2011年12月3日土曜日

「考え続けることを止めないための」(辻井 潤一 書評)

十月末、会社派遣の震災ボランティアに参加し、宮城県の三陸沿岸地域へ行ってきた。もちろん、少しでも被災地の力になりたいという思いから手を挙げたのだが、この目で直に現地の状況を見たい気持ちもあった。出発前日、カメラを持って行くべきか、最後まで悩んだ。写真というメディアの持つ衝撃力も、無力さも、両方知っていたからだ。

出発当日に発売となった本書は、宮城県仙台市出身の写真評論家、飯沢耕太郎と、写真家とテレビディレクターという二足のわらじで活動する菱田雄介による共著であるが、二人の文章のスタンスは大きく異なる。飯沢が様々な写真家の仕事を例に挙げながら、理知的に写真論を構成しているのに対し、震災後に現地に入り撮影を行なった菱田は、実際の写真を挟みつつ、現地で見て感じたことをエッセイ調で素直に記している、といった印象だ。

また、異なるのは文章だけではなく、あることに対する二人の見解である。それは、「死者の写真」について。飯沢は、二万人近くのおびただしい死者、行方不明者が出たにもかかわらず、死者の写真がほとんど公開されないことに疑念を抱いている。アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの晩年の著作、『他者の苦痛へのまなざし』の中にある「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」という主張を引用し、死者の写真を公表すべきだ、と論じている。何が起き、何を為すべきか、帰結ではなく、思考の契機としての「死者の写真」。対して菱田は、飯沢の主張に同意しつつも、テレビディレクターとして数多くの凄惨な事件や事故、そして写真家として今回の震災の現場を目の当たりにした経験から、すべての人に現実を直視させることには抵抗があるという。少なくとも「伝え手」と呼ばれる人々が現実を知っておく必要がある、と語るに留めている。

本書は急ごしらえで作られたようで、文章には散漫な部分もやや見られるが、「今」表現しなければならない、という気概が伝わってくる一冊である。想像を絶する現実を前にした時、多くの表現者たちは、寄る辺を失ったかもしれない。それでも、表現すること、伝えることは止めない。それが本書を通じての二人のメッセージだと感じた。

結局、私はカメラを持ってボランティアに参加し、津波を被り、変色した杉林を撮影した。未だにあの高さまで波が到達したことが想像できないが、その写真によって、考え続けることはできそうな気がする。

(飯沢耕太郎/菱田雄介『アフターマス 震災後の写真』NTT出版、2011年)