2011年4月18日月曜日

広島小倉7万歩 (兼田言子作文)

2泊3日で広島、小倉へ強行撮影旅行に行ってきた。

25000分の1の地図を3枚買う。広島、小倉、八幡。広島は見事なデルタ地帯。小倉は南北に港があり、中央の山間部には陸上自衛隊富野分屯地の文字が目立つ。小倉の西隣の八幡は水色の湾部分、平地と山、それから新日本製鉄八幡製鉄所がそれぞれ1:1:1:1に土地を分けている。市街地の道が格子状のエリアは空襲、原爆の被災地とほぼ重なる。

広島にいられるのは半日。駅からホテルまでの1キロほどの道も撮影しながら歩く。街路樹が力強い。川には2、300メートルおきに橋がかけられている。自分の立っている橋から隣の橋を渡っている人のシルエットが見える。歩いていたり、自転車だったり。ゆったりとした街の日常風景を垣間見る感覚。川の水も結構綺麗で、しじみ、あゆ、さらにはうなぎまで獲れるらしい。そのためか川へ降りられる階段が頻繁にある。柵もないからつい降りてしまう。川床にはぽこぽこと土が盛り上がっているところがみえる。手を伸ばしてミニ潮干狩りでもしたくなるも右手にはカメラ、時間もない。ぐっとこらえて先を急ぐ。ふと橋の袂に目をやるとほぼすべての橋に史跡看板がある。爆心地からの距離がかかれ、何年にできて、爆撃で壊れたから何年につくられたとか、壊れなかったから被災時にはこんなふうに使われたとか。デザインや古さで竣工年を推測できるようになり、ますます川沿い散歩が興にのってくる。

地図を広げて「この橋はこの橋かな?」なんてやっていると後ろから自転車に乗った白人男性に声をかけられる。前に小さな男の子を乗せて、「大丈夫ですか?」と。私は筋金入りの方向音痴だから迷子になったと自覚することも難しいのだが、声をかけてもらったことがうれしくて、お言葉に甘えてホテルの場所を確認する。でも彼はそこを知らない。格安パックツアーの最安ホテル。住民が気づかないようなホテルなんだなと不安と期待が入り混じる。アメリカ人のように見える彼が、この街でなじんで暮らしている。男の子は青い目を伏し目がちにしてかわいい。

チェックインの開始時刻を目指して撮影しながら歩いていたはずが、大幅に時間オーバー。早足でホテルを目指すと、すんなりと発見できた。幸先がいい。マンションみたいな外観の、中は普通のビジネスホテルだった。大慌てで原爆ドームと資料館に向かい、駆け足でめぐる。戦跡として君臨している建物が街に溶け込んでいるのが印象的だ。会社帰りの同僚たちがおしゃべりしながらドームのわきを横切っていく。

すっかり暮れてライトアップされたドームが川面に映っているのを見ていたら、グロリア・アンサルドゥーア『ボーダーランズ』にでてくる挿話を思い出した。父親が死んだとき、母親が家中の鏡を毛布で覆った。残された者が死者の魂が住む場所へと行ってしまわないように。この話を読んで以来、鏡のもつリフレクションという現象が気にかかっている。物体そのものを直接見ることと鏡像を見ることの違いは何か。立体が平面になり、左右反転像になる。現実は鏡像に変換されることで、どこか違う世界への通路になるのかもしれない。メキシコでは死者の世界に通じる。それはどこか神秘的な話のようだけれど、人は自分の顔を鏡でしか見ることができないのだから、鏡像はとても日常的な世界でもある。鏡像だから到達できる視点、失う視点はなんだろうか。鏡の機能が内省に影響を与えているとしたら、全ての事物を鏡像で見てみたくなる。リフレクションは反射、反映、熟考、反省。一眼「レフ」カメラの構造にはそれが組み込まれている。

川に倒立した原爆ドームを長時間露光で撮影することにする。ドームは毎日この自らの揺らぐ姿を見ているのだろうか。見ているとすればどんなことを考えているのだろう。そうやって思いをめぐらせようと集中してみる。しばらくするとたしかに見ているはずだ、と思えてくるのだけど、それ以上先には進まない。ただ像が揺らぎ続けるだけ。そう簡単には教えてあげないよ、と言われているようでもある。でもなんとなく、建物自体を見るよりも影を見る方がドームを見ている実感がした。

