一行たりとも本を読めない。なぜかって? 山積みになった仕事を片付けるのに精一杯で、本を開いている余裕がないのだ。

そういう意味では、本好きにとっては見込み違いもはなはだしい職場なのだ。ハタと立ち止まって「こんな筈じゃなかったのでは?」と考える暇さえないのがかえって救いだったりして。

それでも、それでもですよ。隙を見つけては本の表紙や帯の文句をチラチラッと眺めたり、人目を盗んでページをパラッと開けてみたりする。なにしろ気になる本があちこちにある。ゆっくり読めないから余計気になる。休憩時間になったら、もう我慢できない。ささっと食事を済ませて、売場に直行。当たりをつけていた書棚を物色する。そんなこんなで、休憩時間に店内を徘徊する店員が目につく。休憩時間だけじゃない。出勤前と仕事上がりにも店内をうろつく書店員が目立つ。あ、あいつまたこんなところに、と思っても知らん顔で通り過ぎるのだ。至福の時間を邪魔しちゃ悪い。

なんと休みの日にも本屋に行く書店員が多いこと多いこと。みんなで休みの日を申し合わせて一緒に古本屋巡りをしたりしている。さすがに自分の店に行く人はいないが、「きのう~書店行ってきました……」「え、私もおととい行ってきたよ」なんて盛り上がる。他の本屋に行かないような書店員は失格だと宣言した大先輩がいたけれど、別に勉強しに行ったり「盗み」に行っているわけじゃなく、ただ好きで行っているにすぎない。困るのは、せっかくウキウキ気分で新しい本屋を訪れたのに同僚と鉢合わせすることだ。本に没頭すると周囲に対する警戒心がぐっと薄れてガードが甘くなる。そんな時、ふと気付くと顔見知りが隣に立ってニヤニヤ立ち読みしてたりするから油断ならない。そおっと、本を棚にもどして静かに立ち去らなくてはならない。

書店員はなぜ休みの日にまで本屋に行くのか。本と最も近いはずの書店員が、日常業務に押されいつの間にか本と遠く離れてしまっているからではないだろうか。そんな本との距離を縮めたくて、書店員は休みの日に本屋へ行く。

休日は近場の大型書店に行く気になれず、遠くのこじんまりした個性的な本屋に行く。ふだんは物理的に近いのに本との距離が遠くなっているので、逆に、物理的に遠い場所に出かけることによって本との距離を縮めようと考えてのことだ。

一軒目は少しばかり遠出しよう。東京駅から横須賀線に乗って小一時間。三浦半島西側、相模湾に面した逗子という駅で降りる。そこからバスに乗って三〇分ほど、秋谷海岸を越えて峯山バス停で降車。そこはもう目の前が海。冬晴れの日は空も澄み切ってすがすがしい風が流れてゆく。国道の陸側は切り立った小山になっていて、かなり急な坂を登らなければならない。案内などは見当たらず、周囲は畑と民家ばかりで人気がない。危惧していたように目的の場所を見失い、小山を上りきってしまった。息も絶え絶えだ。けれど、なんて素晴らしい眺めなんだろう。遠くに見える大型船が切り裂く波がキラキラ光って美しい。道に迷ってあせっているはずが、なんとも穏やかな気分になる。

四〇分ぐらい探し回った末、どう考えてもここしかないという民家への径を入って行った。それらしき表示があるが、なにせ初めてなので確信がもてない。裏庭に回ってみたが、暗くて中がよく見えない。「すみません、どなたかいますかー。す、み、ま、せーん」何度呼びかけても、むなしく誰も出てこなかった。扉は固く閉ざされ、臨時休業の看板も「ちょっとそこまで買物に行ってきます。三〇分ほどで戻ります」といった張り紙も貼っていなかった。

当然のことながら、営業日と時間はホームページで念入りに確かめた。さらに、「サウダージ・ブックス」というそのブック・サロンをやっている人からの、イベントの案内を同僚が受けたという話も聞いた。まさか、営業していないなどとは考えなかった。見込み発車的にここまでやってきてしまったぼくが悪いので、腹も立たず、まあ、こんなこともあるさ、といった気分だ。「サウダージ(郷愁)」という命名、海辺の景色、民家でくつろぐ読書、といった事前情報から想像するに、さぞかし気持ちのいい「本の空間」を体験できると期待しただけに、少し残念ではある。

気を取り直して、二軒目へ。下町は深川資料館通り商店街にある「しまぶっく」。最近できたばかりなので初々しい雰囲気だ。屋号でわかるとおり、この店のキーコンセプトは「島」。こちらも、今福さんの「群島論」に触発されて企図された本屋だという。店主の渡辺さんが熱狂的なサッカーファンなのでマラドーナの本とかがあって、そこはご愛嬌なんだけれど。

四間はありそうな広々とした間口が魅力的だ。見渡すと、芸術、人文、文芸中心の品ぞろえ。渡辺さん自身の眼鏡にかなった本ばかりが並んでいるので屑本が全くない。「一〇〇円のしま」にある本さえそそるのだ。面白いのは和書は古本、洋書は新刊という仕入方針で、いわば古本屋なのに買取りはやらない。売れても同じ本を仕入れられない古本で棚を維持するのは至難の業で、核となる本が売れれば全体の構成が崩れる。それをひょいとやってのけてしまうのだから、恐れ入る。

実は渡辺さんとは数年間同じ本屋で働いた仲でもあり、彼があちこちを転々としていた間、ずっと気になっていたのだ。棚をつくらせたら驚くような凄腕をもっているのに、一緒に酒を飲むと「もうやんなっちゃったよ、仕事辞めて沖縄でゆっくりしたいよ」みたいなことばっかり言うやさぐれオヤジなのだ。会社組織みたいなものが、つくづく性に合わないんだろうな。ある意味サラリーマンのほうが気楽なことも多いのに、独立して店をやろうなんて結構なエネルギーもいるし、リスクも大きいだろうに。

下町の変化のゆるやかさが彼の志向する「辺境性」にマッチしていて、とても居心地のいい空間になっていると思う。渡辺さんは書店員というより、本屋のオヤジなのだ。ようやく、彼本来の居場所を見つけたのかもしれない。「仕入れは大変でしょう?」と聞いたら、「でも毎日が楽しいよ。何しろストレス・ゼロだからね」と満面の笑みで答えた。たしかに店主と本との距離が近い。地域とも密着している。ぼくらの求めている答えの一つがここにある。なんだかとても羨ましくなって、そそくさと店を後にした。

2011年3月28日月曜日

ただいま、アトランタ (原瑠美作文)

 子供の頃住んでいた家を見に行こうとして、道がわからなくなってしまったことはないだろうか。私は去年、たまたま近くまで行く用事があって、小学生の頃一年間だけ住んでいた場所に行こう思い立ったが、結局見つからなかった。

駅前の街並にはなんとなく見覚えがある。東京都内でも、上京してから初めて来る場所なのに、どこか懐かしい。首都高の高架をくぐってまっすぐ、までは覚えていたが、そこから全くわからなくなった。大阪にいる母に電話までしたがだめだった。「あの、ほら、近くに川があるでしょう。」川はいくらでもある。「そこを曲がって、いや、曲がらずに。」二十年も前のことだ。仕方がない。その日は諦めて帰った。

見つからなかった家に一年住んだ後、私は母についてアメリカに渡った。二年間、ジョージア州の州都、アトランタに住んでいた。大人になってから何度ももう一度訪ねたいと思ったが、これまで行く機会がなかった。行こうと思えばいつでも、ほとんどどこへでも行ける時代なのだが、一人で旅ができるようになると、新しい街や自然にばかり惹かれて、後回しにしていたのだ。友人が仕事でアメリカ南部に派遣されることにならなければ、今度の休暇もどこか別のところに行っていたと思う。

テネシーのノックスビルに半年間滞在することになったカナとは高校生のときに知り合って、違う大学に進み、しばらく会わない期間があったものの、私の留学先に訪ねて来てくれたり初めての沖縄に行ってみたり、一緒にいくつかの旅をした。信じられないエネルギーで旅を繰り返す彼女は、Facebookとブログで近況を発信している。アラスカ、カナダ、そしてアメリカの各地。写真を見てコメントを残すと、遊びにおいでと誘われた。彼女の出発前から、必ず訪ねると約束もしている。これは行きたい、行かなければならない。

