2011年3月8日火曜日

三浦さんと猫 (岩井さやか作文)

チュウちゃん、その街の人たちは三浦さんの事をそう呼んでいた。「三浦さんの名前って忠吉っていうの?」「なんで?」「だってみんなチュウちゃんって」「又雄」「え?」「だから三浦又雄が名前」「じゃあなんでチュウなの?」そう問いかけると三浦さんはちょっと恥ずかしそうに俯いて「アル中だからな」と言った。

台東区の小さな街にその店はある。名前は幸楽。中華料理屋である。十人も客が入れば一杯の小さな店だ。同じ名の店を舞台にしたドラマが流行るずっと前からその名で営業している。そこに山谷から通ってくるのがチュウちゃんこと三浦さんだった。最初幸楽でバイトをしていたのは劇団の同期のエミちゃんだった。エミちゃんはよくその店に通う街の人たちのことを面白おかしく話してくれた。ある日、彼女が旅公演に出かける事になって、その間のピンチヒッターに私を指名した。最初、耳を疑った。二十代も終わりという頃に劇団に入団した私は、年下の先輩や同期が憐れむほどのぶきっちょだった。珈琲を淹れればサーバーを割る、飲みの席ではビール瓶を倒す。私に飲食店の仕事なんて頼んで大丈夫なのだろうか。「ね、おとーさんは超いい人だし、昼の忙しい時間だけだからお願い」エミちゃんはなかなかしつこかった。店に集う人達に興味があった。取り分け彼女が「超かわいい、でもシャイだからなかなか仲良くなれない」という三浦さんに私は会ってみたかった、それで引き受けることにした。

三浦さんは、いつも十一時過ぎに自転車でえっちらこっちらその街にやってきた。晴れている日は大抵、軒を分け合っている隣の電器屋(といっても電化製品が置いてあるわけではなく電気工事が主な仕事)のトラックの荷台に座っている。そして正午、幸楽の忙しさはピークを迎える。七人掛けのカウンターは満席になり、二つある小さなテーブル席も満席になり、歩道に勝手に出した四人掛けのテーブル席も埋まる。調理場にはおとーさんとそれをサポートするおかーさん、そしてカウンターの外側に私が陣取る。私の役割はレジと、配膳、汚れた食器を下げるといった所だ。ところが店が満員状態になると食器を片づけるという作業が難しくなる。水場のある調理場と店の境はカウンターで仕切られていて、更にカウンターの半分以上は油が客に飛び跳ねないようにガラスで覆われているから受け渡しできる場所は限定されている。そこにずらっとお客が並んでいるからだ。人の肩と肩の間からラーメンやレバニラを受け取りお客の前に運ぶのだが、出来上がった料理が頭上を通るならまだしも汚れた皿が頭上を通過していくのは余り気分のいい事ではない。そうするとおとーさんから「外にお願い」と声が掛る。外に並んでいる客を横目に通り過ぎ、店の裏側の歩道部分に汚れた皿を並べていく。歩道にずらっとお皿が並んだ時が三浦さんの出番だ。三浦さんはのそのそとトラックの荷台から降り、店の裏に回って残飯をバケツに入れ洗剤水を張ったもう一つのバケツに皿をつけてゆすぐ。そしてざっと濯いだものを裏の勝手口からおかーさん担当の洗い場まで運ぶのだ。そして二時頃、店から客がほぼいなくなると三浦さんは空いた店の中に腰掛けて、ビールを開ける。おとーさんはつまみに冷奴や、漬物を出してあげる。特に手伝う事で三浦さんがお駄賃をもらっている様子はなかったし、ビール代もきちんと払っているようだった。十四時過ぎたら私も店のメニューから好きなものを賄いとして注文していい事になっていた。バイトの初日、私がテーブル席でご飯を食べていると、カウンターの三浦さんがちらっとこちらを振り向いて「飲むか」と聞いた。それで少しご相伴に預かることにしたら、それからバイトの度に昼間から三浦さんと飲むことになった。つまみの好みが似ていると知って気をよくしたのか、よくどこかから豚足やホヤ貝を仕入れてきておとーさんに「さやかちゃんと飲むときに出して」と渡していた。私はそれから二年余り幸楽で働いた。

