2012年6月13日水曜日

<昭和>を思い出しているとき(原 瑠美 作文)


昭子の父はたしか材木問屋をしていて、商いを広げようとしたのか、氷砂糖を輸入していたころがあったという。そのころは氷砂糖なんて知っている人はあまりいなかった。昭子はその味をずっとおぼえていた。大人になると雀荘を経営したが、象牙の牌は生活のためにぜんぶ売らなければならなかった。そうやって女手ひとつで三人の子どもを育てた。いちばん上の男の子が私の父だ。

和子の母は広島で芸者をしていた。やくざの玉造にみそめられ、三人の娘を連れて大阪にやってきた。玉造は枚方に山を買い、頂上に屋敷を建て、夜な夜な酒をはった池に祇園の芸妓たちを乗せた船を浮かべてあそんだ。かと思えば食べるものにも着るものにも困る日があった。そんな浮世離れした生活を取材しにやってきた新聞記者と、和子は結婚した。夫に先立たれると寝る間もおしんで勉強して不動産業の資格を取り、ふたりの娘を育てた。上の娘が私の母だ。

〈昭和〉というと思い出すのはふたりの祖母のことばかりだ。ふたり合わせて「昭和」、なんて単純な言葉あそびに運命を感じるだけでなく、私にとって昭和は彼女たちの人生とかさなって意味を持っている。私が三つのときに亡くなった和子の一生は昭和にすっぽりおさまっているし、高校生になる直前まで家にいて面倒をみてくれた昭子も、よく昭和の時代の話を聞かせてくれた。

もっと話を聞きたかった、と思う。戦時中、昭子は道ばたで米軍の小型機にねらわれて、岩のうしろに隠れたけれど逃げ場がない。もうどうにでもなれとあきらめて、さあ撃てとばかりに岩の上にのぼって大の字に寝てみたら飛行機はしばし沈黙して去っていったと言う。もんぺの女と黒っぽい飛行機、見つめ合うふたり。小さいころから何度も聞いているうちに、私は物陰から一部始終を見ていたかのように、その様子をありありと思い浮かべることができるようになった。

ある夜、まだ若かったころ、昭子はお姫さまになる夢を見た。あんみつ姫みたいに(たぶん私にわかりやすいように当時はやっていたアニメの例を出してくれたのだろう)かわいい髪飾りをたくさんつけたお姫さまだ。おそらく着物は赤、派手な帯をしめてかごに乗って街へでかけるところだった。「おそらく」というのは、残念なことにその夢は白黒だったからだ。せっかく晴れ着を着たのにその色を想像するしかないなんて、と昭子はその話をするたびにくやしがっていた。もしもカラーで夢を見ていたら、着物のことやかご屋のことをもっと詳細に聞けたにちがいない。私もくやしかった。

和子との思い出はずっと少ないが、それゆえに小さな出来事のひとつひとつがなにか重大な事件のように、鮮烈な印象を残している。ワイン色のちゃぶ台でふたりで絵を描く、ワゴン車の助手席のチャイルドシートに乗せてもらって出かける、京阪電車の車内でふざけて首にしがみつく。どれも短い、無音の映像として思い出される。言葉をおぼえる前の記憶だろうか。あるいは小さい頃の写真を見たり話に聞いたりしたことを、自分の記憶だと思い込んでいるだけかもしれない。

和子はよく、「カモナマイハウス」をくちずさんでいたらしい。日本では江利チエミの「家へおいでよ」としてヒットした曲だ。しかしその歌詞を聞くとどうもおかしい。気の抜けた調子で「カツレツ十五銭ビフステーキハムサラダエビのフライは時の相場・・・」と延々と食べものの名前とその値段を列挙したあとで、とってつけたように「カモナマイハウス、マイハイハーウス」と二回繰り返すのだ。替え歌だったのかもしれない。なににせよもう調べようがない。和子の自作だったらすごいなあと思う。

明治生まれの曾祖母がまだまだ元気なころに祖母たちは亡くなった。昭和の女は苦労ばかりしたから、と言う人がいた。そうかもしれない。父や母は暗い昭和から抜け出そうと、前へ前へと進んだ。しかし私は無責任に、ランダムに、〈昭和〉を思い出す。

私は和子を悲しませた。入院先の病院に見舞いに行ったとき、何日か前までべったりくっついていた私が妙にもじもじしているので、「もう忘れてしもたんやなあ」とさみしそうにしていたと聞く。私は昭子も悲しませた。脚が痛いからと椅子に座ってこたつにあたるので布団が持ち上がり、つい「寒いやん」と言ってしまった。昭子は「ごめんな」と言ってうつむいていた。昭和よ、ごめん。

昭子が名前を書くところを何度も見た。郵便局についていくと、ちょうど私の目の高さにある台の上でなにかの用紙にせっせと記入している。私と同じ名字の下に続けられる、私の名前とは全くちがう二文字。「昭和」と書きそうだけどちがう。保険や新しい預金口座の申請で、書きまちがえたら大変だ。昭子の名前は機能を持っていた。その名前を書くと大人の世界がまわる。手続きが進む。しかしいまはかつての力を失って、名前はひっそりと記憶をとじこめている。