日程を決めた後、私はガイドブックを見ながらルートを考えた。カナとの旅はロードトリップと決まっている。私はあまり運転できないが、彼女は夏まで住んでいたモンタナから車でテネシーに引っ越しし、学生の頃から大きなバイクでツーリングもこなすベテランだ。二月の真ん中の一週間。アトランタに行きたいとは思っていたが、他にも行ってみたい場所、見てみたいものは山ほどある。ネイティブアメリカンが歩いた山脈、ルイジアナの沼地、アラバマの太陽、ミシシッピの大河。沼地を抜けてニューオリンズまで行ってしまうと、アトランタは無理だろう。どうしたものか。

出発までの間に驚くことがあった。小学生のとき別れたきり住所もわからなくなっていたスー・アンからメールが来たのだ。Facebookで見つけたのはしばらく前。ちょうど都内の昔の家を探しに行った後、試しに検索してみたらあっさり見つかった。友達に囲まれて笑っている顔ですぐわかった。もう会えないと思っていたのに、零点何秒かの検索スピードで目の前に現れるのだからすごい。まだアトランタにいるのだろうか。十八年も前に、一年間だけ一緒に過ごした日本人のことを、まだ覚えていてくれるだろうか。”Just one click away”とはこのことなのだが、なかなか連絡できずにいた。しかし再びアメリカ南部に行くことになって、何もしないのはもったいない。メッセージを送ってしばらくは音沙汰がなく、半ば諦めていた頃に返事が来た。これはいよいよすごい。しかし本当に会えるだろうか。会えたとしても、見知らぬ大人同士になった二人で、何を話せばいいだろう。会いたいが、旅程が決まらないのでまた連絡するとだけしか伝えられなかったが、スー・アンはとても喜んでくれた。

旅程が決まらなかったのは本当で、結局行き先不明のまま二月になった。ワシントンDCで乗り換えた小さな飛行機ではぐっすり眠って、ふと目を覚ますと窓からテネシーの夕焼けが見えた。それまでスタンダードなアクセントで私にしゃべりかけていた隣の席の紳士はシートベルトサインが消えると同時に電話をかけ、ゆっくりとしたサザンドロールで話し始めた。空の色は刻々と濃いブルーに変わって行く。

私の荷物がなかなか出て来ないので、迎えに来てくれたカナはガラスのドアをしきりに出たり入ったりしている。バゲッジクレームに入ってきていいものか決めかねてうろうろしているので、再会のハグをする前に笑ってしまった。荷物を持ってやっと空港を出るともう夜だった。車に乗ってから、大きな失敗をしてしまったことに気づいた。フランスで取った免許ではアメリカでは運転できないというのだ。今度はカナが笑った。日本の教習所は高いからと、私はフランス留学中に免許を取っていた。試験に合格してから三ヶ月以上現地に滞在していれば、日本の免許に書き換えられる。そうすると半額以下で免許証が手に入るはずだったのだが、フランスの試験は意外に厳しく、実技で何度も落とされて、結局滞在日数が足りずにまた日本で取り直すはめになった。それでもこのピンクの紙きれさえあれば(フランスの免許証は本当に写真の部分がラミネートされているだけの紙きれで、更新も必要ない)、EU諸国はもちろん、アメリカでも運転できるから、と慰めてくれたフランス人がいたが、あれは何だったのだろう。

ドライバーが一人だけなので、ニューオリンズのような遠出はやめにして、テネシーの東の端から南へ降りて、西からまた戻ってくるというルートにした。二つのカロライナとジョージア、アラバマ、ミシシッピも通る。二日目にアトランタを通過する。翌日は朝食に大きなシナボン(注1)を食べて出発し、夜はサウスカロライナのモーテルからスー・アンに電話をかけた。明日会えるんだね、信じられない、と言う声を聞くまで、私は本当に会えるとは思っていなかった。

郊外のモールにやってきたスー・アンは、もうすっかりアトランタの人になっていた。出会った頃はマイアミからやってきたばかりで、その前は生まれ故郷のジャマイカに住んでいて、英語はスタンダードなアクセントで話した。私たちは二人の転校生で、ベストフレンズで、十歳だった。
スー・アンの車に乗って、三人でピザを食べに行った。彼女が私の母や弟や日本に残っていた父はどうしているかと聞くので、私は驚いてしまった。よく覚えているね、もちろんよ。私はお返しに、お別れにもらったマグカップをまだ持っていると言って彼女を驚かせた。

昼食を済ませるとスー・アンの案内で、私が昔住んでいた場所の近くまで行ってみた。アパートが建つ前はゴルフコースだった場所で、大きな池がそのまま残っている。スー・アンは今でもここに時々散歩をしにくるのだと言うが、残念ながらアパートの部屋があったところまでは覚えていなかった。それでも私は満足して、スー・アンと別れるともう次の目的地へ向かう準備ができていたが、カナがもう一回りしてみようと言うのでそうすることにした。何となく見覚えのある通り。しかしどこをどう入っていいのかわからず、同じ場所に戻ってきそうになってもう諦めようと思った瞬間、見覚えのある建物に気づいた。あっちに行かなくてはならない気がする。このまままっすぐ、それから右に曲がって、と珍しくナビをしていると、突然アパートが現れた。壁の色が少し変わっているが、昔のままだ。駐車場に面した私の部屋の窓もある。

懐かしいという気持ちとも少し違った。何か、深いところからこみあげるものがあるのだ。いろいろなことが一気に思い出される。私はこの街で走り、ファイアーアント(注2)に刺されそうになり、蟻塚をよけようとして転んで泣きべそをかき、池ではアヒルの卵を見つけてはしゃぎ、学校ではランチマネーを盗まれ、今度は泣きべそをかかず、アパートの廊下で騒いでは管理人のシンディに叱られ、そうして覚えた英語を今も話している。誰かに与えられたものではない、自分の言葉なのだと感じる。

アトランタを出て西に走ると日がとっぷり暮れた。二日間、ずっと一人で運転しているカナが心配になったが、彼女はにこにこハンドルを握っている。運転はあまり苦にならないのだと言う。疲れを知らない友に尊敬の念を抱きつつ、私は助手席で眠気と戦っていた。そう言えば、沖縄で浴びるほど泡盛を飲んだ翌日も、カナは朝から元気に運転していた。

昔の家を見ただけで、思っても見なかった収穫があった。普段何気なく話している言葉も、これまでの生活の中で一つ一つ習得してきたものなのだという実感を持って、改めて言葉というものを意識することができた。今住んでいる場所も、二十年後にはこうして遠くから訪れることがあるのだろうか。今度は諦めずに見つかるまで探したいと思う。そしてここで覚えた何かを使って生きているんだと、そのときにも新しい自信を持って帰れるようでありたい。

*  *  *  *  *
注1……本社をジョージア州アトランタに置くアメリカ合衆国の菓子パン類のチェーン店。また、同店の主力商品のシナモンロールの名称。(「ウィキビディア」より、http://ja.wikipedia.org/wiki/シナボン、2011年3月)
注2……殺人ありの一種。和名はアカヒアリ。刺されると急性のアレルギー症状を起こし、死亡することもある。(「ウィキピディア」より、http://ja.wikipedia.org/wiki/アリ、2011年3月)

2011年3月10日木曜日

第5回のご報告 (大洞 敦史)

今回の参加人数は9名。作文は旅を題材にしたものが多く、豊富な体験を限られた字数にいかにうまく収めるかという点が批評の一つのポイントとなりました。

次回は4月14日(木)19時からです。今回は次回の担当者を決めませんでしたので、ご希望の方がおられましたら、お早めに大洞までお申し出ください。

また今回作品を取り上げられた方はいつもどおり、皆さんの意見を受けて再度推敲された原稿を後日大洞までお送りください。ご健筆をお祈りいたします。

2011年3月8日火曜日

三浦さんと猫 (岩井さやか作文)

チュウちゃん、その街の人たちは三浦さんの事をそう呼んでいた。「三浦さんの名前って忠吉っていうの?」「なんで?」「だってみんなチュウちゃんって」「又雄」「え?」「だから三浦又雄が名前」「じゃあなんでチュウなの?」そう問いかけると三浦さんはちょっと恥ずかしそうに俯いて「アル中だからな」と言った。

