2011年1月31日月曜日

意想外な贈りもの (大洞敦史作文)

君にまた会えて嬉しいよ。丸みをおびて一見ひとなつっこそうな、よく見るとひどく冷めきったその顔つきを、この頃とんと見かけなくなり寂しく思っていた。元気にしているかい。まずは冷たいコーヒーで乾杯しよう。例のごとく一息で飲み干そう。僕たちはどうして熱いものが飲めないのかな。左足の水虫は治ったかい。僕ほど深く君を知る者は無い。今では共有するものもだいぶ少なくなったけれど。十五年前に君と知り合えていたらどんなに良かっただろう。あのころ君であった僕が、僕になる前の君に出会っていたら。

それにしても、この喫茶店も懐かしいなあ。星占いのおもちゃ、たまごっちで遊ぶ女子高生、野茂の活躍を称えるご隠居さん。BGMはセリーヌ・ディオン、時折どこかでポケベルが響く。ここは君にとって大人の生態を観察する格好の場所だった。互いに白じらしい無関心を装いながら周囲のおしゃべりに聞き耳を立てていられるのは喫茶店の醍醐味のひとつだろうね。

君が無口でいるのはなにも声変わりのせいばかりでないだろうけど、せっかくだから何か話そう。でも世間話にはお互い馴れていないから、僕らの間でしかできない話をしよう。そうだね、感情とその表出について考えてみようか。いったい人の感情は生得的なものなのか、それとも周囲との関係を通して獲得されていくものなのか? 僕は赤ん坊に接した経験がほとんど無いし心理学の素養も乏しいが、少なくとも幾つかの感情が後天的に消失される事は有りうるという実感をもっている。その証拠に僕らは、笑うことと怒ることが上手にできないだろう。何かを可笑しいと思う気持ちはあっても、それをどのように表出すべきかが、おそらくは六歳あたりから解らなくなったんだ。

すでに君の倍以上の時間を生きたはずの僕だが、うまく笑い声を発する自信は未だにない。作り笑いを浮かべるのにはだいぶ馴れてきたけれど、目が笑ってないねなんて冗談交じりに言われるたびにギクリとする。怒りに関して言えば、暴言を吐かれたり、暴行を加えられたりしても特にこれという反応は生まれないし。あるとすればそれは相手への同情で、当人の安寧を乱す厄介な情動が早く収まるようにとの願いだ。

そんな鈍感な僕だけど、かなり特殊な部類に属するであろう感情を味わう事がしばしばある。君はもう経験しただろうか、あの絶頂を? 僕はかつてシモーヌ・ヴェイユというフランス人の日記に、それと同様の体験が描写されているのを見出した。過酷な女工生活を送っていた彼女は、ある日バスのなかでこんな疑問をいだく。奴隷の身である自分が他の誰かれと同じ資格でバスに乗っていられるのはどういう訳だろう、と。そうして「何も手荒な扱いを受けず、何も辛抱しなくてよい瞬間があると、それがまるで恩恵のように思える。そういう瞬間は天から下ってくる微笑のようなもの、まったく意想外な贈りものなのだ」という心理に至るんだ。大きくうなづいているところを見ると、すでに君も味わったことがあるんだね。ではひとつ、例の「贈りもの」が僕らの上にもたらされた経緯を振り返ってみようか。

小学校の入学式は、夜の静寂を愛する君が初めて迎える日の出だった。これからの六年間すなわち今の僕にとっての四半世紀にも等しい歳月を、言葉もろくに通じない動物の群れと膝つき合わせて過ごして行かねばならない事を悟った時の戦慄と絶望は底が知れない。とはいえ担任の女教師の存在が厭世感をいくらか和らげてくれたし、心を許せる友もできた。草むらに足を踏み入れたり、大きめの石ころをひっくり返すと、彼らはいつでもそこにいた。君の鈍感な性格を最も直接に形作ったのは正に彼らではなかったろうか? 眼鏡をかけている事、姓の読みかたが父と異なる事、母親がいない事などが時にからかいの種になる事はあったが、四年生まではおおむね平穏に過ごしていたね。野球と、虫遊びと、叶うはずもない薄紅色の空想に明け暮れていた。

