2011年6月25日土曜日

引っ越し!引っ越し!(原瑠美作文)

子供の頃大事にしていたくまのプーさんのぬいぐるみが、ある日突然いなくなった。何度か行方不明になりかけては、奇跡の帰還を果たしていたプーさんだったのに。温泉旅館から郵送されて帰って来たこともある。ほとんど原形を留めていないプーさんを見つけた宿の主人が、これはただのぬいぐるみではないと察し、従業員に聞いてまわって持ち主を突きとめ、わざわざ送ってくれたのだった。そんなプーさんが見つからなくなってしまった。大阪から東京に引っ越したときだ。七歳の私は母を責め、自分のいたらなさを嘆き、段ボールを何度もひっくり返して探したが、とうとうプーさんは出てこなかった。

そんな思い出があるからというわけではないが、私は引っ越しがきらいだった。荷造りは大変だし、住みなれた家を離れるのはいやだったし、仲良くなった近所の犬とも別れたくなかった。プーさんほどの大事件にはならなくても、引っ越す度にいつも何かがなくなった。例えばランドセル。「もう使わないかと思ったの」と母は言い、引っ越しのときは荷物を整理しなければいけないものだと言い聞かされて、その時はしぶしぶ諦めたが、当時私はまだ二年生だったので、今から考えるとやっぱりおかしい。最近ではマグカップ。小学生の頃、引っ越す前に親友がお別れにとくれたもので、二十年近くも大切に持っていたのに、つい先日思い出して探してみたら見つからなかった。去年の夏に引っ越す前の家で撮った写真には写っているので、これも引っ越しのときにどこかにまぎれてしまったとしか考えられない。

直接本人に確認したわけではないが、たぶん弟も引っ越しがきらいだったと思う。「引っ越すよ」と言われると、二人で「えー」と渋っていた。いつだったか移動の途中、乗り物酔いの激しい弟はまだ飛行機にも乗らないうちに、空港のロビーの真ん中で、いましがた食べたばかりのものをたっぷりもどしてしまった。母がそれを両手で受け止めようとしたために、ティッシュとビニール袋を求めて私が一人で空港内を奔走するという事態になった。引っ越しには事件がつきものだ。

祖母が生きていた頃は引っ越しとなると、みんなでぞろぞろ新しい家を見に行った。曾祖母もついてきて、父はたいてい仕事でいないので、二人の老婆に母と弟、それに私を加えたおかしな五人組が、あれこれ難癖をつけながら見てまわる。居間の壁の張り出しに、ところせましと先祖の遺影を並べてある家を見せられたときは、みんなさすがに参ってしまった。そのすぐ後に見学した家は、関西ではわりと勢力のある新興宗教の本部のすぐ裏にあり、周辺のテレビ電波を妨害するほどの丘を一部削り取った崖の中腹という、理想的とは言いがたい立地条件だったが、直前の物件との比較効果で印象がよかった。母がピンときてすぐに決めたこの家に、両親は今でも住んでいる。うちの東側は家を建てることができないほどの急斜面なので、仕方なくツツジが一面に植えられている。赤紫色の花がいっせいに開花する初夏の頃に窓を開け放つと、甘い香りが家中に漂う。夏になると大小さまざまなヤモリが家の外といわず中といわず、縦横無尽に這いまわる。山の家に住むのが夢だったという母は、ここを終の住処と決めているらしい。

やはり引っ越しは家を見てから決めなければいけない。インターネットで見つけた家に予約金を払ってから到着してみると、聞いていた条件とは全然違っていたことがある。友達と三人で住むはずだったその家には先住者がいて、一番いい部屋を占領していたのだ。寝室三つに大きなキッチン、学生さんのルームシェアに最適!そんな謳い文句はなんだったのか。大家と大げんかした後、一週間でその家を出た。大学の新学期が始まる直前だったので、新しい家を探すのも一苦労だったが、運よくすぐに入居できる場所が見つかった。自家用車の最大積載量を優に超える荷物を街の反対側まで運んでもらうのに、確か問題の家の先住者に四、五千円支払ったと思う。当時としてはなけなしの資金だった。

