2011年3月28日月曜日

ただいま、アトランタ (原瑠美作文)

 子供の頃住んでいた家を見に行こうとして、道がわからなくなってしまったことはないだろうか。私は去年、たまたま近くまで行く用事があって、小学生の頃一年間だけ住んでいた場所に行こう思い立ったが、結局見つからなかった。

駅前の街並にはなんとなく見覚えがある。東京都内でも、上京してから初めて来る場所なのに、どこか懐かしい。首都高の高架をくぐってまっすぐ、までは覚えていたが、そこから全くわからなくなった。大阪にいる母に電話までしたがだめだった。「あの、ほら、近くに川があるでしょう。」川はいくらでもある。「そこを曲がって、いや、曲がらずに。」二十年も前のことだ。仕方がない。その日は諦めて帰った。

見つからなかった家に一年住んだ後、私は母についてアメリカに渡った。二年間、ジョージア州の州都、アトランタに住んでいた。大人になってから何度ももう一度訪ねたいと思ったが、これまで行く機会がなかった。行こうと思えばいつでも、ほとんどどこへでも行ける時代なのだが、一人で旅ができるようになると、新しい街や自然にばかり惹かれて、後回しにしていたのだ。友人が仕事でアメリカ南部に派遣されることにならなければ、今度の休暇もどこか別のところに行っていたと思う。

テネシーのノックスビルに半年間滞在することになったカナとは高校生のときに知り合って、違う大学に進み、しばらく会わない期間があったものの、私の留学先に訪ねて来てくれたり初めての沖縄に行ってみたり、一緒にいくつかの旅をした。信じられないエネルギーで旅を繰り返す彼女は、Facebookとブログで近況を発信している。アラスカ、カナダ、そしてアメリカの各地。写真を見てコメントを残すと、遊びにおいでと誘われた。彼女の出発前から、必ず訪ねると約束もしている。これは行きたい、行かなければならない。

日程を決めた後、私はガイドブックを見ながらルートを考えた。カナとの旅はロードトリップと決まっている。私はあまり運転できないが、彼女は夏まで住んでいたモンタナから車でテネシーに引っ越しし、学生の頃から大きなバイクでツーリングもこなすベテランだ。二月の真ん中の一週間。アトランタに行きたいとは思っていたが、他にも行ってみたい場所、見てみたいものは山ほどある。ネイティブアメリカンが歩いた山脈、ルイジアナの沼地、アラバマの太陽、ミシシッピの大河。沼地を抜けてニューオリンズまで行ってしまうと、アトランタは無理だろう。どうしたものか。

出発までの間に驚くことがあった。小学生のとき別れたきり住所もわからなくなっていたスー・アンからメールが来たのだ。Facebookで見つけたのはしばらく前。ちょうど都内の昔の家を探しに行った後、試しに検索してみたらあっさり見つかった。友達に囲まれて笑っている顔ですぐわかった。もう会えないと思っていたのに、零点何秒かの検索スピードで目の前に現れるのだからすごい。まだアトランタにいるのだろうか。十八年も前に、一年間だけ一緒に過ごした日本人のことを、まだ覚えていてくれるだろうか。”Just one click away”とはこのことなのだが、なかなか連絡できずにいた。しかし再びアメリカ南部に行くことになって、何もしないのはもったいない。メッセージを送ってしばらくは音沙汰がなく、半ば諦めていた頃に返事が来た。これはいよいよすごい。しかし本当に会えるだろうか。会えたとしても、見知らぬ大人同士になった二人で、何を話せばいいだろう。会いたいが、旅程が決まらないのでまた連絡するとだけしか伝えられなかったが、スー・アンはとても喜んでくれた。

旅程が決まらなかったのは本当で、結局行き先不明のまま二月になった。ワシントンDCで乗り換えた小さな飛行機ではぐっすり眠って、ふと目を覚ますと窓からテネシーの夕焼けが見えた。それまでスタンダードなアクセントで私にしゃべりかけていた隣の席の紳士はシートベルトサインが消えると同時に電話をかけ、ゆっくりとしたサザンドロールで話し始めた。空の色は刻々と濃いブルーに変わって行く。

