2012年8月18日土曜日

海の美しい<浜辺>に(作文)


ああ海が見たいんだ、と気づく瞬間の妙にしっくりくる感じ。どうして、と次に問う声もすっかり呑みほしてくれるから、わたしはどうしても海が見たい。面倒な説明を一番向こう側へと追いやって、足はもう、潮のにおいのする方へと、ひと足先に向かっている。
 一年のはじまり、一月の終わり。卒業論文の提出締切を目前に、溜め込んだ言葉で消化不良を起こし、同じく白い顔を木枯らしにさらしてげっそりしていた友人Nと、江の島へ向かった。冬に江の島へ行くのは初めてだった。特に目的はなかったので、おいしい鯖でも食べにいこう、とだけしめし合せて、江の島行の切符を買った。書くことに行き詰って思いつめていたからか、普段は過剰に上乗せされる海への期待を準備する間もなく駅に降り立ち、ごく自然に道路の向こう側に海の気配を感じながら、横断歩道の手前で、信号が青く切り替わるのを気長に待っていた。
 幅の広い道路は片瀬海岸に沿って湾曲しながら一本、気持ちよさそうに、けれども少し気だるげに伸びている。そこへ、駅の方から続く中道がT字に交わり、その一画にある店先には生しらす丼、地魚のなめろう汁、鮪ほほ肉の竜田揚げと、読みあげたくなるような文字が躍る。ちょうどお昼を過ぎたころで、店の奥からは調理場の熱気が絶えず漏れ出してくるようだった。となりで信号待ちをしていた恋人同士が、気がつけば店の暖簾をくぐっている。道路の向こう側には、海の気配。少し前に、コンクリートの塀より上にチラとその一部を見たような気もしたし、高いところからすっと伸びている空の濃く垂れこめた部分を海と勘違いして、ほんとうはまだ海を目にしていないのかもしれなかったが、どっちでも構わなかった。とにかく、海は近い。経験から確信するのではなかった。初めて会う人のように新鮮で、しかも昔から隣にいたかのように親しげな、内側からどうしようもなく疼いてくる感じが、近づいてくる海との距離を、精確に伝えていた。いつかのあの感じを取り出してきて、全身でその場にそれを感じる、それを見る、それを嗅ぐ。海はいつも、そうやってわたしを別の場所へと密かに繋げた。
 
アントワープ。もうひとつの海岸線。信号待ちをしていると、広い道路に観光客むけの馬車が現れた。自動車を軽々と見下ろす白毛と栗毛の大きな馬が二頭、舗装された硬い道を鳴らしながら闊歩する。動物と機械が、道路の上で横並びになる。
三日前の夜にブリュッセルに着き、予約しておいた安ホステルが見つからず、重たい鞄を背負って夜中の二時過ぎまで見知らぬ街をさ迷い歩き、何とかして見つけ出した別のホステルに、二夜分のベッドの確約をとった。アントワープを訪ねた日、すでにブリュッセルに帰る場所はなく、駅に荷物を預けて、夜中にイギリスへと出航する船に乗ることになっていた。
広場と広場を繋げる迷路のようなブリュッセルの街並みにくらべ、アントワープでは方角が明らかだった。駅から港の方まで、道はほぼ例外なく縦と横に走る。港に歩を進めるごとに、街はころころと表情を変えて脈絡がない。アントウェルペン中央駅から、人気のないコンクリートの道路。そこへダイヤモンドの商店が立ち並ぶ通りが何の気もなく現れ、ほとんどシャッターの閉じられた店先には(いつか見たギャング映画に映し出されたいかがわしいダイヤモンド街の活気は見られなかった。休日にダイヤは売らないのか)小声で立ち話をする男たちが点々としている。すると今度は道が大きくひらけて、手足の細い女の子たちが腕にショッピングバックをぶら提げ、街を鮮やかにかき回す。ところが大通りから気まぐれに小道へと逸れると、一変して色調は下がり、着工してどれほどの月日を経たのかもあやしい建設現場が、グレーのシートに覆われて黙っている。何も被っていない建物も、色形が疎らなレンガとガラスの重なりで、風の抜けない場所にあっては風化も出来まいと、同じくじっと身じろぎもせずに、何かを待っているようだった。
横切ってゆく馬車を見送り、道路の向こう側へと踏み出す。横に広く走る道路は、馴染みのものを予告していた。日が、港の方にぐんぐんと傾いていく。古い建物は日陰からぬっと顔を出し、然るべく風化の作用を受けて、赤茶けた砂の城に似た。馬車も建物も大きくて立派だった。立派であればあるほど、地面から少しだけ浮いたおもちゃのように、どこかはぐれてしまったような印象を与えた。

繰り返し打ち寄せる波音が耳の鼓膜を支配して、繰り返し訪れる記憶の断片をばらばらの場所に置き続ける。あの時とは、どの時だったのか、足の下に、砂浜はあったのか、なかったのか、道路が繋いでいたのは、どことどこだったのか。行き着くことが帰ることにぴったりと寄り添う時、人はやすらかに顔がない。そうして顔をなくしたのっぺらぼうが、気がつけば店の暖簾をくぐっていて、おいしい鯖を頬張っている。