2011年10月6日木曜日

「内側に巣くうもの」(岩井 さやか 書評)

折しも今日は台風一過の抜けるような青空の下でこれを書いているのだが、何かをすこーんと解き放ってくれるようなそんな読後感の小説だった。読みながら、自分の思春期を、内部にとぐろを巻いていた得体の知れない怪物のような苛立ちを持て余し、いたずらにそれを解き放ってみては、傍にいた母親ばかりがそのとばっちりを受けていた日々の事を思い出した。そして吐き出しても、吐き出しても内部に抱えたどろどろとしたものは、一向に消えなかった日々の事を。

この物語の主人公も、思春期の真っただ中にいる女子高生だ。家族の前ではものすごくいい子を演じているが、本当はそれが自分がかぶっているお面にすぎない事を知っている。日々、自己嫌悪の嵐が、内部に激しく吹き荒れても、そう簡単には思いを吐き出さない。攻撃の矢を外に向かって放っても、それが結局は自分に向かって返ってくることを知っている頭のいい子なのだ。だからコーヒーを飲んでは心を落ちつけているが、カフェイン中毒からも脱却したくて、熱帯魚を飼うことを思いつく。癒しの効果を期待して渋る母親を説得した彼女は、毎夜水槽の前でほぼ寝たきりの呆けた祖母と不思議な時間を持つようになる。深夜、水槽の前でだけ祖母は覚醒するのだ。

この物語では、祖母が思春期だった時代、そしてその思春期だった祖母から見た、そのさらに祖母の姿も同時並行で描かれている。年を重ねた人間の凜として生活を切り盛りしていく姿、少々の事では動じない力強さ、近すぎる存在である母親とは少し違う心地のよい距離感、核家族では味わえないもう一つ上の世代の存在が家の中にいるという安心感とそこから学べることの多さをこの物語を読みながら私は噛みしめた。かくいう私も17歳で祖父母と同じ屋根の下に住むことになって、その存在にだいぶ救われたのである。思春期、真っただ中の女子からみれば、全てを超越しているかのように見える祖母、しかしその祖母にもやはり同じように内側に抱えた何かを持て余しながら過ごした思春期があった事をこの小説は教えてくれる。

水槽という装置はなくても、最近めっきり年を取り弱々しくなった私の祖母と彼女の昔の話をしてみよう、そう思った。年を取ったからといって内部に巣くう怪物はいなくなるわけではなくて、ただ共存の仕方を習得していくだけなのだという事が薄々分かりかけてきた今だから、話し合えることがあるかもしれない。

(梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』新潮文庫、1996年)