2012年3月1日木曜日

関西三原則(原 瑠美 作文)

ガラス張りのエレベーターで、人々が騒ぎだす。夜の渋谷の街の向こうに、ライトアップされたスカイツリーがぼんやりと見える。最後に入っていった私がその輪の中に加わると、さっきパーティで知り合ったばかりの女の子が嬉しそうにこちらを振り返る。「関西の方ですか」と聞かれて「はい」と言うと、目を輝かせて「やっぱり」と笑う。

スカイツリーを指差されて、「ほんまや」と大阪弁が口をついて出た。もちろん隠しているわけではないが、ことさら出身地を主張したいわけでもない。しかし、日頃そんなどっちつかずなスタンスでいると、このような状況になった場合にとっさに反応できない。相手は笑顔で何かおもしろい話を期待している。私は幼い頃から引っ越しが多すぎて、そんなにどっぷり関西人であるとは言いがたい。いまは大阪の北の端に両親の家があるというだけで関西とつながっているような私が、下手におもしろおかしく関西を語ろうものなら、次に道頓堀を通るときに袋だたきにあいかねない。でも、ちょっと試しにやってみようかな。きれいなおねえさんをがっかりさせるわけにはいかないし。

関西ではどんなに物静かな人でも、一日に最低五回はツッコミを入れる。相手が何かふざけたことを言ったときに、「なんでやねん」とやるのが基本形だ。ツッコミがないと恋人が急に冷たくなったときのようにションボリしてしまい、逆に想定以上に厳しいツッコミをされるとちょっと傷ついてしまうのが関西人である。ツッコみ、ツッコまれることを要求する社会では、どんなツッコミにも反応する柔軟さ、繊細さと、相手への細やかな気配りが必要となる。外部の人がそんなツッコミの機微に通じるようになるには長い時間がかかるが、以下の三つのポイントを押さえておけば、差し当たっては大丈夫なのではないだろうか。

まずは「オッサン」という名詞の使い方。これは中年男性を意味する元々の用法の他に、十五歳以上の男女に親しみを表す言葉として用いられることも多い。私は中学、高校の頃から実際によく使っていた。特に若者や女性に言う場合は、「おやじじゃないのにおやじくさい」というニュアンスが加わるので、言われた本人は、「オッサン言うな」や、「オッサンちゃうやろ」などとさらにツッコミを返すことができて、楽しみふくらむ言葉なのである。母の父は中年に達したとき、「オッサン」と呼ばれるのがいやでこの言葉を撲滅しようと、手始めに娘が口にするのを一切禁じたらしい。でもそういうときは、人に言われる前に自分から言ってしまうのがよい。「わしももうオッサンやからなあ」なんて言うと、誰かが「え、まだまだいけますよ!」と根拠のない励ましをシャウトしてくれるか、「わしの方がオッサンやで!」と自分の持ちネタに持っていこうとしてくれるはずだ。

次に、「おいしい」という状況を表す単語について。自分の発言や行動によって笑いが取れたときや、思いがけず注目されることになった場合に使われる言葉で、「あんたそれちょっとおいしいんちゃう」なんて言われた日には、もう、うはうはだ。これは窮地に立たされた人に、なんとか希望を持たせたいときにも使える。例えば、人前で何か恥ずかしいことをしてしまって落ち込んでいる友達に、「ええやん、逆においしいやん」と言って励ます。ただ、状況を瞬時に読んで絶妙のタイミングで言わなければならないので、これは上級テクニックと言える。しかし相手が「せやな」と言ってくれ、一緒に笑い合えたときの満足感は、何ものにも代えがたい。ふんだりけったりなことがあっても、それを人に話しておもしろがってもらえれば、関西人はそれだけで満足なのである。

「おいしい」状況を作りたいという欲求が無意識下にまで定着してくると、ただおいしくなるために、「言いたいだけ」で何かを言ってしまう現象が起こってくる。そんなあざとくも愛すべき性質にツッコミを入れるのが、三つ目のポイントだ。ちょっと経験を積むと、誰かが「言いたいだけ」で発言している場合が自然とわかるようになる。一度笑いを取ることができた表現を、繰り返し使っている人はあやしい。最近、同僚の女の子が、「私は玉の輿に乗るんで」と冗談で言ったときに、上司が「石油王つかまえるの?」と聞いてまわりがどっと笑ったことがあり、それ以来、その上司は何かにつけて「石油王」という言葉を使いまくっている。これはまさに言いたいだけなので、「言いたいだけですよね」と言ってあげるのがよいのだ。

エレベーターを降りると、渋谷の雑踏にまぎれて一緒にいた友達の大半とはぐれてしまい、おねえさんにも別れの挨拶をすることができなかった。今度会ったときは期待に応えて楽しませてあげることができるだろうか。

それにしても、注目されてちょっとおいしい状況になったからって、言いたいだけでこんな作文まで書いてしまった。私ももう、オッサンやな。