台東区の小さな街にその店はある。名前は幸楽。中華料理屋である。十人も客が入れば一杯の小さな店だ。同じ名の店を舞台にしたドラマが流行るずっと前からその名で営業している。そこに山谷から通ってくるのがチュウちゃんこと三浦さんだった。最初幸楽でバイトをしていたのは劇団の同期のエミちゃんだった。エミちゃんはよくその店に通う街の人たちのことを面白おかしく話してくれた。ある日、彼女が旅公演に出かける事になって、その間のピンチヒッターに私を指名した。最初、耳を疑った。二十代も終わりという頃に劇団に入団した私は、年下の先輩や同期が憐れむほどのぶきっちょだった。珈琲を淹れればサーバーを割る、飲みの席ではビール瓶を倒す。私に飲食店の仕事なんて頼んで大丈夫なのだろうか。「ね、おとーさんは超いい人だし、昼の忙しい時間だけだからお願い」エミちゃんはなかなかしつこかった。店に集う人達に興味があった。取り分け彼女が「超かわいい、でもシャイだからなかなか仲良くなれない」という三浦さんに私は会ってみたかった、それで引き受けることにした。

三浦さんは、いつも十一時過ぎに自転車でえっちらこっちらその街にやってきた。晴れている日は大抵、軒を分け合っている隣の電器屋(といっても電化製品が置いてあるわけではなく電気工事が主な仕事)のトラックの荷台に座っている。そして正午、幸楽の忙しさはピークを迎える。七人掛けのカウンターは満席になり、二つある小さなテーブル席も満席になり、歩道に勝手に出した四人掛けのテーブル席も埋まる。調理場にはおとーさんとそれをサポートするおかーさん、そしてカウンターの外側に私が陣取る。私の役割はレジと、配膳、汚れた食器を下げるといった所だ。ところが店が満員状態になると食器を片づけるという作業が難しくなる。水場のある調理場と店の境はカウンターで仕切られていて、更にカウンターの半分以上は油が客に飛び跳ねないようにガラスで覆われているから受け渡しできる場所は限定されている。そこにずらっとお客が並んでいるからだ。人の肩と肩の間からラーメンやレバニラを受け取りお客の前に運ぶのだが、出来上がった料理が頭上を通るならまだしも汚れた皿が頭上を通過していくのは余り気分のいい事ではない。そうするとおとーさんから「外にお願い」と声が掛る。外に並んでいる客を横目に通り過ぎ、店の裏側の歩道部分に汚れた皿を並べていく。歩道にずらっとお皿が並んだ時が三浦さんの出番だ。三浦さんはのそのそとトラックの荷台から降り、店の裏に回って残飯をバケツに入れ洗剤水を張ったもう一つのバケツに皿をつけてゆすぐ。そしてざっと濯いだものを裏の勝手口からおかーさん担当の洗い場まで運ぶのだ。そして二時頃、店から客がほぼいなくなると三浦さんは空いた店の中に腰掛けて、ビールを開ける。おとーさんはつまみに冷奴や、漬物を出してあげる。特に手伝う事で三浦さんがお駄賃をもらっている様子はなかったし、ビール代もきちんと払っているようだった。十四時過ぎたら私も店のメニューから好きなものを賄いとして注文していい事になっていた。バイトの初日、私がテーブル席でご飯を食べていると、カウンターの三浦さんがちらっとこちらを振り向いて「飲むか」と聞いた。それで少しご相伴に預かることにしたら、それからバイトの度に昼間から三浦さんと飲むことになった。つまみの好みが似ていると知って気をよくしたのか、よくどこかから豚足やホヤ貝を仕入れてきておとーさんに「さやかちゃんと飲むときに出して」と渡していた。私はそれから二年余り幸楽で働いた。

三浦さんはこちらの話をうんうんといつまでも聞いてくれる。芝居の稽古でうまくいかない話、憧れているずっと年上の役者の話、いつも微かな笑みを湛えながら聞いてくれた。でも自分のことは、こちらの質問にぽつぽつと答える程度で余り話さない。粘り強く聞いてわかった話はこうだ。三浦さんは十代後半で秋田から集団で出てきた、いわゆる金の卵と呼ばれた人達の一人だ。最初は左官屋さんの丁稚奉公をしていたが厳しくて逃げだしてからは職を転々とした。山谷の鈴本荘という簡易宿泊所に二十年以上住んでいて生活保護を受けている。所帯を持ったことは一度もない。この街に通うようになったのは十年くらい前からで、どこかの現場でこの街の工事を仕切る頭に会って、頭から時々仕事をもらうようになったからだ。チュウちゃんというあだ名をつけたのも頭だった。頭は時々、店のガラス戸を勢いよくあけて「おい、チュウはいるか」と言った。堅気には見えない、声が異様にデカイ人だ。それから三浦さんは秋葉原の病院に定期的に通っていた。肝臓に癌があり、肝硬変も起こしているらしい。だから最近は頭の仕事も余り手伝えないらしかった。そうは言っても、お酒をやめようなどとは露とも考えていないようだった。三浦さんはぽっちゃりとしていたし頬もピンクがかっていたので余り悲壮感が漂ってなくて、癌だと聞いてもつい半信半疑になってしまったが「来年の桜を見る前におっ死ぬな」が三浦さんの口癖だった。ある時、三浦さんに好きな花を尋ねたらおとーさんが「菊だろ」と冗談を言った。この街の人達はそうやって近づきつつある三浦さんの死をちゃかすことでその日を引き伸ばせると考えている節があった。三浦さんは恥ずかしそうに「アヤメ」と答えた。ちなみに好きな映画は寅さんだ。そんな三浦さんをおとーさんはよく「無法松」に喩えた。

ある小雨の降る日、近所に集金に出かけたおとーさんが近くの公園で子猫が濡れそぼっているのを見つけた。それを聞いて私もすぐ見にいくと確かに小さな猫が木の傍でうずくまり、近づくとすり寄ってきた。哀れだとは思ったがバイト中だったし、当時私たち夫婦は千駄木のぼろアパート暮らしでペットも禁止だった。仕方がないと思った。小雨の中小走りに戻ってきた私を見て三浦さんが「どうしたの?」と聞くので子猫がいたと告げると彼もふらふら見にいった。暫くしたら戻ってきて「いなかった」と言う。「嘘、大きな木の下だよ、いるよ」と言ったら今度は自転車でよろよろ見に行った。三浦さんが自転車を押して戻ってきたので「いたでしょ?」と尋ねると、彼は前籠を指差した。小さな猫が震えていた。雨は直に止んだが風の強い日だった。三浦さんはトラックの荷台に段ボールで風除けを作って一生懸命その子猫を守っていた。「どうするの、鈴本荘で飼えるの?」と聞くと情けない目でこちらを見る。弱ったなと思った。猫は震え続けている。片目も半分開かない。仕方がない、獣医にだけ連れていくか。バイト後、子猫を抱えて商店街の獣医を尋ねると休憩時間中で受付の人に「暫く待合室でお待ち下さい」と言われる。子猫を椅子の上に置き、その横に私も腰掛けた。すると猫がずるずる移動してきて私の膝の上によじ登って丸くなった。

結局三日分のバイト代が治療費に消えた。獣医は「すっかりあなたになついていますね」と言った。私が獣医から戻ってくるのを常連客達が店の中で花札をしながら待っていた。「さやかちゃん、猫どうするの?」「とりあえず連れて帰る」「チュウよかったな」「チュウが拾ってきたんだからさ、チュウちゃんって名前にしなよ」等と口ぐちに言う。電器屋の主人が「これに入れて帰りな」とショルダーバッグの使い古しをくれた。掌に乗りそうな大きさの猫をバックの中に仕舞って帰路についた。帰り道、夫に電話した。「死にそうな子猫拾っちゃった、どうしよう。」「飼いたいの?」「うん」「引っ越さなきゃいけないかもなあ」少し小声になって夫は付け足した。「猫は連れてきてもいいけど、三浦さんは連れて帰ってくるなよ」大家さんに相談すると「たかが子猫一匹お好きに」との返事だった。 

チュウでは可哀そうなので猫の名はちーになった。三浦さんはその後、入退院を繰り返し頬が痩け酸素ボンベを抱えて戻ってきた。自転車に乗れなくなってもバスを乗り継いで幸楽に通ってきた。だんだん三浦さんと飲むのが辛くなってきた頃、杉並に引っ越しが決まって私はバイトを辞めた。そしてその後、娘を出産した。娘の出産と時期を同じくして三浦さんは亡くなった、と一年ぐらいしてからおとーさんに聞いた。お骨は秋田に住むお姉さんに届けられた。私の手元には今でも三浦さんの写真がある。いい顔をして写っている。「三浦さんにはてらいがないからな」おとーさんはそう言っていた。

2011年2月26日土曜日

迷子ホリック (大塚あすか作文)