人間の友だちもいなかったわけじゃないが、五年生に上がる時のクラス替えで仲の良かったグループから君だけが取り残されてしまって以来、休み時間には机に両肘をついてぼんやりする事が多くなった。まもなく君は君と同じようにぽつんとしていて、同じように笑うことを知らないYという男子生徒から日常的に暴行を加えられるようになる。朝方教室に入ってから下校時帰り道の分岐点まで彼は執拗に君につきまとい、拳をふるった。授業の合間の五分休憩のたびに二、三十発は殴打されていたね。君はそれを天災のように受け止めていて、いかなる時にも徹底した無抵抗をもって答えたが、そうした態度は学校教育にとって危険視されるものだったらしい。Yのふるまいが目に余る事態に発展するたびに担任だった三十代後半の運動好きな男性は職員室に二人を呼んだが、責め立てられるのはたいてい君のほうだった。拳に対しては拳をもって応えることが陰に陽に期待されていた。初めのうち君をかばっていた同級生たちも、君の不甲斐なさに落胆して干渉しなくなり、やがてあからさまな軽蔑の色を見せるようになっていった。それは彼ら自身の身を護るための手立てでもあったろう。ただし女子たちはいつも味方だった。Yと二人きりで殴られている時には何の感覚もないのに、女の子の目の前だとどうして水っぽい何かが君の瞳から溢れてきたのだろう。

五年生になると電車で遠くの町の学習塾に通い始めた。君が教室に入ると決まって三人の男子が一番後ろの列に陣取っていて、君がどこかに座ると直ぐに後ろに回り、授業のあいだじゅう君の背中をシャープペンシルの芯で突き続けるのだった。この時にも、服の背中に付着する黒鉛を家族が見つけて不信に思わないよう後でしっかり消しゴムで消しておこうという思いの外には、これという想念が湧いてくるわけでもなかった。

六年生から受験志向のより高い塾に移ったが、そこでも痛々しい事態が待っていた。家の近くには競輪場があって、開催日の駅のプラットホームは荒削りな風体のおじさんで溢れかえる。塾へ向かう道すがら、酒の匂いの漂うホームの縁にたたずんで近づいてくる電車を見つめながら、あと二、三歩足を前に踏み出したら数秒後にはどんなに楽になるだろうと想像した。午前零時に電灯を消して布団に潜り込む。かぎりなく優しくかつ享楽的な暗闇という泉の底で、君はあの贈りものを受けとったのだ。暴行を受けたり、その痕跡を隠す事に腐心したりしなくてもいいこの状態を尊ぶ気持ちの外には何の理由もなしに生じる恍惚に君は酔いしれた。眠りに就くのが勿体なくて仕方なかった。眠ってしまえば朝が来る。なるべく長く起きていようと努めつつも疲れきった神経は否応なく休息を要求し、夢に陥ればYの機械的な甲高い笑い声がこだました。半睡状態で闇からしたたる樹液を吸い取っている最中、どこからともなく大勢の笑い声やら耳をつんざく轟音が聴こえてくる事があって、そんな瞬間にはガバッと身を起こして意識が肉体から遊離するのを防がなければならなかった。一夜あけて目を醒ますと、忌まわしい陽光が燦然と頭上に降り注いでいる。

そろそろ塾の時間だね。最後に君に伝えておきたい。晩秋の雑木林の濡れ落ち葉のようにうず高く忍従を重ねる日々は、教室の壁に掛けられたプラスチックの数字板が3・2・6を示した日に幕を閉じるだろう。解放感に浸るのも束の間、翌月には横浜にある中高一貫男子校の入学式で、六年前と同じ戦慄を味わう事になる。今度こそ真っ平ごめんだと、僕はそれから三ヶ月経たないうちに通うのを止めてしまったよ。それは犬のふんを踏みそうになったとき宙に上げた足をとっさにずらすような行動だったが、これを境として僕はみずからの意思の所在をはっきり意識し始めるようになった。さっき僕は天災という言葉を使ったが、僕が君である頃は身の回りに生起するできごとを、一種の映画のように介入不可能なものとしてとらえていたような感じがする。ある人が言った。泳ぐことを憶えるためには、初めに溺れなければならないと。

塾まで送るよ。黄昏の路上を行き交う人々の仏頂面が、とても優しいものには見えないかい。誰からも危害を加えられずにいられるって、しあわせだね。さあ、誰よりも速く歩こう。学生服の一団を、派手な出で立ちのお姉さんを、手をつないで歩く恋人たちを、どんどん追い越して行こう。バスに乗るまでもない。靴底で地面を叩く音こそが僕らの笑い声だから。

