2011年4月11日月曜日

粗末な北極星に向かって (辻井潤一書評)

本書は、芥川賞を先日受賞し、「平成の破滅型私小説家」と評される著者の、初期の代表作である。中学卒業後、日雇い労働で生計を立てながら、風俗通いと酒浸りの生活を送っていた主人公の男。念願叶い、三十を過ぎてからとある女と同棲を始めるも、生来の堪え性の無さと暴力癖のせいで、その束の間の蜜月は崩壊していく。というのが本書のプロットであるが、この作品の特異な点は、時折「藤澤清造」という大正時代の私小説家にまつわるエピソードが差し挟まれていることだろう。

慢性的な性病に由来する精神破綻の末、芝公園のベンチで凍死、という壮絶な最期を遂げた清造の私小説に出会った男は、「自分よりも駄目な奴がいる」と共鳴し、清造に深く傾倒していく。清造のものとなれば、小説から生原稿、手紙、果ては墓標や位牌までも収集し、月命日には東京から石川県七尾市にある菩提寺への墓参を欠かさないという入れ込み様。男の悲願は、『藤澤清造全集』の刊行であり、その資金として数百万円の借金をしている。男の無為な日常と、狂気じみた清造への執着とのコントラストは、一人の人間が内包する二面性や矛盾、俗なるものと背中合わせの聖なる何か、といった陳腐な構図に当てはめてしまうこともできなくはない。

だが、本書(というより著者)において注目すべきは、「完成したら死んでもいい」とまで言っている清造全集が、近刊と銘打ってから十年近く経った今も未刊という点である。全集の資金を、女との同棲費用にしたり、入れあげたソープ嬢に百万円騙しとられたりと、ことあるごとに日常の欲望のために浪費しているからだ。はて、あの清造に対する崇拝は、その程度のものだったのか。この足踏みとも言うべき事態は、本当に大事なものこそ、自分の近くに引き寄せるのではなく、どこか遠くから眺めていたい、という意識の表れではないだろうか。

世間からあまりにずれながら、それでも意地汚く生きようともがく主人公の男にとって、清造は、方角を示す北極星のような存在と言えるだろう。北極星を我が身に取り込むほどの覚悟は、男にはまだない。しかし、清造自身は、本書のタイトルでもある「どうで死ぬ身の一踊り」という覚悟でもって、その波乱の人生を駆け抜けた。男は、果たして清造になれるのか。それとも、星の煌めきをひたすら距離を保ちながら追い続けるのか。著者と、その著作を私自身追って、その覚悟のほどを見届けていきたい。

(西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』講談社文庫、2009年)