2012年8月18日土曜日

いつか<虹>色にそまる(原 瑠美 作文)


思わず笑ってしまった。
「原さん、虹の根元にはねえ、おっさんが七人ずつ立って照らしてるんだよ。ライトで。」
 そういったのは出張で岐阜に行ったときに同行した担当者で、私たちは仕事が終わってオフィスに戻る車が山道にさしかかったときに、夕空におおきな弧を描く虹(しかもダブルレインボー!)を見たのだった。その年は寒さがなかなか来なくて、京都に紅葉を見に行ったのにまだ青々としていたなんて話をよくきいたが、岐阜の山中では十一月も下旬となるとさすがに木々は美しく色づいていた。ゆるやかな下り坂の道の先は、重なりあって伸びた黄色い葉に隠れて見えない。こっちの山からあっちの山へ、橋を渡すようにくっきりとかかった虹の下を車はくぐっていった。
 「岐阜の伝説だよ。」おちゃめな担当者がそういうので、私はまた笑いながら外の景色に目をうばわれていた。
 それまでは虹というのは雲から雲へとかかるもので、雲が手の平のように上下左右に移動するにつれていろいろな形の虹ができると勝手になんとなく想像していた。もちろんそんなはずはないのだが、私は自分のいんちきセオリー以上のものをこれまで求めたことはなく、虹について深く考えてみたこともなかった。しかし夕立のあとの晴れ上がった空に浮かぶそれを見ていると、たしかに「根元」がどうなっているのか気になってくる。岐阜の虹おじさんたちはそれぞれ手に色のついたライトを持って、定位置に立っているらしい。虹は左右のライトから照らされ、対応する色どうしの光線が空中でくっつく。正確さを要求される、たいへんな作業だ。
 絵本作家のデビッド・マッキーも、虹の根っこに注目している。『エルマーとにじ』では不思議な白い虹が現れ、ほかの動物たちがこわがるなか、パッチワークのカラフルな象のエルマーだけが勇敢にも虹の根元を探しにいく。色をなくした虹に自分の色を分けてあげようというのだ。ついに見つけた虹の端にエルマーは近づいていくが、そこでなにが起こっているかは描かれない。想像力がかきたてられるシーンだ。
 虹の両端に思いを馳せることは、その一方を頭、もう片方を尾ととらえる感覚にも容易につながっていくが、世界には虹をヘビだと考える文化もあるらしい。とくに有名なのがオーストラリアのレインボー・サーパント、虹ヘビだ。アボリジニの言い伝えによるとこの虹ヘビがなにもなかったところから世界を創り、地下で眠っていた生きものを地上に連れてきたのだという。まったいらだった大地に虹ヘビが頭を打ちつけると土がえぐられた場所が池になり、盛りあがった土は山になり、するすると細長い体が通った跡は川になった。日本でも古来ヘビは水の神として祀られることがおおく、ヤマタノオロチなどの大蛇伝説もあるが、大地の凹凸や水の流れを見てその由来を空に見出した人々の目とそこから語り継がれる物語は新鮮なおどろきをくれる。
 それぞれなんの歴史的、地理的関連もなく、最初のものなんて突拍子もない発想でしかない虹伝説だが、こうして並べてみると糸のようにつながっていく感じがしておもしろい。まったく異なるようで境界線がどこにあるのかよくわからない色の集合体である虹の性質が、脈略のない遊び心を刺激してくれるのだろうか。
 最後に虹を見たのはいつだったか、思い出せない。しかし印象的な虹の記憶は時間軸を無視してぽんぽんと頭に浮かんでくる。ホノルルで、海に背を向けて山のレストランへと向かうバスから見た虹。屋久島で、これまたバスの窓から運転手に指差されて見た海に浮かぶ虹。ダブルレインボーにおかしいほど感動している男が撮影した動画がYouTubeにアップされていて、友達が送ってくれたそのURLをクリックしてパソコンの画面で見た虹、虹の映像。ちいさいころ、はじめて見た虹(「はじめて」の記憶は思い出すときによって変わるくらいあいまいでいて、強烈でもある)。おおきくなって新しい国に住みはじめて、そこではじめて見た虹。
 ふと見上げて虹が見えたら「あっ」といってしまう。思わず笑顔が広がるのを感じるのは、私のなかにも虹伝説の種がころがっているからだろうか。そこからいつか芽が出るとすれば、独立した色ではなく、色と色のあいだの微妙な調子を持ったものになればいいと思う。世界中の伝説とつながれるように。
 夏前に買って愛用している半ズボンについているベルトをキュッと締める。暗いモスグリーンの生地に、虹色のベルトがよく映える。その端にはおじさんも象もいない。いまのところ。