2011年5月23日月曜日

わたしの近視眼的世界 (大塚あすか作文)

小学生の頃、通知表の「わすれものをしない」という項目の評価は決まって「がんばりましょう」だった。要するに最低評価。「忘れ物がとても多いので気をつけましょう」という意味合いである。

いつのまにか、持ち物を忘れることはへった。大抵の子供は成長するにつれて要領がよくなっていくもので、多分にもれず、わたしも出かける前に荷物を再確認する習慣を身につけたのだ。一方、根本的な覚えの悪さ、忘れやすさはいかんともしがたく、今でもわたしを苦しめ続けている。

わたしの目に映る世界は、常にぼんやりとしている。二十年来の付き合いである強度の近視と乱視が原因で、コンタクトレンズで矯正していても、すぐに疲れて視界がぼやけてしまう。目の前に広がるのは漠然としたイメージのかたまりで、外を歩けば顔のぼやけた人間があちらこちらを動いている。よっぽどコンディションのいいとき以外、細かな顔の造作まで識別することはむずかしい。視力が低下しはじめた十歳の頃から、このあいまいな映像の中を生きてきた。そのせいで――と少なくともわたしは信じているわけだが、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。病的といっていいほどに。

よっぽど印象的な相手以外、数回顔をあわせた程度では人の顔を覚えられないわたしに対して、家族や友人は「視力の問題じゃなく、それって、他人に興味がないってことなんじゃないの」と辛辣に言い放つ。認めてしまうのは悔しいのでとりあえず否定はするけれど、確かに視力が悪い人が誰しもわたしのような悩みを持っているわけではなさそうだ。

この四月、人事異動で新しい上司がやってきた。赴任初日に親睦のため同じ仕事をしているグループでランチに出かけ、まだ打ち解けない雰囲気の中食事をしていると、彼がおもむろに切り出した。

「大塚さんとは、県人会で会ったことがあるよね」

こういう不意打ちをくらうと頭が真っ白になる。硬直状態から必死に体勢を立て直し、「どうも、ご無沙汰しています」と適当に話をあわせるか、「ごめんなさい、覚えていないんです」とへらへら笑って謝るか、その場の空気を読みながら決断する以外に方法はない。

今どき珍しいかもしれないが、わたしの勤め先では同郷の人間が友好を深めるための県人会が盛んだ。相当数が働く組織なので、ほとんどの同郷人とは普段の仕事で関わる機会がまったくない。たまにしか会わないから、いつまで経っても誰が誰だかよくわからない。いっそ写真付き名簿でも配ってくれれば一生懸命勉強するのに。

いろいろな場に誘ってもらってもまったく顔が広くならない理由の第一は、この記憶力の貧弱さだと確信している。接客業なら致命的だった。いや、接客業でなくとも無意識に非礼を働いてしまうことが多すぎて、世の中を渡っていくには大きなマイナスである。顔を覚えていない相手には、当然ながらすれ違っても会釈すらしない。相手がわたしのことを知人だと認識しているのだとすれば、どう考えても無礼な振る舞いだ。

日常的に顔をあわせない面々とお酒を飲むことになって現地で合流ともなれば、緊張も最高潮。個室のお店ならともかく、たくさんのグループが混在しているだだっぴろいフロアで、「知り合いなんだから、ここまで来ればわかるだろう」とばかり案内の店員に放りだされた瞬間、自分がどのテーブルに行けばいいのかわからず立ちすくんでしまう。誰かがこちらに手を振っているように見えて、だったら多分知り合いなのだろうと振り返したところ正真正銘の見知らぬ人で、怪訝な顔をされてしまったことも一度や二度ではない。映画が好きなのに俳優の顔を覚えるのが苦手なので、「この人どこかで見たような気がするんだけど、気のせいかな」というもやもやした気持ちをエンドクレジットまで引きずり続けることも日常茶飯事だ。

覚えることが苦手なだけならともかく、忘れることだって得意だ。大学生の頃、夏休みがあけるたびに友人の名前が思い出せなくなっていて途方に暮れた。盆正月に親類が集まる場で当たり前のように話しかけてくる相手の半分近くについて、実はそれが誰だかわかっていない。