道順を覚えるとか地図を読むとか、そういった能力には悲しいほど恵まれていない。同じく方向音痴の友人と感じの良い喫茶店を見つけた数週間後、彼女から「あのお店、また行きたいと思って探したけど見つからなかったの」と連絡がきた。次の休日に自分の足で確かめてみると、やはり店はない。競争の激しい地域なので閉店してしまったのだろうと納得して1年後、思いがけない場所にその店を発見したときには愕然とした。

よく知った場所でも、いつもと違う道を通って行こうとすると必ずと言っていいほど迷う。引っ越したばかりの家への帰り道がわからず困り果てたことがある。はじめて上京したとき、駅の外に出ることができずに泣きべそをかいていたらキャッチセールスのお兄さんが見かねて出口まで連れて行ってくれた。

道に迷うことは怖い。「あ、わたし今迷子だ」と気づいてしまった瞬間、人も風景もくるりと色を変える。ただの住宅やビルがやたらよそよそしくなる。あたりを歩いている人はみんなこの場所にしっくり馴染んでいるのに、わたしだけがよそ者。目的の建物を探して同じ場所を何度も行ったり来たりしているのを不審がられているかもしれない。ふいに周囲の目が気になりはじめ、ますます挙動は怪しくなる。

でもその不安な気持ち、実は嫌いではないのだ。なにしろわたしには定期的に、半ば意図的に迷子になる悪癖がある。

冬の休日、友人へのプレゼントを買うため電車で出かけた。にぎやかな駅から少し離れた場所にある雑貨屋で買い物をすませ、近所の喫茶店で休憩する。お客は取り澄ました若者ばかり。大きなお皿にちょこんと盛られた料理はたいしておいしくもなく安くもない。雰囲気を買うたぐいの店で、わたしも澄ました顔で食事をして、紅茶を飲んだ。

店を出て空を見上げたところで、うずうずと虫が騒ぎだす。天気がよく、まるで春みたいに暖かい日。こんな気持ちのいい日に、まだ昼過ぎなのに、電車で家に帰ってしまうのはもったいない。ひと駅歩いてみようか、と駅に背を向けた。

見知らぬ道を歩くのは面白い。古本屋を見つけては、店先のセール台をのぞく。ガードレールに貼られたうさんくさい占い師のチラシ、奇妙な名前を持つ店、道端に捨てられたブラウン管テレビ。興味をひくものを見つけるたびにまじまじと眺めたり、写真におさめたりしていると、あっという間にひと駅の距離は過ぎてしまった。せっかく楽しい散策をしているのに、ここで止めてしまうなんてとんでもない。駅を指し示す標識を無視する。こんな都内に広い畑があって、ぽっかり空が開けていて、無人販売所まで。小さくうらぶれた神社には、一体誰がお参りに来るのだろう。目に入るものに引き寄せられてどんどん軌道をそれながら、上機嫌で今日は家まで歩いて帰ろうと思いつく。自転車にも自動車にも乗らないから、道は知らない。でもきっと大丈夫。頭の中にうろおぼえの地図を思い浮かべ、この方向に進めば家に近づくはずだとあたりをつけた。それから、標識や電柱の住所表示をときおり確認しては、迷いすぎたと思えば少し修正を加え、ひたすら歩きつづける。

長い時間歩いて景色に飽きてくると、機械的に足を動かしながらぼんやりと考えごとをはじめる。ここぞとばかり遠い昔のことを思い出して、それに飽きればずっと未来に思いを馳せて、心をひたすら遠くへ飛ばす。詰め込んでばかりでゆっくり向き合う時間のなかった本や映画のことを考える。それもまた楽しい。

はっとするのは、とうとう疲れはじめる頃。歩きだしてからとうに3時間は経っている。なんだか足が痛い、というのは当然で、さっと買い物だけ済ませて帰るつもりで出かけたわたしの足下は、細いヒールが頼りないブーツ。いったん意識してしまうとどんどん痛みは増し、憂鬱になってくる。どうしよう、足も痛いし疲れたし、そろそろ歩くのにも飽きてきた。そんな気持ちが頭をもたげ、しかしぐっとこらえる。

昔からよく気が強いと言われ、そのたび反発した。「おまえみたいに気の強い女見たことない」と言われたときも、「本当に頑固だよね」とあきれられたときも、猛然と「そんなことない」と言い返した。でも、今なら素直に彼らの言葉を受け入れることができる。わたしは確かに気が強い。とんでもない頑固者だ。誰に誓ったわけでも誰に命じられたわけでもないのに、ふと頭に浮かんだ「家まで歩いて帰る」という考えが、今では約束となって自分をきつく縛っている。数時間前の自分に負けることが悔しくて、わたしはどうしても歩くことをやめられないのだ。ばかみたい。

しばらくして、本格的に歩くのが嫌になってくる。歩いていればじき突きあたる予定だった大きな道路はなぜかいまだに見えてこない。近くに駅もなさそうだ。今の自分はまったく電車の軌道が存在しない場所にいるらしい。いつでも電車に乗れるところをあえて歩くのは楽しい。でも、本当は電車に乗りたいのに歩かざるを得ないのは辛い。ますます暗い気持ちになってくる。ここがどこなのかも、なんとなくイメージはできるのだけれど、はっきりとはわからない。本当にこのまま進んで家に帰れるのだろうかと不安が頭をよぎれば、これはもう、本格的に迷子になってしまったということだ。

足の痛みは絶え間なく、春のように暖かかったのが嘘のように指先がかじかんでいる。日が沈もうとしているのだ。何時間か前、小洒落た喫茶店で澄ました顔で紅茶を飲んでいたのが遠い昔のことのよう。いや、現実だったのかも怪しいくらいだ。わたし、ずっと昔から歩いてきて、これから先もずっと歩き続けるんじゃないのかな。現実感のない妄想に取り憑かれながらただ右左と足を動かす。よそ行きの格好で、厳しい顔をして修行僧のように黙々と見知らぬ道を歩いている姿は端から見たら滑稽であるに違いない。でもわたしは至って真剣に、無限地獄と戦っている。

耳は凍えて足は棒のようで、音をあげそうになる頃、見知った地名が目に入ってくる。いつのまにか自宅の近くまで戻ってきていたらしい。駅の反対側なので歩いたことはないけれど、ここから家までは15分もあれば着きそうだ。しかし、安心して気が大きくなったところで、左手路地の奥に小さな商店街を見つけてしまう。ついつい引き込まれ、閉店間際の肉屋や八百屋、のり巻きだけを売っている風変わりな店をのぞき込んでいるうちにまた住宅街の迷宮にはまりこむ。予想帰宅時刻を過ぎてもまだ細い道をうろうろさまよい、とうとう力つきてバランスを失い転ぶ。誰にも見られていないのに恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなる。気力もなくしてとぼとぼと、ようやく普段とは反対の方向から、見慣れたコンビニエンスストアまでたどり着いたときには心の底から安堵した。

帰宅してぱんぱんにふくれた足をブーツから引き抜くと湯船に湯を張る。温まると気持ちもゆったりとして、風呂から上がる頃には心細さも辛さも何もかも流れ去っていた。カバンから買い物した荷物を取り出し、雑貨屋も喫茶店も夢ではなかったのだと実感する。代わりに今では、5時間以上も歩き回っていたことが幻のように思える。

都内の詳細地図を取り出し、今しがた自分が歩いてきたでたらめな道のりを確かめてみる。最短距離を選べば所要時間3分の2で帰宅できていたはずだ。線路はぐるっと大回りしているけれど、電車ならば30分。よくぞここまで迷ったものだと呆れながらのひとり反省会。――こんなことを、わたしは数ヶ月に一度繰り返している。

道に迷うたび強烈な不安と孤独を味わうのに、ほとぼりが冷めるとまたでたらめに散歩したくなる。やはりわたしは迷子になるのが嫌いではないのだ。電車の窓から眺めてばかりで知ったつもりになっている街のことを、実のところほとんど何も知らない。知らないということを肌で感じるのは面白い。馴染んでいるつもりの街がふっと異世界になるのが、怖いけれど面白い。

最近は衛星を使って地図上に自分の居場所を表示してくれる携帯電話が登場し、道に迷う機会はどんどん少なくなってきた。それでもやはり、あの頼りない気持ちを求め、わたしは地図を捨て町に出る機会をうかがい続けている。

2011年2月21日月曜日

カントリー・ガールの亡霊 (大塚あすか作文)