2011年1月26日水曜日

詩人とその妻、地獄行 (大塚あすか書評)

詩人金子光晴の自伝である。三部作の一作目となる本書の前半には詩人としての低迷から妻との出会い、後半には夫婦で渡った海外での生活が描かれている。

詩集『こがね蟲』で文壇に認められたものの、その後詩作に行き詰まっていた金子は女学生森三千代と出会い恋に落ちる。燃えさかる恋情、妊娠と結婚。しかし蜜月は長く続かず、金子が上海に出かけている間に、彼女はコミュニストの学生と恋に落ちる。どん底の金子は愛なのかもわからぬ執着により三千代を引き止めようとするが、子供可愛さに体だけは家庭に留まりながらも、彼女の心は恋人を離れない。切羽詰まった金子は三千代が憧れるパリへ連れ出すことで妻と恋人とを引き離そうと試み、五年間にわたる海外漂流がはじまるのである。

日銭を稼いでは浪費し、人に金を無心してはまたそれを浪費する生活。渡航先でも食い詰めればポルノまがいの小説を闇で売りさばき、果てには素人絵で小銭を得るようになる。詩人への憧れもあって彼と一緒になった三千代にしてみれば、詩を書かぬ夫など話が違うわけで、理想主義の学生に惹かれる気持ちはわからなくもない。だが、三千代は離婚を選ばない。それどころか愛する子供を置いて金子と二人、十分な金銭もなしに海外へ向かうのだ。三千代の思考、行動には得体の知れなさが付きまとうが、「女の浮気と魅力とは背なか合せに微妙に貼付いていて、どちらをなくしても女は欠損する」という言葉そのままに、金子はますます三千代への執着を強くする。

手に手を取って地獄を生き抜く男女の姿は生々しくも美しく、地獄そのものすらグロテスクな美にあふれる。汗、食べ物、汚物の臭い。人の生きる臭いがぷんぷん漂う金子の感性、文章はまぎれもなく詩人のものであり、書けないあいだも彼がいかに詩人であったかが強く印象に残る。

『どくろ杯』とは、処女の頭蓋骨を切り、磨き、内側に銀を貼った杯である。その杯に魅入られるが買い取る金を持たないガラス職人。だったら自分で作れば良い、と軽い気持ちで口にした金子のもとを後日訪ねてきた彼は、自作のどくろ杯を携えていた。墓を堀り、処女らしき頭蓋骨を持ち帰り加工したのだが、それを部屋に置いて以来どうも心身が優れない。恐ろしがる彼に付き添い金子はどくろ杯を元の墓に戻しに行く。エロスと禍々しさに満ちたエピソードには、本書に一貫して流れる空気や色が濃縮されている。

(金子光晴『どくろ杯』中公文庫新版、2004年)

2011年1月20日木曜日

縁の下の力持ちたちの話 (大内達也書評)


ミミズの話である。小惑星探査機「はやぶさ」の話でも、ips細胞を基にした画期的再生医療の話でもない。雨上がりの歩道や釣り餌として見慣れた、あまり興味をそそられない生き物だ。ところが、本書を読むと、ミミズたちは驚くべき大きな仕事をし続けていることを知らされる。それも私たち人間の生活の直接かかわりのある大仕事を。

今から一七〇年以上前に、ミミズの偉業に着目した科学者がいた。チャールズ・ダーウィンである。彼はビーグル号の航海を終えると、『人間の由来』や『種の起源』といった大著の前に、ミミズの糞が表層土を盛り上げてゆく働きを目の当 たりにして、後に『肥沃土の形成』という本の基礎となる論文をロンドン地質学協会に発表している。

ダーウィンはミミズの糞、すなわちミミズが消化管内に取り込んで排出する土の量を一エーカー(約一二〇〇坪)当り年間一八トンと推計している。域内に五万匹以上のミミズがいるという計算だ。当時の科学者たちの多くがダーウィンのこの説を相手にしなかったが、今日の科最新科学では、一エーカー当り百万匹という数字が妥当とされ、ナイル川流域のミミズは一エーカー当り千トンもの豊穣な土を堆積させるという。土をより分けて腐敗しかかった有機物のかけらを捜し、土や砂粒とともに呑み込み、トンネルを掘って酸素と水の通り道を縦横無尽に形成してゆくという仕事のおかげだ。