切々と悩みを訴えたところ、「イメージで覚えるんだよ。特徴を覚えるの」と、人の顔を覚えるのが得意な友人が教えてくれた。そういえば、人事を長くやっていた上司が以前、面接では後でどういう応募者だったか思い出せるように、簡単な似顔絵を残すようにしていると教えてくれた。どうやら冗談ではないようで、入社してずいぶん経ってから、書庫の整理中に採用関係の資料を偶然目にしてしまった先輩は、そこに自分の似顔絵を発見した。

「丸描いて、その真ん中あたりにちょんちょんって目鼻が打ってあって、横に『寄ってる』って書いてあるの。ひどいよね」

笑いながらこぼす彼の顔は確かにパーツがぎゅっと中心に寄っていた。

イメージで覚えるというのは確かに効果的だろう。似顔絵を描くのがうまい人は皆、人の顔を覚える能力に長けている。が、人の顔を特徴づけて認識できるからこそ、記憶もできれば似顔絵も得意になるわけで、そもそもの映像認識能力が貧弱なわたしは、折角のアドバイスも活かしようがない。

だが、よくよく考えると覚えるのが苦手なのは人の顔だけではない。電話を切った後で相手の言っていたことをメモに起こす同僚は多いが、なかなかその真似ができない。話を聞きながらメモを取らないと、新しい言葉が耳に入るたびに直前に聴いたことがどんどん頭から抜けていって、電話を切ったときには相手の名前すら思い出せないのだ。

本や映画の内容も、観ただけ読んだだけ、絶え間なく忘れていく。印象に残ったシーンや漠然とした作品全体の手触り、好きだったか嫌いだったか、断片やイメージだけが頼りなく手の中に残る。

例えば「ホビット庄」。

ずいぶん昔、気が遠くなるほど長い話を必死に読んだ記憶があるのだけど、『指輪物語』が映画化された際に頭の中を探ってみたところ、からっぽの底からようやく見つけ出せたのは「ホビット庄」という単語ひとつきりだった。多分語感が面白かったので鮮明に記憶に残ってしまったんだろう。当然その単語が何を指すのかは、覚えていない。あれだけ時間と労力をかけて読んだのに。

例えば村上春樹。

わたしは彼の世界観のある部分にはとても惹かれながら、別のある部分が鼻についてしかたない。いくつかの短編はとても好きだけど、多くの長編をさほど好きになれなかった。しかし、彼の長編のうち『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だけはとても好きで、もう十年以上にわたって、おおむね一年に一度読み返している。とても人気のある初期の代表作だから、読んだことのある人は多いだろう。

そう、あれ。「やみくろ」の出てくる。「やみくろ」が出てきて、「ぼく」と「やみくろ」が……えーと。ああ、そうそう、わたし、あれを最初に読んだとき、安部公房の『密会』みたいな小説だと思ったんだ。なんだか『密会』っぽいの。え、『密会』読んだことないんだ。どんな話かって。ええと、確か病院で、馬男と骨の溶ける少女が出てきて……カイワレ大根が、なんだっけ。

万事この調子である。

さすがに、こんな部分まで近視のせいにすることはできない。さんざん言い訳をしてきたけれど、要するにわたしは記憶力が心もとない人間だという、ただそれだけ。覚えることが苦手で、忘れることが得意で、いつもあいまいな記憶を、ふわふわした頼りない世界を歩いている。

なんだか切なかったな、なんだかわくわくしたな、そんな手触りだけを頼りに映画や小説と付き合っていくのは悪いことばかりではない。何度も繰り返すことで、以前感じたことを再確認できる場合もあるし、新しい発見ができる場合もある。同じ作品を何度だって新鮮な気持ちで繰り返すことができる。

わたしは今年もきっと、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返すだろう。『密会』を読み返すだろう。そして、すぐさま忘れてしまうだろう。もしかしたら、これらの小説のことがとても好きだから、読み返すためにわざと忘れているのかもしれないと思うくらいに。

そんな風に強がって、でもやっぱり、本や映画を味わうのと生活していくのは違う。できることならば、もう少しだけ人の顔を覚えられるようになりたい。そうすればもう少しスムーズに生きていけるんじゃないか、もう少したくさんの人とうまく付き合っていけるのではないか。出会い直すのも悪くはないけれど、誰かわからないけど面白い人たちと会ったな、という気持ちだけを頼りに人と付き合うのも面白くはあるけれど、それはどちらも実生活には不向きな発想だ。

これは視力のせいではない、多分そう。あきらめながらも、レーシック手術で視力を矯正したら、人の顔を覚えることができるようになるのではないか、などとときどき妄想してみる。