2011年2月26日土曜日

迷子ホリック (大塚あすか作文)

道順を覚えるとか地図を読むとか、そういった能力には悲しいほど恵まれていない。同じく方向音痴の友人と感じの良い喫茶店を見つけた数週間後、彼女から「あのお店、また行きたいと思って探したけど見つからなかったの」と連絡がきた。次の休日に自分の足で確かめてみると、やはり店はない。競争の激しい地域なので閉店してしまったのだろうと納得して1年後、思いがけない場所にその店を発見したときには愕然とした。

よく知った場所でも、いつもと違う道を通って行こうとすると必ずと言っていいほど迷う。引っ越したばかりの家への帰り道がわからず困り果てたことがある。はじめて上京したとき、駅の外に出ることができずに泣きべそをかいていたらキャッチセールスのお兄さんが見かねて出口まで連れて行ってくれた。

道に迷うことは怖い。「あ、わたし今迷子だ」と気づいてしまった瞬間、人も風景もくるりと色を変える。ただの住宅やビルがやたらよそよそしくなる。あたりを歩いている人はみんなこの場所にしっくり馴染んでいるのに、わたしだけがよそ者。目的の建物を探して同じ場所を何度も行ったり来たりしているのを不審がられているかもしれない。ふいに周囲の目が気になりはじめ、ますます挙動は怪しくなる。

でもその不安な気持ち、実は嫌いではないのだ。なにしろわたしには定期的に、半ば意図的に迷子になる悪癖がある。

冬の休日、友人へのプレゼントを買うため電車で出かけた。にぎやかな駅から少し離れた場所にある雑貨屋で買い物をすませ、近所の喫茶店で休憩する。お客は取り澄ました若者ばかり。大きなお皿にちょこんと盛られた料理はたいしておいしくもなく安くもない。雰囲気を買うたぐいの店で、わたしも澄ました顔で食事をして、紅茶を飲んだ。

店を出て空を見上げたところで、うずうずと虫が騒ぎだす。天気がよく、まるで春みたいに暖かい日。こんな気持ちのいい日に、まだ昼過ぎなのに、電車で家に帰ってしまうのはもったいない。ひと駅歩いてみようか、と駅に背を向けた。

見知らぬ道を歩くのは面白い。古本屋を見つけては、店先のセール台をのぞく。ガードレールに貼られたうさんくさい占い師のチラシ、奇妙な名前を持つ店、道端に捨てられたブラウン管テレビ。興味をひくものを見つけるたびにまじまじと眺めたり、写真におさめたりしていると、あっという間にひと駅の距離は過ぎてしまった。せっかく楽しい散策をしているのに、ここで止めてしまうなんてとんでもない。駅を指し示す標識を無視する。こんな都内に広い畑があって、ぽっかり空が開けていて、無人販売所まで。小さくうらぶれた神社には、一体誰がお参りに来るのだろう。目に入るものに引き寄せられてどんどん軌道をそれながら、上機嫌で今日は家まで歩いて帰ろうと思いつく。自転車にも自動車にも乗らないから、道は知らない。でもきっと大丈夫。頭の中にうろおぼえの地図を思い浮かべ、この方向に進めば家に近づくはずだとあたりをつけた。それから、標識や電柱の住所表示をときおり確認しては、迷いすぎたと思えば少し修正を加え、ひたすら歩きつづける。

長い時間歩いて景色に飽きてくると、機械的に足を動かしながらぼんやりと考えごとをはじめる。ここぞとばかり遠い昔のことを思い出して、それに飽きればずっと未来に思いを馳せて、心をひたすら遠くへ飛ばす。詰め込んでばかりでゆっくり向き合う時間のなかった本や映画のことを考える。それもまた楽しい。

はっとするのは、とうとう疲れはじめる頃。歩きだしてからとうに3時間は経っている。なんだか足が痛い、というのは当然で、さっと買い物だけ済ませて帰るつもりで出かけたわたしの足下は、細いヒールが頼りないブーツ。いったん意識してしまうとどんどん痛みは増し、憂鬱になってくる。どうしよう、足も痛いし疲れたし、そろそろ歩くのにも飽きてきた。そんな気持ちが頭をもたげ、しかしぐっとこらえる。