著者は書く。「いつも家にいて、もっとも身近な自然を驚きをもって丹念に調べている酔狂なダーウィンの姿を想像するのが私は大好きだ。晩年の彼は、ときおり体力や気力に衰えを感じつつも、それまで広大な世界に向けていた科学的な関心を、わが家に、わが家の庭に、その土に向けたのだった」

今世紀に入って数回しか発見されていない巨大パルースミミズは体長六〇センチ以上にもなるという。ダーウィンが研究対象としたナイトクローラーという名のミミズも神秘的で興味が尽きない。こうしたミミズに魅せられた現在の科学者たちの取材談も楽しい。ミミズ・コンポストを発展させ、彼らの力を借りて、人間が出すゴミや排水を浄化して自然に戻そうとする研究も進んでいるという。ミミズの底力を知るのはまだまだ先の話だ。

(エイミィ・ステュワート『人類にとって重要な生きもの ミミズの話』今西康子訳、飛鳥新社、2010年)

2011年1月17日月曜日

岩井さやかの36冊

1974年生まれ。聖心女子大学文学部歴史社会学科卒業。卒業後、NHKに記者として入局。京都に赴任し、5年弱、事件記者などを務める。その後、演劇を志そうとNHKを退職し、流山児★事務所に入団。退団後もフリーの役者として小劇場を中心に活動を行うが妊娠、出産を機に演劇活動を休止、現在に至る。
言葉との距離感、言葉が普遍性を持つのはどんな時なのかに興味があります。昔は、芸術というものは足元が危い場所に立ちながらかろうじてバランスを保っている、そういう所からしか生まれないのではないかと思っていましたが、子育てを通じて、大地にしっかり根を下ろしたものから生まれ出てくる何かにより強く惹かれるようになりました。

1.考え方・感じ方・判断力の核をなす12冊
須賀敦子『地図のない道』(新潮社、1999年)
保坂和志『小説の自由』(新潮社、2005年)
フェルナンドペソア『ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選』(池上岑夫訳、彩流社・増版版1997年)
アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは』(須賀敦子訳、白水Uブックス、2000年)
川端康成『山の音』(新潮社、1957年)
ジョゼ・サラマーゴ『あらゆる名前』(星野祐子訳、彩流社、2001年)
野呂邦暢『夕暮れの緑の光——野呂邦暢随筆選』(岡崎武志編、みすず書房、2010年)
佐野洋子『問題があります』(筑摩書房、2009年)
パウロ・コエーリョ『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』(山川紘矢/山川亜樹子訳、角川文庫、2010年)
ナタリア・ギンスブルグ『ある家族の会話』(須賀敦子訳・白水Uブックス、1997年)
長田弘『死者の贈り物』(みすず書房、2003年)
神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房、2004年)

2.専門と呼びたい分野(魂の発露としての言葉、芸術(表現)と生活)の12冊
庄野潤三『前途』(講談社、1968年)
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(沢田直訳、思潮社、2010年)
ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』(高橋健二訳、新潮文庫、1971年)
中島敦『山月記・李陵』(岩波書店、1994年)
ポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸訳、新潮社、1996年)
矢内原伊作『ジャコメッティ』(みすず書房、1996年)
宇佐美英治『見る人』(みすず書房、1999年)
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(田辺保訳、筑摩書房、1995年)
清水眞砂子『幸福の書き方』(JACC出版局、1992年)
アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』(山田和子訳、岩波書店、2006年)
メイ・サートン『独り居の日記』(武田尚子訳、みすず書房、1991年)
篠田桃紅『桃紅 私というひとり』(世界文化社、2000年)

3.「現代性」を主題とする12冊
ジャック・ロンドン『火を熾す』(柴田元幸訳、スケッチパブリッシング、2008年)
内田樹『街場の現代思想』(文藝春秋、2008年)
加藤周一『日本人とは何か』(講談社、1976年)
岡本太郎『今日の芸術——時代を創造するものは誰か』(光文社、1999年)
鷲田清一『待つということ』(角川学芸出版、2006年)
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009年)
中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店、2010年)
佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010年)
上野千鶴子『女ぎらい——ニッポンのミソジニー』(紀伊国屋書店、2010年)
赤坂憲夫『排除の現象学』(筑摩書房、1995年)
向谷地生良『安心して絶望できる人生』(日本放送出版協会、2006年)
村上龍『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、2000年)

2011年1月14日金曜日

第三回例会のご報告+ご連絡 (大洞敦史)

