2010年12月20日月曜日

声に出して読みたい太宰治 (大塚あすか)

「あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」――そんな文章からはじまる小説に、すこんと足下が抜けた。手に取る機会を逃し知識だけ頭に蓄え、今さら読んだことないというのも照れくさい、という気持ちの裏返しだったかもしれないが、太宰治は読まず嫌いだった。メロスってなんか暑苦しそうな奴。「生れて、すみません」なんて、いけすかない。そんなイメージだけで頑に敬遠してきたのに、『女生徒』であっさり落っこちた。

朝目覚めてから夜眠りに落ちるまで、ある一日に女学生がつらつら思うそのままを書き散らしただけの短編に、なにしろ驚いた。いくら女々しく繊細だとしても、男の太宰が愛らしく子憎たらしい女学生の自意識をなぜこんなにも瑞々しく書くことができるのか。そしてこの文章は何なんだと。思わず声に出して読み、その音にまた身悶える。

文章を不十分な表現手段だと思う頃があった。だって、文字だけじゃない。漫画だったら絵も字も使える。歌にはメロディがあるし、映画なんて、映像も音楽も言葉だって! それに比べて文字だけって、なんて寂しい。足りない。もどかしい。万が一そんなことを考えている人がほかにいるなら、まず『女生徒』を読むことだ。ただ並んでいる文字が、ときに絵となり音となり、それ以上の何かをもって感覚を刺激するのを味わうべきだ。言葉の並びに、日本語のかたちそのものが持つやわらかさ美しさを視覚で再確認する。少女の独白のなんとも言えないくすぐったさを肌に感じる。目で追うだけでもわかる小気味良いリズムは、こらえきれず口に出せば歌のように流れ出すだろう。

いくら少女ぶったところで、広告一文字あたりの値段に思いを馳せ、自らの言葉はすべて他人の本の受け売りなのではと思い煩う、よく読めば随所に作家売文家太宰の心情が吐露されているようで、また面白い。だからこそ、だ。いい大人の男である太宰が少女の顔で「朝は、意地悪。」なんて書くんだから、こちらが乙女ぶってこの作品を声に出しても恥ずかしいことなどあるものか。実際女学生なりし頃が遥か遠くなっても、わたしはときどき眠る前、『女生徒』の最後の部分を口ずさみたくなる。それは、こんな風。

「おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京のどこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。」

(太宰治『女生徒』角川書店、1954年)