2012年3月7日水曜日

ディアハンター(CHIARA 作文)

なだらかな丘陵をおおう草原は、西斜面から差し込む陽光を受け、砂金を撒いたようだった。立ち枯れている草はみな腰丈ほどの高さで、視界はどこまでもさえぎられることはない。

右頬を叩く風が丘を這い上がる。風の前にあるものはなびき、倒され、動く。茎の太い草は首をかしげ、ちぎられた葉は風に乗って丘を駆け上る。すべてのものが一定方向に動いている。まるで大きな玉が転がっているように草原は頭を下げ、風は波になって丘を上る。波の中で、私だけが動かない。風は私の右半身に当たり二手に分かれ、通り過ぎたところで重なる。

風は生きている。意思を持っている。運びたいものだけを運び、邪悪なものは置き去りにする。
ギリシャ語では、風はプネウマと呼ぶ。プネウマは霊という意味でもある。古代、風は霊だと思われていたのだろうか。


アイダホ州北西部、見渡す限りにおいて町は無い。牛を追うカウボーイが寝泊まりする小さな家が丘の中腹に一軒あるだけだ。三つ山を越えればワシントン州、スネークリバーの向こうはオレゴン州だった。

私は、家に向かい体を引きずるように歩いていた。

一緒にいた父は、簡単な四輪のエンジン付き台車に仕留めた鹿を乗せて走り去った。父と言っても実の父ではない。いわゆるホストファーザーだ。ホームシックで泣きじゃくる一二歳の娘の肩を抱きとめてから、彼は私の父になった。二〇年後のそのときもまだ、彼は私の父親のままでいた。
家までの道のりは徒歩ならば遠くはないが、道を選ぶ台車にはでこぼこが多すぎた。遠回りの道をたどる台車に乗って、父は今夜の仮宿であるカウボーイのための小さな家に向かった。私は徒歩でそこを目指した。
風が吹く度に血の匂いが立ち上った。仕留めてすぐに首を切ったからだ。

その鹿は低木の茂みに隠れていた。寝ていたのかもしれない。小さめの雌鹿だった。体の血を抜きながら父は「やわらかくてうまそうだ」と言った。撃たれた時も首を切られた時も雌鹿は「ムギュ」とだけ鳴いた。この鹿はその日仕留めた二頭目であった。


朝一番で私たちは雄鹿を撃った。角が五つに枝分かれしたその鹿は王者のように崖の上に立っていた。崖下の森で鹿を探していた私たちは、見上げた空を背に鹿が立っているのを見つけて息を止めた。私を除いた全員がゆっくりとライフルを肩にあて、静かにセイフティをはずし照準を合わせた。「おれがやる」という父の言葉に皆は引き金から指を離した。父の撃った一発目はわずかにかすっただけのようだった。一瞬左足が曲がり、バランスを崩したが鹿は倒れなかった。逃げる、と思った瞬間に母の撃った二発目が止めを刺した。鹿は右前方に倒れ、切り立った崖の飛び出た岩に体を傷つけられながら森に落ちた。ドスンという鈍い音を頼りに私たちは鹿を探した。

鹿は目を見開いたまま、やわらかな森の下草の上に横たわっていた。びくりとも動かない。動いているのは喉元から胸あたりだけだった。父はポケットからナイフを取り出すと、大きく動いている喉元を切り裂いた。血の流れは草にはじかれ、土の中へとしみていく。

ナイフはそのまま腹の上へ引かれ、みじん切りにされたような未消化の草と胃粘液の混合物が草の上にひろがり、あたたかな、青臭いにおいをもわりと漂わせた。

えぐりだされた内臓は草の上に放置された。家までは遠く、内臓をはらんだ肢体は重たい上に、肉が悪くなるからだった。足や角を持ち、鹿を引きずりながら森を出る道をたどった。森を抜けたところに鹿を置き、つないでおいた馬に乗り、家に戻った。鹿はあとで父の弟がピックアップで拾いに来るのだ。


昼食の後、私と父はもう一度銃を持って草原に出た。5ポイントの鹿は剥製にして壁に飾るには大きな勲章になるが、肉は固くてまずい。うまい鹿をもう一頭仕留める必要があったのだ。

馬の用意をしていると、父は歩いて行くと言った。今度は私もライフルを持たせてもらった。風が運ぶ藁の匂いが鼻に広がり、私は食後の散歩のようにゆったりとした時間を楽しんでいた。私のライフルの銃口は空を向いてぶらぶらしていた。

横を歩いていた父がそっと片手を私の前に伸ばし、止った。5メートル程向こうの茂みでカサっと音がし、父は静かに引き金を引いた。


家に戻りシャワーを浴びている間に、雌鹿は腹を出され、皮を剥がれ軒下に吊られていた。肉が熟成するまでこのまましばらく置くのだそうだ。内臓はコの字形の家の中庭の中央に置かれていた。血の匂いを嗅ぎつけたコヨーテに肉をやられないために、代わりに置いておくのだ。

真夜中、谷間のむこうからコヨーテの遠ぼえを聞いた。やがて彼らは庭においたはらわたにありつくだろう。私は、カーテンの隙間からでもコヨーテに見られぬよう、レールの端まで布を引いた。


二週間後、東海岸に住む私に、冷凍パックされた背肉が送られてきた。肉のパックをナイフで切り裂いたときにあがってきた草の臭いに、あわてて発泡スチロールのふたをしめた。

半年後、5ポイントの角は見事な剥製となって送られてきた。台に打ちつけられたメダルには私の名と日付が刻印されていた。