2011年4月25日月曜日

新月の空に檳榔の花火 (大洞敦史作文)

高度を下げていく飛行機。機体が傾くと、窓の外に台北の夜景が現れた。小さな光が、ぽわん、と束の間ふくらんで消えた。一瞬の間を置いて、それが花火だと気づいた。ひとつではない。あそこにも、ここにも。草莓や、芒果や、檳榔子の色をした花火が、五つ、六つ、七つ……。この日は西暦二〇一一年の二月三日。台湾では建国百年の元日にあたる日だ。ぼくはこれから一ヶ月のあいだ、台湾と福建省を観光する。観光、という言葉がぼくは好きだ。光とは、知恵のこと。大昔の旅行とは異郷の暮らしの知恵を学び取り、自分の村落に持ち帰る営みだった。太平洋に浮かぶ真珠のようなこの島の放つ光を、また中国の一部でありつつも古来から中原とは異なる気風を保ってきた福建の山々に映える陽光を、ぼくは火傷するほど身に浴びたい。

午前零時前に台北市内の友人宅へ着いた。寝床の上でメモ帳を手に明日からの行程を確認する。明日はまず淡水に行ってアゲという小吃(地元の名物)を食べ、晩には基隆にて夜行のフェリー、臺馬輪に乗り込む。翌朝、台湾海峡に浮かぶ馬祖南竿島で下り、午後にふたたび船に乗り、福建省福州市近郊の馬尾埠頭へ。以後一週間ほど福州、福清、媽祖信仰の聖地・湄洲島などを巡ったのち、廈門から船で台湾の金門島へ渡り、風獅爺(地元のシーサー)を探し、その日の内に飛行機で台湾島へ戻る計画だ。台湾島と大陸を結ぶ船や飛行機のルートは「三通」と総称され、馬英九が台湾の大統領に選ばれた二〇〇八年の末以降、外国人にも開放されるようになった。

午前三時を回っても、窓の外では花火の音が、胸の下では鼓動が、鳴り止む気配もなく響いていた。

朝方、友人のご両親から三明治と烏龍茶をごちそうになる。三明治とはサンドイッチのこと。蛋餅という卵炒りクレープとならび台湾人の朝食の定番だ。台湾人は食べ物でも飲み物でも作りたてを好む。露店で売っている三明治は、大体においてパンの生地がしっとりとしていて柔らかい。

スーツケースを友人宅に預かってもらい、リュックサックと腰巻きバッグだけ身に付けて発つ。中身は福建省の友人一家への土産の菓子、ジーンズ一本、沖縄製のYシャツ二着、下着と靴下三揃いずつ、洗面具一式、使い捨てコンタクト、司馬遼太郎『街道をゆく 閩のみち』、中国語参考書、手のひらサイズのメモ帳二冊(うち一冊は筆談用)、ボールペン二本(ジェットストリーム、ハイテックCコレト)、万年筆、パスポート、中国・台湾・日本の通貨、iPhone、機内でもらったイヤホンなど。ぼくは普段から手ぶらで歩くのが好きなので、千五百円で買った腰巻きバッグは大変に重宝した。お金も貴重品もみなこの中に入れて歩いた。小銭を取り出すのがやや手間だが、財布よりもきっとすられる恐れは少ない。帰国してからも度々身に付けている。

台北駅で友人の女性二人と合流し、電車で淡水へ向かう。蔡小姐は台湾大學に勤めるデザイナーで、王小姐もインテリアのデザイナーだ。二人とも巧みに日本語を操る。日本の美術系大学院への留学を目指している蔡小姐のために、ぼくは幾つかの大学の資料を取り寄せて持ってきた。王小姐には四万十川の海苔の佃煮を手土産に持ってきたが、彼女はつい最近四国を旅行してきたばかりらしかった。龍馬は台湾でも大人気だ。ところで小姐(シャオジエ)という呼称には桃色がかったイメージがあるので避けたほうが良い、という事を以前日中学院の日本人の先生から耳にしたため、ぼくははじめ王さんを「王女士」と呼んだのだが、それに対して彼女は「女士は年寄りへの呼称、小姐と呼びなさい」と答えたので、それ以降ぼくはさほど年配でない女性に対して、ためらいなく小姐と呼びかけるようになった。

正月二日目の淡水は黒山の人だかり。汗ばむ日差しの下、淡水老街を人々の体臭と排気ガスと北京語と台湾語の波に揉まれて歩く。日本にいて台湾人と知り合える機会は稀だが、ここでは右も左も台湾人だ。ぼくは無性に嬉しくなってきた。いずれは台湾で暮らしたい。けれどぼくの知っている台湾人には、台湾を脱出したがっている人が少なくない。かれらの眼は日本、アメリカ、ヨーロッパに向いている。それゆえに、しばしばここに尊い友情が生まれる。ぼくはきみの国の美点を見つけてきみに示そう、きみはきっとぼくが知らない日本の美点をぼくに教えてくれるだろう。

