2011年2月12日土曜日

子ども病棟で過ごした日々 (近藤早利作文)

小学校六年生の年の十月のある朝。遠くの方から、今日が秋祭りであることを知らせる太鼓の音が聞こえてきた。布団の中で、だんだん目が覚めてきて、今日は僕も一日お神輿をかつぎ、太鼓を叩くのだと思っているうちに、呼吸が苦しくなってきた。吐き気もこみあげてきて、僕は窓を開けて嘔吐した。 

それから、二ヶ月くらいの間、母は僕をあちこちの病院へ連れて行ってくれたが、原因ははっきりしなかった。十二月のはじめに行った国立療養所恵那病院では、検査入院をするようにいわれ、結果的にはそのまま十五ヶ月を病院で過ごすことになった。

この病院は、昭和十七年に傷痍軍人岐阜療養所として設立された古い施設で、小高い丘の上にあった。戦後は結核患者や長期療養を必要とする者が多く入院していた。僕が入った時は、子どもたちは建ったばかりの新館病棟の一角に集められていた。入院している子どもの病気で、もっとも多いのがネフローゼという腎臓の病気。次に気管支喘息。僕の病名は急性肝炎で、他に慢性肝炎の子が二人。再生不良性貧血。骨折など外科患者もいたが彼らは一直線に回復していくので入院患者といっても別種族だった。結核の子が大勢いたはずだが、別の病棟に隔離されていたので、ふれあうことはなかった。 

病院に隣接して、といっても歩いて10分ほどかかるのだが、岐阜県立緑が丘養護学校があり、病院と連携して学業の遅れが最小限になるように配慮されていた。病状が安定している子や、発作さえでなければ普通の子どもと変わらない気管支喘息の子は、毎朝、パジャマから普段着に着替えて学校へ行って授業を受ける。それが許されない子には、医師が許してくれた時間数だけ先生たちが病床まで来てくださって、一対一か、少人数のグループで授業を受ける。

かなりの子どもたちに、副腎皮質ホルモンが投与され、副作用で顔がまん丸にふくらんでいた。腹水が溜まってお腹がドッジボールみたいにせり出している子もいた。僕の顔もまん丸になった。毎日徐々に変化していくので、自分では大きく変わったとは思っていなかったけれど、見舞いに来てくれたクラスメートや久々の帰省で顔を見せてくれた兄たちは言葉を失ったようだ。僕たち、とりわけ女の子にとっては、いかに早く副腎皮質ホルモンの投薬から逃れるかは重要な問題で、多くの子どもたちが、自分で薬の量を徐々に減らしたりもした。

今では想像もつかないことだけれど、病棟にはギターの持ち込みが許されていた。長い髪を額から頬にかけた隣の部屋の安藤君が、ガットギターを弾きながらアメリカのフォークソングを歌っていた。安藤君の友人たちが、学校帰りに立ち寄って小さなセッションをすることさえあった。僕も、親にねだってヤマハの一万五千円のガットギター買ってもらった。回診に来た主治医の伊藤先生が手にとって、いきなり「湯の町エレジー」のイントロを弾いて見せてくれた。先生は名古屋大学の医学部の出身で「学生時代、学費を稼ぐために名古屋の栄町で流しをしていたんだよ」とのことだった。小さなラジオとレコード・プレイヤーを置くことも許してもらい音楽は、入院中に僕に親しいものになっていった。  

入院してしばらくすると、未成年の患者だけが古い病棟に移され、そこは「子ども病棟」と呼ばれることになった。戦争で傷ついた兵隊さんたちが長く療養したという古い木造の平屋建て。窓の外には、広い庭があって、天気のよい日は、パジャマのまま庭に出て、紙飛行機を飛ばして遊んだりした。僕は、学校へ通うことはまだ許されていなかったので、病床まで先生が来てくださった。小学校のときは、ご自身も心臓疾患で入院しておられた安藤太郎先生。中学に入って、英語は、ご自身もカリエスを患われたことのある堀井先生。数学は若い女性の加藤先生。英語と数学は、遅れると追いつくのが大変だからと時間を優先的に割り振っていただいた。おかげで、この二科目は自分のペースでどんどん進み、まったく遅れずにすんだ。国語は教科書を自習。後は、母に頼んで買ってきてもらった本を読むだけ。暮らしの手帖社の「からだの読本」は全巻熟読した。小説は遠藤周作ばかり読んでいた気がする。社会科は「後で暗記しておいてよ。履修したことにしておくから」ということであった。だから、僕は中学一年生で習ったはずの地理にいまでも疎い。