三浦さんはこちらの話をうんうんといつまでも聞いてくれる。芝居の稽古でうまくいかない話、憧れているずっと年上の役者の話、いつも微かな笑みを湛えながら聞いてくれた。でも自分のことは、こちらの質問にぽつぽつと答える程度で余り話さない。粘り強く聞いてわかった話はこうだ。三浦さんは十代後半で秋田から集団で出てきた、いわゆる金の卵と呼ばれた人達の一人だ。最初は左官屋さんの丁稚奉公をしていたが厳しくて逃げだしてからは職を転々とした。山谷の鈴本荘という簡易宿泊所に二十年以上住んでいて生活保護を受けている。所帯を持ったことは一度もない。この街に通うようになったのは十年くらい前からで、どこかの現場でこの街の工事を仕切る頭に会って、頭から時々仕事をもらうようになったからだ。チュウちゃんというあだ名をつけたのも頭だった。頭は時々、店のガラス戸を勢いよくあけて「おい、チュウはいるか」と言った。堅気には見えない、声が異様にデカイ人だ。それから三浦さんは秋葉原の病院に定期的に通っていた。肝臓に癌があり、肝硬変も起こしているらしい。だから最近は頭の仕事も余り手伝えないらしかった。そうは言っても、お酒をやめようなどとは露とも考えていないようだった。三浦さんはぽっちゃりとしていたし頬もピンクがかっていたので余り悲壮感が漂ってなくて、癌だと聞いてもつい半信半疑になってしまったが「来年の桜を見る前におっ死ぬな」が三浦さんの口癖だった。ある時、三浦さんに好きな花を尋ねたらおとーさんが「菊だろ」と冗談を言った。この街の人達はそうやって近づきつつある三浦さんの死をちゃかすことでその日を引き伸ばせると考えている節があった。三浦さんは恥ずかしそうに「アヤメ」と答えた。ちなみに好きな映画は寅さんだ。そんな三浦さんをおとーさんはよく「無法松」に喩えた。

ある小雨の降る日、近所に集金に出かけたおとーさんが近くの公園で子猫が濡れそぼっているのを見つけた。それを聞いて私もすぐ見にいくと確かに小さな猫が木の傍でうずくまり、近づくとすり寄ってきた。哀れだとは思ったがバイト中だったし、当時私たち夫婦は千駄木のぼろアパート暮らしでペットも禁止だった。仕方がないと思った。小雨の中小走りに戻ってきた私を見て三浦さんが「どうしたの?」と聞くので子猫がいたと告げると彼もふらふら見にいった。暫くしたら戻ってきて「いなかった」と言う。「嘘、大きな木の下だよ、いるよ」と言ったら今度は自転車でよろよろ見に行った。三浦さんが自転車を押して戻ってきたので「いたでしょ?」と尋ねると、彼は前籠を指差した。小さな猫が震えていた。雨は直に止んだが風の強い日だった。三浦さんはトラックの荷台に段ボールで風除けを作って一生懸命その子猫を守っていた。「どうするの、鈴本荘で飼えるの?」と聞くと情けない目でこちらを見る。弱ったなと思った。猫は震え続けている。片目も半分開かない。仕方がない、獣医にだけ連れていくか。バイト後、子猫を抱えて商店街の獣医を尋ねると休憩時間中で受付の人に「暫く待合室でお待ち下さい」と言われる。子猫を椅子の上に置き、その横に私も腰掛けた。すると猫がずるずる移動してきて私の膝の上によじ登って丸くなった。

結局三日分のバイト代が治療費に消えた。獣医は「すっかりあなたになついていますね」と言った。私が獣医から戻ってくるのを常連客達が店の中で花札をしながら待っていた。「さやかちゃん、猫どうするの?」「とりあえず連れて帰る」「チュウよかったな」「チュウが拾ってきたんだからさ、チュウちゃんって名前にしなよ」等と口ぐちに言う。電器屋の主人が「これに入れて帰りな」とショルダーバッグの使い古しをくれた。掌に乗りそうな大きさの猫をバックの中に仕舞って帰路についた。帰り道、夫に電話した。「死にそうな子猫拾っちゃった、どうしよう。」「飼いたいの?」「うん」「引っ越さなきゃいけないかもなあ」少し小声になって夫は付け足した。「猫は連れてきてもいいけど、三浦さんは連れて帰ってくるなよ」大家さんに相談すると「たかが子猫一匹お好きに」との返事だった。 

チュウでは可哀そうなので猫の名はちーになった。三浦さんはその後、入退院を繰り返し頬が痩け酸素ボンベを抱えて戻ってきた。自転車に乗れなくなってもバスを乗り継いで幸楽に通ってきた。だんだん三浦さんと飲むのが辛くなってきた頃、杉並に引っ越しが決まって私はバイトを辞めた。そしてその後、娘を出産した。娘の出産と時期を同じくして三浦さんは亡くなった、と一年ぐらいしてからおとーさんに聞いた。お骨は秋田に住むお姉さんに届けられた。私の手元には今でも三浦さんの写真がある。いい顔をして写っている。「三浦さんにはてらいがないからな」おとーさんはそう言っていた。