仕事や私的な用事で地方都市へ行くたびに、女子高校生の外見が均一であることに驚かされる。昨年訪れた九州南部のある都市でも、紺色のブレザーに紺色のハイソックスの似たような少女ばかりが街にあふれていた。彼女たちは、制服であることを割り引いても実にそっくりだ。縮毛矯正でもかけているのだろうか、まっすぐ伸びた黒い髪は肩よりやや長いところで切りそろえられ、斜めに流した前髪を皆が皆、大きなクリップで留めている。化粧で描いた眉毛のかたちもほぼ同じ。持っているカバンも、携帯電話にぶらさげた重そうなアクセサリーも、多少の色かたちは違えど似かよっている。ほとんど同じ外見の少女たちが路面電車の座席にずらりと並んで座っている姿は異様であり、けなげにも思えた。

数年間暮らした福岡の街でも高校生の髪型はおしなべて同じようなものだった。パーマをかけることが校則で禁止されているであろうことは予想できたが、なぜ揃いも揃ってああも人工的な直毛を好むのか、わたしは不思議でたまらなかった。あるときその疑問をぶつけてみると、当時行きつけだった店の美容師は、軽く眉根を寄せて言った。

「くせ毛がきっかけで虐めにあうこともあるから、皆して縮毛矯正やヘアアイロンで必死に髪をまっすぐにするみたいですよ」

まったく、ろくな話ではない。

テレビやインターネットを通じて瞬時に情報が伝播するようになった今でも、流行の広がりにはそれなりの時間がかかり、好まれるファッションも全国均一とまではいえない。ある場所に立ち周囲を見渡せば、同じような外見の人間があふれているけれど、都市単位で比べてみるとどこかが違う。差の多少はあれども、ぼんやりとその地域なりの、独特の流行と呼べる何かが存在しているのが見てとれる。

東京でも街によって色があり、そこに集まる人たちはある程度共通した記号を身にまとっている。おそらくそれは、人が街を選んだ結果だ。自分がその街の色に合っていると思うから、もしくは染まりたいと願うから、渋谷を選んだり、銀座を選んだり、下北沢を選んだりする。選んだ場所に通い、そこにいる人々や街そのものに同化しようと姿を似せる。同じ均一化であっても、そこには多少なりとも個人の自由選択がはたらいている。

一方田舎の場合、自分の好みで選べるほど多くの場所も、色もない。まず街というどうしようもない逃れられない枠組みがあって、その中でやはり逃れ難い、統一されたスタイルが生まれているように思えるのだ。都会を離れれば離れるほどその均一性に息苦しさを感じてしまうのは、わたしが自らの育った地方都市に対して、長い間好意的な感情を持てずにいたからだろうか。

わたしは大分県大分市という、ザ・地方都市といっていいくらい典型的な田舎の中核都市で生まれ育った。テレビのチャンネル数は少なかったし、雑誌の発売日は東京よりも二日ばかり遅れていた。雑誌で目にした洋服や雑貨が欲しいと思っても、たいていの場合行動圏内に目当てのものを販売している店舗はない。それでもメディアを通した情報としては一応、東京やその他の都市と大差ないものが与えられていたはずだ。

日本の中心からはるか遠くに住む少年少女は、いつだっておそるおそる都会の流行を取り入れた。スチュワーデス(今ではこの単語自体が死語ともいえるが)を「スッチー」と呼ぶことも、履き口のゴムを抜いてだらしなくくしゅくしゅにたるませた靴下を履くことも、「彼氏」を「カレシ」と語尾を上げて発音することも、男の子がパンツを半分さらけだしながら制服のズボンを腰で履くことも。何もかもすべて、マスコミが全国津々浦々に染み渡らせて、「これが今の若い子にとっては当たり前なんだよ」とお墨付きを与えてくれた頃に、ようやく市民権を得る。当然、都会の少女たちがずるずるした靴下に飽きて紺色のぴったりしたハイソックスを履くようになってもまだしばらくのあいだ、大分の女の子たちはゴム抜きスーパールーズソックスを履き続ける。

不思議なもので、冷たい水に入るときを思わせる用心深い動きで都会の流行に追いすがる一方で、他の地域からはまったく理解されない流行が局地的に発生することもあった。中でも印象深いのは「タオラー」が一世を風靡したことだ。

ちょうどわたしが高校二年生の頃、大分市内の高校生のあいだで「タオラー現象」が巻き起こった。高校生たちが、風呂上がりの中年男性のようにタオルを首にかけ、街を闊歩するというもので、しかもそのタオルはスポーツタオルやブランドタオル、キャラクターものではいけない。新聞屋やガス屋が得意先に配っているような、あの安っぽい、ぺらぺらの白タオルがタオラーたちのヒエラルキーにおいては最上位に位置した。当時、大分の市街地は、やたらとたるませたルーズソックスを履いて、下着が見えそうなほど制服のスカートを短くし、首にタオルをかけたシュールな女子高校生であふれかえっていた。男子生徒も、制服のズボンをだらしなく腰で履きながら首に白いタオルを巻いて、それが格好良いのだと信じていた。

この珍妙な現象はさすがにマスコミの目にも留まり、全国ネットの情報番組で「タオラー」が紹介されたことすらあった。流行の発生源を探そうという試みだったが、結局どこの誰がはじめたファッションなのかはわからないままだった。ちなみにわたしは、タオルを首にかけることもなければルーズソックスを履くこともなかった。どこにでもいる平凡な「人と同じことを嫌う」女子高生で、アニメ『キャンディ・キャンディ』のヒロインのように髪を縦巻きにして、やはり端から見れば珍妙な格好をしていたことには変わりない。

タオラーになることなく高校生活を終え、首都圏の大学に進学して間もなくあるひとつのカルチャーショックを受けた。それまでごく普通に使っていた「ゴリい」という単語についてである。

当時大分市内の学生は、男子生徒の風貌を表すのに「ゴリい」という言葉を多用していた。これは単純に「ゴリラ」を形容詞化したもので、主に運動部に属する、筋肉質で大柄で、顔立ちもやや類人猿めいた男子生徒を指すのに使われた。

「あの先輩、ゴリいよね」「わたし、ゴリい人好みじゃないもん」等々。あくまで「ゴリラ」が語源であるので、該当するのはゴリラやオランウータンに似た人物。小柄でかわいらしい、チンパンジーやニホンザルを思わせる外見は該当しない……と、突き詰めるとそれなりに厳格な区分けがあるのだが、そこでは男の子も女の子も「ゴリい」という言葉の持つニュアンスを共有していたので、定義や許容範囲について深く考えることなく「ゴリい」は日々の会話の中ごく自然に飛び交っていたのである。この単語は若者言葉で、同じ地域でも大人が使うことはなかったように記憶している。

大分から遠く離れた場所で「ゴリい」が全国共通の表現ではないと知り、わたしは若干のショックを受けた。思春期らしい自意識で、故郷の田舎っぽさすら嫌っていた当時、気づかぬうちにどっぷりと地方特有の風習に染まっていたことが気恥ずかしくもあったのだろう。
新しい友人たちは見知らぬ言葉を面白がりながらも、微妙なニュアンスをいまひとつ理解しかねているようだった。「芸能人で言えば誰」と例示を求めてきたかと思えば、まるで的外れな人を指し、「あの人、『ゴリい』に当てはまるんじゃない」とたずねる。しかしわたしも、それまで頭で考えることなく感覚で判断してきているので、彼らに明確な「ゴリい」人の基準を教えることができず、途方に暮れた。

上京して半年も経たないうちに、わたしは「ゴリい」という言葉を使わなくなった。そのまま「ゴリい」はわたしの中で死語となり、以来一度もその単語を使ったことはないし、かつてならば「ゴリい」と形容していたであろうタイプの男性を見ても、その言葉が浮かんでくることはない。高校生の頃に親しくしていた友人たちも皆大分を離れ、わたしたちは方言を使わずに会話を交わすことが当たり前になった。もちろん誰ひとりとして、「ゴリい」などという単語を使うことはなく、今となっては「ゴリい」という言葉の存在自体が夢であったかのように思えてくる。

大分市内の中高生は、今でも「ゴリい」という単語を使うんだろうか。それとも、あのとき、あの場所、あの世代だけで通じる特別な言葉だったんだろうか。そんなことを考えながらこの文章を書いているうちに、もしかしたら「タオラー」も「ゴリい」も何もかもわたしの妄想で、あの頃の大分にもそんなものは存在しなかったのではないかという思いがわきあがり、ふっと怖さと寂しさが背筋を撫でた。

2011年2月12日土曜日

子ども病棟で過ごした日々 (近藤早利作文)

小学校六年生の年の十月のある朝。遠くの方から、今日が秋祭りであることを知らせる太鼓の音が聞こえてきた。布団の中で、だんだん目が覚めてきて、今日は僕も一日お神輿をかつぎ、太鼓を叩くのだと思っているうちに、呼吸が苦しくなってきた。吐き気もこみあげてきて、僕は窓を開けて嘔吐した。 