子ども病棟に配された看護婦さんたちは、みんなやさしかった。新館では男の子に圧倒的な支持を得ていた工藤さんが、子ども病棟の担当にならなかったことで、みんながっかりしていた。時々、用事もないのに新館へ行って廊下にある車椅子で競争をしながら、工藤さんの近くにいって視線を合わせてもらうだけでどきどきしていた。でも僕の本当の憧れは、工藤さんよりもう少し年上の藤井さんだった。

彼女たちも、大人の患者を相手にするよりも気楽だったのだろう。消灯時間を過ぎても眠れないで、看護婦詰所(当時はナース・ステーションなんていわなかった)へ行くと、長い間、遊び相手になってくれたことを覚えている。置いてある聴診器の使い方を教わったり、医学用語辞典から、わざと際どい言葉を選んで「これ、どういう意味か教えて」なんていったりしていたのは、栴檀は双葉より芳し、いや、こういう場合は、三つ子の魂百までと言うべきなのか。

お正月や旧盆には、病棟の子どもたちの多くは、短くても一泊、退院間近の子は試験運転として一週間ほどの外泊を許された。僕はといえば、入院から八ヶ月が過ぎた旧盆にも外泊を許可されなかった。病棟で一泊も許されなかったのは僕だけだった。朝から、友人たちの親や兄弟が迎えに来て、病棟からは一人、二人と人が減っていく。最後の一人が帰って行き、そして日が暮れて、病棟は深閑とし、僕はひとりだった。母が、ある時間までは来てくれていたかも知れないが、記憶には残っていない。やがて消灯時間になって、部屋には、窓ガラスから差し込む庭の照明の薄明かり以外に何もない。横になってじっとしているが眠れない。起き上がってベッドに座っていると、入院して初めて、涙が溢れてきた。お正月も自宅で過ごせなかった。お盆も家に帰してもらえなかった。それがつらいのではなかった。日本には何千万人も子どもがいるだろうに、どうして「この僕」だけが選ばれたのか、それがわからなくて、いるのかどうかわからない神様を呪い、そして祈った。ひとしきり泣いて、灯りをつけて本を読んでいるといつしか眠ってしまった。

秋口になって、急に体調が悪くなった。寝ていると、突然、鼓動が激しくなって息もできない気がして、入院して初めてナース・コールのボタンを押した。脈拍数は二〇〇を超えていて、このまま死ぬかも知れないと思うほど苦しいことが二度ほどあった。これは肝炎とは関係のない心因性のものだったようだが、同じ頃、激しい吐き気が襲ってきた。鏡を見ると白目が黄色くなっていた。このまま、どんどん病気が重くなって死んでしまうのかなあ、と思った。

病棟にいると、死は身近なものだ。結核病棟の誰それが亡くなったそうだ、という話が数ヶ月に一度は流れてくる。結核は治ったが、喘息が治らずこちらの病棟に移ってきた晴美ちゃんが、急に具合が悪くなって、そのまま帰ってこなかったことがある。小さくて色が真っ白で髪が茶色で囁くくようにしゃべる小学校一年生の卓くんも、いなくなった。一般病棟から僕の隣室に運ばれてきたお年寄りが、明け方具合悪くなって、未明から看護婦さんや医師が入れ替わり出入りしたが、急に静かになってお亡くなりになったことを知ったこともあった。

そんな風に死は身近なものだった。ある日看護婦さんに「死んじゃった人は怖くない?」と聞いたら「怖くないよ。死んじゃった人は何もしないから。生きてる人の方が怖いよ」と言われた。

その時期は、大きく恢復するために必要な落ちこみだったのか、その後、検査結果が、劇的によくなった。十二月のある日、伊藤先生から「年が明けたら養護学校へ通っていいよ。三月まで行ってみて、大丈夫だったら、退院して、四月から地元の学校へ行けるよ。」といわれた。

そうして、その言葉どおり、僕は、中学二年生から、明智中学校に復帰することになった。学力テストも何もなく、校長先生が面接して「これなら元の学年にいれていいな」それでおわり。

このようにして過ごした子ども病棟の十五ヶ月は、明らかに僕の本質を形づくっている。まだ、世の中を覆うシステムの網目が緩やかだった頃の、懐かしく、今では「幸せだった」といってもいい日々の記憶。