2011年11月17日木曜日

天の虫、天の竜(大洞 敦史 作文)

夏、大学院のゼミ合宿で釧路へ行くことになった。年末に企画されている「川から海へ」と題したギャラリー展示のための素材集めが目的のひとつだ。ところが日程がお盆の時期に重なったこともあって格安航空券などは手に入らなかった。そこで学生たちは鈍行列車を乗り継いで北海道に渡ることになった。東京駅を始発で発つと翌日の昼頃には北海道の千歳に着く。そこからはレンタカーで釧路をめざすという計画だ。現地では釧路川をカヌーで下ることをみんな楽しみにしていた。

せっかくの機会だったが、ぼくだけはわがままを言って、ひとり長野県の天竜川へ取材に行かせてもらうことになった。天竜川の起点に位置する長野県岡谷市や中流部に位置する伊那谷地方が、ぼく個人の研究対象にゆかりの深い土地であったためだ。ぼくはいま、一九五十年代に四日市の紡績工場ではたらいていた「女工さん」と呼ばれる労働者たちの作文サークル運動について調べている。彼女たちの大半は伊那谷の農家の出身で、中学校の卒業と同時に集団就職で工場へやって来た人たちだった。彼女たちが書いた作文には、戦中から戦後にかけての伊那谷での暮らしがしばしば題材として登場する。また彼女たちの母親の中には、十代の頃にやはり女工さんとして工場に出稼ぎにいった者が数多くいる。そのおもな行き先は平野村(現岡谷市)を中心に諏訪湖・天竜川一帯にひろがる製糸工場だった。当時の平野村は全国の生糸生産量の実に六分の一ほどをその一村で産出し、「糸都」と異名をとるほどに製糸産業で栄えた土地だった。無数の煙突が林立するさまは「諏訪千本」といわれ、「諏訪のすずめは黒い」などといわれた。煙突の周りには四階建て、五階建ての乾繭倉庫群がたちならび、のべ四万人の女工さんが働いていたという。

八月下旬のある日、新宿駅から特急あずさに乗ること二時間半、岡谷駅に着いた。雨雲が頭上に低く垂れこめていることもあってか駅前の街並みはひどく殺風景に見える。コンビニも見あたらない。まずは岡谷市立蚕糸博物館をめざすことにした。岡谷銀座と名のついたもの静かな通りを、空を見上げて歩く。どこかに一本ぐらいは煙突が残っていないかと思ったのだが、煙突のえの字も見あたらない。夕方近くになってやっと一本、銭湯の煙突を見つけただけだった。歩くこと十五分ほどで博物館に着いた。一階には糸繰り機や煮繭器といった、ほとんどが木製の、ものものしい道具がところせましと並べられている。二階は養蚕関係の品々と縄文時代の土器や土偶が展示されている。うろうろしていると、一人の中年紳士から「どちらから?」と声をかけられた。ここの職員さんだという。東京から来たこと、研究のこと、天竜川を舞台にした作品をつくろうとしている事などを伝えると、ずいぶん関心をもって聞いてくれた。なおかつ、ぼくがこのあと中山社という明治八年に創立された製糸会社の跡地を訪ねようとしていることを話すと、わかりにくい場所にあるからと、わざわざ手書きで地図を書いてくれた(たしかにその場所には地図がなければとてもたどり着けなかった)。

博物館の展示物の中で、ぼくがいちばん興味をもったのは水車だった。大きさはぼくの背丈と同じくらい。そもそもは山本茂美の『あゝ野麦峠』に、明治後半の天竜川畔には工場の動力源として大小とりまぜ百輌ちかくの水車が架せられていたと書かれているのを読み、またその一部がここに所蔵されている事を知ったので、一目見てみたいと思っていたのだ。あちこちに水車が架せられている川の光景はひどく愛らしいものとして想像された。しかも水量が少なくて水車が動かないときには、男の職工が足を使ってコマネズミのように一日中回していたという。川の上空を舞うトンビの視点から、人間たちが百輌の水車を一斉に回しているさまを思いえがくと、なんともひょうきんだ。水車を熱心に写真に収めているぼくを見て、先ほどの職員さんがぼくに「水車の動力がどんな風に使われていたか知っていますか」と聞いてきた。恥ずかしながら、ぼくはそれを知らなかった。彼は糸繰り機の前にぼくをみちびき、円形状でちょうど小さな水車のようにも見える、繭から紡ぎ出した糸を巻き取る部分を、からんころんと回してみせた。百聞不如一見。ただ赤面して、感嘆の息をもらすばかりだった。