老街を抜けた先の広場にはカナダ人宣教師・馬偕(Mackay)博士の頭部の彫像がモアイさながらに鎮座している。ぼくらはアゲの老舗「文化阿給」をめざして小高い丘の道をすすんで行ったが、残念ながら目的の店はシャッターが降りていた。空腹をかかえて、周杰倫の映画の舞台になった淡江高級中學、馬偕博士が設立した美しい庭園を擁する真理大學、英国領事官邸跡などを見て回る。「你知道周杰倫嗎?」(あなたは周傑倫を知っている?)と王小姐がぼくに聞いた。ぼくは「當然!」(もちろん!)と答え、彼のヒット曲「七里香」をひとしきり歌ってみせた。「雨は夜通し降り止まず、ぼくの愛も溢れて止まず」……この歌は去年の夏に大学院の先輩の中国人女性が教えてくれた、ぼくが三番目に憶えた中国語の歌だ。淡水を舞台にした歌では「縁があろうとなかろうとみな兄弟、ホッタラ(乾杯)!」という出だしで始まる台湾語の歌「流浪到淡水」が有名である。

その後ぼくらは赤レンガの古城・紅毛城を探して歩いたが、一六二八年にスペイン人によって築城され、のちオランダ、鄭成功、清朝、イギリス、日本、アメリカと次々に主を変えてきた台湾を代表するこの古跡は拍子抜けするほど小ぶりな体つきで、三人ともこれがそうだと気がつかぬままに前を通り過ぎてしまっていた。

細い坂道を下りきると視界がひらけ、淡水河の河口に出た。観音山を彼岸に望み、雑踏を歩く。似顔絵描き、しゃぼん玉吹き、CDに乗せて懐メロを歌う車椅子の人。五十センチばかりもありそうな霜淇淋を手にした子どもが嬉しそうに人混みを縫って駆けて行く。ここにも「正宗阿給老店」という名のアゲの店があり、友人たちは若干不本意な様子ながらもこの店にぼくをいざなった。一階は満席、二階も満席、三階でしばらく待ってやっと座れた。アゲは台湾語だろう、とぼくに初めてアゲについて教えてくれた台湾人の友人は言っていたが、料理の特徴を聞いてみると日本の油揚げに近く、もしかすると語源は日本語ではないかと思っていた。出てきたものを見ると、外見はまったくの油揚げだ。彼女たちに聞いてみるとあっけなく「日本語ですよ」との答え。油揚げを箸で割ると春雨が顔を出した。とろみのある甘辛いスープにからめて食べる。一緒に注文したねり魚のスープ、魚丸のさっぱりした味とよく調和する。春雨と魚丸は福建省福州地方の名物でもある。

店を出ると、空にはもう薄闇がかかっていた。淡水の夕焼けの美しさは有名だ。あと一時間もここに留まれば見られたろうが、ぼくらは焼肉を食べるために夕焼けを捨てて、静まりかえった台北市街へ戻った。がらんとした大通り、店の半分はシャッターが降り、禁止されているはずの爆竹がときおり控えめにパチパチと鳴る。田季發爺という焼肉店では、腕に薔薇や龍などの入れ墨をした店員がつきっきりで具材を焼いてくれる。食事の締めに年糕を焼き、きな粉をまぶして食べた。これは日本のモチに似た食べ物で、正月によく食される。焼くよりも油で揚げる場合が多いようだ。紅豆年糕という、小豆と砂糖を混ぜた赤飯みたいな色のものもある。なお中国語圏では小麦粉を練ったり蒸したりして作る平たい形状の食べもの全般を指して「餅」と呼ぶ。日本の食文化との比較は、地元の人との会話の糸口を開くのにもってこいだ。

台北駅で二人と別れ、列車に乗り込む。基隆までは各駅停車で五十分弱。座席は空いていたが、ぼくは公共の場で座ることにためらいを覚える。この夜も扉のガラス越しに、花火の上がるのが見えた。向かいの席で二人の女性が膝をからめ、指をからめてうっとりと互いの唇をついばんでいる姿がガラスに映っている。元来ぼくはひとり旅が好きだが、道連れと分かれるとしばらくは静けさに対して落ち着きを保てない。でもひとりの時には極力、ひとりならではの喜びを享受したい。旅の半分はひとりで沈思・観光し、半分は地元の友人たちと楽しく過ごしかつ生きた知識を得るのが、ぼくの肌にあう旅のスタンスだ。「基隆、就到了」という車内放送が流れると、ぼくは網棚から膨れたリュックを注意深く下ろして肩に掛け、せわしなく点滅をくりかえす檳榔屋のネオンと音のしない花火に視線を預けつつ、昨年の六月、指導教官とここを訪れた際に寺院のある小高い丘の上から見渡した、雨に煙る基隆の黙想的な街並みを思い起こしていた。