2011年6月22日水曜日

物語から遠く離れて、見えるもの(辻井潤一作文)

今年に入ってから散髪するたびに、会社の同僚や大学時代の友人から「サッカーの長友に似てるね」とよく言われる。先日は渋谷のアイリッシュパブで酔っぱらったマレーシア人男性に「ヘイ!ナガトーモ!」と言われて突然抱きつかれたりもした。背格好やふてぶてしい態度、面構えなどが似ていると評判だ。

長友佑都選手は日本代表のDFであり、昨年六月の南アフリカW杯ベスト16入りや、今年一月のアジア杯優勝に貢献したことが認められ、JリーグのFC東京から、クラブ世界一であるイタリア・セリアAのインテルに移籍、先発で活躍を続けている。私はもっぱら熱烈なプロ野球党なので、サッカーには人並み程度しか関心を払ってこなかったが、長友に似ていると言われてから、いつの間にか彼をテレビで追いかけるようになっていた。すると、世界のトップレベルで活躍する長友を通して、今まで気付かなかったサッカーの魅力が感じ取れるような気がしてきた。


サッカーの誰もが知っている基本的な制約はただ一つ、手を使うな、ということである。手の可動性や器用さが、大脳の発達を促し、霊長類から人類への進化をリードしてきたことは疑いの余地がない。ある意味、人類はその進化の過程で、足(いや、後足と言うべきか)の大半の機能を失ってしまった、と言えるだろう。そう考えるとサッカーは、足にかろうじて残された「走る」「蹴る」といった機能をフル活用し、「後足の復権」を目指すところから生まれてきたようにも思えてくる。二足歩行をDNAに組み込まれ、もとより「歪められて」生まれた後足を、二足歩行者を最も美しく魅せてくれる動詞である「走る」と「蹴る」の連携によって洗練すること。それがサッカーの根源的な思想なのかもしれない。

「走る」と「蹴る」の連携が生み出す魅力、それは「速度の美」である。検証のために、ラグビーとサッカーを比較してみたい。ラクビーは紛糾するスクラムの中から、いかにしてボールを掴み出すか、というゲームである。手の使用のために不可避となるタックル、モール、ファウルによって、ゲームはたびたび中断される。サッカーでは、センタリングやコーナーキックに見られるように、空所から群れの中にボールが蹴り込まれる。弧を描いてボールが到着するとき、人々はその群れがどう集合し、どう分散していくかを心待ちにする。ラグビーにおいて、群れは幾重にも折り重なり、不動性を保つ。サッカーでは、群れはまるでミジンコのように群れながら変形し、動き回る。だから、時間かせぎのために味方陣内で安易にボールを回し始めると、観客は不平をあらわにするのだ。速度の損なわれたゲームは、何よりも嫌悪される。それは美しくないから。ラグビーの場合、ファウルは危険だから禁じられるが、サッカーの場合は危険であるからばかりでなく、美しくないからこそ禁じられる。ディフェンスが抜かれたあと、足をひっかけて独走を阻むケースは多く見られるが、こうしたプロフェッショナルなファウルに対する観客の反応も厳しい。それは倒れた選手の負傷や痛みに対する共感ばかりではなく、おそらくは彼がこれから披露したであろう「速度の遊戯」をぶち壊したことへの怒りにもよるだろう。ファウルのあとのフリーキックやペナルティキックは、速度によって表現された美を損なった者に対する制裁なのである。

「速度の美」という魅力に気付いてから、部署一のサッカー狂であるアダチ先輩に、最も美しいプレーヤーは誰か、と尋ねてみた。アダチ先輩は、「86年メキシコW杯でフランス代表だったミシェル・プラティニだね」と即答。早速youtubeで観てみた。確かに美しい。同時にマラドーナやジダンの映像も観てみたが、彼らは強く激しいが、美しいと形容するのには少し戸惑う。あらゆるファウルを克服し突入する「速度の美」に、言葉は要らない。有無を言わせない魅力がそこにはある。しかし、それでも私は結局サッカーよりもプロ野球党であり続けると思う。なぜだろう。


小学校一年生の時、父に連れられて横浜スタジアムで初めて野球観戦をした。それ以来、今なお観続けている。一口に野球観戦と言っても、プロ野球や高校野球、大学野球、社会人野球、あるいはメジャーリーグなど、様々な舞台がある。その中でも、私は特にプロ野球が好きなのだが、それは、プロ野球が日本で最も質の高いプレーを見せてくれる場であると同時に、「物語」に回収されない「試合」がそこにあるからだと考えている。