昔からよく気が強いと言われ、そのたび反発した。「おまえみたいに気の強い女見たことない」と言われたときも、「本当に頑固だよね」とあきれられたときも、猛然と「そんなことない」と言い返した。でも、今なら素直に彼らの言葉を受け入れることができる。わたしは確かに気が強い。とんでもない頑固者だ。誰に誓ったわけでも誰に命じられたわけでもないのに、ふと頭に浮かんだ「家まで歩いて帰る」という考えが、今では約束となって自分をきつく縛っている。数時間前の自分に負けることが悔しくて、わたしはどうしても歩くことをやめられないのだ。ばかみたい。

しばらくして、本格的に歩くのが嫌になってくる。歩いていればじき突きあたる予定だった大きな道路はなぜかいまだに見えてこない。近くに駅もなさそうだ。今の自分はまったく電車の軌道が存在しない場所にいるらしい。いつでも電車に乗れるところをあえて歩くのは楽しい。でも、本当は電車に乗りたいのに歩かざるを得ないのは辛い。ますます暗い気持ちになってくる。ここがどこなのかも、なんとなくイメージはできるのだけれど、はっきりとはわからない。本当にこのまま進んで家に帰れるのだろうかと不安が頭をよぎれば、これはもう、本格的に迷子になってしまったということだ。

足の痛みは絶え間なく、春のように暖かかったのが嘘のように指先がかじかんでいる。日が沈もうとしているのだ。何時間か前、小洒落た喫茶店で澄ました顔で紅茶を飲んでいたのが遠い昔のことのよう。いや、現実だったのかも怪しいくらいだ。わたし、ずっと昔から歩いてきて、これから先もずっと歩き続けるんじゃないのかな。現実感のない妄想に取り憑かれながらただ右左と足を動かす。よそ行きの格好で、厳しい顔をして修行僧のように黙々と見知らぬ道を歩いている姿は端から見たら滑稽であるに違いない。でもわたしは至って真剣に、無限地獄と戦っている。

耳は凍えて足は棒のようで、音をあげそうになる頃、見知った地名が目に入ってくる。いつのまにか自宅の近くまで戻ってきていたらしい。駅の反対側なので歩いたことはないけれど、ここから家までは15分もあれば着きそうだ。しかし、安心して気が大きくなったところで、左手路地の奥に小さな商店街を見つけてしまう。ついつい引き込まれ、閉店間際の肉屋や八百屋、のり巻きだけを売っている風変わりな店をのぞき込んでいるうちにまた住宅街の迷宮にはまりこむ。予想帰宅時刻を過ぎてもまだ細い道をうろうろさまよい、とうとう力つきてバランスを失い転ぶ。誰にも見られていないのに恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなる。気力もなくしてとぼとぼと、ようやく普段とは反対の方向から、見慣れたコンビニエンスストアまでたどり着いたときには心の底から安堵した。

帰宅してぱんぱんにふくれた足をブーツから引き抜くと湯船に湯を張る。温まると気持ちもゆったりとして、風呂から上がる頃には心細さも辛さも何もかも流れ去っていた。カバンから買い物した荷物を取り出し、雑貨屋も喫茶店も夢ではなかったのだと実感する。代わりに今では、5時間以上も歩き回っていたことが幻のように思える。

都内の詳細地図を取り出し、今しがた自分が歩いてきたでたらめな道のりを確かめてみる。最短距離を選べば所要時間3分の2で帰宅できていたはずだ。線路はぐるっと大回りしているけれど、電車ならば30分。よくぞここまで迷ったものだと呆れながらのひとり反省会。――こんなことを、わたしは数ヶ月に一度繰り返している。

道に迷うたび強烈な不安と孤独を味わうのに、ほとぼりが冷めるとまたでたらめに散歩したくなる。やはりわたしは迷子になるのが嫌いではないのだ。電車の窓から眺めてばかりで知ったつもりになっている街のことを、実のところほとんど何も知らない。知らないということを肌で感じるのは面白い。馴染んでいるつもりの街がふっと異世界になるのが、怖いけれど面白い。

最近は衛星を使って地図上に自分の居場所を表示してくれる携帯電話が登場し、道に迷う機会はどんどん少なくなってきた。それでもやはり、あの頼りない気持ちを求め、わたしは地図を捨て町に出る機会をうかがい続けている。