2012年1月21日土曜日

52歳、今日も走れば行き倒れ(Chiara作文)

「52歳です!」自己紹介はこう決める。
あとの言葉は、TPOでいろいろだけど、出だしは変わらない。


「52歳」――なんか文句ありまっか。

52歳には見えない、という自負がある。出かけるときには鏡の前で右腕を天高く揚げ、ガンダムポーズで(上石神井駅前のガンダムはそうしている)、「きょうもイケテル52歳!」と気合をいれる。肩関節も抜けそうに張り切る母に娘は目を細めて、「きょうもアブナイ52歳」とつぶやき背中を向ける。液化窒素のように冷たいわが子の言葉も、鋼鉄の50肩で跳ね返す。ときに弛んだ二の腕に突き刺さり、激痛に跳びまわることもないわけではない。

女子高生の娘の友達も「お母さん、わっかーい!」と言ってくれる。ただし、それはあまりうれしくない。若い、という言葉が年配者に向けられるときには、未熟とか頭が足りていない、のと同義語だからだ。若い人に「ワカイ!」と言うときは、無限の可能性と光り輝く前途を意味するが、年寄りに向けられるときには憐憫の情が籠められている。

見た目は若いが中身は濃い、と信じている。だから、若い、のではなく、若ヅクリと言ってほしいと思っている。若ヅクリという言葉には美人というニュアンスもなんとなくあるような気がする。

美人という修飾語も一番聞きたかった20代には縁がなかった―と寂しく思う。50代にもかかわらず見苦しいほど張り切っているのは、その時代への復讐をしているのかもしれない。

復讐。女の復讐心ほど怖いものはない。ひと頃女の井戸端会議を盛り上げたアンアンの「抱かれたい男」ランキング。リストを前に、40女の復讐心はいやが上にも燃え盛ったものだ。不遇な20代を過ごした女ほど、その刃は鋭く光った。

キムタクが一位? 美しくセクシーにして愛らしく男っぽい、これ以上何を望もうか。しかし中年女の刃は、一位と評された男を前に更に鋭く研がれ、光り輝くその剣には一点の曇りとてない。「ナルシストよね、絶対。うんともすんとも動かないわね。よって却下。」と天下の美男子を切り捨てる。かくして女は雲の上の男を一気に地に落とすことに溜飲を下げ、5段にまで行きついた己の腹回りはちらともその頭をかすめない。

魅力が衰えれば衰えただけ、内なるエネルギーは沸き上がり、毒舌は火を噴く。それが女と言うものだ、と周囲を見ながらそう思う。

アンアンも「抱かれたい男」ランキングをしなくなり、あれから10年、熟年女の喧嘩の売り先も先細ってきた。
「最近のキムタク、眼の下のタルミ気にならない?」
「撮影前は、彼のコラーゲン注射待ちだって、この間どっかで読んだわ。」
「いやだーそんなの気にしないで~。キムタクはキムタクよ。弛んでも緩んでもキ・ム・タ・ク。」
かくして、かつての敵キムタクでさえ同朋に招き入れ、熟年女はとどまることを知らずに増長する。


熟年女も、すっかり世間に厭われる存在になってはじめて、行く末を思いながら来し方を振り返る。思えばここ10数年、上り調子とは言えなくなった。

35歳を超えたときには、言語能力の衰えを感じた。それ以降、新しい言語はなかなか頭に入らなかった。イタリア語は、動詞がイタリア男のように好き勝手に活用するのを知ったその日にお暇を取らせていただくことにした。アラビア語は端からやる気なし。必要あって古代ギリシャ語に取り組んだ時には、動詞が48通りにも活用するのを知り、「しまった、イタリア語のが楽勝だった」と匙を投げた過去に臍をかんだが時はすでに遅し。50代にして向き合った韓国語は、愛するヨンサマの言葉、今度こそは石が砕けるまで齧りついてやる、と固い決心で数十冊の教科書を買いこんだが、どの本も最初の数ページで挫折した。

衰えていくのは脳ばかりではない。40歳を迎えたときには明らかな体力の衰えを感じた。坂道を駆け足で上がれば、あっという間に心臓はあぶり始めた。上を向いて、前を向いて、気持ちは向いても体は重力に引き摺り下ろされ、行く手を見る前に転ばぬ先の杖を探す。


脳にも体力にも限界を感じ、45歳になって人生を諦めた。もがいても無駄、と潔く諦める人生観が身に着いた。

50歳を越えた今、そろそろと終い支度にかかっている。脳卒中、脳梗塞、心臓発作、がん、あの世に辿り着くにはどれがいいかと悩みつつ、食生活も理想的な最期に向かってそれに倣う。やっぱり心臓発作であっという間にぽっくり、というのが誰もの願い。毎日せっせと鶏手羽と豚バラを食す。コラーゲン摂取でお肌はツヤツヤ、でも、日々脂肪は血管にへばりつく。

最高の最期が望めそうだ。


「52歳、今日も走るぞ」と勢いこめばぎっくり腰で一歩も進めない。そこらで野垂れ死ぬのはまっぴらごめん。そろそろペース配分考えようか。