2011年1月12日水曜日

境界を越えて生きるためのガイド (近藤早利)

我が国の医療の現場は崩壊の危機に瀕している。医師、看護師が担当すべき患者の数、業務の量は増えるばかりで、長時間勤務が常態となっている。医療従事者の教育・評価・人事システムは歪んでいて能力ある者が伸びていけない。患者は「怪物化」し、時には医療従事者に暴力を振るって恥じるところがない。医療事故が起きれば、医師や看護師がマスメディアから人格攻撃を受け、賠償金請求の被告となり、犯罪者として逮捕されることさえある。そうした事態を生んだシステムの問題は放置され、誰もが不測の事態の当事者となる不安から免れえない。こうして、医療の現場で、志気を失い、病み、突然職場を去っていく者が後を絶たない。現役の臨床医である著者は、多くのデータやエピソードを紹介しながら、このような事態を明らかにする。

どうしてこんなことになってしまったのか。

死は確実であり、医療のプロセスと結果は常に不確実だ。医療には限界がある。

このことは、誰もがわきまえるべきことだが「消費者」の考えはちがう。「同じ対価を支払って結果が異なるのは不当だ。治らないのも死んだのもサービスに問題があるからだ。サービス提供者は責任を取れ。」報道機関もこの考えに異を唱えない。司法は、科学的思考能力を欠いているのに、その自覚なく医療従事者を裁く。筆者は実例を挙げつつ、医療行政、病院経営者、マスメディア、犯罪捜査機関、弁護士、裁判所、市場原理至上主義などを批判する。

では、どうすればいいのか。

問題は、我々の「豊かな」生活を支えるシステムに内在するものだ。すぐに効く処方薬があるはずもない。深刻な危機は歴史的転換点になりうることを信じ、リアリズムに立脚して思想の問題に取組み、我々がどこから来てどこへ行こうとしているのかという歴史の視点に立った根本的な改革案を組み立ててゆくほかないと、筆者は説く。

本書は肺腑を抉る慨世の書であるが、そこに留まってはいない。筆者の議論は「医療の限界」を跳躍台として、死に関する思想と哲学、宗教、英米や開発途上国との比較、教育の本質、経済思想などにも及ぶ。

専門を持ちつつ開かれた精神を持つとはどういうことなのか、どのページを開いても、その実例に出会うことができる。

新書版にして220頁のこの小さな本を、私は、職業の檻から抜けだし、時代と国境を越えて、正しく生き、働き、発言するためのガイドとして読んだ。

(小松秀樹『医療の限界』新潮社、2007年)