2011年4月21日木曜日

くどさと裏腹の真摯さ (辻井潤一書評)

オウム真理教や彼らの起こした事件には、膨大な言葉が費やされてきた。しかし、その鬱蒼とした言説の森は、時に真実や本質を覆い隠し、逆に見えなくしてはいないだろうか。カルト教団が暴走しただけ。そんなありきたりな「狂気の物語」に落とし込むのは簡単だ。著者は、その安直さに否を唱える。

著者の経歴は異色だ。東京大学物理学科出身でありながら、本業は作曲家/指揮者であり、現在は母校で音楽論を講じる大学教員でもある。そんな著者が本書でテーマとするのは、大学時代の親友であり、地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨のことである。なぜ、豊田はサリンを撒いてしまったのか。なぜ、オウムに入信してしまったのか。数多くの疑問に突き動かされながら、一連の裁判の中で、ただひたすら「沈黙」を貫く豊田に迫っていく。

今まで加害者/被害者という二項対立のせいで見えなかった、あるいはタブー視されてきた「加害者になった被害者」としてのサリン事件の実行犯たち。そのような「被害者」を、これから生み出さないためには何が必要なのか。本書は、博覧強記の著者が、物理学や音楽、戦争史、宗教学といった自らが有する様々な知を連関させながら試みた、粘り強い思考の軌跡である。

そして、〈局所最適、全体崩壊〉というキーワードが紡ぎ出された。個々を局所的に見れば決して間違っていなくとも、それらが繋ぎ合わされた時に崩壊する組織のシステム構造のことだ。著者は、戦前の日本軍に、東大に、オウムに、そして戦後から続く現代の日本社会の中に、それが見出せると語る。全体崩壊の責任を、個人に押しつけ断罪しても、何も改善されないのだ、とも。では、どうすれば良いのか。提示された一つの回答は、「沈黙」との訣別である。黙して語らず、罰を受け入れる戦前の日本海軍のことを「サイレント・ネイビー」と呼んだそうだが、豊田をそれに例えている。日本人らしい美意識とも言えるが、それでは何も変わらない。過ちも何もかも、全てを白日の下に晒し、語り、記録し、考え続けること。一つひとつの事象をどう論証し、何を導き出すか。それは著者と豊田が共有した、物理学という学問の作法の実践ではないだろうか。

本書は、全体を通してやや強引な理論付けが散見されたり、終盤では同じような主張が繰り返されたりと、正直くどい。しかし、それは二度と豊田のような人間を生み出したくないという真摯さと裏腹のものだと思う。

(伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』集英社文庫、2010年)