読み書きクラブの皆様、明けましておめでとうございます。

本日の参加者は15名。作文では辻井潤一さんと大内達也さんの作品を、書評では大西智道さんと岩井さやかさん(初参加)の作品を取り上げ、活発な議論を交わしました。

以下にお知らせを記します。

1.次回(2月10日19時〜)は大洞が参加できませんので、次回分の課題は管先生に直接ご提出ください。メールアドレスは poeticsアットマークe-mail.jp です。

2.今後は書評だけでなく、作文もブログに掲載させていただきたいと思います(注)。

3.今後はお好みでペンネームをお使いいただけます。ご希望の方は大洞までお知らせください。

4.会員数は只今25名です。人数が増えるほど例会で作品をとりあげる機会が少なくなる事もあり、一旦新規のお申し込みを締め切らせていただきます。沢山のお申し込みをどうもありがとうございました。半年ほど経ちましたら、新たに若干名の募集を行う予定です。


注......プライバシーの問題もあります事から、必ず個別にご承諾を得てから掲載します。後ほど大洞より詳細をメールでお知らせいたしますので、ご一読ください。

2011年1月12日水曜日

境界を越えて生きるためのガイド (近藤早利)

我が国の医療の現場は崩壊の危機に瀕している。医師、看護師が担当すべき患者の数、業務の量は増えるばかりで、長時間勤務が常態となっている。医療従事者の教育・評価・人事システムは歪んでいて能力ある者が伸びていけない。患者は「怪物化」し、時には医療従事者に暴力を振るって恥じるところがない。医療事故が起きれば、医師や看護師がマスメディアから人格攻撃を受け、賠償金請求の被告となり、犯罪者として逮捕されることさえある。そうした事態を生んだシステムの問題は放置され、誰もが不測の事態の当事者となる不安から免れえない。こうして、医療の現場で、志気を失い、病み、突然職場を去っていく者が後を絶たない。現役の臨床医である著者は、多くのデータやエピソードを紹介しながら、このような事態を明らかにする。

どうしてこんなことになってしまったのか。

死は確実であり、医療のプロセスと結果は常に不確実だ。医療には限界がある。

このことは、誰もがわきまえるべきことだが「消費者」の考えはちがう。「同じ対価を支払って結果が異なるのは不当だ。治らないのも死んだのもサービスに問題があるからだ。サービス提供者は責任を取れ。」報道機関もこの考えに異を唱えない。司法は、科学的思考能力を欠いているのに、その自覚なく医療従事者を裁く。筆者は実例を挙げつつ、医療行政、病院経営者、マスメディア、犯罪捜査機関、弁護士、裁判所、市場原理至上主義などを批判する。

では、どうすればいいのか。

問題は、我々の「豊かな」生活を支えるシステムに内在するものだ。すぐに効く処方薬があるはずもない。深刻な危機は歴史的転換点になりうることを信じ、リアリズムに立脚して思想の問題に取組み、我々がどこから来てどこへ行こうとしているのかという歴史の視点に立った根本的な改革案を組み立ててゆくほかないと、筆者は説く。

本書は肺腑を抉る慨世の書であるが、そこに留まってはいない。筆者の議論は「医療の限界」を跳躍台として、死に関する思想と哲学、宗教、英米や開発途上国との比較、教育の本質、経済思想などにも及ぶ。

専門を持ちつつ開かれた精神を持つとはどういうことなのか、どのページを開いても、その実例に出会うことができる。

新書版にして220頁のこの小さな本を、私は、職業の檻から抜けだし、時代と国境を越えて、正しく生き、働き、発言するためのガイドとして読んだ。

(小松秀樹『医療の限界』新潮社、2007年)

2011年1月9日日曜日

実はエビとぼくのつき合いは古かった (安西洋之)


中学生の時だった。会話は都内から横浜に向かう電車のなかで始まった。相手は父親と同じような年齢のビジネスマンで、頻繁に海外に出張していた。短い出会いだったが、それを機会に手紙のやりとりがスタートした。多分、「夢ある少年」に外国に郵便を送る楽しみを教えてくれようとしたのだろう。赤と青の枠の封筒に極端に薄い便箋を使った文通は高校時代まで続いた。 