学生時代にも、そういえばどたばたとよく引っ越した。お湯が満足に出ない家に二回ほどあたったことがある。一軒目は湯沸かし器の出力がきわめて低いためにシャワーのスピードについていけず、二軒目はお湯をためておくためのタンクが小さすぎてすぐに使い果たしてしまう、という仕様の差こそあれ、どちらの家でも、冬場の入浴は死ぬほど寒かった。それで今でも家を探すときにはまず、お湯はちゃんと出ますか、としつこいくらいに聞いてしまい、不動産屋に怪訝な顔をされる。

低出力の湯沸かし器しかなかった家は、洛中洛外図に描かれているような昔ながらの長屋の造りで、一人暮らし向けの家賃で犬が飼えるというので引っ越したのだが、お湯以外にも問題がたくさんあった。奥の和室はほとんど日当りがなく、私が越してくる前には雨漏りもしていたらしく、畳には水たまりの跡があった。夜電気を消すと柱の両脇に、琥珀色の光の筋が走った。よく見ると、土壁がさけてできた隙間に、隣の住人が向こう側からガムテープを貼っているのだった。私も貼らなければ、と思い続けて一年間、気にしつつも結局さけた壁はさけたままにして過ごしてしまった。その長屋には私の犬のほかにも動物がいて、フクロウを飼っているうちの前を通ると、ときおり「ホー」という森の声がした。

引っ越し続きであまりにせわしない学生時代を過ごしたので、就職したら、今度は三年くらい腰を据えて住んでみたいと思っていた。そんな期待の新居はくじびきで決められることになり、新入社員が女子と男子に分かれて茶封筒に入れられた間取り図を取り合った。私が引き当てたのは湘南の海の近くの案外いい物件で、風が吹くと潮の香りがした。風向きが変わるとそれは養豚場の匂いに変わり、電車を降りた途端に鼻がもげそうになることもあったが、それでも家に着くとほっと心が休まった。天気のいい日はどこまでも続く田んぼや、県の体育施設の広い芝生の中を散歩した。あんなにすがすがしい場所に住むのは初めてだった。

湘南に三年はいるつもりが、二年目にまた引っ越してしまった。プーさんをなくした家に住んで以来、二度目の都民生活である。街も部屋も気に入っているのに、ときどきまた物件情報をネットで検索している。最近の不動産サイトでは、室内の様子を写した画像も充実していて、よい部屋を見つけると思わず真剣に考えこんでしまう。家具は全部置けるだろうか、通勤は便利か、建具の色は好みに合うか。「引っ越し!引っ越し!」そう考えるといい知れない、わくわくした気持ちにとらわれて息もできない。

次に引っ越すときも、きっとまた多くの持ち物を処分しなければいけない。引っ越しの荷物の中で、いつも一番やっかいなのは重い本なので、そこからまず手をつける必要があるだろう。でも大きな刺激を受けた展覧会で買った画集や、友達がメッセージを書いてくれた本を、捨てられるはずがない。家具や家電製品も、引っ越し先によっては買い替えなければいけないかもしれない。しかし中学生のときに自分で組み立てて色まで塗った棚や、本を読むにも昼寝をするにも愛用しているソファと、どうして別れられよう。物だけではない。また想像もできないような事件が待ちかまえていて、定住生活の落ち着きが奪われてしまうに違いない。引っ越しには犠牲がつきものだ。それでも引っ越しを続けてしまうのはなぜだろう。居住のために引っ越しているのか、引っ越しのために居住しているのか、もうわからない。生まれる前からそこに暮らしていたような、そんな場所を求めていろいろな土地をさまよっているのだろうか。

三月の震災で家を失った人たちが、故郷の再建に向けた思いを語っているのをテレビでみて、胸をうたれた。何かに追い立てられるように引っ越しを繰り返してきた私には、故郷と呼べる場所がない。この間大阪に帰郷してみると母が、駅前の住宅街にいい家を見つけたの、と目を輝かせていた。山の家にずっと住むと決めていたはずなのに、あの様子だと本当に引っ越ししかねない。引っ越し熱は遺伝するのだろうか。こうなればもう覚悟を決めて、引っ越しこそふるさとだと、胸を張って言えるようになるまで引っ越しを続けるしかないと思う。