他の球技に比べて野球は、恐ろしく複雑なスポーツである。サッカーであれば「手を使わずにボールをゴールにたくさん入れる」、バスケットボールであれば「ボールを持たずにボールをゴールにたくさん入れる」、バレーボールであれば「自分のコートにボールを落とさず、相手のコートにたくさんボールを落とす」といった具合に、初心者に簡単に説明ができる。だが、野球はそもそも攻守が非対称である上、バットやグローブなど、いくつもの専用の道具を使用するため、一言で説明がつかない。ルールブックはタウンページほどの分厚さである。

このようにルールが説明困難なスポーツである野球を、解説なしで観るためには、ある程度のリテラシーが必要であり、それを補完するために、解説や「物語」が導入される。では、野球における「物語」とはどんなものか。例えば高校野球。最近であれば、東日本大震災で被災しながらも春のセンバツに出場した宮城県の東北高校が思い出される。「東北高校は初戦で敗れはしたが、その懸命なプレーは被災地に勇気と希望を与えた」という物語が、彼らには付加されていた。東北高校に限らず、多くの観客は往々にして、甲子園でプレーする球児たちに「高校三年間の努力の集大成」や「青春」といった物語を与え、消費する。私の母も、「野球に関心は無いけど高校野球だけは好きだ」と言う。おそらく母は、試合ではなく、「物語」を観ているのだろう。それを悪いことだとは思わない。物語が野球に持ち込まれ、野球人気が高まることに異論はない。しかし、「試合」そのものを楽しんでほしいとも思う。

負けたらそこで終わり、という一発勝負の高校野球とは違い、プロ野球のシーズンは長い。ペナントは現在、年間144試合を戦う。プレーオフはあるものの、優勝はシーズンで最も勝率の高いチームに決まる。そうなると当然、一試合一試合の重みはどうしても薄れてくる。仮にある試合で劇的なサヨナラホームランや、好投手の投げ合いがあっても、それらは強力な物語には成り得ない。

私は神奈川県出身で、地元球団の横浜ベイスターズのファンだ。現在、ベイスターズはこれ以上ないほど弱体化しており、昨年は史上初の3年連続年間90敗という不名誉な記録まで打ち立ててしまった。優勝したのは1960年と1998年の二回だけであり、それ以外は常に弱小のレッテルを貼られ続けてきた球団である。スター選手もほとんどおらず、とにかく地味なチームなのだ。まったく「物語」の香りがしない。プロ野球にもかつては、巨人が王・長嶋のONコンビを擁し築いたV9時代を筆頭に、数多くの黄金期で形成した強大な物語が存在した。阪神も60〜70年代で圧倒的な人気を誇り、85年の日本一で頂点を迎え、その後の低迷期すら「ダメ虎」という呼称によって、ある種の物語性を帯びていた感がある。そうした時代と比べてしまうと、もはや現在のプロ野球に「物語」は存在しないのかもしれない。人気も下がる一方だ。しかし、それでも私はプロ野球を楽しく観続けている。なぜだろう。


突飛だが、戦後アメリカの美術界を牽引したクレメント・グリーンバーグという美術評論家のことを思い出した。彼は「フォーマリズム批評」という美術評論の様式を提唱したことで知られている。ここで乱暴に、そして恣意的に、フォーマリズム批評を一言で解説してしまえば、それは「作家の人生や思想に立ち入ることなく、作品が持つ色や形、大きさといった、その作品から読み取れる要素のみで、作品としての良し悪しを判断する」ということである。この考えには賛否あったが、グリーンバーグの言説が戦後アメリカの美術界を活性化させたのは事実である。「作家」という「物語」から遠く離れて、ただ「作品」そのものに向き合おうとすること。私はそれを、プロ野球観戦で行なおうとしているのかもしれない。


プロ野球の「物語」が失効した今、私はただ、選手たちの一挙手一投足に、時々見せる凄い打球やピッチングに、スタジアムやテレビの前でビールを飲みながら息を飲む。野球という複雑なスポーツの中に、一瞬の煌めきを見つける。その瞬間が好きだからこそ、プロ野球を観続けているのだと思う。