2010年12月23日木曜日

二千五百年前の「教養」論議 (大洞敦史)

本書が世に出た一九九〇年は、大学改革の前夜にあたる時期である。翌年以降、従来多くの四年制大学に設置されていた「教養課程」が続々と廃止されていった。こうした情勢を受けて、当時筑波大学でギリシア哲学を研究していた著者が自らの専門領域において今いちど「教養」の価値を吟味したものが本書である。その主題は、紀元前五世紀頃のアテナイで活躍したプラトンおよびイソクラテスという二人の思想家における教養(パイデイアー)の概念の比較にある。

イソクラテスという名は今日ではほぼ忘れ去られているといってよいだろう。彼はプラトンより九つほど年長で、プラトンが哲学学校「アカデメイア」を創立するのに数年先立ち弁論・修辞術の教育機関を同じアテナイ市内に開設していた。その学校は「一定の理念のもとで一定の場所において高等教育が授けられたという意味で〔中略〕プラトンの学園アカデメイアとともにギリシア世界における最初の高等教育機関」であったとされる。彼はここを根城に教育活動に励む一方、行政についても活発な発言を重ね、九八歳で大往生を遂げる寸前まで精力的に働いた。九四歳のとき長編論文『パンアテナイア祭演説』にとりかかり、四年後に完成させたという記録が残っている。

元来「養い育てる」という意味合いだった「パイデイアー」という言葉を、プラトンとイソクラテスは「徳(アレテー)をめざす教育」の代名詞として用いた。「有徳の士」の育成が「パイデイアー」の目的であることは両者の間で共通していたものの、徳という概念の内実や、それへと至るための道筋は、まるで異なるものであった。

イソクラテスにおける徳とは「善き思慮」と「善き言論」である。言論にかかわる能力をひとすじに練磨していくことこそが彼の考えるパイデイアーであった。一方プラトンにあっては「無知の無知」および「魂の不調和」と呼ばれる魂の欠陥を除去し清めていく事が「パイデイアー」であり、その具体例の一つは『国家』に記された数学や天文学を基礎とする「哲人王教育」である。

二種類の「パイデイアー」は、お互いに拮抗しながら後世の西洋世界に受け継がれていった。キケロやペトラルカが説いた人文主義はイソクラテスの伝統に、数理科学はプラトンの伝統に連なる。今日の日本の教育機関では後者が優勢のようだが、それも「パイデイアー」の片割れであってみれば、それほど嘆くべき事でもないのかもしれない。

(廣川洋一『ギリシア人の教育——教養とはなにか』岩波新書、一九九〇年)