2012年2月5日日曜日

飲食店の料理をつくっているのは誰か(宮路 雅行 作文)

気になることがある。気にする人は少ないとは思う。しかし私には気になって仕方がない。もし、気にしている人間と出会えたなら、時間をかけて「そのこと」について話してみたい。

繁華街を歩いていた。午後からの予定は特にない。昼食について真剣に考えていた。大きな街だから店には困らなそうだ。体調も悪くない。全て使うことはできないが、昼食代には十分な現金を持っている。時刻は十二時半、じっくりと時間をかけて店を選び客がひけた頃に入店する予定だ。私が食べたいものを食べるための条件はかなり良いと言える。あとは、食べたいと思っている抽象的な味や食感などのイメージをもとに的確な料理を決め、その料理を提供してくれる店を探しあてるだけだ。あるいは、店を探し歩きまわることで直感的に食べたいと思える料理との出会いを獲得するかだ。前者は食欲にたいして忠実に料理を選べる事になる。後者は発見した店によって欲求が変化させられることになる。大事なのは選んだ料理が食欲を満たせるかどうかだ。そもそも、その日の気温や最近食べたものなど様々な要因によって食欲は変化させられている。前者も後者もあまり変わらないのではないだろうか。そのようなことを考えながら、私は店を探し歩きまわった。

運よく私の食欲を満たせそうな店がみつかった。注文をすませ、料理がはこばれて来るまでの時間を持て余していた。その店は客席から調理場をみることができた。このような場合、調理過程や調理人の人柄や動作などをみることも料理を楽しむ重要な要素だと思う。料理をつくることが好きで真剣に取り組んでいる調理人もいれば、ある程度好きではあるがルーチンワークになってしまっている調理人もいるだろう。表情や声から読みとれるその日のテンション。動作や手つきからは熟練度がみえて来る。この調理人はどれくらい料理をつくりたいと思っているのか。また、その調理人がつくりたい料理はこの店でつくることができるのであろうか。調理人の欲求は店の方針や手に入る材料などに左右されているはずだ。どのくらい欲求を正確に満たしているのかが気になりだす。私に、私の食欲に対して繊細に当てはまる料理をつくれる技術があればいいのに。実際は抽象的な食べたいという欲求から具体的な料理を発想するにも一苦労だ。私は遠慮なく調理場をながめながら、欲求を満たすという事の難しさについて考えていた。

食前にトイレに行っておくことにした。食事の途中でトイレに行きたくなるのは避けたかったし、手もしっかり洗って気分よく食事にのぞみたかったからだ。いつも思うのだが便器というのは妙な形をしている。長い年月をかけて発達してきた形なのだろう、どの便器も似たような形をしている。もちろん注意してみれば違いは沢山ある。汚れにくさを考えてつくられたものや、節水を第一に設計されているものもある。これらは利用者の欲求から生まれたのだろうか。それともデザインする人間のつくりたいという欲求からだろうか。一般的な形というものを獲得してしまった便器を大きく改良するのは難しいだろう。さらに言えば、画期的な便器をデザインしたとして、それが一般的な形として認知される事はもの凄く難しいだろう。そもそも、完成度の高い便器をつくりたいと思う欲求と自分のつくった便器を世間に浸透させたいという欲求は別々の欲求と考えたほうがよいかもしれない。二つの欲求の間で葛藤するデザイナーは少なくないだろう。ぼんやりとだが、欲求とつくることの関係性のイメージが頭の中に起ちあがってくる。しっかり考えがまとまらないまま、私は席に戻った。

注文した料理がはこばれて来た。私はその料理を食べはじめた。しかし、食べる速度よりも思考の速度のが速いような状態だった。誰かの欲求によってものがつくられるのならば、この料理は私の食欲によってつくられているという事になる。直接手を動かして料理をつくっているのは調理人に間違いない。しかし、毎日同じものを作り続けている調理人の欲求より、私の食欲のほうが十数分前までは大きかったのではないだろうか。欲求の大きいほうがその料理をつくっているという考えは暴力的すぎる。そもそも欲求は大きい小さい以外にも色々な属性があると思う。この料理を最初につくった人の欲求はどのような欲求だったのだろうか。もしかすると、この料理は時間をかけて多くの人の欲求によって成熟してきたのかもしれない。

考え事をしているうちに、私は料理を食べ終えてしまった。食欲が満たされたという実感はない。消え失せてしまった感じだ。しかし、私は気になって仕方がないのだ。私が食した料理をつくった欲求について。