それから、二ヶ月くらいの間、母は僕をあちこちの病院へ連れて行ってくれたが、原因ははっきりしなかった。十二月のはじめに行った国立療養所恵那病院では、検査入院をするようにいわれ、結果的にはそのまま十五ヶ月を病院で過ごすことになった。

この病院は、昭和十七年に傷痍軍人岐阜療養所として設立された古い施設で、小高い丘の上にあった。戦後は結核患者や長期療養を必要とする者が多く入院していた。僕が入った時は、子どもたちは建ったばかりの新館病棟の一角に集められていた。入院している子どもの病気で、もっとも多いのがネフローゼという腎臓の病気。次に気管支喘息。僕の病名は急性肝炎で、他に慢性肝炎の子が二人。再生不良性貧血。骨折など外科患者もいたが彼らは一直線に回復していくので入院患者といっても別種族だった。結核の子が大勢いたはずだが、別の病棟に隔離されていたので、ふれあうことはなかった。 

病院に隣接して、といっても歩いて10分ほどかかるのだが、岐阜県立緑が丘養護学校があり、病院と連携して学業の遅れが最小限になるように配慮されていた。病状が安定している子や、発作さえでなければ普通の子どもと変わらない気管支喘息の子は、毎朝、パジャマから普段着に着替えて学校へ行って授業を受ける。それが許されない子には、医師が許してくれた時間数だけ先生たちが病床まで来てくださって、一対一か、少人数のグループで授業を受ける。

かなりの子どもたちに、副腎皮質ホルモンが投与され、副作用で顔がまん丸にふくらんでいた。腹水が溜まってお腹がドッジボールみたいにせり出している子もいた。僕の顔もまん丸になった。毎日徐々に変化していくので、自分では大きく変わったとは思っていなかったけれど、見舞いに来てくれたクラスメートや久々の帰省で顔を見せてくれた兄たちは言葉を失ったようだ。僕たち、とりわけ女の子にとっては、いかに早く副腎皮質ホルモンの投薬から逃れるかは重要な問題で、多くの子どもたちが、自分で薬の量を徐々に減らしたりもした。

今では想像もつかないことだけれど、病棟にはギターの持ち込みが許されていた。長い髪を額から頬にかけた隣の部屋の安藤君が、ガットギターを弾きながらアメリカのフォークソングを歌っていた。安藤君の友人たちが、学校帰りに立ち寄って小さなセッションをすることさえあった。僕も、親にねだってヤマハの一万五千円のガットギター買ってもらった。回診に来た主治医の伊藤先生が手にとって、いきなり「湯の町エレジー」のイントロを弾いて見せてくれた。先生は名古屋大学の医学部の出身で「学生時代、学費を稼ぐために名古屋の栄町で流しをしていたんだよ」とのことだった。小さなラジオとレコード・プレイヤーを置くことも許してもらい音楽は、入院中に僕に親しいものになっていった。  

入院してしばらくすると、未成年の患者だけが古い病棟に移され、そこは「子ども病棟」と呼ばれることになった。戦争で傷ついた兵隊さんたちが長く療養したという古い木造の平屋建て。窓の外には、広い庭があって、天気のよい日は、パジャマのまま庭に出て、紙飛行機を飛ばして遊んだりした。僕は、学校へ通うことはまだ許されていなかったので、病床まで先生が来てくださった。小学校のときは、ご自身も心臓疾患で入院しておられた安藤太郎先生。中学に入って、英語は、ご自身もカリエスを患われたことのある堀井先生。数学は若い女性の加藤先生。英語と数学は、遅れると追いつくのが大変だからと時間を優先的に割り振っていただいた。おかげで、この二科目は自分のペースでどんどん進み、まったく遅れずにすんだ。国語は教科書を自習。後は、母に頼んで買ってきてもらった本を読むだけ。暮らしの手帖社の「からだの読本」は全巻熟読した。小説は遠藤周作ばかり読んでいた気がする。社会科は「後で暗記しておいてよ。履修したことにしておくから」ということであった。だから、僕は中学一年生で習ったはずの地理にいまでも疎い。

子ども病棟に配された看護婦さんたちは、みんなやさしかった。新館では男の子に圧倒的な支持を得ていた工藤さんが、子ども病棟の担当にならなかったことで、みんながっかりしていた。時々、用事もないのに新館へ行って廊下にある車椅子で競争をしながら、工藤さんの近くにいって視線を合わせてもらうだけでどきどきしていた。でも僕の本当の憧れは、工藤さんよりもう少し年上の藤井さんだった。

彼女たちも、大人の患者を相手にするよりも気楽だったのだろう。消灯時間を過ぎても眠れないで、看護婦詰所(当時はナース・ステーションなんていわなかった)へ行くと、長い間、遊び相手になってくれたことを覚えている。置いてある聴診器の使い方を教わったり、医学用語辞典から、わざと際どい言葉を選んで「これ、どういう意味か教えて」なんていったりしていたのは、栴檀は双葉より芳し、いや、こういう場合は、三つ子の魂百までと言うべきなのか。

お正月や旧盆には、病棟の子どもたちの多くは、短くても一泊、退院間近の子は試験運転として一週間ほどの外泊を許された。僕はといえば、入院から八ヶ月が過ぎた旧盆にも外泊を許可されなかった。病棟で一泊も許されなかったのは僕だけだった。朝から、友人たちの親や兄弟が迎えに来て、病棟からは一人、二人と人が減っていく。最後の一人が帰って行き、そして日が暮れて、病棟は深閑とし、僕はひとりだった。母が、ある時間までは来てくれていたかも知れないが、記憶には残っていない。やがて消灯時間になって、部屋には、窓ガラスから差し込む庭の照明の薄明かり以外に何もない。横になってじっとしているが眠れない。起き上がってベッドに座っていると、入院して初めて、涙が溢れてきた。お正月も自宅で過ごせなかった。お盆も家に帰してもらえなかった。それがつらいのではなかった。日本には何千万人も子どもがいるだろうに、どうして「この僕」だけが選ばれたのか、それがわからなくて、いるのかどうかわからない神様を呪い、そして祈った。ひとしきり泣いて、灯りをつけて本を読んでいるといつしか眠ってしまった。

秋口になって、急に体調が悪くなった。寝ていると、突然、鼓動が激しくなって息もできない気がして、入院して初めてナース・コールのボタンを押した。脈拍数は二〇〇を超えていて、このまま死ぬかも知れないと思うほど苦しいことが二度ほどあった。これは肝炎とは関係のない心因性のものだったようだが、同じ頃、激しい吐き気が襲ってきた。鏡を見ると白目が黄色くなっていた。このまま、どんどん病気が重くなって死んでしまうのかなあ、と思った。

病棟にいると、死は身近なものだ。結核病棟の誰それが亡くなったそうだ、という話が数ヶ月に一度は流れてくる。結核は治ったが、喘息が治らずこちらの病棟に移ってきた晴美ちゃんが、急に具合が悪くなって、そのまま帰ってこなかったことがある。小さくて色が真っ白で髪が茶色で囁くくようにしゃべる小学校一年生の卓くんも、いなくなった。一般病棟から僕の隣室に運ばれてきたお年寄りが、明け方具合悪くなって、未明から看護婦さんや医師が入れ替わり出入りしたが、急に静かになってお亡くなりになったことを知ったこともあった。

そんな風に死は身近なものだった。ある日看護婦さんに「死んじゃった人は怖くない?」と聞いたら「怖くないよ。死んじゃった人は何もしないから。生きてる人の方が怖いよ」と言われた。

その時期は、大きく恢復するために必要な落ちこみだったのか、その後、検査結果が、劇的によくなった。十二月のある日、伊藤先生から「年が明けたら養護学校へ通っていいよ。三月まで行ってみて、大丈夫だったら、退院して、四月から地元の学校へ行けるよ。」といわれた。

そうして、その言葉どおり、僕は、中学二年生から、明智中学校に復帰することになった。学力テストも何もなく、校長先生が面接して「これなら元の学年にいれていいな」それでおわり。

このようにして過ごした子ども病棟の十五ヶ月は、明らかに僕の本質を形づくっている。まだ、世の中を覆うシステムの網目が緩やかだった頃の、懐かしく、今では「幸せだった」といってもいい日々の記憶。

2011年1月31日月曜日

意想外な贈りもの (大洞敦史作文)