私の荷物がなかなか出て来ないので、迎えに来てくれたカナはガラスのドアをしきりに出たり入ったりしている。バゲッジクレームに入ってきていいものか決めかねてうろうろしているので、再会のハグをする前に笑ってしまった。荷物を持ってやっと空港を出るともう夜だった。車に乗ってから、大きな失敗をしてしまったことに気づいた。フランスで取った免許ではアメリカでは運転できないというのだ。今度はカナが笑った。日本の教習所は高いからと、私はフランス留学中に免許を取っていた。試験に合格してから三ヶ月以上現地に滞在していれば、日本の免許に書き換えられる。そうすると半額以下で免許証が手に入るはずだったのだが、フランスの試験は意外に厳しく、実技で何度も落とされて、結局滞在日数が足りずにまた日本で取り直すはめになった。それでもこのピンクの紙きれさえあれば(フランスの免許証は本当に写真の部分がラミネートされているだけの紙きれで、更新も必要ない)、EU諸国はもちろん、アメリカでも運転できるから、と慰めてくれたフランス人がいたが、あれは何だったのだろう。

ドライバーが一人だけなので、ニューオリンズのような遠出はやめにして、テネシーの東の端から南へ降りて、西からまた戻ってくるというルートにした。二つのカロライナとジョージア、アラバマ、ミシシッピも通る。二日目にアトランタを通過する。翌日は朝食に大きなシナボン(注1)を食べて出発し、夜はサウスカロライナのモーテルからスー・アンに電話をかけた。明日会えるんだね、信じられない、と言う声を聞くまで、私は本当に会えるとは思っていなかった。

郊外のモールにやってきたスー・アンは、もうすっかりアトランタの人になっていた。出会った頃はマイアミからやってきたばかりで、その前は生まれ故郷のジャマイカに住んでいて、英語はスタンダードなアクセントで話した。私たちは二人の転校生で、ベストフレンズで、十歳だった。
スー・アンの車に乗って、三人でピザを食べに行った。彼女が私の母や弟や日本に残っていた父はどうしているかと聞くので、私は驚いてしまった。よく覚えているね、もちろんよ。私はお返しに、お別れにもらったマグカップをまだ持っていると言って彼女を驚かせた。

昼食を済ませるとスー・アンの案内で、私が昔住んでいた場所の近くまで行ってみた。アパートが建つ前はゴルフコースだった場所で、大きな池がそのまま残っている。スー・アンは今でもここに時々散歩をしにくるのだと言うが、残念ながらアパートの部屋があったところまでは覚えていなかった。それでも私は満足して、スー・アンと別れるともう次の目的地へ向かう準備ができていたが、カナがもう一回りしてみようと言うのでそうすることにした。何となく見覚えのある通り。しかしどこをどう入っていいのかわからず、同じ場所に戻ってきそうになってもう諦めようと思った瞬間、見覚えのある建物に気づいた。あっちに行かなくてはならない気がする。このまままっすぐ、それから右に曲がって、と珍しくナビをしていると、突然アパートが現れた。壁の色が少し変わっているが、昔のままだ。駐車場に面した私の部屋の窓もある。

懐かしいという気持ちとも少し違った。何か、深いところからこみあげるものがあるのだ。いろいろなことが一気に思い出される。私はこの街で走り、ファイアーアント(注2)に刺されそうになり、蟻塚をよけようとして転んで泣きべそをかき、池ではアヒルの卵を見つけてはしゃぎ、学校ではランチマネーを盗まれ、今度は泣きべそをかかず、アパートの廊下で騒いでは管理人のシンディに叱られ、そうして覚えた英語を今も話している。誰かに与えられたものではない、自分の言葉なのだと感じる。

アトランタを出て西に走ると日がとっぷり暮れた。二日間、ずっと一人で運転しているカナが心配になったが、彼女はにこにこハンドルを握っている。運転はあまり苦にならないのだと言う。疲れを知らない友に尊敬の念を抱きつつ、私は助手席で眠気と戦っていた。そう言えば、沖縄で浴びるほど泡盛を飲んだ翌日も、カナは朝から元気に運転していた。

昔の家を見ただけで、思っても見なかった収穫があった。普段何気なく話している言葉も、これまでの生活の中で一つ一つ習得してきたものなのだという実感を持って、改めて言葉というものを意識することができた。今住んでいる場所も、二十年後にはこうして遠くから訪れることがあるのだろうか。今度は諦めずに見つかるまで探したいと思う。そしてここで覚えた何かを使って生きているんだと、そのときにも新しい自信を持って帰れるようでありたい。

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注1……本社をジョージア州アトランタに置くアメリカ合衆国の菓子パン類のチェーン店。また、同店の主力商品のシナモンロールの名称。(「ウィキビディア」より、http://ja.wikipedia.org/wiki/シナボン、2011年3月)
注2……殺人ありの一種。和名はアカヒアリ。刺されると急性のアレルギー症状を起こし、死亡することもある。(「ウィキピディア」より、http://ja.wikipedia.org/wiki/アリ、2011年3月)