2011年12月17日土曜日

子供好きな訳者にかかれば(CHIARA 書評)

「ウワバミってなに?」
「なんて言ったの?」
「ウ・ワ・バ・ミ。ウワバミ知らないの?」
「うーん、大酒飲みのことだけど・・・」

大人がいつも簡潔に的確な答えを与えてくれるとは限らない。

その答えは絶対に間違っていて、だからといってもう一度訊くのも嫌だ。難しい漢字でもなければややこしく長いわけでもない。それに注釈だってない。きっと誰でも知っている言葉に違いなくて、わたしは知らない。七歳のわたしは、川島小鳥が撮る『未来ちゃん』と同じ顔をして絵本をバタッと閉じた。変な本。

訳者管啓次郎は、ボアはボアと訳した。ウワバミではない。ボアという「初めからわからない言葉。大人に聞いてもしょうがない言葉。必要であれば百科事典を調べればいい」という範疇にその言葉を位置づけた。それはサン・テグジュペリ本人の意図でもあったはずだ。何語だったか忘れたが、ボストンの本屋で買ったものには「ボア」とあった。

気のきいた大人の手を経てようやくその本は、子供のための本になった。子供は、知らなくて当たり前なボアを探して言葉の森に分け入る勇気を与えられ、やがて原生林の奥深くボアと言う大蛇と対面する。  

管啓次郎は詩人と称しているが作家でもある。そして、地球上のあらゆる言語をその体に沁みこませているのではないか、と錯覚を起こさせるほどに言葉に寿がれている作家だ。    

とはいえ、言葉に巧みな者が陥るひとりよがりな世界に彼は身をおかない。彼の書く本は必ず、本のこちら側で目を輝かせる読者に向かって書かれている。彼の読者には「話題だから」「とりあえず教養として」と本を手にする者はいない。読んでいても誰も評価しやしない、その本について友と語ることもできない、そうとわかっていて相当な時間を費やして彼の本を読む。彼の読者は皆溢れそうな好奇心を持って彼の文章を丹念に読み、楽しむ。それを知っているからだろうか、管啓次郎の本には、読者への愛がある。

彼が書いた幾冊の本と同様、この本は、読み手であり買い手である子供を無視しない。この本は「ウワバミ」という適当な訳語で子供を混乱させたりしない。子供を置き去りにして、王子と自分の世界に浸ったりしない。

よい絵本とは、きらきらと目を輝かせてページをめくる子供の姿を思い浮かべながら、書かれなければならない、そう学んだ一冊だった。

(サン=テグジュペリ『星の王子さま』管啓次郎訳、角川つばさ文庫、2011年)