思考が進まないと今度は動き続ける揺れが気になってくる。自分を鏡で見ることはあってもなかなか水面に映った自分の姿を見ることはない。鏡像と一言でいっても鏡か水面かでは内省具合も随分と変わるだろう。そういえば、キューバではどこも驚くほど鏡が歪んでいた。ただマタンサスの裕福な民家にある巨大な鏡だけが恐ろしいほどに正確だった。マタンサスはハーシーラインの駅がある砂糖工場で栄えた街、石油採掘施設、製油所や造船所もあるらしい軍のにおいがする異色の街だった。カストロは毎日どんな鏡で自分をみているのだろう。

7分の露光時間を終えて、目の前の川に意識が戻る。爆撃をうけ死んでいく人たちは水を飲みたいと訴えたという。その水の供給源でもあり、身を投げた者もいる、ずっと広島の街を映し続けている、覆えない鏡。死者と生者を隔てる時間の壁を宙吊りにした、いつでも行き来できる天の川、か。

翌朝すぐに小倉へと向かう。徳山あたりで巨大な製油所を車窓から眺めると、エリアがぐっと変わるのを感じる。こんな大規模な工場を見たことがない。どの施設が何をしているのか全く分からない。これは何になるんだ、プラモデルの組み立て前を見ているようである。同じ形ごとに整列され、むき出しのパーツが並び、それぞれに働きがある、らしい。ひときわ目に付くのは火を噴く煙突。小倉に着いたら造兵廠跡に向かおうと思っていたから目の前の工場も軍事施設にしか見えない。絶対わたしもここの工場の生産物の恩恵を被っている。でも、何もわからない。

広島に比べれば小倉は時間がある。駅に近い造兵廠跡よりまずは街を俯瞰できるような高い場所、大雑把な行き方しかわからないが高蔵山の山頂付近にある高倉保塁跡(南側の周防灘から攻められたときのための要塞)を目指すことにした。高蔵山の標高は357メートル。山登りをするという気負いはない。小倉駅から15分ほど電車に乗り、最寄り駅である下曽根駅に到着。最寄りといっても登山道の入口につながる国道沿いの交差点まではバスで行くような距離だが、その方面へのバスはない。列を作るタクシー運転手のまなざしを背中で感じながら川沿いの道を選びとにかく歩きはじめる。街路樹が不思議な弱々しさでぽつぽつと並んでいる。川の西側にいくつかの低い山が見える。送電鉄塔がたくさんある山やない山がある。これから登る山がどれかの特定もできないまま、ひたすら歩く。ほとんど人にすれ違わない。川沿いの道を外れて住宅街に入っても人はいないし、商店もない。ベッドタウンで平日の明るい時間は人の動きが少ない街という印象だ。

歩き疲れてきた頃に山の入口に到着。スタート地点に立てた安堵感を束の間感じるも、薄暗い道を一歩一歩登るにつれ緊張感が増してくる。不法投棄をしている軽トラやリードをつけずに散歩している犬にすれ違う。いわゆる森林浴をするような風情ではない。心細さを無視して舗装された一本道を登りきると整備された大きな休憩所があった。もうすっかり午後の光だ。高倉保塁跡は山頂付近にあるはずだから、もっと上に行かなくてはいけない。休む間もなく次に登る道はどれだと躍起になる。来た道の舗装が終わったさらに先、藪の中に入ると滑り台くらいの急な斜面が現われ足立山へという標識。大混乱だ。もうどこへ行ったらよいのか全くわからないが、ここで引き返すわけにもいかない。突き当たりの少し手前にいくつかあった分かれ道を半信半疑ながらも勘を働かせて選んで、登る。古いコンクリートの跡や、新しい丸太状の階段で一喜一憂する。しばらく登っては、ここは違うだろうと自分で納得がいくと戻る。結局すべての分かれ道を試し、彷徨うこと3時間。気力も体力もすっかり尽き果てて休憩所で呆然としていた。一向に休まらない身体を余所に心は焦燥感に駆られてくる。頭はまるでサッカーのPK戦のような気分だった。残すは明日1日、後がない。そこへ年配の男性が現われた。日課の散歩のような出立ちである。最後の望みをかけおずおずと高倉保塁跡について尋ねてみると、驚くほど詳細にご存知であった。おかげさまで翌日なんとかリベンジ成功。

東京に戻るとたくさんのものを撮り残してきてしまったという思いが迫ってきて、観光旅行の日程では撮影には行かないと誓った。が、2週間もすると消えない身体的記憶のせいかこれはこれで印象的ないい旅だったと思い直した。暗室で浮かび上がった像は、旅の感触とは違う静かなものだった。