2011年1月7日金曜日

高いところで待つこと (向坊衣代)

肘をついて、ぼんやりと、高いところから夜のあかりを眺めるひとびと。

「超然」と聞くと、そのような情景が目に浮かぶ。高いところにいるとものごとは見えるようで見えない。近づいてみると小さく見えたものが実は大きかった り。本当は小さくて見えないものの集積の中に、世界はできあがっているのだ。しかし、高みからものを見て、知っているような気になっている超然な彼らは、 言葉や知識でしかそれらを知ることができない。(でも、じゃあ何を持ってすれば、それが「見える=わかる」のだろう?)

「妻」と「下戸」と「作家」。三者の立場で描かれた「超然な人たち」から見た世界を描いた3つの短編から成るこの本には、絲山秋子という作家の持つ優しさ と冷たさが同居していると思う。それを一言で言うのなら「ハードボイルド」という少々使い古された言葉が一番似合う。それは、強さのことであり、優しさの ことであり、距離感についての言葉だ。誰でもないわたしがそこにいて、誰かと会い、別れていくが、わたしはわたしでいるしかない。そのようなことだ。

小説の作者としての彼女は、その気持ちや情景をあくまでドライに描き、時にはユーモアで優しく包もうとする。しかし、最後の「作家の超然」では、その姿が 激しくゆらいだ気がした。手術のため入院し、誰とも距離をおいて付き合う、作家である主人公を「おまえ」と呼び続ける書き手の姿に、「これは私小説ではな いのだから」と思いつつも、どうしても作家そのひとを重ねてしまった。文中の「ひとりで生きて、ひとりで死んでいくのは、もっとさびしいものだと思ってい た」という台詞、ラストシーンの力強くも荒涼とした風景。それら、ひとつひとつがあまりにも正直すぎて、真摯すぎて、赤裸々すぎて、わたしはなんだかとて もいたたまれなくなった。かつて、小林秀雄が徒然草の作者の兼好法師を「見えすぎる人」と評したように、彼女もまた「見えすぎる人」の一人なのかもしれないと思った。

物語の最後で、作家である「おまえ」は、文学の終わりを想像する。全ては分解されて、断片となり、消え失せていく文学の先に現れるもの。それを「おまえはただ待っている」。

待ちくたびれたその先に見えるものが何なのか。多分、その答えはいつかの物語に現れるのだろう。

わたしはそれを待っている。

(絲山秋子『妻の超然』新潮社、2010年)