君にまた会えて嬉しいよ。丸みをおびて一見ひとなつっこそうな、よく見るとひどく冷めきったその顔つきを、この頃とんと見かけなくなり寂しく思っていた。元気にしているかい。まずは冷たいコーヒーで乾杯しよう。例のごとく一息で飲み干そう。僕たちはどうして熱いものが飲めないのかな。左足の水虫は治ったかい。僕ほど深く君を知る者は無い。今では共有するものもだいぶ少なくなったけれど。十五年前に君と知り合えていたらどんなに良かっただろう。あのころ君であった僕が、僕になる前の君に出会っていたら。

それにしても、この喫茶店も懐かしいなあ。星占いのおもちゃ、たまごっちで遊ぶ女子高生、野茂の活躍を称えるご隠居さん。BGMはセリーヌ・ディオン、時折どこかでポケベルが響く。ここは君にとって大人の生態を観察する格好の場所だった。互いに白じらしい無関心を装いながら周囲のおしゃべりに聞き耳を立てていられるのは喫茶店の醍醐味のひとつだろうね。

君が無口でいるのはなにも声変わりのせいばかりでないだろうけど、せっかくだから何か話そう。でも世間話にはお互い馴れていないから、僕らの間でしかできない話をしよう。そうだね、感情とその表出について考えてみようか。いったい人の感情は生得的なものなのか、それとも周囲との関係を通して獲得されていくものなのか? 僕は赤ん坊に接した経験がほとんど無いし心理学の素養も乏しいが、少なくとも幾つかの感情が後天的に消失される事は有りうるという実感をもっている。その証拠に僕らは、笑うことと怒ることが上手にできないだろう。何かを可笑しいと思う気持ちはあっても、それをどのように表出すべきかが、おそらくは六歳あたりから解らなくなったんだ。

すでに君の倍以上の時間を生きたはずの僕だが、うまく笑い声を発する自信は未だにない。作り笑いを浮かべるのにはだいぶ馴れてきたけれど、目が笑ってないねなんて冗談交じりに言われるたびにギクリとする。怒りに関して言えば、暴言を吐かれたり、暴行を加えられたりしても特にこれという反応は生まれないし。あるとすればそれは相手への同情で、当人の安寧を乱す厄介な情動が早く収まるようにとの願いだ。

そんな鈍感な僕だけど、かなり特殊な部類に属するであろう感情を味わう事がしばしばある。君はもう経験しただろうか、あの絶頂を? 僕はかつてシモーヌ・ヴェイユというフランス人の日記に、それと同様の体験が描写されているのを見出した。過酷な女工生活を送っていた彼女は、ある日バスのなかでこんな疑問をいだく。奴隷の身である自分が他の誰かれと同じ資格でバスに乗っていられるのはどういう訳だろう、と。そうして「何も手荒な扱いを受けず、何も辛抱しなくてよい瞬間があると、それがまるで恩恵のように思える。そういう瞬間は天から下ってくる微笑のようなもの、まったく意想外な贈りものなのだ」という心理に至るんだ。大きくうなづいているところを見ると、すでに君も味わったことがあるんだね。ではひとつ、例の「贈りもの」が僕らの上にもたらされた経緯を振り返ってみようか。

小学校の入学式は、夜の静寂を愛する君が初めて迎える日の出だった。これからの六年間すなわち今の僕にとっての四半世紀にも等しい歳月を、言葉もろくに通じない動物の群れと膝つき合わせて過ごして行かねばならない事を悟った時の戦慄と絶望は底が知れない。とはいえ担任の女教師の存在が厭世感をいくらか和らげてくれたし、心を許せる友もできた。草むらに足を踏み入れたり、大きめの石ころをひっくり返すと、彼らはいつでもそこにいた。君の鈍感な性格を最も直接に形作ったのは正に彼らではなかったろうか? 眼鏡をかけている事、姓の読みかたが父と異なる事、母親がいない事などが時にからかいの種になる事はあったが、四年生まではおおむね平穏に過ごしていたね。野球と、虫遊びと、叶うはずもない薄紅色の空想に明け暮れていた。

人間の友だちもいなかったわけじゃないが、五年生に上がる時のクラス替えで仲の良かったグループから君だけが取り残されてしまって以来、休み時間には机に両肘をついてぼんやりする事が多くなった。まもなく君は君と同じようにぽつんとしていて、同じように笑うことを知らないYという男子生徒から日常的に暴行を加えられるようになる。朝方教室に入ってから下校時帰り道の分岐点まで彼は執拗に君につきまとい、拳をふるった。授業の合間の五分休憩のたびに二、三十発は殴打されていたね。君はそれを天災のように受け止めていて、いかなる時にも徹底した無抵抗をもって答えたが、そうした態度は学校教育にとって危険視されるものだったらしい。Yのふるまいが目に余る事態に発展するたびに担任だった三十代後半の運動好きな男性は職員室に二人を呼んだが、責め立てられるのはたいてい君のほうだった。拳に対しては拳をもって応えることが陰に陽に期待されていた。初めのうち君をかばっていた同級生たちも、君の不甲斐なさに落胆して干渉しなくなり、やがてあからさまな軽蔑の色を見せるようになっていった。それは彼ら自身の身を護るための手立てでもあったろう。ただし女子たちはいつも味方だった。Yと二人きりで殴られている時には何の感覚もないのに、女の子の目の前だとどうして水っぽい何かが君の瞳から溢れてきたのだろう。

五年生になると電車で遠くの町の学習塾に通い始めた。君が教室に入ると決まって三人の男子が一番後ろの列に陣取っていて、君がどこかに座ると直ぐに後ろに回り、授業のあいだじゅう君の背中をシャープペンシルの芯で突き続けるのだった。この時にも、服の背中に付着する黒鉛を家族が見つけて不信に思わないよう後でしっかり消しゴムで消しておこうという思いの外には、これという想念が湧いてくるわけでもなかった。

六年生から受験志向のより高い塾に移ったが、そこでも痛々しい事態が待っていた。家の近くには競輪場があって、開催日の駅のプラットホームは荒削りな風体のおじさんで溢れかえる。塾へ向かう道すがら、酒の匂いの漂うホームの縁にたたずんで近づいてくる電車を見つめながら、あと二、三歩足を前に踏み出したら数秒後にはどんなに楽になるだろうと想像した。午前零時に電灯を消して布団に潜り込む。かぎりなく優しくかつ享楽的な暗闇という泉の底で、君はあの贈りものを受けとったのだ。暴行を受けたり、その痕跡を隠す事に腐心したりしなくてもいいこの状態を尊ぶ気持ちの外には何の理由もなしに生じる恍惚に君は酔いしれた。眠りに就くのが勿体なくて仕方なかった。眠ってしまえば朝が来る。なるべく長く起きていようと努めつつも疲れきった神経は否応なく休息を要求し、夢に陥ればYの機械的な甲高い笑い声がこだました。半睡状態で闇からしたたる樹液を吸い取っている最中、どこからともなく大勢の笑い声やら耳をつんざく轟音が聴こえてくる事があって、そんな瞬間にはガバッと身を起こして意識が肉体から遊離するのを防がなければならなかった。一夜あけて目を醒ますと、忌まわしい陽光が燦然と頭上に降り注いでいる。

そろそろ塾の時間だね。最後に君に伝えておきたい。晩秋の雑木林の濡れ落ち葉のようにうず高く忍従を重ねる日々は、教室の壁に掛けられたプラスチックの数字板が3・2・6を示した日に幕を閉じるだろう。解放感に浸るのも束の間、翌月には横浜にある中高一貫男子校の入学式で、六年前と同じ戦慄を味わう事になる。今度こそ真っ平ごめんだと、僕はそれから三ヶ月経たないうちに通うのを止めてしまったよ。それは犬のふんを踏みそうになったとき宙に上げた足をとっさにずらすような行動だったが、これを境として僕はみずからの意思の所在をはっきり意識し始めるようになった。さっき僕は天災という言葉を使ったが、僕が君である頃は身の回りに生起するできごとを、一種の映画のように介入不可能なものとしてとらえていたような感じがする。ある人が言った。泳ぐことを憶えるためには、初めに溺れなければならないと。

塾まで送るよ。黄昏の路上を行き交う人々の仏頂面が、とても優しいものには見えないかい。誰からも危害を加えられずにいられるって、しあわせだね。さあ、誰よりも速く歩こう。学生服の一団を、派手な出で立ちのお姉さんを、手をつないで歩く恋人たちを、どんどん追い越して行こう。バスに乗るまでもない。靴底で地面を叩く音こそが僕らの笑い声だから。