手紙は台湾からだった。やり取りの中で、彼が日本にエビを輸入する商売をしていることがわかってくる。ぼくは台湾にもエビにもあまり興味がなく、ただ、達筆で描かれたビジネスマンの活気のようなものに心が躍っていたはずだ。彼の存在は、外国をよりリアルに近づけただけでなく、起業家精神を身近なものにしたと思う。 

「1980年代中ごろから後半にかけ、台湾は日本向けエビ輸出の最大の供給を誇った」という本書のくだりを読み、「あっ!」と叫んだ。 1975年、冷凍エビの国別輸入量で台湾は番外だったが、1987年、台湾は圧倒的な一位。ぼくが、かのビジネスマンに電車のなかで会ったのは、1973年。これからは台湾だ!とエビ田の開拓に走り回っていたのではないかと、40年近くたって気づいた。あの熱気は、こういうことだったんだ、と。 

しかし、1989年に再び台湾はランキングの埒外へ。状況の急変は、「病気の発生とヘドロの堆積が、エビ田に使った西海岸を次々と死滅させていったからに他ならない」。「エビの養殖は、脂肪分や栄養剤をふくむ飼料や、特有の病気を防ぐための薬を大量にたんぼに投入する。そのため、エビ田の水と土地はひどく汚染され、たんぼの底にはヘドロ状の土が堆積していく。 5-6年間エビの養殖を続けると、その土地は『死んでしまう』といわれるほどである」。 

かつて、エビは贅沢品だった。経済景気とエビ消費量の間には密接な関係がある。アジア各国政府は外貨稼ぎのためにエビ養殖に力を入れた。そこには暗部もあった。台湾で起きた環境汚染はタイでも起きた。エビ田で汚染されたたんぼの水を取り入れた、「水田・果樹農民の田畑が汚染され、被害は広範な地域に拡大していく。現在、エビ養殖農民と水田農民、沿岸農民のあいだで流血の争いが生じているのは、まさにそのためであった」。

 1990年頃の話だ。あのビジネスマンは既に引退していたのだろうか。

(末廣昭『タイ 開発と民主主義』岩波新書、1993年)

2011年1月7日金曜日

高いところで待つこと (向坊衣代)

肘をついて、ぼんやりと、高いところから夜のあかりを眺めるひとびと。

「超然」と聞くと、そのような情景が目に浮かぶ。高いところにいるとものごとは見えるようで見えない。近づいてみると小さく見えたものが実は大きかった り。本当は小さくて見えないものの集積の中に、世界はできあがっているのだ。しかし、高みからものを見て、知っているような気になっている超然な彼らは、 言葉や知識でしかそれらを知ることができない。(でも、じゃあ何を持ってすれば、それが「見える=わかる」のだろう?)

「妻」と「下戸」と「作家」。三者の立場で描かれた「超然な人たち」から見た世界を描いた3つの短編から成るこの本には、絲山秋子という作家の持つ優しさ と冷たさが同居していると思う。それを一言で言うのなら「ハードボイルド」という少々使い古された言葉が一番似合う。それは、強さのことであり、優しさの ことであり、距離感についての言葉だ。誰でもないわたしがそこにいて、誰かと会い、別れていくが、わたしはわたしでいるしかない。そのようなことだ。

小説の作者としての彼女は、その気持ちや情景をあくまでドライに描き、時にはユーモアで優しく包もうとする。しかし、最後の「作家の超然」では、その姿が 激しくゆらいだ気がした。手術のため入院し、誰とも距離をおいて付き合う、作家である主人公を「おまえ」と呼び続ける書き手の姿に、「これは私小説ではな いのだから」と思いつつも、どうしても作家そのひとを重ねてしまった。文中の「ひとりで生きて、ひとりで死んでいくのは、もっとさびしいものだと思ってい た」という台詞、ラストシーンの力強くも荒涼とした風景。それら、ひとつひとつがあまりにも正直すぎて、真摯すぎて、赤裸々すぎて、わたしはなんだかとて もいたたまれなくなった。かつて、小林秀雄が徒然草の作者の兼好法師を「見えすぎる人」と評したように、彼女もまた「見えすぎる人」の一人なのかもしれないと思った。

物語の最後で、作家である「おまえ」は、文学の終わりを想像する。全ては分解されて、断片となり、消え失せていく文学の先に現れるもの。それを「おまえはただ待っている」。

待ちくたびれたその先に見えるものが何なのか。多分、その答えはいつかの物語に現れるのだろう。

わたしはそれを待っている。

(絲山秋子『妻の超然』新潮社、2010年)