職員さんはさらに、岡谷には今なお明治時代の糸繰り機を使い、人の手で繭から糸を繰っている製糸工場があることを教えてくれた。見学も随時うけいれているという。行かない手はない。職員さんに感謝を告げて別れ、中山社跡地を訪れた足でM製糸所に向かった。四十歳くらいの若旦那の案内で作業場に入る。繭を煮る匂いと水蒸気の充満する室内で、手ぬぐいを頭に巻いた七人の女性たちが、さきほど博物館で目にしたのとそっくりの機械の中に座り込んで、黙々と糸を繰っていた。彼女たちの頭の後ろでは糸巻きの輪がからからと回り続けている。糸巻き車輪と紡がれた糸と繭を煮る鍋のかたちは、地図でみる諏訪湖と天竜川と遠州灘の構図にそっくりだ。最年長とおぼしき方は七十歳前後だろうか。若旦那はその人の真向かいに立って「こちらの方は十代の頃から糸引きの仕事をつづけてきて……」などとぼくに向かって説明する。写真を撮ってもかまわないと若旦那が言うので、ぼくははにかみがちに「失礼します」と言って彼女にカメラを向けた。彼女は目線を動かしもせず、繭を煮る釜の上でてきぱきと両手を動かすだけだ。年配の方にまじって、若い女性が一人いた。ぼくよりも少し年下かもしれない。今はまだ見習いだという。彼女はいったいどんな経緯でこの仕事に就くことになったのだろう? ぼくは少しその年長の女性や若い女性から話を聞いてみたかったのだが、声をかけられる雰囲気ではとてもなかった。若旦那にみちびかれて隣室に移ると、二人の女性が自動式糸繰り機の前で作業をしていた。足元のバケツにはエメラルド色の繭がいっぱいに積まれている。聞けばこれらは遺伝子組み換えの技術を使って、クラゲの発光する遺伝子を組み入れた蚕の繭なのだという。いったいどんな需要があって、何に加工されていくのだろうか。

仕事の手を休めて三十分ばかり熱心に解説してくれた若旦那に礼を述べて工場をあとにする。半分夢から醒めきらないような気分で、銀座通りを駅に向かって引き返す。歩いているあいだ先ほどの女性たちの姿が、明治時代の機械にでんと座りこんで、ぼくが作業場にいるあいだ両腕以外微動だにせず糸を繰りつづけていた彼女たちの姿が、脳裏に焼きついて消えなかった。とくに半世紀以上ものあいだ、ああして指先で糸を繰り続けてきたあのおばあさん。生業に徹して生きてきた人間の重みが、田んぼの黄色い目玉風船みたいなぼくのたましいに、くりかえし銃弾のように食い込んでくるのだった。

次に寄ったのは照光寺という真言宗の寺だ。境内に「蚕霊供養塔」という高さ十メートルほどの塔がある。かたわらにかけられた木の板には「繭を結ぶは智慧の業、さて世の中に施興(ほどこし)の、功績を残し潔く、身を犠牲の心こそ、偲ぶもいとど貴しや、さらば諸人集りて、貴き虫の魂に、篤き供養を捧げつゝ、永久の解脱を願はなむ、南無蚕霊大菩薩」という経文めいた文句が筆書されている。この寺の和尚が書いたらしいが、蚕たちからすれば噴飯ものの鎮魂の詞なのではなかろうか。

蚕という虫は、なまじ見映えがして柔らかい糸を吐くばかりに、五千年を超える昔から徹底して人間に利用されてきた。卵から孵って成虫になるまでわずかひと月あまり、成虫になってからは飛ぶことも栄養を摂ることもできない。そもそも口といえるものがない。これは今日養殖されている蚕の大部分が日本種と中国種をかけあわせてつくられた人工的な品種であるためだ。天然の蚕というのもあるが、きわめて珍しい。サナギから羽化した蚕はまもなく和紙の上に雌雄とりまぜばらまかれ、交尾をさせられ、雄はやがて体力を使い果たして死に、雌は産卵ののち病気の検査のためにすりつぶされる。また製糸工場におくられた繭は鍋で煮られ、中のサナギは鯉のエサになったり、人間の食用として佃煮にされる。M製糸所でもサナギの死骸がバケツに山と盛られているのを見た。

日暮れ前、諏訪湖から少し下ったところにある旧釜口水門の上に立って、足元の天竜川と、対岸に広がる岡谷の町を見渡す。昭和四年に今ぼくが見ているのとほぼ同じ角度から撮られた平野村の写真を思い起こしてみる。はっきりと変わらないのは川と湖、そして遠くにかすむ山々の輪郭。ぼくはこの町に友情をいだいた。明日の早朝には飯田線に乗って下伊那へ向かい、養命酒の製造工場の敷地にある弥生時代の遺跡を訪ねたり、舟下りをするつもりでいる。陽が沈んだら、もう一度ここへ夜景を見に来よう。