2011年1月26日水曜日

詩人とその妻、地獄行 (大塚あすか書評)

詩人金子光晴の自伝である。三部作の一作目となる本書の前半には詩人としての低迷から妻との出会い、後半には夫婦で渡った海外での生活が描かれている。

詩集『こがね蟲』で文壇に認められたものの、その後詩作に行き詰まっていた金子は女学生森三千代と出会い恋に落ちる。燃えさかる恋情、妊娠と結婚。しかし蜜月は長く続かず、金子が上海に出かけている間に、彼女はコミュニストの学生と恋に落ちる。どん底の金子は愛なのかもわからぬ執着により三千代を引き止めようとするが、子供可愛さに体だけは家庭に留まりながらも、彼女の心は恋人を離れない。切羽詰まった金子は三千代が憧れるパリへ連れ出すことで妻と恋人とを引き離そうと試み、五年間にわたる海外漂流がはじまるのである。

日銭を稼いでは浪費し、人に金を無心してはまたそれを浪費する生活。渡航先でも食い詰めればポルノまがいの小説を闇で売りさばき、果てには素人絵で小銭を得るようになる。詩人への憧れもあって彼と一緒になった三千代にしてみれば、詩を書かぬ夫など話が違うわけで、理想主義の学生に惹かれる気持ちはわからなくもない。だが、三千代は離婚を選ばない。それどころか愛する子供を置いて金子と二人、十分な金銭もなしに海外へ向かうのだ。三千代の思考、行動には得体の知れなさが付きまとうが、「女の浮気と魅力とは背なか合せに微妙に貼付いていて、どちらをなくしても女は欠損する」という言葉そのままに、金子はますます三千代への執着を強くする。

手に手を取って地獄を生き抜く男女の姿は生々しくも美しく、地獄そのものすらグロテスクな美にあふれる。汗、食べ物、汚物の臭い。人の生きる臭いがぷんぷん漂う金子の感性、文章はまぎれもなく詩人のものであり、書けないあいだも彼がいかに詩人であったかが強く印象に残る。

『どくろ杯』とは、処女の頭蓋骨を切り、磨き、内側に銀を貼った杯である。その杯に魅入られるが買い取る金を持たないガラス職人。だったら自分で作れば良い、と軽い気持ちで口にした金子のもとを後日訪ねてきた彼は、自作のどくろ杯を携えていた。墓を堀り、処女らしき頭蓋骨を持ち帰り加工したのだが、それを部屋に置いて以来どうも心身が優れない。恐ろしがる彼に付き添い金子はどくろ杯を元の墓に戻しに行く。エロスと禍々しさに満ちたエピソードには、本書に一貫して流れる空気や色が濃縮されている。

(金子光晴『どくろ杯』中公文庫新版、2004年)

2011年1月20日木曜日

縁の下の力持ちたちの話 (大内達也書評)


ミミズの話である。小惑星探査機「はやぶさ」の話でも、ips細胞を基にした画期的再生医療の話でもない。雨上がりの歩道や釣り餌として見慣れた、あまり興味をそそられない生き物だ。ところが、本書を読むと、ミミズたちは驚くべき大きな仕事をし続けていることを知らされる。それも私たち人間の生活の直接かかわりのある大仕事を。

今から一七〇年以上前に、ミミズの偉業に着目した科学者がいた。チャールズ・ダーウィンである。彼はビーグル号の航海を終えると、『人間の由来』や『種の起源』といった大著の前に、ミミズの糞が表層土を盛り上げてゆく働きを目の当 たりにして、後に『肥沃土の形成』という本の基礎となる論文をロンドン地質学協会に発表している。

ダーウィンはミミズの糞、すなわちミミズが消化管内に取り込んで排出する土の量を一エーカー(約一二〇〇坪)当り年間一八トンと推計している。域内に五万匹以上のミミズがいるという計算だ。当時の科学者たちの多くがダーウィンのこの説を相手にしなかったが、今日の科最新科学では、一エーカー当り百万匹という数字が妥当とされ、ナイル川流域のミミズは一エーカー当り千トンもの豊穣な土を堆積させるという。土をより分けて腐敗しかかった有機物のかけらを捜し、土や砂粒とともに呑み込み、トンネルを掘って酸素と水の通り道を縦横無尽に形成してゆくという仕事のおかげだ。

著者は書く。「いつも家にいて、もっとも身近な自然を驚きをもって丹念に調べている酔狂なダーウィンの姿を想像するのが私は大好きだ。晩年の彼は、ときおり体力や気力に衰えを感じつつも、それまで広大な世界に向けていた科学的な関心を、わが家に、わが家の庭に、その土に向けたのだった」

今世紀に入って数回しか発見されていない巨大パルースミミズは体長六〇センチ以上にもなるという。ダーウィンが研究対象としたナイトクローラーという名のミミズも神秘的で興味が尽きない。こうしたミミズに魅せられた現在の科学者たちの取材談も楽しい。ミミズ・コンポストを発展させ、彼らの力を借りて、人間が出すゴミや排水を浄化して自然に戻そうとする研究も進んでいるという。ミミズの底力を知るのはまだまだ先の話だ。

(エイミィ・ステュワート『人類にとって重要な生きもの ミミズの話』今西康子訳、飛鳥新社、2010年)

2011年1月17日月曜日

岩井さやかの36冊

1974年生まれ。聖心女子大学文学部歴史社会学科卒業。卒業後、NHKに記者として入局。京都に赴任し、5年弱、事件記者などを務める。その後、演劇を志そうとNHKを退職し、流山児★事務所に入団。退団後もフリーの役者として小劇場を中心に活動を行うが妊娠、出産を機に演劇活動を休止、現在に至る。
言葉との距離感、言葉が普遍性を持つのはどんな時なのかに興味があります。昔は、芸術というものは足元が危い場所に立ちながらかろうじてバランスを保っている、そういう所からしか生まれないのではないかと思っていましたが、子育てを通じて、大地にしっかり根を下ろしたものから生まれ出てくる何かにより強く惹かれるようになりました。

1.考え方・感じ方・判断力の核をなす12冊
須賀敦子『地図のない道』(新潮社、1999年)
保坂和志『小説の自由』(新潮社、2005年)
フェルナンドペソア『ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選』(池上岑夫訳、彩流社・増版版1997年)
アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは』(須賀敦子訳、白水Uブックス、2000年)
川端康成『山の音』(新潮社、1957年)
ジョゼ・サラマーゴ『あらゆる名前』(星野祐子訳、彩流社、2001年)
野呂邦暢『夕暮れの緑の光——野呂邦暢随筆選』(岡崎武志編、みすず書房、2010年)
佐野洋子『問題があります』(筑摩書房、2009年)
パウロ・コエーリョ『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』(山川紘矢/山川亜樹子訳、角川文庫、2010年)
ナタリア・ギンスブルグ『ある家族の会話』(須賀敦子訳・白水Uブックス、1997年)
長田弘『死者の贈り物』(みすず書房、2003年)
神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房、2004年)

2.専門と呼びたい分野(魂の発露としての言葉、芸術(表現)と生活)の12冊
庄野潤三『前途』(講談社、1968年)
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(沢田直訳、思潮社、2010年)
ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』(高橋健二訳、新潮文庫、1971年)
中島敦『山月記・李陵』(岩波書店、1994年)
ポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸訳、新潮社、1996年)
矢内原伊作『ジャコメッティ』(みすず書房、1996年)
宇佐美英治『見る人』(みすず書房、1999年)
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(田辺保訳、筑摩書房、1995年)
清水眞砂子『幸福の書き方』(JACC出版局、1992年)
アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』(山田和子訳、岩波書店、2006年)
メイ・サートン『独り居の日記』(武田尚子訳、みすず書房、1991年)
篠田桃紅『桃紅 私というひとり』(世界文化社、2000年)

3.「現代性」を主題とする12冊
ジャック・ロンドン『火を熾す』(柴田元幸訳、スケッチパブリッシング、2008年)
内田樹『街場の現代思想』(文藝春秋、2008年)
加藤周一『日本人とは何か』(講談社、1976年)
岡本太郎『今日の芸術——時代を創造するものは誰か』(光文社、1999年)
鷲田清一『待つということ』(角川学芸出版、2006年)
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009年)
中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店、2010年)
佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010年)
上野千鶴子『女ぎらい——ニッポンのミソジニー』(紀伊国屋書店、2010年)
赤坂憲夫『排除の現象学』(筑摩書房、1995年)
向谷地生良『安心して絶望できる人生』(日本放送出版協会、2006年)
村上龍『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、2000年)